今日見た団体のひとつ、「0Bq」って書いてあるTシャツが衣装で出てきて物販でも売ってたんだけど、調べてみたらあんのじょうそういう感じの言説×アートなプロジェクトで、うん。わざわざ原作をダシにする意味が感じられなかったのはそういうことだったのか。
@Yabu_Snake ちなみに文フリで売ってた「正20面体の立体紙工作小説」ってのがあって、いいっすよ。読み難さもまた一興。d-p.2-d.jp/6ot/scifi/yuuk…
@YTanigawa1982 @Yabu_Snake おおお、ただの思いつきなんでもうちょっと詰めて考えてみますね!
日常は愛すべき、チープな素材で満たされていて、谷川俊太郎の詩もファミリーワゴンのCMソングもレコードの犬も等しくただのモノでしかなく、その中には勿論私たちも含まれている。その日常は、過去には例えば二十三世紀の世界だったりしたのだけど、それが今回、原作の不条理さと親和性が高かった。
戯曲中に「戦争だからって歯磨きをしないのはお母さん許しません」(うろ覚え)みたいな台詞があって、すごくカゲヤマ気象台的な台詞だと思う。戦場という非日常にチープな日常がいきなり紛れ込んでくるんだけど、作中の日常は勿論観客と地続きの日常だ。
その日常に写実的なリアリズムは全くないのだけれど、ただ配置される要素(バナナとか編み物の本とかファミコンとか)は妙に生々しく、そのセンスが観客へ向けられた導入口になる。
明るく、豊かでチープな現実の断片には人間も含まれている。それらを継接ぎして構築された世界は、時に不可解ながらもどうしようもなく「懐かしい」もので、そのノスタルジーのために時に圧倒的な肯定感を観客に与える。
オリジナル作品に比べて世界の構造が(原作によって)明快な分、断片的な部分のセンスが受け取りやすかったのが、今回の既成脚本の強みだったと思う。
遠い未来“アンドロイド演劇”の理論が完成して「演劇」=「アンドロイドがやるもの」という通念が当たり前になったような時代に、人間が演劇を見よう見まねで模倣したものが何かのはずみで過去へと転送されてきたのが、今われわれの見ているsons wo:である、という説
昔、関口宏の東京フレンドパーク2ってバラエティー番組があってね、って話が意外と通じなくて戦慄した記憶。
#春の演習 アムリタ×水道航路合同企画(三島由紀夫『近代能楽集』より)荻原永璃、新上達也の二人のが三島の短編戯曲を競演。○5月23・24日、神楽坂Studio Do Deux Doにて。○前売・当日1000円、新入生半額。→goo.gl/2m9yf
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