「賀茂の古道を歩く会」通信

平成29年度に発足した「古道を歩く会」案内人からのお知らせページです。会は令和6年3月に解散しました。

「風待ち湊 下田街歩き」報告 その1

2019年12月22日 15時09分31秒 | お知らせ
今回は、主として下田が風待ち湊となって最も栄えたという江戸時代の姿を見て歩く企画でした。

晴天に恵まれた12月14日(土)、総勢12名の参加者で下田小学校を出発しました。昔の街道の姿を残す狭さの南街道を南進します。


ほどなく折戸の切り通しに立ちました。ここの岩壁に「弘化」の年号が刻まれているのです。もしかしたら石工が自分たちの仕事の跡を残したくて刻んだのかもしれません。


峠から降りてからは、江戸時代に「出船入り船三千艘」と言われるほどたくさんの廻船が停泊した下田港の西にある鍋田湾を歩きました。ここには、廻船の舫綱(もやいづな)を留めるため、自然石に穴を開けた「舫岩」が残っています(海上保安庁や海中水族館の近くにもあります)。


この鍋田湾はまた、太平洋戦争の終戦2日前に、ここで出撃命令を待っていた陸軍の潜水艦が米軍機の機銃掃射を被弾して10名の乗組員が亡くなった場所でもあります。近くの八幡神社には、戦友会が建てた慰霊碑があります。

鍋田の大浦には、1636年から約100年間、江戸に行き来する廻船が査察を受けた「船改番所(ふなあらためばんどころ)」の跡地があります。ここで記念写真を撮りました。


大浦の切り通しを越えて、弥治川沿いの美しい家並みを見学しました。




弥治川に架かるこの橋には、大浦から船乗りたちが切り通しを越えて花街の女性に会いに通ったことを偲ばせる「逢坂橋」という名がついています。


弥治川の河口近くには、大正七年建築の澤村邸があります。現在は市に寄贈されて休憩所になっていますので、ここでお茶をいただいて休みました。


出発して間もなく、ペリー上陸の碑と道を挟んだ向かい側に、妙見宮の石灯籠があります。妙見宮とは? そしてなぜここに妙見宮があるのでしょう?


昔の船乗りは、夜空の北極星を見て進路を測りました。そこから北極星や北斗七星を崇める信仰が生まれ、航海の安全を祈る場所である妙見宮が建てられたのです。

石灯籠には「明治八年」や「樽廻船」、「摂津」などの文字が刻まれています。灘の酒造業者が江戸に酒を運ぶ際に何度も立ち寄る下田の港に妙見宮を建てたのですね。当時はかなりの参詣者がいたので、神戸から来た堂守が常駐していたそうです。まさに風待ち湊下田の歴史を伝える史跡です。
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