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罪 ー 実験

2007-07-23 | ねこのきもち
「この商品は動物実験済みです」。

この表示を見て私が感じることといえば、「安心」、だけだった。

つまり人間に(自分に)は問題ないんだな、という、あまりにも自己中心的な発想しか出来なかった。

本を読んでいて、気がつけば何ページも進んでいることがある。

しかし何故か読んでいる気がしない。

何度読み直してみても、そこには既に頭に入った文字たちがあるだけ。

確かに読んでいるのに読んでいない。







それはまるで文字の羅列。

そう、並べられた言葉たちは、いきなりそれぞれの意味を無くしたかのように、

何か記号のように羅列してるだけで、伝わるものがないのだ。

勿論本当にそうなった訳じゃない。

読んでいる私の問題だ。

集中力が欠けている。読む気が無い。

それとは少し違う気がする。

意味は分かるがリアリティがない。

「動物実験」の文字も例えるならそんな感じかも知れない。

たった四文字のこの文字には、想像もつかないような背景と意味が含まれているのに。







シャンプー、リンス、石鹸、洗剤、特に考えることもなく、

当り前に身の回りにある日用品。スーパーに行けば簡単に手に入る。

そのほぼ全ての商品に、人体についての使用方や注意書きがある。

だが実際に誤った使い方をした為に、重大な影響が出ることは健康な人ならまずない。

シャンプーが目に入った経験は誰でもあるだろう。

掃除をしていて洗剤が皮膚に飛び跳ねたことも。

その大抵は洗い流す程度で事なきを得る。







女性なら殆どの人が化粧をしたことがあると思う。

基礎化粧品からメイクアップまで、体の中で一番繊細な皮膚である顔に、

色んなものを使いこなして「自分の納得する顔」を作るのに精を出す。

それでマスカラが目に入った、化粧を落とし忘れて寝た、

そんなことをしたからって、日用品と同じく大きなトラブルは招かない。

そして数あるメーカーの中で、皆自分に合うものを探す術は心得ている。

ボディ、ヘアケア用品も然り。 ※言うまでもなく多少の個人差は除きます。







生活を快適にする汚れ落ちの良い日用品。

鮮やかなカラーや香りを楽しませるボディ(フェイス)ケア品の数々。

なのに危険度は少ない。

それらは技術の進歩の結果だろうか。

それだけじゃないことは皆承知している。

商品を手にとって成分を隅から隅まで読む人も、把握してる人もまずいないだろう。

技術もさておき、動物で試しているということは無意識下にあり、

それを安全性に結び付けているのだと思う。







製造段階の化粧品や洗剤を、ウサギの目に注入する実験は多くの人が知っていると思う。

でも何故ウサギを使うのか、その理由は知っているだろうか。

ウサギは首を固定され身動き一つ取れない状態にされる。

異物を入れられた目を掻くことも、痛さに暴れることさえ出来ない。

ウサギが目に対する実験に使われるのが多いのは、涙が流れにくく

異物を洗い流すことが出来にくいからだという。

そして声をあげないこと・・・。

無論麻酔など施されるわけもなく、ただ反応と結果を見る為に、

時にシャンプー類、時に洗剤と、次から次へ生まれる新製品の試験薬をウサギは点眼される。







ウサギの他にも色んな動物を使う。

マウス、モルモット、保健所やペットショップから送られてくる動物たち。

その毛を剃り様々な商品の元になるもの等を、その皮膚に塗布して反応を見る。

赤くただれていく瞳も、傷口が広がり腐食していく皮膚も、全ての人への影響を計るバロメータ。

そのためには「治療をしないこと」、が最大の実験なのだろう。

だからと言って動物と人間が全く同じ反応を示すとは限らないことも、研究者は知っている。

そして人工皮膚などの代替方法があることも。







では何故動物実験を止めないのか。

動物の方が手軽。

研究設備の問題。

筋の通らない理由、すなわち「言い訳」は幾つかある。

しかし相手が商品なら、先に書いたペット売買と同じように、

企業だけでなく消費者にも責任があると私は思う。

需要あっての供給だからだ。

実際ある機関が大手化粧品メーカーに、動物実験をし続ける疑問をぶつけたことに対する回答には、

「その方が消費者が安心するからです」とあった。







「動物実験」

これはただ単にテストしました、という簡単なものではない。

山のような動物達に苦しみを与え、その命を奪っているという意味だ。

そこまでして新製品を開発しなければいけないのか。

もうある程度何が危険で安全か分かる筈なのに、それでも更なる便利を追求しなければいけないのか。

まして化粧品は嗜好品といってもいい。

他の命を苦しめて得た外見の美しさを、本当に綺麗と見ることが出来るのだろうか。







そもそも動物で実験をしなければいけないものから、ものを作っていることに間違いがある。

そうである限り、いくら実験を行っても万全のものは存在しない。

自然のもの、安全なもので作れば実験自体不要であり、無論人間にも安心なのに。

それを頭の何処かでは分かりつつも、人間は目先の新しいものに勝てない。

全ては私たちの欲から来ている。すぐ目移りする消費者を獲得する為に実験を重ねる企業以上に、

その自覚と自制が足りない消費者の方の罪が重いのかも知れない。







無知の無知(知らないことを知らない)より愚かなことはないと思っていた。

しかし知っているのに、知っていない、その方が怖い。

言葉の意味を知っているからと、それ以上に膨らませることもなく、

私は「動物実験」をずっと素通りしてしまって来ていたのだ。

事実を知って情けなく、動物たちに申し訳なくて堪らなかった。

そして何が出来るか考えた。調べた。







まずなるべく動物実験をしていないものを使う。

(化粧品メーカーでも最近は動物実験をしていない所が増えている)

所在が不明なものは問い合わせるようにする。

実験をしている、止めるつもりはないとなれば、同時に抗議をする方もいる。

私も考えたが、まだまだ私には知識不足で専門的なことで太刀打ち出来るとは思えない。

また処分で書いた保健所の方のように、ある人にとってはやらざる得ない仕事かも知れないのだ。







しかし「動物実験をしてるのですか? 」だけの問い合わせでも、

自分が情報を得るプラス、企業側へも伝わるものが充分あると思う。

実際欧米のあちらこちらの国で『動物実験をした商品は買わない』、

と消費者が訴え続けたことで、辞める企業が出て来たのだ。

やはり供給とは需要で成り立っている証だと思う。

言い方を変えれば消費者次第で幾らでも変えられる力がある。

消費者の関心事を無視しては企業は成り立たないからだ。







生活していく以上、全ての商品をという訳にはいかない。

半端なエゴだ。半端な偽善だ。

どうしても自分を一番に置いた。

でも矛盾していても、誰にも一つしかない命を実験の為に奪っては絶対いけないと思っている。

他に方法があるなら尚更。

100か0かなんて私には出来ないけれど、減らすことは出来る筈。

そしてそう思う人たちが増えれば、きっと変えられる。







「この商品は沢山の動物たちに実験を行った結果、とりあえず人間には害のないものに到達しました」。

もしもこう記載されていたらどうだろう。

購入を躊躇する消費者が出るかも知れない。

だがそれが「動物実験済み」、の言葉が本当に意味するところではないか。







< 追記 >

動物実験をしていない=安全性がないと思う方もいるだろう。

けれど私は逆に感じる。「動物実験をしていません」と記載するには、

商品の成分(素材)や安全性に、自信がないと出来ないことだと思う。

そして良いものは自然と広まる。

幾つかの化粧品を使って辿り着いたのが「ESTEE LAUDER」。

数年前友人に、「ちふれ」と「DHC」を勧められた。

偶然にもこれらは動物実験をしていないところだった。

そしてこれまた偶然だけど、十年以上愛用しているボディケア用品、「Bath&Body Works」。

こちらも実験を行っていない会社。

周知の通りこれらの会社は売上げを伸ばし、愛用者は増えている。

理由は動物実験をしていないから、だけではないと思う。

むしろ単純に「良いから」使っているのじゃないだろうか。

身体は正直。

ネームバリューや動物実験済みの先入観には誤魔化されない。

※他にも動物実験を良しとしない企業は多くあります。

ネットなどでも公表されていますが、中には一部の商品だけなど曖昧なところもあります。



罪 ー ペット売買

2007-06-25 | ねこのきもち
日本では何万、何十万とする動物たちがその原産国、または別の国では、

必ずしも特別で価値があるとは限らない。

彼らは一つのケージや、粗末な入れ物にぎゅうぎゅう詰めにされ、日本へ送られる。

体力のない仔犬(猫)たちは、途中力尽きるか病気になってしまう。

それでも良いのだ。

その中で数匹でも売り物になれば充分元は取れる。

生き残っていても商品になりそうにない者は処分される。

(先ほど日本では、確か120~180日に満たない仔犬(猫)の輸入は禁ずると改正されたようですが、

果たして本当に守られているのか、また取り締りは厳しく行われているのかは疑問)







ペット販売に携わる業者の中には、やみくもに繁殖、交配を行う者がいる。

盲導犬、警察犬、などの目的とは違って、ただ愛玩動物としての商品価値を上げるために、

いかに珍しく、いかに見目良いものかを追求し、交配に交配を重ねる。

その段階で多くの奇形が生まれる。

その命は何の価値もない。

たった一匹の変わった者を得る為に、新種を生み出す為に、無理矢理命の形を変えられる。

そして多くは生きる為にではなく、過程の為に生まれさせられる。







何十倍、何百倍、いやもしかするとそれ以上の確率で選ばれた動物たち。

彼らは生き残る者になるのだろうか。

行き先は綺麗で待遇の良いペットショップばかりとは限らない。

食べる、飲む、排泄する、そんな当たり前のことさえケア出来ない店がある。

生き物を商品としてしか扱えない人間は、ぬいぐるみの延長、棚に置いた商品と変わらないのだろう。

彼らが私たちと同じように、口からものを入れ、

それを排泄して生きているとは、まるで夢にも思わないかのようだ。







ある程度の店構えをしているペットショップでは、綺麗にグルーミングされ、

その肉付き、毛づやから、丁寧に扱われていることが分かる。

しかしどんなに待遇が良くても、他の店と同様、彼らも商品であることには変わりない。

いつまでもお城のように飾られたショーケースの中にいる訳にはいかない。

そして見た目の小綺麗さイコール、彼らが心地良いことでもない。







狭いスペースの中、熱く眩しいライトを受け、何十人もの人間の目と騒音に晒される。

触られること、抱っこされることを強要される。

それが彼らが過ごす一日の大半の時間。

その時間が延びるほど、動物たちは生気を失っていく。

誰かに買ってもらえるまで、来る日も来る日も同じ時間が待っている。

次第に元気が無くなる、攻撃的になる、そして異常な行動をしたりと、そのストレスは相当なものとなる。

当然そういった動物たちは売り物にはならない。







輸入、交配、そしてペットショップ。

どの段階であれ、多くの命が無駄に生み出され、消えて行く。

そして生き残っても商品価値の無くなったその殆どは同じ運命を辿る。

売れ残りとなった者は、まるで期限切れの商品を捨てるかのように、保健所等にて処分される。

まだ生きている、のにだ。

命を絶たれるよりも酷いことが待っている者もいる。

実験の材料として、苦しみだけのわずかの生を与えられる。







需要と供給。

売り手のアイディアで、思わず買いたくなる、見たこともないものだと欲しくなる。

そんな欲求はどんなものにも、誰にもで多少あるだろう。

しかし売買と名の付くものの基本は、需要(要求)があってこそ成り立つものだと思う。

ペット売買も買う人間がいるからこそ売る人間がいる。

そして流行ものやブランドに弱い日本人の姿が、ペット販売でも情けないほどに見事に表れている。







血統書付きにこだわる。

一つの犬(猫)種が流行れば、皆それを買い求める。

変わった生き物には幾らでもつぎ込み手に入れようとする。

それが無駄な供給を生み出している一番の要因だと思う。

しかし例え買い手の責任は大きいとしても、溢れる野良犬(猫)たち、

他にも捨てられる生き物たち、そして毎日何匹も処分される命。

それを売り手も知らない筈はない。







それでも繁殖を続ける人たちを私は理解出来ない。

それが正規のブリーダーと呼ばれる人たちであろうと。

処分をしないペット業者であろうと。

今ある命を幸せに出来ず持て余しているのに、新しい命が幸せになる保障が何処にあるのだ。

まずは今生きている者のことを考えるべきじゃないだろうか。

それをしないなら永遠に余った命が出来上がり処分は繰り返される。

そして新しい命も生み出すだけに終わってしまうと思う。







< 追記 >

言うまでもなくペット販売に関わる業者全てが、上記のような方々という訳ではありません。

そして本文でも書いたように、盲導犬を始め、アニマルセラピーなど、

独自性、適性を活かした種はありますし、その存在は人間にとって不可欠です。

その為の繁殖、交配、売買は必要だとも思います。

その場合とて、むやみやたらという意味ではありません。

人の役に立つものだとしても、それも人間のエゴの一つですから。







しかし、商品価値が高いだけになりつつある愛玩動物とは、

とても同等に並べて考えるものではないと感じます。

そしてどんなに良い環境を与えていたとしても、私はペット=愛玩動物

として、動物の命を売買することにはやはり強い反発を憶えます。

何故ならペットとしての売買は、他の買い物と変わらない、

人間の欲の為に存在すると思えてならないからです。



罪 ー 去勢

2007-06-18 | ねこのきもち
去勢(不妊)手術を施すのは自然の摂理に反している、可哀相だと言う人も多い。

その権利を尊重した結果が、生まれたばかりの仔を岩に叩きつけ、

「仔猫殺し」、とあまり名誉ではない銘を打たれた、某作家の話は記憶に新しい。

昔はよく間引きされていたじゃないか。

今だって仔猫を捨てたり、保健所へ処分を依頼する。

直接か間接的かの違いで、やってることは同じだ、とその作家の主張を認め擁護する人もいた。







彼女の話は交尾・妊娠・出産までが自然の姿、奪ってはいけない権利で、

生まれた命と子育ての部分は切り捨てる、という矛盾だらけのおかしな話だ。

そして今は昔ではないし、他の人もやってるじゃないか、

で済ますにはあまりに子供っぽく論点もずれている。

無駄な殺生、それを事前に食い止める方法は幾らでもある。







生き物から生殖機能を故意に奪う。

非道だ。

人間に置き換えれば、その考え方がどれだけ異常か分かる。

その行為に何も感じず、ペット(家畜)だから当然という言うなら、

もはや命を命として見れない麻痺した人たちなのだろう。

だから去勢に対して二の足を踏むのは、あって当然の感情だと思う。

私も以前は去勢に反対だった。

最初に家族になった仔に手術は施さなかった。

しかしそれは、その仔の権利を尊重したことにも何にもなってなく、

むしろ自分の良心の痛みを尊重したものだった。

彼にとって、何が苦しみなのか知ろうともしなかった。







ペットをという存在を認め、受け入れている人たちが去勢に関しては自然の姿、あるべき姿を主張する。

先述の作家と同じように何か矛盾を感じる。

うちの仔は雄だから、外に出さないから、去勢をする必要はない、と言う人たちもいる。

生き物としてのメカニズムを、理解した上でそう言っているのだろうか。

私にはそうは思えない。

本当に知っているのなら、とてもこんなことは言えないだろう。

何故なら以前の私がそうだったから。







それなりの成長に達しても交尾が出来ない。

それがどれ程のストレスを与えるか。

妊娠出来る体に整った生き物が、妊娠、出産をしないことで掛かる病気のリスクがいくらあるか。

人間に当てはめれば誰にでも分かる。

まして同じ哺乳類なら想像は容易い。

そういうことを承知の上で、それでも去勢よりはマシ、

というなら私にはとても相手の身になっているとは思えない。

若しくは軽視してるとしか。







室外飼いの動物、特に猫は雄なら自分達はよくとも、妊娠させる可能性は大。

雌なら言うまでもなく。

去勢はしないでおいていざ妊娠すると慌て、

そして出産したら面倒を見てもらえるアテのない仔猫(犬)たちを捨てる。

成猫(犬)を捨てる人もいる。

自分の手を汚さないなら、生かしてることになるのだろうか。







人に飼われていた動物が自分の力だけで生きていく。

餌を確保する。

野良で生きていく過酷さ、その寿命の短さ、そして心無い人間からの攻撃。

人間に迷惑を掛ければ通報が待っている。

年間保健所で処分される動物の数、捕獲されて処分されるまでの扱い。

運良くシェルターや保護施設に行けても、次の里親が見つかるのには時間が掛かる。

それまで狭いケージの中で待っていなければならないこともある。







現実をどれだけ知った上で、何が、どの部分が、本当に可哀相なことなのか。

去勢自体を否定する人は、私には中途半端な愛護精神か偽善としか思えない。

一匹の動物の性を尊重する。

ではその子供の権利は? そのまた子供の権利は?

自分の限界を見ないでどう責任を取るのか。







そして動物の命を握ってること自体が既に罪なのに、ある部分だけ正論をかざすのは、

単に自分の良心を尊重しているか、その痛みに酔っているように見える。

己の力を、現実の限界を知り、全ての罪を背負うことが、

ペットの枠でしか生きていけない動物へ出来る唯一のことだと思う。

そして野良を生み出した人間が、負う罪でもないだろうか。







思いも寄らない事情は誰にでも起きると思う。

捨てることも本意ではない状況もあるだろう。

ならば余計に去勢することで防げることも大きいと思う。

そしてそれを施す辛さよりも、もっと大きな悲劇があること、

動物達の本当の痛みを想像して行動することが必要じゃないだろうか。

少なくともちっぽけな自分の良心を定規に考えることではない。







< 追記 >

余談ですが冒頭の作家の方のお話について。

もう皆さんご存知だと思いますので、この方の書かれた細かい内容は省きます。

最初にこの方のコメントを読んだ時は、あまりのことに信じられませんでした。

多くの方が感じたとの同様、吐き気を覚え怒りを抱きました。

しかしそんなことを公表する意味に疑問を感じたのです。







こんなことを世間に対して主張すれば、非難を浴びるのはこの方自身が一番分かっていた筈です。

受けて立つと言わんばかりに、どんな反論もものともせず、言葉を巧みに操り、

仔猫殺しをもっともらしく持っていく処は、流石作家だと思いました(良い意味ではありませんが)

それが逆にこの話を嘘っぽく見せて来たのです。

彼女の話は、去勢に対する人々の良心の呵責を上手く突いただけの、ただの言葉の遊びと思えて来ました。

自身の得意とする業を使って、人の一番嫌がる、しかし読まずにはいられない、

残酷非道なことを書いたのではないかと。







心から生き物の権利や仔猫殺しの理由について、論じたいのでは無かったのだと思います。

何度か発表されたコメントは、嫌気のさす内容ではありましたが、

同時に頭のとても良い人だとも思わされました。

そんな人がただ、『ひどい』、『なんてヤツだ』、と抗議しか生まれないであろうものを、

それ自体に意味を持たせて書いたとは思えない。

仔猫殺しが例え事実であったとしても、10年近くも同じ猫たちが出産し続けるだろうか。

そして何故今更と、感じました。

この方は作家としての力を無くされたか、試したかったのじゃないかと。

だから一番人が反応する内容を選んだ。

下衆の勘繰りをすれば、否が応にも自分の名前は知れ渡るということです。







彼女の本意が何処にあれ、私の感じたことが私には全てです。

それがものを書いて伝える怖さかも知れません。

一度発信すれば受け取る側が全て。

でも彼女はそのプロ、私が感じ取ったようなことも推測していたでしょう。

あぁいう主張が一石を投じることなく終わることも。



罪 ー 処分

2007-06-11 | ねこのきもち
それを言うといつもすごく意外な顔をされる。

私は好きで動物を家族に(飼うという言い方は嫌)したことはないって。

動物たちが居る生活を思い描いて憧れたこともあったし、

今も彼らが側に居ることで、私はとても癒されている。

むしろ大好きだから、好き過ぎて色々考えてしまう。

人に飼われて狭い世界の中で、限られた行動しか出来ない人生。

それで幸せかと。







もしかしたら天敵のいないところで、安全と、暖かな寝床と、

空腹を知らない生活を彼らも幸せと感じてるのかも知れない。

犬猫が代表されるように、人間に懐くタイプの動物にとって、

人と暮らすことはそう悪いことでもないのかも知れない。

実際ウチに居る仔たちはみな自分から来て

(しかも大抵ガリガリか怪我した状態で、迎えいれずにはいられない状況の不可抗力みたいなもん(^^;o)

居心地良いのか出て行かない。







でも、それを彼らに確かめる術はないし、そう思いたい私のエゴが無いとは言えない。

そして仮に彼らに不満が無かったとしても、それでも今ペット化されている動物たちが、

野生の他の生き物たちと同じように、自然の中で自由に生きて行くことが、彼らに取って本来の姿だと思う。

近くに居て欲しいし、触れ合っていたいけど、動物が好きだからこそ、

例え遠くから見るだけしか出来なくても、彼らが幸せなことの方が大事。







だって空を飛ぶ鳥たちは、引っ張られる鎖に境界線を作られることなく何処までも行ける動物たちは、

羨ましい程に生きてる、って感じさせられる。見せつけてくれる。

そして飼い慣らされて一見満足してるようなペットたちも、遠くを見る目で彼らを見てる。

その目を見るとき、私は本当に申し訳なく思う。

安全でも、美味しい食事を与えても、どんな空間も絶対に敵わないものが自然にはあるから。

たとえ命がけの毎日だとしても。







出来るなら彼らをあの中に戻してあげたい。

人間が居ないと生きていけない、人間の都合に振り回される、

そんな生活ではなく、厳しくても自分の力で自由に生きていける場所へ。

しかしそれは理想だ。

まず叶えられない理想。

現実はペットとういう枠でしか生きられない、生きてはいけない動物たちがいる。

犬や猫を見かけて、他の野生動物たちと同じように見る人はまずいない。

ずっと昔、人は犬猫に食事をあげ、代わりに外敵から守ってもらった。

ねずみを取ってもらった。

そんな関係ももうない。

飼い主の無い彼らは、ただ「野良」と呼ばれる。







野良になってしまった動物たちは、汚い、危険、臭いと疎まれ、悪戯に虐待され、時に保健所へ通報される。

捕獲されれば高い確率で処分されるのは大抵の人は知っているだろう。

野良には生きる権利なんてないかのような扱いが、外界には待っている。

地球上には色んな生き物がいる。

その中には人にとって戦わなければ、駆除しなければいけない場合もある。

しかしペットになった動物というのは、他のどの生き物とも違うと思う。

彼らは勝手に大量発生した訳でも、好きで人間に嫌われることをしたいのでも、害を及ぼしてる訳でもない。

生きる為なのだ。







一方で処分を余儀なくされる、自治体や職員の方を責める人たちがいる。

動物を殺す職業と。

ペットという種類の存在も、「野良犬(猫)」の存在も全ては人間が生み出したもの。

昨日まで家族だった動物たちを今日は捨てる・・・

根本的な問題は、命をあまりにも軽く扱う人間がいること。

そしてそれを許している法律。

そこから目を逸らし、矛先を小さな力のない、

罪のない動物たちを処分し続けても、確かに何の解決にもなっていない。

その場凌ぎだ。

そして捕まえては殺すの安易な道(処分)をとり続けるのは、そういう感覚をより増幅させているとも限らない。

しかし一年に何十万匹の動物たちが命を奪われているのに、それでも絶えることの無い野良の存在。

もしも処分という形を取らなければどうなるか、誰の目にも明らか。

その方法を肯定する気は絶対無いが、その方たちを責めても同じく解決にはならない。

そしてそういういったことに携わる方たちの想いを、私たちはどれだけ知っているのか。







『仕事と思わなければやりきれない』

『何度辞めたいと思ったか』

以前に保健所で働く方々のこんな言葉を聞いた。

アメリカでは残り少ない日々をせめて安らかにと、動物たちのお世話をかってでる方のお話も。

処分されるしかないと分かっているのに、どれだけ辛い仕事か。

心労にお体を壊される人も少なくないとか。

そんな仕事喜んでする人はまず居ないだろう。

外部の人間が分かる筈もない、色んな葛藤の中なさってるのだ思う。







野良が迷惑を掛けるのも、動物を処分しなければいけないのも、

無責任な人間の蒔いた結果で、責められるべき対象ではない。

処分しなければいけない状況がおかしい。

その前に食い止めることが出来るのに。

元々野良なんて種は存在しないのだから。







人間に比べると小さな命。

話すことも出来ない。

でもアニマルテラピーという治療もあるように、時に彼らは人間以上に幸せを作り出す。

そして人間を信じて、きっとこの瞬間も殺される最後の最後まで、待っているのだろう。







生まれた瞬間から他の動物と同じように生きることは許されない彼ら。

これ以上ないものを奪っておいて、癒しが必要な時だけ求めて命を使い捨てのように扱う。

動物嫌いの人からは邪魔者扱い。

そして処分。

いや処分なんて聞こえがいい。

人間の勝手と都合だけでされる命の削除。

そんなのあってはいけない。

そして無くせるものなのだ。

地球は人間だけのものじゃない。

                                     

僕の線

2005-09-12 | ねこのきもち
僕はこの世に生まれてまだ6週間。

シェルターのケージの中で6匹の兄弟たちと育った。

僕がお母さんのお腹にいる頃から、ううん、そのもっとずっと前から、

僕の知らない人間たちや、見たこともない世界の間で色んなことが起きていた。







僕のおうちであるシェルターへ週末だけ来るねこみみは日本からやってきた。

彼女はいつも『キレイキレイしましょ』とか話しかけながら、

僕の顔や体を拭くんだけど僕はそれがあんまり好きじゃない。

でもそのあと頬ずりしたり撫でてくれるのは気持ち良くて僕はすぐ寝てしまう。







ねこみみの友達のあずきさんという人も日本からやってきた。

二人は同じ州に住んでるきっかけからネットで知り合ったんだって。

あずきさんは僕達猫が好きなんだけど、今は一緒にいれなくて残念がっている。







僕が生まれて一ヶ月近く経ったついこの前、隣の幾つかの州へとても大きなハリケーンが来た。

僕の所は全然大丈夫だったけど、そこに住んでいた人間も僕達の仲間も

すごく大変な目に遭ってて、僕の居るこのARにもそこから沢山避難して来てるんだ。

ハリケーンが起きた少し後に、シェルターへ二匹僕の仲間が入って来た。

初めて見た三毛猫っていう種類の彼女たちはとっても綺麗だった。

僕よりちょっとだけお姉ちゃんで、僕は何だかドキドキしたりワクワクして興奮しちゃった。







彼女たちは人間に飼われてたみたいだけど、或る日ねこみみの家の近くの橋の下に捨てられてたんだって。

本当は三匹の姉妹みたいだけど、もう一匹のお姉ちゃんはねこみみのお隣さんの子になった。

ねこみみは残ったお姉ちゃんたちのお家になるところも探していた。

ねこみみはあずきさんへも訊いてみたんだお姉ちゃんたちのこと。

あずきさんはやっぱり今は難しいってことになったんだけど、

あずきさんのお友達がお姉ちゃんたちのうち一匹を引き取りたいって言ってくれた。

その人たちは僕たち猫がとても大好きな家族らしくて、

とってもとっても遠い所からだけど、お姉ちゃんを迎えに来てくれることになった。







そしてどちらかのお姉ちゃんが引き取られる日が一週間後に決まった。

その一週間でもう一匹のお姉ちゃんの引き取り手がなければ

ねこみみはそのお姉ちゃんを自分ちの子にしようって決めてたんだ。

自分が選ぶことで残るほうになるお姉ちゃんをどうしても一匹で置いとけないからって。

でもねこみみとあずきさんのお友達が来るまでのその一週間の間に

僕らシェルターの仲間には人間たちも思ってもいなかったことが起きていたんだ。

一週間後それを見たねこみみはパニックになってしまったよ。







僕の町ARはさっき話したハリケーンが起きた三つの州全てにくっついている。

だから色んな救援活動を人間たちはしてるのだけど、そこで迷子になった動物たちを

一時的に預かるための避難所として僕のシェルターのスペースが必要になったんだ。

それで仲間の猫や犬たちの殆どが別の州のシェルターへ移された。

僕と兄弟たちは生後間もないからお母さんと残された。

他には移動には耐えられない体や心が弱っている仲間も一緒に。







ねこみみが担当している僕らのお部屋にいた50匹前後の犬猫たちが

いなくなってたからそりゃパニックになるのも無理ないよね。

彼女最初は仲間が処分されたと思って放心していたんだ。

でも仲間が連れて行かれたのはシカゴってとこのもっと大きい施設で

マイクロチップとかも埋めてくれる数倍環境がいい所だって聞いてほっとしてた。

けど今度は違う現実に気づいてまたパニックになってしまったんだ。

そう、お姉ちゃんたちも連れて行かれたこと。

もうすぐ来るあずきさんのお友達へ急いで電話して謝っていた。







けれどその人たちはどうしても仔猫が欲しくてずっと探しているので他の仔でも構わないって。

暫らくしてねこみみが男の人と男の子を僕らのケージの前に連れてきた。

そして僕たちのことを話しているんだ。僕ら兄弟は彼らに興味が湧いていっぱい鳴いた。

そうしたらその二人の人間たちは、かわるがわる僕たちを抱っこしたり撫でてくれた。

僕は嬉しくて遊びたくなったから、その人たちのシャツを引っぱったり登ったりしたんだ。

僕は人間と家族になるとかよく分かんないけど、

このままずっと遊んでいたくて、撫でていて欲しくてとにかくしがみついていた。







でもその日僕は風邪をひいてて、鼻水とか涙とかが出ててあんまり可愛い顔じゃなかった。

だからねこみみは心配してたみたい。けど男の子が僕がいいって言ってくれたんだ。

前に可愛いがってた猫に僕が似てるんだって。

その男の子は手続きが済むまでずっと僕を優しく撫でてくれたから

とっても気持ちよくって安心できて、僕はすぐに寝てしまった。

ねこみみの、お母さん猫と兄弟猫から離す心配をよそにね。







いっぱい色んなことと、色んな人間と仲間の猫の「点」が繋がって、僕への「線」が出来た。

まるで僕が生まれる前から始まってたかのように。

車に乗って男の子のひざの上でうとうとする僕の耳に

『良かったね、おうちが出来たね』ってねこみみの声が遠くに聞こえた。







< 後記 >

偶然と言ってしまえばそれまでだけど、今回のこと何だか全てのものごとがこの仔へ向って行ってたような、

バズルのピースのように収まる所へカチッと収まったような、そんな不思議な感じがした出来事でした。

起きたこと一つ、関係した人一人、そして猫一匹として欠けていたら無かったこと。

生命あるのものはみんな巡り合わせの中で生きているんだなと思いました。