「賀茂の古道を歩く会」通信

平成29年度に発足した「古道を歩く会」案内人からのお知らせページです。会は令和6年3月に解散しました。

「風待ち湊 下田街歩き」報告 その2

2019年12月22日 15時36分43秒 | お知らせ
そこからは平滑川を渡って市街地に入り、土藤(つちとう)商店のホーロー看板コレクションを見学しました。お店から女将さんが出てこられ、いろいろと話を聞かせてくれました。若い観光客にも人気があり、自撮りをするなどして楽しんでいるとのことです。


次に訪れたのは、伊豆の踊り子別れの岸壁です。踊り子たちと旅をしてきた学生さんは東京行きの船に乗るため、ここで踊り子と別れたのです。ちょうど前回のウォーキング「伊豆の踊り子の越えた道 広尾峠を歩く」と思いが重なりました。


そこからしばらく稲生川に沿って歩き、対岸の武ガ浜にある「今村伝四郎正長の波除け堤防」とその顕彰碑を見学しました。




1645年、下田の街を波浪から守るため、2代目下田奉行であった今村伝四郎正長が家臣の薦田景次と大田正次に命じてここに堤防を築きました。正長は造築のために私財を投じ、3年間の月日を要して完成したということです。


再び旧市街に戻り、殿小路を通って、稲田寺の津波塚を見学しました。3基立っている石塔の中央が津波塚です。安政の大地震の犠牲者を弔うために1854年(嘉永七年 安政元年)に立てられました。


それから市民文化会館の西にある大安寺を訪ね、薩摩十六烈士の墓にお参りしました。

薩摩十六烈士とは? その悲劇が起こったのは、1688年(貞享5年)3月、日向国の佐土原藩主が将軍家御用材を積んで江戸へ向かう途中、遠州灘で嵐に遭い、やむを得ず積荷の一部を海に捨てて難を逃れ、下田港に入りました。しかし乗り組んでいた3人の武士は責任をとって切腹。それを見た残りの水夫達は自分達だけ郷里に帰れないと、15才の七蔵に事情を国元に知らせて遺髪を届けるように言いつけて自害しました。この様子を見た七蔵も、仲間の後を追って切腹しました。嵐に遭うという事情があったとはいえ、御用材を捨てた罪はまぬがれぬとして、十六人の帰葬は許されず、郷里の菩提寺と同名の大安寺に合葬されたのです


さあ、訪ねる先はあとわずか。固いアスファルトの道を歩いて疲れてきましたが、行きましょう。

中央公民館の敷地に立っているのは、「吉田松陰拘禁の跡」の石碑と説明板です。1854年3月、ペリー艦隊の黒船に乗ることが叶わず自首した松陰先生は、まずここにあった長命寺で拘禁されたのです。その後、近くの平滑の獄に入れられ、のちに江戸に護送されました。郷里の萩に戻ってから、あの松下村塾を開きました。


ついで、今はレストランになっている欠乏所跡を訪ねました。欠乏所とは、米国船に水や食料などの必需品を供給する場所のことです。石碑と説明版がありますが、食事客のじゃまになるので、早々と次へと向かいました。


見学の最後は、1635年に今村伝四郎正長が開いた了仙寺です。ペリー一行が訪れ、日米和親条約の付属条約である下田条約が締結された場としても知られています。本堂のそばに、正長さんの立派な墓所があります。また、裏には古墳時代の洞窟遺跡があります。

これで今回の「風待ち湊下田街歩き」は終了しました。お弁当を開こうと思っていた春日山は寒いので、日だまりのある小学校の校庭で昼食にしました。


歩数計をつけていた会員さんの話では、今日の歩行距離は何と8km! あちこちよく歩きましたからねぇ。会員の皆さんはよくついてきてくださいました。私はたくさん説明して、お腹いっぱいになった感じ。

次回は、風待ち湊下田街歩きの第2弾として、下田港の東側を歩きたいと思います。たくさんの会員さんのご参加をお待ちします!
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「風待ち湊 下田街歩き」報告 その1

2019年12月22日 15時09分31秒 | お知らせ
今回は、主として下田が風待ち湊となって最も栄えたという江戸時代の姿を見て歩く企画でした。

晴天に恵まれた12月14日(土)、総勢12名の参加者で下田小学校を出発しました。昔の街道の姿を残す狭さの南街道を南進します。


ほどなく折戸の切り通しに立ちました。ここの岩壁に「弘化」の年号が刻まれているのです。もしかしたら石工が自分たちの仕事の跡を残したくて刻んだのかもしれません。


峠から降りてからは、江戸時代に「出船入り船三千艘」と言われるほどたくさんの廻船が停泊した下田港の西にある鍋田湾を歩きました。ここには、廻船の舫綱(もやいづな)を留めるため、自然石に穴を開けた「舫岩」が残っています(海上保安庁や海中水族館の近くにもあります)。


この鍋田湾はまた、太平洋戦争の終戦2日前に、ここで出撃命令を待っていた陸軍の潜水艦が米軍機の機銃掃射を被弾して10名の乗組員が亡くなった場所でもあります。近くの八幡神社には、戦友会が建てた慰霊碑があります。

鍋田の大浦には、1636年から約100年間、江戸に行き来する廻船が査察を受けた「船改番所(ふなあらためばんどころ)」の跡地があります。ここで記念写真を撮りました。


大浦の切り通しを越えて、弥治川沿いの美しい家並みを見学しました。




弥治川に架かるこの橋には、大浦から船乗りたちが切り通しを越えて花街の女性に会いに通ったことを偲ばせる「逢坂橋」という名がついています。


弥治川の河口近くには、大正七年建築の澤村邸があります。現在は市に寄贈されて休憩所になっていますので、ここでお茶をいただいて休みました。


出発して間もなく、ペリー上陸の碑と道を挟んだ向かい側に、妙見宮の石灯籠があります。妙見宮とは? そしてなぜここに妙見宮があるのでしょう?


昔の船乗りは、夜空の北極星を見て進路を測りました。そこから北極星や北斗七星を崇める信仰が生まれ、航海の安全を祈る場所である妙見宮が建てられたのです。

石灯籠には「明治八年」や「樽廻船」、「摂津」などの文字が刻まれています。灘の酒造業者が江戸に酒を運ぶ際に何度も立ち寄る下田の港に妙見宮を建てたのですね。当時はかなりの参詣者がいたので、神戸から来た堂守が常駐していたそうです。まさに風待ち湊下田の歴史を伝える史跡です。
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