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猫のきもち、犬のきもち

2005-01-03 | ねこのきもち
2005年は酉年ですね。

鳥と言えば猫の大好きなもの。

対して、猫が嫌いなものといえば犬 (やったこじつけた(笑)

でも本当に猫と犬って合わないのだろうか?







よく猫と犬が一緒に映ってる写真を見かける。

仲良く並んだ彼らの姿は、可愛いくて微笑ましい。

だけどそれ、カレンダーやらの類でしか見たことがない。

猫派、犬派と分かれるくらいだから、そもそも猫と犬を一緒に飼う人自体少ないし、

両方いるところでも喧嘩こそなきにしろ、お互いに境界線を張ってたりする(大抵は猫が張ってるんだろう)







が、実際彼らが道端で出くわした途端に喧嘩するわけでもない。

互いに威嚇し合うのは、異なる種の動物間ではよくある程度のもの。

考えればその程度なのに、犬猫間にだけ妙にしきりが出来ているのは何故?

そして、アメリカではそういった概念はない。

これには理由があった。

互いの間に悲しい伝説のようなものが・・・







明治時代、政府は犬を飼う人たちへ高額な畜犬税を課した。

(名称は異なるが、いくつかの欧米諸国で現在も施行されている。兎税もあり)

逆に猫を飼う人には飼育手当てが支給された(鼠取るから)

そうなると結果は歴然。

高い税金を払うくらいならと、皆さん犬を捨てる。

そして野犬が増え、政府は出費もかさむという、本末転倒のなんともお粗末な結果に。







犬は捨てても自分の欲求は捨てきれないらしく、一度ペットを飼った人たちは、

その動物の温もりが忘れられず、懲りずに今度は猫に乗り換えた。

乗り換えられた犬は猫を恨むようになった。

だから仲が悪い。

なんて都合のいいお話なんでしょう(苦笑)

不仲の所以が、まさか税金のせいだったとはね~ (゜◇゜)~

今も昔も人間の身勝手は動物たちには迷惑な話。

そして地球上で人間の非情さに敵う動物はいない。







猫も犬も何を考えてるかは分からない。

けれど何かを感じてることと、訴えてることは分かる。

人間の赤ちゃんと一緒。

言葉という術を持たない赤ちゃんは、声で、身振りで、必死に自分を表す。

大人もそれを汲み取ろうと懸命になる。

それがいつの間にか『・・・かもしれない』へ

そして『きっとそうだ』と決めつけるようになる。

得てして人は『そうあって欲しい』という自分の想いが先行していく。

それは言葉を持たない相手に限らないが。







言葉を発しないから生き物は大変なのではなく、自分の思い込みが理解を遠ざけてるのかもしれない。

人間同士ならば誰かのことを読み取れないからといって、相手に感情がないとは思わない。

動物が攻撃する時には必ず理由がある・・・ムツゴロウさんの言葉。

子供に合わせて背を屈めるように、試しに猫の視線の高さになってみた。

猫にとって、殆どすべてのものが自分の何十倍ものの大きさだ。

私なんてきっと怪獣だ(^▽^;)

そんなことだけでも、怖がる、威嚇する動物の気持ちが分かる気がする。







可愛いがってるから伝わってるだろうと思いたいが、

本当は文句の一つも言いたいだろう(ていうか言ってるだろう (^▽^;)

『また同じメシかよ』とか、

『むやみに呼ぶな』とか思ってるかもしれない。

共通の言葉はなくとも、同じ赤い血が流れる動物(たまに緑の血?のやつも)

彼らの気持ち、思い込みを取っ払って、ちゃんと見つめると感じるものが違ってきそう。







にしてもまったく根拠のない不仲説で、私の希望は繋がった!

実は元々犬派の私は、うちの猫たちと犬を家族にするのが夢♪

じゃれあう三匹、マディ、ホープと一緒に川の字で寝る茶色(?)の子犬。

しかしこの夢、かなり厳しく遠いようだ。

隣犬で慣らそうにも、未だ『ワンワンワン!』『フー!』の関係・・・(-。-;)

仲が良くなる秘訣はなんなのだろうか。







ジェームス三木さんのこういうお話があった。

犬を飼われてて、仔犬が何匹か産まれたそうだ。

ある日の道すがら、まだ目も開かない仔猫を見つけた。

躊躇されたそうだが、うちにいる犬が育ててくれるかもしれないと仔猫を連れて帰られた。

母犬も仔猫も、それから仔犬たちも、種の隔たりなど全く感じず互いを受け入れた。

一緒の母乳を飲んで、一緒に育っていく。

成長した仔犬と仔猫を見て、ある時ジェームスさんは面白いことに気づく。

猫が『ニャンニャン』と鳴くのだ!

そのイントネーションは犬の『ワンワン』そのもの。

それから犬たちは、猫が容易にジャンプするところを見て、

自分も出来ると思うのか、同じようにジャンプをするそうだ。

動物は本能プラス学習で生きていくことが分かる。







そうか!

猫とか犬とか種を感じさせなければいいのね♪

『よしマディ、ホープ、ほらニャンニャン!』

我が家に犬がやってくる日は訪れるのか・・・



やっぱりねこが好き その三

2004-11-15 | ねこのきもち
1993年の春頃だった。

その日私は病院で宿直をしていた。

深夜0時の見回りが終われば、朝まで特にやることもない。

仮眠室で一息ついていた時それは聞こえてきた。

高音で途切れることなく続く独特の声。

今まで何度となく聞いて立ち止まらされたあの声。

・・・間違いなく仔猫だ。

絶対見てはいかんと、TVの音量を上げ無視した。

しかし鳴く、声も枯れんばかりに鳴き続ける。

まるで私がいるのを窓越しに見透かしているようだ。







二階の窓を少しだけ開け覗く (この時点でもう負けは決まり(笑)

その瞬間鳴き声が加速。

窓を閉めても時遅く

『見たで~見たで~』と責め立てる。

『私はダメ、お願いお願い、諦めてどっかへ行ってくれ』

根比べは猫の勝ち・・・。

このままでは誰か出てきてしまうので仕方なく一階へ行く。

仔猫は同じ場所にいた。

私を見るとまた声高になる。

慌てて抱き上げ部屋へ戻る。

手の平に乗るほど小さい、生まれて数週間くらいの茶トラの仔猫。

ヤバイ、非常にヤバイものを連れてきてしまった(・・;)

後悔先に立たず、こんな子供を放り出せば生きてはいけないのは明白。

そして・・・










フーバーはうちの子になった(泣)










フーバーはそりゃ活発(暴れん坊?)で、家具はもちろん

本の間、柱、カーテンと、家中のものを使って遊びまくるまくる。

人のお腹をジャンプの踏み台にはするは

車に乗せればシートの頭が当る穴の部分を抜けようとして挟まったり(^_^;)

ベッドのシーツが大好きで、潜っては一人で何かと戦う(笑)

人間の何十分の一の小さな動物。

でもこの猫一匹の出す存在感は、我が家を本当にハッピーにしてくれた。

人懐こくて客人にもみんなに可愛いがられ、いつの間にか人を笑顔にさせる。

猫を本格的に飼ったのは初めてで、24時間猫の行動を見るにつけ、

その可愛さ不思議さに改めて好き・・・いやもう惚れまくってしまった!

フーバーはいつもその元気一杯の、愛らしい行動で周りを幸せにしてくれた。

なのにそれを守ることを私は怠った。

猫との生活の楽しさに浮かれ、取り返しのつかないミスをしていた。







1995年の2月、フーバーは腎臓結石になりたった二歳で逝った。

原因はキャットフードのハードタイプばかりをあげていた為。

雄猫は唯でさえ結石が出来やすいところに、ハードフードでカルシウム過多を起こし、より石を作りやすくする。

そんなことも知らなかった。

知ろうともしなかった。

今度ばかりは誰とも責任を共有できない。

私の無知が、無責任さがフーバーの命を縮めていた。







私なんかに動物と関わる度量はなかったのに。

あの時私が拾わなければ、フーバーはもっと生きられたかもしれない。

ちゃんと猫のことを勉強していれば、防げたことだったかもしれない。

なによりも、やはり手を出すべきではなかったのだ。

悲しさと後悔と、そしてフーバーが諦めきれず、泣いているか放心状態でいる私を夫が見かねた。

米軍基地内のアニマルシェルターから、三毛の雌猫マディを連れてきた。







躊躇した。

二度と生き物を不幸にしたくない気持ちと、自分を癒したいという欲望のために飼うことになるから。

動物と一緒に居たいというのは私のエゴで、本当に好きならばそっとしておくべきだとも思った。

だけど夫はこう言った。

シェルターへ行った時、最初仔猫にするつもりだった。

でもマディに近づいた時、彼女が夫の腕に手を伸ばし掴んだそうだ。

今連れて行くのはマディで間違いないと感じた。

自分を求めてると確信したからと。

マディの保管期限切れが迫ってたのを知るのは後のこと。

その二年後1997年、足を怪我した野良の仔猫、ホープが家族になる。

血を流しながら文字通り目の前に現れた彼に、私も確かに感じた。

求めてると。







出来ることなら自然が一番いい。

だけど人間といることが不自然なわけではないのかもしれない。

動物から人間を求めることもある。

もしもそうなら、動物が人の手を求める時があるなら、

私は出来ることがあるんじゃないか。







最初はフーバーへの贖罪の気持ちもあったと思う。

だけど彼は他のどの猫とも違う。

マディもホープもみんな違う。

何をしても贖いは出来ない。

出来ないほど、今もずっと家族なのだ。

だからフーバーが残してくれたもの、マディとホープが教えてくれたことを大切にしていこうと思う。

頑なに動物を避けた私に芽生えさせてくれたものを。

互いに求め合うことがあるならば、それも一つの自然の形。

動物に関わりたいという気持ちをエゴにならずに、一緒に生きていくことも出来るはず。

押さえることが一番不自然なことだった。

やっぱり、ぜったい、私はねこが大好きだから =^-^=



やっぱりねこが好き その二

2004-10-25 | ねこのきもち
そっけない、眼つきが悪い、態度が可愛くない。

猫が苦手、猫が嫌い、そういう人はよくこんなことを言う。

確かに猫が自ら寄ってくるのなんてご飯時くらい。

眠い時寒い時、可愛いらしく膝に乗ったりするのだって猫の気分次第。

外出や帰宅の時も寂しいのはこっちの方(笑)

でもこれって犬と比較しての人間の勝手な言い分で、

ペットの代表選手だから互いに引合いに出されるのは無理ないにしても、

元々異なる種を比べる事自体動物には迷惑な話だ。







それでも嫌いな人にとって理屈なんて関係ない。

嫌なものは嫌なのだ。

私が猫を避けるようになってから一番嫌だったのは、

睨むような、時に見下したような、あの猫独特の鋭い眼だ。

ただでさえ憎らしいところに可愛げのない眼つき。

そして冷たい態度も相乗して、増々猫から気持ちが離れた。

その後5、6年は関わった記憶がない。

だけど猫は私のことを嫌わないでくれたようだ。







それまでの期間を埋めるかのように、私の周りに急に猫が出没しはじめた(笑)

それも怪我をした猫、捨てられた仔猫と、嫌いだからといってほっとけない状態ばかりで。

元々理不尽な理由で嫌いになったわけで、それも時間が消化しつつあったところに弱った猫の姿は、

本当は憎みたくなかったのに、矛先を猫に向けるしか気持ちの行き場のなかった私のカタルシスになった。







その頃私は友達に、『ムツ・ゴロ子』と呼ばれていた(笑)

猫に限らずいっつも動物と関わっていたからだ。

でも私はムツゴロウさんのようにはなれなかった。

殆どは悲しい結果しかなかった。

弱った動物を救うのは色んなことが必要だ。

感情だけで動くのは、動物を翻弄することになるのかもしれない。







私が住んでいた団地周辺は野良の犬猫が多かった。

団地だからゴミも多量に出るしエサをあげる人も多かったので、その内人間を怖がらない犬猫が増えた。

私が“シマ吉”と呼んでた黒縞の雄猫は、とても愛嬌があり団地でも人気者だった。

ある日帰宅途中の私の前に足を引きずって現れた。

最初後ろ足に何かが付いてるように見えた。

近くで見て思わず引いた・・・。

シマ吉の足が潰されたように広がって、人間の掌くらいに膨らんでるのだ。







正視できないほど異常に膨らんだ足に、私は交通事故を想像した。

獣医に連れていくと、原因はもっとひどいものだった。

足の根元に何重にも輪ゴムが巻き付けられていた。

もう少しすればシマ吉の足は無くなるところだった。

哀しかった。

どうしようないくらい哀しくて、それから腹が立ってしょうがなかった。

同じ人間がこんなことをしたと思うと、それでも人間を信じて私に助けを求めてきたシマ吉に申し訳なかった。

そしてその信じる素直さがシマ吉の仇になった。







シマ吉は数日で元気になった。

外に放つことに不安はあったが、団地で飼うことは勿論出来ない。

心配は無用と云わんばかりに、シマ吉は前と同じに皆に可愛いがられてた。

けれど動物好きな人間がいる一方、糞や臭いに迷惑顔の住民もいるわけで、

そういう人たちのイライラも徐々に募っていた。

保健所が一斉に野良の犬猫狩りをした。

捕まえられた殆どは犬で、猫は察して逃げたらしい。







帰宅して妹からその話を聞いた私は、

シマ吉の姿が見えなかった理由が分かった。

シマ吉が捕らわれるところは妹の友達が見ていたらしい。

病院へ行った後のような哀しさはなかった。

虚しかった。

数日前にしたことは無駄だったのかと虚しかった。

いくら迷惑だからといって、殺すようなことをする人たちがひどいのか。

可愛い、可哀相といたずらにエサをあげて、数を増やした人が悪いのか。







偏った見方と言われても、私は命を奪うほどの理由は絶対ないと思う。

無論人間は都合のいい殺生をしている。

ただ、人間の都合でペットとして増やされたり、捨てられたりした結果で野良になった動物たちは、

他の、人間にとって害になる生き物の増加とは全く違う。

人間が蒔いたことは人間が報いるべきだ。

矛先を安易に処分できる小動物に向けても、状況を産み出す人間がいる限り何も変わらない。







似たようなことはそれからもあった。

一時的に助けたことから飼うしかなくなり、結果捨てざるを得ないという最悪なこともしてしまった。

私の中で色んな考えが交錯した。

野良とはいえ一種の野生の動物。

そこに手出しすることがいいことなのか。

私が見過ごせないと思うことでも、そういうものと引き換えにして死ぬことがあっても、

それが自然なことなのかもしれない。







助けたつもりが実は余計なことなのか。

動物を飼うということも人間のエゴだ。

虚しさが残る出来事の繰り返しに、今度は猫だけじゃなく極力動物に近づくのを避けた。

だけどやっぱり猫はやってきた。

私の気持ちを揺るがないものに変える奴らがやってきた。



やっぱりねこが好き その一

2004-10-11 | ねこのきもち
目の中に入れても痛くないほどねこが可愛くてたまらず、その仕草に骨抜きにされ(笑)

時に冷たくされても、ひたすら“猫馬鹿道”を突っ走っているねこみみですが、

そんな私にも猫が嫌いで、それどころか憎くて憎くて視界に入るのも耐えられない時期がありました。

今とは全く正反対の状態。

その理由は猫にしたら自然のことで、私の逆恨みなんだが、

当時小学生の私にはそれを差し引いて考えることは無理だった。







物心ついた頃から動物に限らず生き物はなんでも好きだった。

だけどそれは子供独特の興味が先走った、生き物にとっては傍迷惑な『好き』で、

嫌がる猫を抱いては引っ掻かれ、犬の頭や尻尾を触るつもりが、怖がらせて噛まれたり吠えられたり。

その動物をおもちゃの延長としてじゃなく、

生き物として本当に理解し始めたのが小鳥を飼ったことからだった。







小学校3年くらいだったか、色んな動物を飼っていた叔母が、グレーの羽がとても綺麗なさくら文鳥をくれた。

人に慣れ、手乗りにもされていたので小学生にも飼い易かったし、

なにより自分の手に収まる小さな身体と、

いつも肩の上に飛んで来てチュンチュンと鳴くのが愛らしくて可愛いかった。

この小鳥を「ブン太」と名付けた(多分文鳥だったから 笑)







後で思えば相当危険なことをしていたのだが、お馬鹿な私はどこへ行くにもブン太を肩に乗せて出歩いてた。

ある日近所の小さな商店に買い物に行った。

幾つか買う物があったんだと思う。

ブン太を積み上げられたお米の上に乗せレジに向った。

本当に本当にあっという間だった。

何処から出て来たのかも分からないほど、気がつけば猫がブン太のいる所にジャンプしていた。

猫と一緒にブン太がいなくなっても、私には何が起きたか分からなかった。

その商店の飼い猫だったから、おばさんとおじさんが一生懸命猫を追いかけてくれた。

そして動かなくなったブン太を差し出しながら何度も謝ってもくれた。







優しくしてくれたおばさんたちに返事もできなかったと思う。

どうやって帰ったかも覚えてない。

暫くはブン太が死んだことが信じられなかった。

自分の行動に後悔という気持ちをまだ持つ術もなく、

ただただ、あまりにあっけない生命の終わりを受け入れられなかった。

悲しいことは時間が経つほど実感が増してくると言うが、

ブン太がもういないというのも朝が来るたびに思い知らされた。

もう水を変えなくても、ご飯を注ぎ足さなくてもいいんだと。







初めて飼った生き物。

三年近く誰より近くにいた友達。

なのに一瞬でいなくなってしまった。

どうして、どうして、と考えては辿り着くのは一つ。

死というものを頭ではなく、子供すぎて感情で先に理解した。

それから私にとって猫は忌むべきものになった。



猫なで声

2004-10-04 | ねこのきもち
ねこの声はよく女の人に置き換えられる。

高音でなんとなく優しいげ、そして可愛い声だから・・・と思いたい(笑)

が、実際は甘えとか媚を強調する時にしか使われない(* v v)

でも実物のねこの声は甘える時だけじゃなく、

人間の赤ちゃんと同じで、色んな感情をちゃーんと表してくれる。

それどころかしゃべってる(*^▽^*)







一番分かり易いのがやっぱりご飯時。

うちでは朝晩の二回あげてるのだけど、判で押したように決まった時間に鳴きだす。

朝なんてそれこそ目覚まし時計より正確。

寝室のドアの前で催促のシュプレヒコール。

それでも起きて行かないと、ドアを掻きまくる (ノックのつもりんだろうな(笑)







それからご飯を出すまで二匹で大合唱♪

それがまた可愛くて、キャットフードの入ったお皿をなかなか置かないでいると、

「みゃっ、みゃっ、」と短めの可愛い声だったのが、「うぅぅ~(ここかなりためる)

にゃぁぁぁぁぁ!(ここ口裂けるくらい三角)」と抗議の声に変わる。

あぁごめんね、だって可愛いんだもん(にへらにへら)







寝ているとこを起こした時も可愛い(ひどいな私)

名前呼んで頬擦りすると、かすれた小さな声で「に・・ゃ・・」

声にならない時も口だけは「にゃ」の形。

眠い筈のに一生懸命返事をしてくれる。

あぁなんていじらしい!(いいのネコバカと言われても)







お気に入りの場所を確保したい時もよく鳴く。

それはもう声というより、話してるに近い。

カウチに私がいると、他にどんなにスペースが

空いていようとも、必ず決まったとこに行来たがる。

最初は甘えたように「にゃにゃ」と鳴いて擦り寄ってくるけど、それでもどかないと頭突き攻撃。

それからかなり強気で鳴いて(言って)くる。

「うぅぅ(うつむき加減で)、うにゃっにゃっにゃっ(早口)」 訳:「はよ、どかんかい!」

ハーイ譲ります、ごめんなさい(^^;o)







ベッドで寝るのも大好きだけど、あまり寝室には入れないようにしている。

だってねこってゲロ多いんだもん(笑)

一緒に居れる時以外は入れたくないが、それでも諦めてくれない時、

あまりにも必死で鳴くしやってることに集中できなくなるので、仕方なく寝室を開ける。

しばらくは大人しくなる・・・が、また足元に戻ってくる。

「なに? どうしたの、開けてあげたでしょ」

「うにゃっ、うにゃっ、うみゃみゃーん」

何かを懸命に訴える。

そして寝室のドアの方向に少し進んでは振り返る、で、また訴える。







(・。・)・・(-_☆)・・*゜□゜)・・・

一緒に寝て欲しいんだ!!!

もう私、完全にノックアウト。

この可愛いさに誰が抗うことができようか。

添寝のお陰で、また夜遅くにやり残したことをする私。

可愛いすぎるって罪だわ・・・。







ところで「猫なで声」って、考えたらどういう意味か分からない。

色々調べてみたら説が二つに分かれる。

“猫が撫でられた時の甘えた声”

“猫を撫でる時の人の甘い声”

「なで」は「撫でる」だったのか!?(゜~゜)

由来は知らずとも、これまでねこの声のことと疑わなかったが、今は後者が正しい気がする。

だってねこって撫でられてもあま~い声なんて出さない。

ゴロゴロは言うけど、あれってどちらかというと可愛いくない(笑)

それに前者だとしたら“猫なでられ声”じゃないだろうか?

大したことじゃないけど気になってきたなぁ(-o-)