「北極星に願いをこめて」 (右脳のひらめき)

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発達障害について考えること その3 発達障害の子供たち

2014年04月24日 13時00分36秒 | 精神哲学 ~魂の筋力をつける朋塾~

こんにちは。

わたしは、スパルタ方法で育ってきた。無論、理不尽等、沢山あり、ひとの理不尽の尻拭いをすることがすごく多く、それが身内であっただけに、憤懣やるかたない生活を送っていた。

反対に、自分が息子を産んだ際の話をしたいと今回は思う。

長男は、NY州で発達障害ですとまで、言われるほど、遅延した子供であった。歩くこともできず、走ることもできない。無論だが、言葉も出ない。なので、NY州で早期教育プログラムを受けることとなった。

この子は、とにかく、好き嫌いが激しく、こちらも、自分の例を踏まえて、あまり強く出ないほうがこの子にとって幸せなのだと考えていた。

ところが、大きくツケは後ほど出た。

全くと言っていいほど、日本語がまともに喋れない。英語も同じである。喋っている言葉は単語を、なんか聞いた風に繋げていて、「今、聞いたことを反復して繰り返してください」となると、途端、同じことを同じく言えないのである。とかく、彼の用語に置き換えてしまい、複雑な、しかも日本語ではない表現へ全て変えてしまう。

何度も本を読ませようとしたが、彼は本を読みたがらず、辞書の類に執拗に固執する。

つまり、文章を読もうと思う意志が全くないのだ。言語への興味が全くない。

今までは、親が言いたいことを先回りして組んでやり、「彼の拙い表現を代弁してきた」が、その甘やかした生活が、現在の息子のコミュニケーション障害に繋がってしまったのである。

次男は、逆に、長男と違い、表現して伝えなくては、彼の希望は通らないと言う切実な切迫感がある。だから、コミュニケーションを強化し、自身の要望が通るように上手に自身のコミュ力を強化した。故に、喧嘩になっても、喧嘩になった理由について、理路整然と答えるので、大体は、その理由がわかる。

ところが、長男は、スルー力が高いのかと思ってきたら、争い事に参加しても、自身は皆を説得出来るだけのコミュ力がない。だから、結局、逃げて回っているだけだったのだ。これで、結局、小学校6年生となったが、相変わらず、嫌なことからは逃げてばかりである。そこで、わたしが、スパルタ方式のようにこう、宣言した。

「君、人生で一番楽しくないのは、小学校六年生と高校3年生だから。覚悟しておけ。泣いても泣いたことは後で良かったと思えると思う。」

画して、塾に丸投げで、息子のコミュニケーション能力強化をお願いしていたが、全くどうにもならないので、実質母が、コミュニケーション能力を強化することとなった。とにかく、その次、その次で問題を先送りにすればするほど、当人の先入観が入ってどうにもならない。やるしかない。

息子は、本を暗唱し、その後取り上げて、暗唱した一文を抜き出して、こちらから言葉で聞かせる。その通りに暗唱させる。

ところが、これが全く、どうなっているのか、息子は、勝手にその文章を理解しようとし、理解して自分の言葉にしようとして、砕けてしまう。

それで、実際にどのように文章になっていないのか、数式で会話することとした。

息子は算数を言われたとおり、数式に変えて解く。ところが、全く見たこともない数字が急に飛び出してくる。息子にそれを指摘すると、問題を読めば、こんな数字が出てくるのが分かるだろう、と答える。確かに、その数字は出てくるのだが、その数字が出てくる過程まで説明してくれないと、会話にならないんだがねと息子に言った。

かつて、わたしの昼間の上司は、わたしに言った。「表現を磨きましょう。」わたしは、バックグラウンドがわかっていれば、こんな事は言わなくても理解できるはずだと思っていたのだが、実は、ひとはそこまで暗記力がなかった。故に、昼、くどくどしい文章を箇条書きにして、的確に短い言葉で表すようにした。

そのやり方を、息子に教えるために、あえて数式で会話している。

 

ところで、息子は、確かに、社会や理科が得意で、その分野の暗記力は高い。数字や国別順位を暗記するのは早い。しかし、忘れる。教えている母のほうが、数字が残って困って、この数字を在宅勤務に活かそうとまで考えてしまうありさまである。

そんなところから、コミュニケーション障害というのは、意識して、自分がほしい物を必要なだけ、「相手よりぶんどってくる」為に必要な技である。これをスルーできて、別にやらなくてすんで、個々の世界にこもる子供も多い。しかし、親が関与できるのは、第二次性徴前だけである。それ以降は、親を責める前に、自分の能力の欠落を、食いしばってでも食いついて、強化するのが、人生社会経験である。

 

発達障害や、適応力がなく家にこもる場合、ある程度見込みができそうになった場合には、親が鬼になってやるしかないとわたしは思う。

 

確かに無理なケースはある。だが、矯正でどれ位矯正するかは分からない。故に、親が苦労する面は、そこは外部に委託してもいいと思うが、丸投げでは、子供は結局成長しない。

うちの場合、姑とともに住んでいた時期があり、姑がとにかく、先回りして会話し、先回りして子供が散らかしたゴミを拾って歩いた。ご苦労なことである。ところが、わたしは、息子に2歳の頃より、自分のことは自分で片付けるようにと、訓練してきた。ものの見事に、息子たちは、その姑のスタイルに染まり、ゴミを捨てて歩き、片付けをしなくなった。姑は仕事が多くて嫌になると、散々喚いたが、そもそも、自身の仕事を増やすように、息子を甘やかしたのは彼女である。

そこで、同居が解消になってから、とにかく、食ったものは片付けろ、本棚は、本は種類別に入っているので、自身が図書委員になったつもりで、整理して入れろと言っている。他、パジャマ、色々なもの、とにかく、口酸っぱく言っている。

最近、水の激落ちくんという洗剤を買って、テーブルを拭くようになってから、息子同士で取り争うように、せっせとダイニングを磨いている。他、四半期に一回のワックスがけ、それから、とにかく、長男が嫌がりそうなものをタスクとして組み込んでいる。

逃げているんじゃダメだ。

逃げるんじゃなくて、極めて卒業せい。

 

そうやって、半スパルタで行っている。

わたしの時は、スパルタが半端無くて、出される課題が終わらず、結局、問題集の後ろを見てノートに記載して、親に見せることが多かった。それをしないだけ、わたしの次世代は、進化したと考えている。ついでに言えば、濃い血脈を薄めるために、遠くの関係ないところから、相手を選べといった祖母と母の言い分は、今ならなんとなく理解できる。

 

あと、後味が悪いが、うちの長男は、若干、サイコパスの可能性が高いので、極めて慎重に物事を見ている。サイコパスであった場合、はっきりと親の力の強さ、理不尽の強要に対する耐性をツケさせないと、あっという間に詐欺師になる。賢すぎて、残虐性が強いのである。親を試して、親にどこまで許してもらえるかどうか、見極めようとしている。こういう衝動を押さえるべく、スポーツをしろと言っても、本人は汗をかく努力は嫌だという。

そこで、下の息子は、ドラムを力強く叩く為に、体力づくりを始めた。筋トレは、母の得意とする技である。それにつられて、長男も行うようになった。

子供は、親が育てるんじゃなくて、昔は5歳から労働力になった。だから、昔の子供の人口は多いのである。労働力が欲しいから、産んだのである。それが労働力にならず、お荷物になるかどうかは、親のあり方一つである。

 

続く

 

ちなみにだ、息子が試そうとする際に、その行動を先にすっぱ抜いて、親をなめたら、お前はこうなるからな、という怖い見本が、うちにある。後、悪スタンプを貯めたら、消失するものが書いてある、スタンプラリーも随時行っている。

「親は親の金で買うのに後悔はない。だが、捨てるのにも後悔はない。もう一度欲しかったら、今度は自分で買え」と書いてあるスタンプラリーである。

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