「賀茂の古道を歩く会」通信

平成29年度に発足した「古道を歩く会」案内人からのお知らせページです。会は令和6年3月に解散しました。

第8回 賀茂の古道を歩く会「南伊豆の姫街道 お安の歩いた道」

2020年01月25日 11時04分02秒 | お知らせ
1 期日  令和2年2月16日(日) ※予備日2月23日(日)

2 集合  南伊豆町立南中小学校プール側駐車場 午前8時45分

3 服装  ・冬のウォーキングに適した服装  ・ウォーキングシューズ  ・厚手の靴下  ・帽子  ・手袋  

4 持ち物 ・水筒  ・財布  ・副食物  ・敷き物  ・ハンカチ  ・ティッシュ  ・携帯電話  ・簡易医薬品  

5 コース概要
 ・集合 8:45南伊豆町立南中小学校(トレイ有り)プール側駐車場→9:00出発→9:30峠9:40→10:30日野の旧道→10:20ファミリーマート日野店(トイレ有り)→10:50青野川ふるさと公園(トイレ有り)→青野川沿いの桜並木→11:30道の駅「湯の花」(売店・トイレ有り)→12:00蕎麦切り「明日葉」にて昼食13:10→青野川沿いの桜並木→南中小学校13:40着・解散

 ・行動時間4時間40分 ・歩行時間3時間  ・歩行距離4km  ・高低差100m  ・トイレ5カ所(南中小学校、コンビニ店、青野川ふるさと公園、青野川遊歩道、蕎麦切り「明日葉」)  ・難易度 最高難度を10とした時、5ぐらい

皆さんは、浜松に「姫街道」と呼ばれる、東海道の脇街道があるのをご存じでしょう。




今回は、案内人が勝手に「南伊豆の姫街道」と呼んでいる古道を歩きます。


なぜ南伊豆の姫街道なのか…? 説明しましょう。

今から390年ほど前の慶長年間のことです。京の都のお公家にある事件が起こり、関係一族に罰が下されました。お公家さんの娘、権典侍中院(ごんてんじなかのいん)仲子姫さまは伊豆に流され、新島を経て南伊豆町の二条という土地の名主さんの家で暮らすことになりました。姫は望郷の思いを切に抱きながら、遠い伊豆の空の下で年月を送りました(当時の伊豆への流罪は山の中に置き去りにするのではなく、土地の有力者の家に預けて都から引き離して淋しい思いをさせるのが目的だったようです)。

時は流れて14年後。ようやく公家に恩赦が出たので、姫も刑が解かれ、京に戻ることになりました。

ところで南伊豆で暮らすお姫様には、京から“お安(おやす)”という侍女がついてきていました。お安は自分と年の近い姫にとても親近感を持ち、熱心にお世話をするだけでなく、お姫様と心も一つになったように大切に思っていました。  

しかしお安はその時、身重の体でした。しかたなく赤ちゃんが産まれて落ち着くまではこの地に留まることにして、一度は二条で姫をお送りしました。だがやはり下田まで行って船に乗る仲子姫をお見送りしたいと思い、お安は姫の歩いた後を一人、追いました。  

二条から峠を越え、下田を目指して歩くうち、お安は徐々に体の具合が悪くなりました。そしてとうとう青市の上組の沢を越えているときに倒れてしまい、動けなくなりました。

まもなく村人に見つけられましたが、倒れたお安の体には蚊や蟹がなりたかり、それを手で払うこともできずにいたそうです。村人達の厚い手当を受けたにもかかわらず、とうとうお安はお腹の赤ん坊と共に命をつなぐことができませんでした。  
 
後年、この話を伝え聞いたお姫様は京から青市に子安神社を勧進し、村人達にお安の供養を託しました。つい数年前までは上組の人たちの手によって神社の手入れやお祭りがされていたそうです。(出典は、南史会の会報『南史』)  画像は、私が過去に撮影した写真です。





このウォーキングコースの古道部分は、南中小学校から緩やかな峠を越えて南伊豆東小学校近くの日野(ひんの)に出るコースです。

帰りは青野川沿いの遊歩道を歩きますが、ちょうど南の河津桜が咲いていると思いますので、よいお花見ウォーキングになるのではないかと思います。
下の画像は、一昨年撮影した南の河津桜です。





6 昼食  今回はコースをおおよそ歩いた後、下賀茂にある手打ち蕎麦店に入って、皆さんで一緒に蕎麦を食べたいと思うのですが、いかがでしょうか? 価格は、「南の桜と菜の花祭り」が行われている期間の特別メニューの蕎麦が1600円ぐらいからあります。冷えたお弁当を戸外で食べるのにはつらいものがありますので、今回はこの提案をいたします。よほどの事情がない限り、ご一緒していただきたいと思います。よろしくお願いします。






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風待ち湊 下田街歩きパート2 報告

2020年01月19日 23時10分01秒 | お知らせ
雨のために1日延期となった「風待ち湊 下田街歩きパート2」。実施した日曜日は、朝こそ肌寒かったものの、風がなく、絶好のウォーキング日和になりました。


集合場所のベイステージに集まったのは、案内人を含めて6名の精鋭でした。
「何か淋しいねぇ。」と言いつつ、準備体操をして出発しました。


きれいに整備された間戸が浜海遊公園に立っているのは、昭和35年にこの地に置かれた西條八十の詩碑です。


「駕篭で行くのはお吉ぢゃないか 下田港の春の雨 泣けば椿の花が散る」「西條八十」と記されています。 1930(昭和5)年に西條八十の作詩で藤本二三吉が歌った「唐人お吉のうた」の歌詞とのことです。

元は岸から離れた岩の上に立っていましたが、港湾の埋め立てによって岸に上げられ、現在の場所に落ち着いたようです。その頃の様子が分かる写真を、後ほど紹介します。

それから、海遊公園に置かれた様々なモニュメントを見ながら、柿崎の海岸を目指しました。


国道から離れると、そこは「松陰の小径」と名づけられた遊歩道となります。防潮堤の内側には、浜崎小学校の児童が書いた「下田の歴史を紹介するパネル」が貼ってあります。なかなかユニークな紹介方法だと思います。




弁天島にやってきました。1853年の3月、吉田松陰先生がお供の金子重輔と共に黒船に乗せて貰おうと小舟をこぎ出した島です。
当時、下田湾は風があってやや荒れており、松陰先生は小舟を漕ぐのに難儀されたと伝わっています。しかし今日の港は波がなくとても静かで、166年前の松陰先生の無念さを忘れているかのようでした。


顕彰碑の前で記念写真を撮り、「ハリスの小径」へと歩きます。

途中で、人懐こい三毛猫がいました。会員さん一人一人に挨拶して回る、かわいいニャンです。




海岸から離れた岩の上には、ど根性水仙が咲いていました。


県道から離れ、「ハリスの小径」に入りました。1865年に初代米国総領事として柿崎の領事館(玉泉寺)に赴任したタウンゼント・ハリスは、この海岸を散歩するのが好きだったそうです。


しばらく歩くと、寝姿山の名がつけられた訳を記した説明板があります。伊豆急電車が下田駅に着く前に「左に見えるのは寝姿山です。女性が寝ている姿に似ていることから、この名がつけられました。」と車内アナウンスがあるのですが、本当の寝姿山は線路側から見るのではなく、柿崎側から見てこそ、女性の寝た姿に見えるのです。ホントに女性が仰向けに寝ている姿にそっくりなので、ちょっとドキドキしました。




山が仰向けに寝る女性の姿に見えてきたでしょ?


次に見学したのは、太平洋戦争中に掘られた特別攻撃潜水艇「海竜」の格納庫です。多くの少年兵士が柿崎の民家に分宿し、ここに洞窟を掘りました。中には14歳の年少兵もいた、と記念碑に記してありました。後世に伝えるべき戦争遺跡ですね。




ハリスの小径の終点は、「吉田松陰上陸の碑」です。黒船ポーハタン号のボートによって送られた松陰先生は、ここで下ろされて岸に立ちました。辺りはすっかり埋め立てられてしまったので、当時の風景は想像するしかありません。


そして、ここにあった「黒船水兵の洗濯場」の小川も埋め立てられ、伝え聞いた者しかその存在を知りません。

さらに、「水兵と日本女性の間にできた赤子の供養地蔵」も、所在が分かりませんでした。山裾の藪をかき分けて探したのですが・・・。残念です。


お地蔵様、ありません。


ここにもありません。


ないです。ないー。


謎の階段はありまたが、お地蔵様はありません。


仕方がないので浜崎小学校のある道路に出て、爪木崎の水仙祭りに行く車がひっきりなしに通る道(車が速度を落とさずにすぐそばを走っていくから、怖かったです)を歩いて、玉泉寺を訪ねました。




玉泉寺は、下田港を見下ろす丘にあり、境内や墓地がたいへんきれいに整備されていました。
まずはご本尊様にお参りをします。


このお寺にはハリスが総領事として仕事をしていた史実やロシアのプチャーチンが来航して交易を希望したことを伝える跡がいくつかあります。

下田で亡くなった黒船の水兵さんたちのお墓です。会員の墓石に英語で記された銘を一生懸命読みました。


ハリス総領事の執務室に置かれたストーブの煙突を抜いた穴。「石」ではなくて「穴」が正しいと思います。





ハリスが牛乳を飲んだ事に発する「牛乳発祥の地」の祈念碑(何と、表面に野球のボールをぶつけた小さな跡が残っていました)。


牛肉を得るためにほぐした牛を供養する「屠牛供養塔」。


当時、牛は農耕に使われていた大事な労働力の一つで、飼い主は牛が亡くなると「大日如来」と刻んだ供養塔を建てるほど、可愛がっていました。
生きた牛を食肉にしたのですから、飼い主にはどれだけ重い負担と悲しみがあったか・・・。この碑が示していると思います(と、勝手に想像してみました)。

後の子爵や侯爵によって建てられたハリスの顕彰碑。当時、境内に星条旗がはためいたことが書いてあります。

境内の奥にある開国資料館(入場料500円)には入りませんでした。ロシア兵士のお墓3基は資料館の奥にあるので、入館しないと見られません。

以上で、今回の史跡巡りの紹介は終わりです。

玉泉寺を出てからは来た道を戻り、ベイステージで解散しました。


行動時間は3時間20分。歩行距離は5kmぐらいだと思います。

さて、間戸が浜が埋め立てられる前の写真がありますので、紹介します。昭和40年頃の写真と思われる写真で、場所はセブンイレブンがある辺りと思います。埋め立て前なので、道路が狭いですね。奥の方に下田ドックが写っています。


それより見てほしいのは、最初に紹介した西條八十の詩碑が岸から離れた岩の上に建っていることと、寝姿山鉱山から掘り出された鉱石を船に積み込むための桟橋跡(推定)が残っていることです。


当時、その桟橋は「ピーヤ」と呼ばれていたそうです。「ピーヤ」とは英語の「pier」のことで、訳すと「桟橋」になります。まさに桟橋そのものの存在を伝えているではありませんか。

間戸が浜は、こんな浜辺だったんですね。

さて、次回のウォーキングは、2月16日の日曜日に行います。最初の期日と異なりますことをお詫びいたします。
午前8時45分に南伊豆町立南中小学校においでください。計画は、追って掲載します。
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日曜日は温かくしておいでください

2020年01月18日 19時32分00秒 | お知らせ
会員の皆様へ。今日は冷たい雨の降る一日でしたね。私は結局、一日中家でごろごろして過ごしてしまいました。

明日のウォーキングは実施できそうですが、北風の吹く寒い一日になりそうです。どうぞ温かい服装でおいでください。

午前8時45分に、ベイステージ下田の東側のトイレ前広場で会いましょう。
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天城は雪が降ったようですね

2020年01月18日 09時47分28秒 | お知らせ
よりによって週末にこの寒波が来なくてもいいのに・・・、と思います。

ライブカメラで見ると、天城トンネルや船原トンネル付近では、雪が降ったようです。私はサントムーン柿田川に映画を観に行こうと思いましたが、自動車で行くのは危険と思い、やめました。

明日こそ晴れて、「風待ち湊 下田街歩き パート2」が実施できますように!
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明日のウォーキングは延期したいと思います(降水確率が90%なので)

2020年01月16日 23時36分39秒 | お知らせ
会員の皆様へ。

天気予報によりますと、今夜から土曜日にかけての降水確率が90%と出ています。うまくいかないものですね。

明日のウオーキングは延期にして、あさって19日の日曜日に実施したいと思います。予定に入れてくださっていた皆様、申し訳ありません。

あさって日曜日の降水確率も良くないようでしたら、またこのページで予定をお知らせします。よろしくお願いします。
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