梅雨の晴れ間としては最高であろう好天に恵まれた6月17日土曜日に、今年度2回目となる古道歩きを実施しました。
今回は「須崎道を歩く」のテーマのもと、下田市柿崎の上の山地区から須崎半島のほぼ中央部を通って須崎港までつながる道を歩きます。車社会になる前は須崎へ行くメインルートであり、長く生活に供された道と聞いています。
出発地の下田市まどが浜海遊公園に集まったのは、精鋭5名。
芝生広場で遊ぶ家族連れやウオーキングを楽しむグループを見ながら、柿崎の上の山へ向かいます。
今回は柿崎小学校を卒業されたT先生がおられるので、歩きながら須崎道に関するいろんなお話を伺うことができました。
5人が上るこの道は玉泉寺の脇を上る「寺坂」。ここには防火用水を溜めた貯水池があったそうで、今ある景色は、昔と姿を変えてここにあるんだなあ、と思いました。
柿崎小学校があった場所で、T先生の話を伺いました。黒船祭が行われる日には子どもたちがこの坂を下って交流会に出かけたとのこと。港の見える学校って、素敵です。
上の山地区の下田市立下田東中学校があった辺りは住宅地として開発されたために新しい道が作られており、古道の姿は何となく分かる程度になっています。
ですから、だいたいこの辺りに道があったのではないかと見当をつけて、尾根道に入ります。ここからが、今回の古道歩きの始まりなのです。
尾根道は柿崎地区と外浦地区の境目を南に進むような感じで続いています。ですから、途中で柿崎海岸に下りる道や外浦につながる道が分岐しています。その道が現れるたびにT先生が教えてくださるので、私としては大変よい勉強になりました。
「この辺はさ、私が通学路にして歩いてた頃は天狗が出そうな怖い土地で、早足で通り過ぎたものだよ。」と仰るのは、お社らしく見えない金毘羅宮です。
この金毘羅様には嘉永七年(1853年)に建てられた常夜灯が一つあり、そこに刻まれた文字から風待ち湊の下田港の歴史を読み取ることができます。
というのは、常夜灯を建てる時に寄進をした人たちの名に廻船の船主たちの名が多く含まれて、それと共に「天下泰平」といるのです。
1853年と言えば、アメリカからペリー艦隊が江戸湾に来航して江戸幕府に開国を求めた年です。翌1854年には開国を約束されたペリー艦隊が下田港に来ました。
そういう激動の時期にあって廻船業者が世の平和を祈願して建てた常夜灯である、と言えるのではないかと思います。
近くからは下田港を眼下に望むことができ、航海の神様として信仰された金毘羅様がここに建てられた意味がよく分かりました。
金毘羅様を後にしてからは、ほぼ尾根筋を辿っている道を歩いて須崎半島を南に進みました。
途中、「ここから分かれている道は外浦につながっていて、元の浜崎中学校(現在は下田市立浜崎小学校が建っているところ)に通うのに歩いたんですよ。」や「ここは外浦からくる道で、中学校の通学路だったよ。」などと、高橋先生から教えてもらいました。今歩いている尾根道から須崎半島の東西にいくつかの道が分岐していることから見て、やはりこの須崎道は須崎へ行く際のメインストリートであり、すなわち古道であると言えると思いました。
アイキクリーンの敷地を右に見て、高い鉄塔の下を通り過ぎますと、爪木崎へ行く道路へと出ます。そこを斜めに横切るようにして、古道は須崎半島を南下しています。
すぐに地蔵堂があって、中にお地蔵様が納められています。でもどのような由来のお地蔵様なのか分かりません。
しばらく歩きますと、道は急な下り坂になります。今はコンクリートで舗装されていますが、昔は土または岩のままの路面で、かなり歩きにくかったのではないかと思います。あるいは石畳の道だったのかもしれません。
道は須崎の集落に入りました。広い駐車場になっているのは、須崎小学校があった所です。二宮金次郎さんの石像が残っており、ここに学校があったことを示しています。
坂の左右には肩を寄せるようにして家々が並んでいますが、中に空き家や空き地や見えて、淋しい気持ちになります。
ここ観音寺は、曹洞宗のお寺。山門の前に並ぶ石造物は必見と思います。
道は須崎の港に出ました。ここからは平らな道を歩きます。
暑いので、バス停の待合室で一休みしました。
漁民会館の周辺には、「民宿発祥の地の碑」や「港から引き揚げられた江戸築城石」、「海境い勝訴の顕彰碑」などがあり、見逃せません。
それから丘の上にある旭洞院(きょくとういん)を訪ねました。境内にある「戒運さんの墓」を拝むためです。
戒運さんは、俗名を村松久七さんと言います。江戸時代の船乗りですが、嵐に遭って遭難し、鳥島に漂着しました。そして12年間鳥島で生き延び、仲間と協力して船を作って鳥島を脱出。須崎に生還したという強い体力と精神力を持った人です。
戒運さんの墓には丸い小石がたくさん上げてありますが、それは腫れ物やおできができてしまった人たちが戒運さんのお墓へ小石を持ってお参りするから、ということです。
そうして須崎のプチ史跡巡りをして、今日の目的地である恵比寿島へ到着しました。
メンバーさんの計測記録によりますと、本日の歩行距離は約6kmだったそうです。おしまい
今回は「須崎道を歩く」のテーマのもと、下田市柿崎の上の山地区から須崎半島のほぼ中央部を通って須崎港までつながる道を歩きます。車社会になる前は須崎へ行くメインルートであり、長く生活に供された道と聞いています。
出発地の下田市まどが浜海遊公園に集まったのは、精鋭5名。
芝生広場で遊ぶ家族連れやウオーキングを楽しむグループを見ながら、柿崎の上の山へ向かいます。
今回は柿崎小学校を卒業されたT先生がおられるので、歩きながら須崎道に関するいろんなお話を伺うことができました。
5人が上るこの道は玉泉寺の脇を上る「寺坂」。ここには防火用水を溜めた貯水池があったそうで、今ある景色は、昔と姿を変えてここにあるんだなあ、と思いました。
柿崎小学校があった場所で、T先生の話を伺いました。黒船祭が行われる日には子どもたちがこの坂を下って交流会に出かけたとのこと。港の見える学校って、素敵です。
上の山地区の下田市立下田東中学校があった辺りは住宅地として開発されたために新しい道が作られており、古道の姿は何となく分かる程度になっています。
ですから、だいたいこの辺りに道があったのではないかと見当をつけて、尾根道に入ります。ここからが、今回の古道歩きの始まりなのです。
尾根道は柿崎地区と外浦地区の境目を南に進むような感じで続いています。ですから、途中で柿崎海岸に下りる道や外浦につながる道が分岐しています。その道が現れるたびにT先生が教えてくださるので、私としては大変よい勉強になりました。
「この辺はさ、私が通学路にして歩いてた頃は天狗が出そうな怖い土地で、早足で通り過ぎたものだよ。」と仰るのは、お社らしく見えない金毘羅宮です。
この金毘羅様には嘉永七年(1853年)に建てられた常夜灯が一つあり、そこに刻まれた文字から風待ち湊の下田港の歴史を読み取ることができます。
というのは、常夜灯を建てる時に寄進をした人たちの名に廻船の船主たちの名が多く含まれて、それと共に「天下泰平」といるのです。
1853年と言えば、アメリカからペリー艦隊が江戸湾に来航して江戸幕府に開国を求めた年です。翌1854年には開国を約束されたペリー艦隊が下田港に来ました。
そういう激動の時期にあって廻船業者が世の平和を祈願して建てた常夜灯である、と言えるのではないかと思います。
近くからは下田港を眼下に望むことができ、航海の神様として信仰された金毘羅様がここに建てられた意味がよく分かりました。
金毘羅様を後にしてからは、ほぼ尾根筋を辿っている道を歩いて須崎半島を南に進みました。
途中、「ここから分かれている道は外浦につながっていて、元の浜崎中学校(現在は下田市立浜崎小学校が建っているところ)に通うのに歩いたんですよ。」や「ここは外浦からくる道で、中学校の通学路だったよ。」などと、高橋先生から教えてもらいました。今歩いている尾根道から須崎半島の東西にいくつかの道が分岐していることから見て、やはりこの須崎道は須崎へ行く際のメインストリートであり、すなわち古道であると言えると思いました。
アイキクリーンの敷地を右に見て、高い鉄塔の下を通り過ぎますと、爪木崎へ行く道路へと出ます。そこを斜めに横切るようにして、古道は須崎半島を南下しています。
すぐに地蔵堂があって、中にお地蔵様が納められています。でもどのような由来のお地蔵様なのか分かりません。
しばらく歩きますと、道は急な下り坂になります。今はコンクリートで舗装されていますが、昔は土または岩のままの路面で、かなり歩きにくかったのではないかと思います。あるいは石畳の道だったのかもしれません。
道は須崎の集落に入りました。広い駐車場になっているのは、須崎小学校があった所です。二宮金次郎さんの石像が残っており、ここに学校があったことを示しています。
坂の左右には肩を寄せるようにして家々が並んでいますが、中に空き家や空き地や見えて、淋しい気持ちになります。
ここ観音寺は、曹洞宗のお寺。山門の前に並ぶ石造物は必見と思います。
道は須崎の港に出ました。ここからは平らな道を歩きます。
暑いので、バス停の待合室で一休みしました。
漁民会館の周辺には、「民宿発祥の地の碑」や「港から引き揚げられた江戸築城石」、「海境い勝訴の顕彰碑」などがあり、見逃せません。
それから丘の上にある旭洞院(きょくとういん)を訪ねました。境内にある「戒運さんの墓」を拝むためです。
戒運さんは、俗名を村松久七さんと言います。江戸時代の船乗りですが、嵐に遭って遭難し、鳥島に漂着しました。そして12年間鳥島で生き延び、仲間と協力して船を作って鳥島を脱出。須崎に生還したという強い体力と精神力を持った人です。
戒運さんの墓には丸い小石がたくさん上げてありますが、それは腫れ物やおできができてしまった人たちが戒運さんのお墓へ小石を持ってお参りするから、ということです。
そうして須崎のプチ史跡巡りをして、今日の目的地である恵比寿島へ到着しました。
メンバーさんの計測記録によりますと、本日の歩行距離は約6kmだったそうです。おしまい