『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

  釈尊正伝の仏道 (≠仏教) 〜 道元さん、勘違いしながら見神

__曹洞宗の檀家なのに、道元さんの偉さにはとんと気付かず、伊勢白山道のリーディングで初めて、釈尊の正法を伝える唯一のブッディストだと云ふ道元さんの「見神」に畏れ入った有り様で、

慌てて『正法眼蔵』を覗いてみる

 

道元さんって、肖像画をみると「今でしょ!」の林先生に似ている、あの口元のゆがみに並外れたものを看取する(モーツァルトも歪んでおりますね)

哲人としても、道元さんは、「衆生済度ひとりも漏らさず」の法然さん親鸞さんレベルの世界宗教的な貫禄はある、勇猛日蓮さんと云い、鎌倉時代とは何とゆー人間国宝時代であったろー

 

おふくろを歯医者に連れていった途中で……

お寺の門前の掲示板に、ある言葉が貼られていた

「仏仏祖祖 皆もとは 凡夫なり  道元

 

‥‥ あらま、道元さん、そんなことゆーてはったん?

ネットで探ると、確かに『正法眼蔵随聞記』のなかに……

「仏仏祖祖皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり、・・・然れども皆改めて知識に従い、教行に依りしかば、皆仏祖と成りしなり」とあった

 

 

 

 

ここに、ひろさちや さんの解説を挙げる

われわれは、仏教の修行者は悟りを求めて修行すると思っています。

若き日の道元もそう考え、われわれに仏性があるのに、なぜ悟りを求めてわざわざ修行しないといけないのか、と疑問に思ったのです。

だが、道元が達した結諭からいえば、それは逆なんです。

 

「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。

【身心脱落】させるのです。

そして、悟りの世界に溶け込むそれがほかならぬ「悟り」です。

 

道元は、如浄の下でそういう悟りに達したのです。

だから、わたしたちは、悟りを得るために修行するのではありません

わたしたちは悟りの世界に溶け込み、その悟りの世界の中で修行します。

悟りを開くために修行するのではなく、悟りの世界の中にいるから修行できるのです。

「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だから修行できる。それが道元の結論です。

 

仏だという自覚があれば、「自分は仏なんだから、こういうことはしてはいけない」と考えて、悪から遠ざかることができます。

それが、仏になるための修行ではなく、仏だからできる修行です。

 

修証一等・修証不二・修証一如・本証妙修

修行(修)と悟り(証)が一つ であって別のものではない。

本証とは、われわれが本来悟っていることであり、その悟りの上で修行するのが妙修です。

そうだとすれば、坐禅というものは、悟りを求める修行であってはならないのです。いや、そもそもわたしたちが何のために仏教を学ぶかといえば、

 

- 仏らしく生きるため -

 

です。その意味では、悟りを楽しみつつ人生を生きる。それがわれわれの仏教を学ぶ目的です。

 

>  釈迦は入滅に先立って、後世の仏教者に遺言された。

「わたしが亡くなったあとは、あなたがたは、自分自身を灯明とし、わたしが教えた真理()を灯明として修行をつづけなさい」と。

>  釈迦の教えた真理を灯明にする(法灯明)のはよくわかるが、

釈迦はそれより前に「自灯明」、自分自身を灯明とせよ、と言っているのだ。

他人がああするからわたしもああする、他人がこうすればわたしもこうするーというのは、およそ釈迦の教えから遠い態度だ。

 

◆仏教においては、強靭なる主体性が確立されねばならない。それが一番大事なことである。

そしてそれが、

「仏道をならふといふは、自己をならふなり」(道元)

だと思う。

世間の物差しを蹴とばして、まずは主体性の確立ーそれが仏教者の第一歩である。

しかしながら、われわれが主体性を確立すると、「人間が万物の尺度」になってしまう。

 

◆人間の物差しの放棄

「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」(道元)

いったん確立された自己を、仏教者はきれいさっぱり忘れてしまわなければならない。つまり自己をゼロにしてしまうのだ。

それがすなわち「無我」なのだ。そういうパラドックス(逆説)を道元禅師は主張しておられる。

主体性の確立は、とどのつまりは「無我」である。

 

「自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」(道元)

万法とは、宇宙の真理である。

しかし、この宇宙の真理をわたしが体得する(悟る)のではない。

わたしが宇宙の真理を悟れば、わたし()が宇宙の真理の上に立つ。それだと自己()を忘れたことにならない。

逆である。

わたし()が、宇宙の真理(万法)に吸収されてしまうのだ。

それが「証せらるゝ」といった受身形の意味である

わたしはすでに人間の物差しを捨てた。それが「自己を忘れた」ことである

人間的な物差しを捨ててしまったその人間が、

そこで 仏の物差しを身に付けるのではない 

ややもすると、仏教の悟りといったものを、仏教で悟りを開くということを、仏の物差しを手に入れることだと思われかねない。

そういう理解の仕方をする人もいるが、道元禅師はそうでは【ない】と言っておられる。

 

わたしたち凡夫には仏の目に見えているものはわからないのだから、

素直に、

「わからない」「不思議」

でよいのである。

 

病気が治るのがいいか、治らないのがいいか、われわれにはわからない。短命が幸福か、長命が幸福か、所詮凡夫にはわからない。

わからないものをわからないまま、そのまま「仏のはからい」と信じさせていただくのが、「万法に証せらるゝ」である。

宇宙の真理 ーそれが仏だー に、自分自身をそっくり預けてしまえばいいのだ。

 

‥‥ ひろさちやさんって、ダライラマ14世に似ていて(つまり俗っぽく隣の親父みたいな印象)、敬遠していた時期があったが、どこから引っ張ってきたのか、上記の解説には凄みがある

 

● 勘違いから 悟ってしまった道元さん

道元さんって、思うに典型的な「日本語脳」で、大陸に渡って結構中国語を勘違いして捉えているなって、いたって面白い一面があらしゃる

 

『正法眼蔵』で、六祖慧能と五祖弘忍との会話(商量)の中で…… 

五祖「そなたはどこから来たのか?」

六祖「私は嶺南人です」

五祖「ここに来て、何を求めているのか?」

六祖「仏になることです」

五祖「嶺南人は無仏性である、どのようにして仏となるのか?」

 

‥‥ この公案についての道元さんの読み方は独特で、

「嶺南人は無の仏性である」(道元)

嶺南人には仏性が有るだの、無いだのとゆー話しではなくて、

どうしてわざわざ仏になろうとするのか、いま無の仏性であるのにと読み解きます

もう一つ…… 

…… 『涅槃経』にある、

《一切衆生、悉有仏性》〜一切の衆生は悉く仏性を有す〜

といった言葉を、道元は、

〜一切の衆生が「悉有」(全宇宙)であり、その「悉有」(全宇宙)が仏性である〜と読んでいます。

[※ 『【新訳】正法眼蔵』ひろさちや・編訳ーより]

 

‥‥ この一節は、漢訳された『涅槃経』を解釈したものですが、翻ってサンスクリット語で解釈すると、道元さんの訳の方がサンスクリット原典に近く正確なものとなるそーです

不思議な話ではあるが、伊勢白山道のリーディングでは、釈尊の正伝は道元さんに伝わった、つまり道元さんは「見神」しているとの見立てなのです

 

 

 

ついでなので、『正法眼蔵』からもう一節とりあげますと…… 

「自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、世界を真に見ることができない。
自己が自由自在に動くとき、世界もいきいきと生動する。」(ネット上で見られる道元の名言)


‥‥ 道元の名言として、あちこちで目にする現代語訳ですが、訳者が誰なのか、確かに不明です
この条りの原文だと思われるものを引用します


「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、

万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
※ 道元『正法眼蔵』第一巻「現成公案」より


‥‥ ひろさちやさんの現代語訳を参照してみると、
> 「自分のほうから悟りの世界に近づいて行こうとするのは迷いであり、
悟りのほうから自分を目覚めさせてくれるのが悟りである。」

 

‥‥ この一節からは、道元さんが「自力」に拘らずに「他力(神の恩寵)」までも抱き参らせて仕舞われていることが分かる
前段の「自己を運びて万法を修証する」を、

・西洋式に【初めに自我ありき】


後段の「万法進みて自己を修証する」を、

・東洋的に【初めに無我ありき】


と観たのは、鈴木大拙の弟子・秋月龍珉さんでした
彼の捉えた「無我」とは、「我が無い」ことではなく……
道元さん特有の読み方ですが……

「無という我れ」があること です、

世界そのものが「無の場所」であります

こーして纏めてみると、
前段の「自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、世界を真に見ることができない」も、
後段の「自己が自由自在に動くとき、世界もいきいきと生動する」も、
ともに「自己を中心にすえた(自己が主体となった)」視点であり、道元さんの原文にある、視点を主客逆転させた妙味が表されておりません
「自己が自由自在に動く」のは、「自分で」そーするからではないからです


「万法すすみて自己を修証する」の解釈は、


「 宇宙そのもの(万法)に溶け込んで自己が自由自在に動かされるとき、

(本来自己の内にある)世界はいきいきと生動する 」

とでも申しましょーか

この名言は親しみやすい意訳ですが、道元さんの意を汲んでいないとゆーのが私の意見です

 

ー道元さんの懐く「サトリ」の感じ方は、自力で掴みとるのではなく、自分をなくして溶け込むと云いますか、受動態で表現しておられる処が間々みられます

これはつまり、「他力」も包含するとゆーことです

一休さんが蓮如と肝胆相照らす仲だったよーに、案外と道元さんの出家主義と親鸞さんの在家信仰はフラクタルなものではないのかなと夢想しています

その意味でも、道元さんが深草で 在家信者のために執筆なされた「現成公案」とか「道心」の章 は、深く吟味味読する必要があるなと思っています

伊勢白山道に拠れば、聖なる十次元(十一次元まである)に参入するためには、神の恩寵が不可欠だと云われていました

聖ラマナ・マハリシとニサルガダッタ・マハラジとの差は、ニサルガ親爺に最後の一押しが足りない、つまり恩寵が降りていないことにあるよーに思います

与える者と受け取る者がひとつ、真我ひとつのありようは、道元さんの内にもみられるとゆー事で、仏道でもここまで行けるとゆー証しがあるのは欣ばしいことである

尚、ラマナ・マハリシと私は表記するが…… 

昨今の表記は、マハルシが主流のよーである

しかし、聖ラマナはタミール語を話したことから、マハルシ(サンスクリット語)よりもマハリシ(タミール語)の方が相応しいのではないかと私考する

            _________玉の海草

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「小覚」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事