そっけない、眼つきが悪い、態度が可愛くない。
猫が苦手、猫が嫌い、そういう人はよくこんなことを言う。
確かに猫が自ら寄ってくるのなんてご飯時くらい。
眠い時寒い時、可愛いらしく膝に乗ったりするのだって猫の気分次第。
外出や帰宅の時も寂しいのはこっちの方(笑)
でもこれって犬と比較しての人間の勝手な言い分で、
ペットの代表選手だから互いに引合いに出されるのは無理ないにしても、
元々異なる種を比べる事自体動物には迷惑な話だ。
それでも嫌いな人にとって理屈なんて関係ない。
嫌なものは嫌なのだ。
私が猫を避けるようになってから一番嫌だったのは、
睨むような、時に見下したような、あの猫独特の鋭い眼だ。
ただでさえ憎らしいところに可愛げのない眼つき。
そして冷たい態度も相乗して、増々猫から気持ちが離れた。
その後5、6年は関わった記憶がない。
だけど猫は私のことを嫌わないでくれたようだ。
それまでの期間を埋めるかのように、私の周りに急に猫が出没しはじめた(笑)
それも怪我をした猫、捨てられた仔猫と、嫌いだからといってほっとけない状態ばかりで。
元々理不尽な理由で嫌いになったわけで、それも時間が消化しつつあったところに弱った猫の姿は、
本当は憎みたくなかったのに、矛先を猫に向けるしか気持ちの行き場のなかった私のカタルシスになった。
その頃私は友達に、『ムツ・ゴロ子』と呼ばれていた(笑)
猫に限らずいっつも動物と関わっていたからだ。
でも私はムツゴロウさんのようにはなれなかった。
殆どは悲しい結果しかなかった。
弱った動物を救うのは色んなことが必要だ。
感情だけで動くのは、動物を翻弄することになるのかもしれない。
私が住んでいた団地周辺は野良の犬猫が多かった。
団地だからゴミも多量に出るしエサをあげる人も多かったので、その内人間を怖がらない犬猫が増えた。
私が“シマ吉”と呼んでた黒縞の雄猫は、とても愛嬌があり団地でも人気者だった。
ある日帰宅途中の私の前に足を引きずって現れた。
最初後ろ足に何かが付いてるように見えた。
近くで見て思わず引いた・・・。
シマ吉の足が潰されたように広がって、人間の掌くらいに膨らんでるのだ。
正視できないほど異常に膨らんだ足に、私は交通事故を想像した。
獣医に連れていくと、原因はもっとひどいものだった。
足の根元に何重にも輪ゴムが巻き付けられていた。
もう少しすればシマ吉の足は無くなるところだった。
哀しかった。
どうしようないくらい哀しくて、それから腹が立ってしょうがなかった。
同じ人間がこんなことをしたと思うと、それでも人間を信じて私に助けを求めてきたシマ吉に申し訳なかった。
そしてその信じる素直さがシマ吉の仇になった。
シマ吉は数日で元気になった。
外に放つことに不安はあったが、団地で飼うことは勿論出来ない。
心配は無用と云わんばかりに、シマ吉は前と同じに皆に可愛いがられてた。
けれど動物好きな人間がいる一方、糞や臭いに迷惑顔の住民もいるわけで、
そういう人たちのイライラも徐々に募っていた。
保健所が一斉に野良の犬猫狩りをした。
捕まえられた殆どは犬で、猫は察して逃げたらしい。
帰宅して妹からその話を聞いた私は、
シマ吉の姿が見えなかった理由が分かった。
シマ吉が捕らわれるところは妹の友達が見ていたらしい。
病院へ行った後のような哀しさはなかった。
虚しかった。
数日前にしたことは無駄だったのかと虚しかった。
いくら迷惑だからといって、殺すようなことをする人たちがひどいのか。
可愛い、可哀相といたずらにエサをあげて、数を増やした人が悪いのか。
偏った見方と言われても、私は命を奪うほどの理由は絶対ないと思う。
無論人間は都合のいい殺生をしている。
ただ、人間の都合でペットとして増やされたり、捨てられたりした結果で野良になった動物たちは、
他の、人間にとって害になる生き物の増加とは全く違う。
人間が蒔いたことは人間が報いるべきだ。
矛先を安易に処分できる小動物に向けても、状況を産み出す人間がいる限り何も変わらない。
似たようなことはそれからもあった。
一時的に助けたことから飼うしかなくなり、結果捨てざるを得ないという最悪なこともしてしまった。
私の中で色んな考えが交錯した。
野良とはいえ一種の野生の動物。
そこに手出しすることがいいことなのか。
私が見過ごせないと思うことでも、そういうものと引き換えにして死ぬことがあっても、
それが自然なことなのかもしれない。
助けたつもりが実は余計なことなのか。
動物を飼うということも人間のエゴだ。
虚しさが残る出来事の繰り返しに、今度は猫だけじゃなく極力動物に近づくのを避けた。
だけどやっぱり猫はやってきた。
私の気持ちを揺るがないものに変える奴らがやってきた。
猫が苦手、猫が嫌い、そういう人はよくこんなことを言う。
確かに猫が自ら寄ってくるのなんてご飯時くらい。
眠い時寒い時、可愛いらしく膝に乗ったりするのだって猫の気分次第。
外出や帰宅の時も寂しいのはこっちの方(笑)
でもこれって犬と比較しての人間の勝手な言い分で、
ペットの代表選手だから互いに引合いに出されるのは無理ないにしても、
元々異なる種を比べる事自体動物には迷惑な話だ。
それでも嫌いな人にとって理屈なんて関係ない。
嫌なものは嫌なのだ。
私が猫を避けるようになってから一番嫌だったのは、
睨むような、時に見下したような、あの猫独特の鋭い眼だ。
ただでさえ憎らしいところに可愛げのない眼つき。
そして冷たい態度も相乗して、増々猫から気持ちが離れた。
その後5、6年は関わった記憶がない。
だけど猫は私のことを嫌わないでくれたようだ。
それまでの期間を埋めるかのように、私の周りに急に猫が出没しはじめた(笑)
それも怪我をした猫、捨てられた仔猫と、嫌いだからといってほっとけない状態ばかりで。
元々理不尽な理由で嫌いになったわけで、それも時間が消化しつつあったところに弱った猫の姿は、
本当は憎みたくなかったのに、矛先を猫に向けるしか気持ちの行き場のなかった私のカタルシスになった。
その頃私は友達に、『ムツ・ゴロ子』と呼ばれていた(笑)
猫に限らずいっつも動物と関わっていたからだ。
でも私はムツゴロウさんのようにはなれなかった。
殆どは悲しい結果しかなかった。
弱った動物を救うのは色んなことが必要だ。
感情だけで動くのは、動物を翻弄することになるのかもしれない。
私が住んでいた団地周辺は野良の犬猫が多かった。
団地だからゴミも多量に出るしエサをあげる人も多かったので、その内人間を怖がらない犬猫が増えた。
私が“シマ吉”と呼んでた黒縞の雄猫は、とても愛嬌があり団地でも人気者だった。
ある日帰宅途中の私の前に足を引きずって現れた。
最初後ろ足に何かが付いてるように見えた。
近くで見て思わず引いた・・・。
シマ吉の足が潰されたように広がって、人間の掌くらいに膨らんでるのだ。
正視できないほど異常に膨らんだ足に、私は交通事故を想像した。
獣医に連れていくと、原因はもっとひどいものだった。
足の根元に何重にも輪ゴムが巻き付けられていた。
もう少しすればシマ吉の足は無くなるところだった。
哀しかった。
どうしようないくらい哀しくて、それから腹が立ってしょうがなかった。
同じ人間がこんなことをしたと思うと、それでも人間を信じて私に助けを求めてきたシマ吉に申し訳なかった。
そしてその信じる素直さがシマ吉の仇になった。
シマ吉は数日で元気になった。
外に放つことに不安はあったが、団地で飼うことは勿論出来ない。
心配は無用と云わんばかりに、シマ吉は前と同じに皆に可愛いがられてた。
けれど動物好きな人間がいる一方、糞や臭いに迷惑顔の住民もいるわけで、
そういう人たちのイライラも徐々に募っていた。
保健所が一斉に野良の犬猫狩りをした。
捕まえられた殆どは犬で、猫は察して逃げたらしい。
帰宅して妹からその話を聞いた私は、
シマ吉の姿が見えなかった理由が分かった。
シマ吉が捕らわれるところは妹の友達が見ていたらしい。
病院へ行った後のような哀しさはなかった。
虚しかった。
数日前にしたことは無駄だったのかと虚しかった。
いくら迷惑だからといって、殺すようなことをする人たちがひどいのか。
可愛い、可哀相といたずらにエサをあげて、数を増やした人が悪いのか。
偏った見方と言われても、私は命を奪うほどの理由は絶対ないと思う。
無論人間は都合のいい殺生をしている。
ただ、人間の都合でペットとして増やされたり、捨てられたりした結果で野良になった動物たちは、
他の、人間にとって害になる生き物の増加とは全く違う。
人間が蒔いたことは人間が報いるべきだ。
矛先を安易に処分できる小動物に向けても、状況を産み出す人間がいる限り何も変わらない。
似たようなことはそれからもあった。
一時的に助けたことから飼うしかなくなり、結果捨てざるを得ないという最悪なこともしてしまった。
私の中で色んな考えが交錯した。
野良とはいえ一種の野生の動物。
そこに手出しすることがいいことなのか。
私が見過ごせないと思うことでも、そういうものと引き換えにして死ぬことがあっても、
それが自然なことなのかもしれない。
助けたつもりが実は余計なことなのか。
動物を飼うということも人間のエゴだ。
虚しさが残る出来事の繰り返しに、今度は猫だけじゃなく極力動物に近づくのを避けた。
だけどやっぱり猫はやってきた。
私の気持ちを揺るがないものに変える奴らがやってきた。