聖徳太子

2011-10-01 | 歴史
聖徳太子関連で、ふたつ。

藝林会 学術研究大会
 『聖徳太子をめぐる諸問題』
  場所:四天王寺太子殿、夕陽丘予備校
  講師:『参拝・寺内説明』 四天王寺 南谷恵敬
     『国制成立史から見る聖徳太子』 同志社大 北  宏康
     『対外関係史から見る聖徳太子』 中央大  石井 正敏
     『仏教文化史から見る聖徳太子』 大阪大  武田 佐和子

 この藝林会の代表が「所 功」さん
 たかじんの「そこまで言って委員会」で皇室問題等で、穏やかな性格で御馴染みの。
 間近で見て、やっぱり穏やかな人柄の人である事を実感できたのは幸せ(ポ)

法隆寺フォーラム2011
 『和にこめられた願い』

 基調講演:法隆寺 大野玄妙
 パネルディスカッション:
  元国連事務次長 明石 康
  俳優      紺野 美沙子
  法隆寺     大野 玄妙

藝林会の方は専門家過ぎて、法隆寺フォーラムの方は一般的な話し過ぎて・・・。
オイラの興味の範囲に入らなくてあんまりコメント出来ない。
おそらくね、オイラの興味は「隠された十字架」の梅原猛や「逆説の日本史」の井沢元彦から入っているからなんだろう。
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日本古代史講座ノート その10

2008-09-27 | 歴史
今回のテーマは『王陵の谷・磯長(しなが)谷古墳群と孝徳天皇陵』
今回も専門的過ぎて・・・。

この講座は月二回三ヶ月単位で少しずつ時代をずらして継続している。
今が『孝徳帝』で、その時代を細かく専門的にやっている。
それと考古学の先生、いわゆる土器を発掘して・・・という最前線の講師が多かった。
それなりに臨場感あふれる話もあるんだけど・・・。

ということで、今回でお終い継続はしない事にした。

でもさ、教えてもらうっての、有意義よ。
本だけ読んで解ったような解らないもやもやした気持ちに陥るよりは。

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日本古代史講座ノート その9

2008-09-13 | 歴史
前隔週は、「-古代の飛鳥と難波~7世紀の都の実像をさぐる-」ってフォーラム行って来たのでサボり。

今回のテーマは『白雉改元』

日本書紀によれば大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされる。
ところが同時代的な文書なり遺構などからは『大化』の文字は発見出来てないこと。
それに対して大化6年=白雉元年の『白雉』は実際に使用されているとの話でした。

『白雉』ってのはなによ、と言えば『白い雉(きじ)』の事。
それが穴戸国(今で言う長門国、つーか山口県西半分)で見つかって都に献上されたのが、大化6年。
『これはオメデタイ』って元号を『白雉』に改める事になった。
まぁ今で言う突然変異の「白い虎」「白いライオン」「白い蛇」の類が見つかった、ってことなんだろう。

これはどういうことかというと、『瑞思想』によるものである。
瑞(ずいしょう)=天からもたらされた縁起のいいしるし。
天が善政を喜び、祝っている証拠とみなされている。
『朱鳥』『大宝』『慶雲』『霊亀』『天平』など奈良時代までの元号のほとんどが瑞祥による。

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暦 そのなな

2008-09-08 | 歴史
でもって最初の素朴な疑問に戻る。
>『暦の上では今日は立秋・・・』って表現は、体感的には約一ヶ月早いやん。
>今まで単純に、新盆が7月15日旧盆が8月15日つーことで
>新暦+1=旧暦であると思っていたんよ。

のは、根本的に大間違い。
立春、立秋などの二十四節気というのは、今の太陽暦の2月4日頃 、8月8日頃±1日に一致していて、旧暦の日付でいうと最大30日程度違うことが解った。

ということは推古朝の人々も、今の季節感と同じ8月8日頃の暑さの日が立秋と認識していたんよ。
これは結局、輸入元の中国の季節感をそのまま受け入れたという事なんよね。
で、もうひとつ言うと立秋というのは8月8日の一日のことを言うんじゃなくて、次の処暑8月23日までの約15日間の期間の事を言うのと、ある意味で季節の予告という面がある・・・とすれば中国暦そのまま受け入れたのも、解らなくもない。

まぁ~解るかな、おいらも1割ほどしか解ってないから、質問や突っ込みは厳禁って事で。

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暦 そのろく

2008-09-08 | 歴史
ということは立春、雨水・・・は、旧暦ではその年その年で日付が違うことになる。
昔の暦を見ると例えば
パクった、ごめん
というように二月六日と七日の間に春分二月中とある。
この年は二月七日から「春分二月中」という節気が始まる事がわかる。
これを節気を基準に今年の桜は今年の桜は二月七日+10日後の二月十七日ぐらいと季節感を知ることになる。
種まきの日の基準は○月○日じゃなくて、暦の中の春分、清明、穀雨±○日と決めることになる。

このように、月の満ち欠けでひと月を決め、その12~13ヶ月の日に太陽の運行を元にした節気を埋め込む、というのが旧暦の仕組みです。
月と太陽を基にするので『太陰太陽暦』と言われてます。
でこの仕組みは、細かい変遷や修正があるにしろ、日本に伝わったといわれている推古朝には既に確立していたというから、恐るべし中国四千年の歴史。

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暦 そのご

2008-09-08 | 歴史
それじゃ都合悪いだろうって事で、二十四節気がある。
1年を24等分にし、その区切りに名前をつけたものです。

立春(りっしゅん) 1月節 2月4日頃
雨水(うすい) 1月中 2月19日頃
啓蟄(けいちつ) 2月節 3月5日頃
春分(しゅんぶん) 2月中 3月21日頃
清明(せいめい) 3月節 4月5日頃
穀雨(こくう) 3月中 4月20日頃
立夏(りっか) 4月節 5月5日頃
小満(しょうまん) 4月中 5月21日頃
芒種(ぼうしゅ) 5月節 6月6日頃
夏至(げし) 5月中 6月21日頃
小暑(しょうしょ) 6月節 7月7日頃
大暑(たいしょ) 6月中 7月23日頃
立秋(りっしゅう) 7月節 8月8日頃
処暑(しょしょ) 7月中 8月23日頃
白露(はくろ) 8月節 9月8日頃
秋分(しゅうぶん) 8月中 9月23日頃
寒露(かんろ) 9月節 10月8日頃
霜降(そうこう) 9月中 10月24日頃
立冬(りっとう) 10月節 11月7日頃
小雪(しょうせつ) 10月中 11月22日頃
大雪(たいせつ) 11月節 12月7日頃
冬至(とうじ) 11月中 12月21日頃
小寒(しょうかん) 12月節 1月5日頃
大寒(だいかん) 12月中 1月21日頃

これは太陽の運行を元にして決められているので、立春2月4日頃というのは今の太陽暦でいう2月4日のことで、頃が付くのは閏年の関係や楕円軌道の関係もあるんかな(?)、とはいえ精々±1日程度(?)だと思う。
(ここらへんから説明が怪しくなる・・・)

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暦 そのよん

2008-09-08 | 歴史
とはいえ、1年を354日で固定してしまうと、3年後はひと月15年後は暑い盛りにお正月となっちゃいますね~。
でも、あくまでも毎月一日が新月、十五日が満月には、こだわるんよ。

そう閏年じゃなくて、閏月を入れることにした。
1年で11日、2年目は22日、3年目は閏月を入れて元に戻す。
その年は384日あるんですね、1年が。
一定の月に閏月が日あるのではなく、閏三月とか閏五月とか。

とはいえ一気に30日も調整せざるを得ないので(毎月十五日が満月なんよ)、旧暦の同じ日といっても30日程違うので、季節感的には問題がある。
旧暦の八月九日は
 2008年9月 8日
 2007年9月19日
 2006年9月30日
 2005年9月12日
 2004年9月22日
 2003年9月 5日
となる。
(ややこしいね、でも同じ月夜な筈)

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暦 そのさん

2008-09-07 | 歴史
今でこそ「月の満ち欠け」ってほとんど意識せずに生活しているけど。
昔の人は生活と密接していたはずよ。

街灯なんかない時代の夜は、(雨が降って月が見えない日はどうしようもないけど)、満月か新月かで、夜のお出かけは随分と違っただろう。
満潮、干潮、大潮、小潮・・・、今でも海釣りする人には大関心ごとだろうし。

月の満ち欠けは29.53日周期だそうな。
ひと月を29日としても、30日にしてもひと月で半日分ずれてきますね。
で、29日間の小の月と30日間ある大の月を交互に入れる事によって、ほぼ大丈夫。
(0.03日分はどーなるの、と突っ込んではやーよ)

で1年はというと(29+30)×6=354日です。
えええ、365日-354日=11日も短いヤン。
でも旧暦の一年は354日だったんです。

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暦 そのに

2008-09-07 | 歴史
その長年の疑問に応える本をみっけ。
『暦に見る日本人の知恵』岡田芳朗(NHK出版生活人新書)

ただし、難しい・・・。1割ほどしか理解できん(ーー;)

で、恥かき覚悟で根本的にはあってるだろ、つーことご披露。
で、間違っているとか、おかしいってこと、指摘してほしいんよ。
自信ないからね、信じたアンタが悪いんよ。


で、おーざっぱな話よ、細かい違いは無視、解りやすさ(?)が一番ってことで。

①一日の単位
元になるのは一日の単位。これは解りやすい。
日が出て、てっぺんまで上って、沈んで、また昇る。これを一日にしよう。
生活のリズムとして陽が出て目が覚めて、仕事して、日が暮れて仕事やめて寝る。
これが一番の元、基本の時間。

②月の単位
で次の単位になるのが『お月様』。
夜になって昇ってくるのが、お月様。
新月のほとんど無い状態から、花王じゃないけど三日月状態からだんだん大きくなって、満月へ。
で、の下弦の月になって新月へ。
このサイクルを「ひと月」にしよう!、つーのは当時の人には解りやすい。
旧暦では毎月一日(朔日)は月がない日。十五日は満月。となるように決めた。

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暦 そのいち

2008-09-07 | 歴史
『暦の上では今日は白露(はくろ)』
大気が冷えて来て、露ができはじめるころ。

でさ、『暦の上では・・・』って表現は、体感的には約一ヶ月早いやん。
今年でいうと立秋が8月7日。処暑(暑さがやむ)が8月23日。白露が今日。
今まで単純に、新盆が7月15日旧盆が8月15日つーことで
(ひな祭りが3月3日じゃなくて4月3日ってのあるな~)
新暦+1=旧暦であると思っていたんよ。

でなんで、わざわざ新暦で8月7日に『暦の上では立秋で・・・』と言って、その日以降は『残暑厳しい折り・・・』と強制(?)されるのか訳がわからんかった。
あっさり一ヶ月後の(旧暦8月7日=)9月7日から『残暑厳しい折り・・・』と言えばまだ(地球温暖化は置いといて)季節感あるやん・・・と、思っていた。

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日本古代史講座ノート その8

2008-08-09 | 歴史
今回のテーマは『孝徳朝における安倍氏』

孝徳朝であるから、大化の改新後の左大臣である阿倍倉梯麻呂(内麻呂とも)の話なんだけど・・・。
結論は、日本書紀的には大した事をしていない、だと。
「氏姓制度」から「天皇直営国家」を目指した大化の改新という転換期においては、守旧派(氏姓制度)の代表「阿倍倉梯麻呂」左大臣と「蘇我倉山田石川麻呂」右大臣を選ばざるを得なかったのでは、という説でした。

日本書紀的には大した事をしていない、というのも大化5年という短い間に薨(死)じてしまった事もあたんだろう。
でも気になるのは、その死後直後に蘇我倉山田石川麻呂も謀反ありと、自決に追い込まれている。図ったようなタイミングなんよ。
中大兄皇子+中臣鎌足Vs阿倍倉梯麻呂、蘇我倉山田石川麻呂の粛清の結果かもしれない・・・

う~ん、今回も専門的過ぎて。
よくわからん。

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日本古代史講座ノート その7

2008-07-26 | 歴史
今回のテーマは『孝徳朝における中臣氏』
日本書紀、籐氏家伝、系図を元に、孝徳朝であるから中臣鎌足を中心にした解説でした。

う~ん、今回も専門的過ぎた。
日本書紀に出てくる鎌足の親戚の中臣国(くに)、中臣金(くがね)、中臣大嶋(おおしま)の記述を並べても、面白くないよな~。
本人自体は黒幕的な存在で公式な記録ない人だし。

学者さんは、面白い面白くないで研究している訳でないので、無理も無い。
でもな~・・・。

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日本古代史講座ノート その6-おまけ

2008-07-12 | 歴史
そーなんか、と解ったような気になって、学者さんってやっぱり専門家。
細かいこと、専門的なことしっかり調べて大変なもんだ~・・・。

後で気が付いたけど
日本書紀の記述を元に日付と距離から推測して・・・

でもね・・・
「皇太子、みずから有間皇子に問いて曰く」はドコ行ったんだろう?
藤白坂まで行って尋問したんかね?

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日本古代史講座ノート その6-2

2008-07-12 | 歴史
で、「往路で処刑された事」で何が問題になるんかな~、と思っていたら

万葉集巻第二 挽歌の冒頭の句

 有間皇子、自ら傷みて松の枝を結べる歌二首
磐代の浜松が枝を引き結びまささきく有らばまた還りみむ (一四一)
家にあれば筍に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る (一四二)

従来この歌は、謀反の企てありと紀温湯に連行される途中で、無事であるようにと松の枝を結んだ心境を歌ったとされている。

その磐代って場所は、藤白坂→磐代→紀温湯で、往路で処刑されたなら磐代まで行ける筈ない。
この歌は、ほぼ処刑されるだろうけど戻れるものなら・・・という切ない気持ちを詠んだ歌、でないってことが、今回この講師の目玉の説でした。

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日本古代史講座ノート その6-1

2008-07-12 | 歴史
今回のテーマは『孝徳天皇と温泉』

テーマの付けかた、・・・ヘンよ。

実質的な内容は有間皇子の変の解説でした。

日本書紀の記述に従うと
11月5日夜半
 赤兄、「有間皇子を市経の家に囲む」 (奈良県生駒市壱分町)
11月9日
 有間皇子(とその他3名)を捉えて、紀温湯に送りたてまつりき。
 皇太子(中大兄)、みずから有間皇子に問いて曰く、
 「何の故か謀反けむとする」・・・
 (和歌山県白浜町)
11月11日
 有間皇子を藤白坂に絞(くび)らしむ (和歌山県海南市藤白)

で今回の講師の解釈によると

(現在の道路事情で)
飛鳥→(80Km)→藤白坂→(100Km)→紀温湯の距離がある。
日付と移動距離を考えると、紀温湯まで護送して復路の藤白坂で処刑するのは無理である。
斉明天皇は紀温湯まで来るには及ばず、処罰を伝えに派遣した丹比小澤連国襲が藤白坂で合流し処刑された、との結論でした。

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