__ある時から日本人は、両親に対する感謝や、裏方のスタッフに対する感謝、ボランティアに対する感謝や、毎日の「あたりまえ」を実現するために尽力している「陰」の方々への感謝を、あたかも優勝インタビューに応えているかのよーに公けに堂々と口にするよーになった
伊勢神宮では「神恩感謝」、浄土系仏教では「報恩感謝」と、目に見えない「お蔭」に感謝してきた伝統はたしかにある
しかし、「いまの自分があるのは〇〇のお蔭だ」と、やたらに「感謝、感謝」と言い始めたのは、明らかに2007年以降のことである
ブログ『伊勢-白山 道』の人気が徐々に上がってきたのと軌を一にする
伊勢白山道では、自己の存在への感謝(「感謝想起」生かして〜の聖句、人類全体の存在への感謝でもある)をはじめとして神恩感謝と先祖供養(先祖に感謝する行為)が柱となっている
伊勢白山道では、天皇陛下や内閣総理大臣の御心のうちを霊視したりするものだから、皇室や政治家たちの閲覧者も多いと思われる(いままで大人数の一般人が、世に知られていなかった陛下や総理のご努力に感謝を捧げることなど先ずあり得なかった、しかし伊勢白山道ではそれが常態化している)
あたりまえのよーに愛情をそそぎ世話をやいてくれる両親への感謝も語られるよーになった、両親とは直近の「ご先祖」に他ならないからだ
いままで意識していなかった、さまざまな人々の尽力こそが社会を下支えしていることに気づくことが「正見」に繋がるのである
__ わたしは、2008年から継続して伊勢白山道の読者だが…… ブログを読み続けることによって自分にどんな変化が起こったか、書き留めておきたい
◆伊勢白山道を通じて、止めるに至った習慣
・タバコ 🚭〜 たとえば「不老不死」を求めるのは永い時間があれば覚醒する機会が多いだろーとゆー中国人のプラグマティックな思想から来ている、タバコは健康を害する、この事実を直視するならば、「喫煙とは長期間かけた自殺である」
・占い 🔮〜 宇宙進化の道筋を示す思想(例えば、西洋占星術では星座ごとの太陽の意味を牡羊座から順繰り読んでゆくと最後の魚座まで進む過程が、いわば魂の錬金術を表している)とも云えるが、高度な理論を有するタロット・カードや西洋占星術、そして易学(儒学の最高峰『易経』を大上段からバッサリ否定する人を初めて見た、伊勢白山道では「8×8=64」の易理の上に「9×9=81」の『道徳経』の理を置く)を潔く諦めた
・呪文、唱え言 🪄〜 すべてのマントラ・真言、祈祷、祝詞、西洋では「コンスタント・プレア」と呼ばれる唱え言を止めた、伊勢白山道では聖句と太祝詞「あまてらすおほみかみ・あまてらすおほみかみ」そして観音経の一節だけがいまでも命脈をたもっているとゆー由縁で唱えられる
・父親への憎しみ 💢〜 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の親子みたいにソリが合わなかった、前世は敵同士だったのかと嘆いたものだ、しかし伊勢白山道のお蔭で生前に父に向かって感謝想起することが出来たし、先入観なく父をみると聖ラマナ・マハリシの慈愛に満ちた眼差しと酷似していることに気づいた、愛されていたことが沒後にようやく分かった
・仏事へのこだわり 🪷〜 禅宗の葬礼法事はとにかくお金がかかる、戒名つけるのも読経もご先祖にとってほとんど無意味だと徹見するに至った
・霊的な奇異への興味 👁️〜 「正神に奇異なし」「正神は言挙げせず」は伊勢白山道の金言である
・オカルト書籍の収集 📚〜 たとえば、色々な世界宗教に入門してそれぞれに覚りの最高位まで到達したラーマ・クリシュナは、それ自体偉大なことだが、時間はかかるし危険も伴うことから伊勢白山道では、ラーマ・クリシュナや白隠の生き方(破天荒に過ぎる為)は推奨されない、わたしもラーマ経由で手当たり次第に辿るのは幸運なくば到底かなわぬと諦めた、伊勢白山道の毎日の記事で霊的な間違いはひとつ一つ消していったので、わざわざ時間を労してオカルト本を読む必要がなくなった
◆伊勢白山道を通じて、新たに始めた習慣
・古神道の根本的見直し〜 伊勢白山道に出逢うまでは、オカルト全般に張り巡らされた私のアンテナに「神道」が引っかかることは不思議にもなかった、伊勢神宮の外宮を神聖に保つために内宮に人びとを引き寄せているとゆー方便とおなじく、オカルト好きに対しても伊勢神宮と白山の神界の大秘は幾重にも厳重に隠されているよーである
・手作りの短冊供養〜 「霊的な計らいは空気と同じく無料(タダ)」が伊勢白山道の信条なので、初期費用がほとんど掛からない位牌(短冊で作る)を自分で手作りする、貧乏な人のために割り箸の「おてもと」を流用したアイデアを披露しておられたのを読んだときにはやおら感動した
・三本の線香供養〜 線香を何本立てるか、そこには霊的な理由があった、三本を三角形に立てる、三角形の向きにも理がある、イザナギ・イザナミ両神がオノゴロ島に降り立ち「天の御柱」を御「見立て」になったよーに、日本文化は「立てる」ところから始まる
・神社札、生榊、水玉の祀り〜 神気の渦を巻き起こすために三社を祀るものだそーだ、榊も対称である必要がある、水玉は大きければ祓いの力が増すらしい
・氏神神社、崇敬神社への月参り ⛩〜 脳裏に思い浮かべるだけでなく、実際足を運ぶことが最重要な事、神祀りとは自発的なもの故に氏神神社は一里以内から自分で選べるものだそーだ
・感謝想起(「生かして〜」の聖句ですべてを括る)〜 このことばこそ伊勢白山道の根元である、伊勢神宮の外宮で降ろされた由来があるが、宗教的なことばを一切つかわない伊勢白山道が「聖句」とみずから名付けている処に深い消息がある、グルジェフの「自己想起」が余りにも難しくて誰も成し得なかった故に、このことばをつかった「感謝想起」に変更してバージョンアップしたことは伊勢白山道の偉大な発明であろー
◆伊勢白山道への不満・疑問・批判
・文章力、たとえのセンス、語彙が乏しい〜 霊視して内容が把握できるため、時間をかけて読書していないことが根本原因かと思う、美しい和文例をある程度は暗記して自家薬籠中の物にしていないと応用が利かないし、文章にキレが無く締まりもよくない
・「分かりやすさ」への拘り〜 真理を小学生にも分かるよーに易しく解説しよーとして現在も奮闘中である、わたしは「噛む(=体当たりで思い切り味わう)」体験はもっとも重要なアプローチ(世界との接し方)ではないかと思っている、子どもに柔らかい物しか食べさせなければ、強靭な顎は育つまい
・「言霊の調整の為」と称して誰もわからない手間暇をかけて推敲してから出版する〜 和歌のひとつも吟じないのに、なにかにつけ「ことだま」の作用に言及する、音霊が大事なのか、美しい日本語が大事なのか、よくよく考えて頂きたい、とうてい後世に語り継いで遺したいよーな文章には成っていないと思うのだが……
‥‥ ざっとこんな具合だが、最初から伊勢白山道を信用していたわけではない、私がブログを訪れたのは、処女作『内在神への道』のなかにあった卓抜な人物評(「人物論」)に心惹かれたのがきっかけだった
ブログの過去記事・コメント欄すべて読破して、質問などしてみて、半年間ほどは疑心暗鬼で胡散臭い感じもあり、疑ってかかっていたと思う
しかし、なかなかボロが見つからなかったし、朴訥で素人じみた生硬な文章にかえって「市井にまぎれた真人」の真実味を感じとっていた、リーマンさんの出自は代々「鬼塚」を守る家系で、敏達天皇につながる橘家だと云ふ(本人談)
短冊位牌も手作りして、本格的に伊勢白山道式の神祀りと先祖供養を始めると、なにやら手応えがあった、やはり故人の供養はその子孫がおこなうべきだし、そーするのが自然であり、子孫しか真心こめての供養は出来ない
わたしの家は、山形県の田舎町で伝統仏教(曹洞宗)の檀家であるから、両親が拝む様子をみて子どもながらに真似して、毎朝神棚・仏壇は拝んでいた
水を上げて線香点けてと基本的な所作は変わらない
しかし、ひとつ一つの礼式の意味を伊勢白山道で学び、みずからの実践のうちにその内的な意味まで実感してくる、霊的(=礼的)型がわかってくると、供養が只の儀式ではなくなる
自己満足的ではあるが、双方向のコミュニケーションとなってくる
霊がいやがること(例えば、線香を折る、左右の榊の接触等)も理解した上での真心供養は、いままでの姿勢と一線を画すものとなった
ーこーして記述していると普通の田舎人が、伊勢白山道に出逢って転機を迎えただけのありふれた出来事に見えるが、中身はまるで違うのである
なぜなら、わたしは筋金入りのオカルト・マニアだったからである
長年の霊的探求により、すでに自分律をもっていた、新宗教みたいなものは匂いでその不安定さを嗅ぎ取って即座に離れる、集団狂気の匂いかな
ところが、伊勢白山道の場合、私がいままで全く触れたことがなかった霊脈につながっている感応があった、伊勢神宮(日本の親神さま)と白山神(宇宙規模の大霊)による古神道には畏怖のあまり手を出せないよーな、わたしの肉体が肌で危険を感じとった
神道に「修行」はなく、「教義」も「教典」もなく「教条」すら無い
既知の世界宗教からは感じられないよーな、まったく隠されたもの、それがいままで馬鹿にして軽視していた、いわゆる「神道」の内に見い出せることに、通常の善知識(知性)を遥かに超えた叡智のよーな感触を懐いた
●一例として、グルジェフの「自己想起」から伊勢白山道の「感謝想起」へと深化(進化・神化)した霊的な偉業を見てみよう
(拙稿)>
グルジェフの第四の道が、第一(ファキールの道)・第二(修道僧の道)・第三(ヨーギの道)道筋のいずれもに絶望した探求者たちに提示されたよーに…
リーマンさんの第五の道は、第四の道にも挫折した者をも視野に入れている画期的なものだと思います
第一の『肉体との闘いの道』や、
第二の『信仰の道』、
第三の『知識と精神の道』…
そして第四の、なにものとも自己同一化しない『自己想起の道』
リーマンさんの第五の道は、更にビルド・アップされて、無師成道の『感謝想起の道』である
‥‥ リーマンさんの記事で、グルジェフの「自己想起」のやり方を四段階に分けて詳細に独自解説した、注目すべき記事があるので、以下にリンクしておく
📖 ブログ『伊勢-白山 道』の記事 [2016-09-16 11:10 | Weblog] にリンク
‥‥ 四段階、四相(層)、四様の「自己想起」となっている
1️⃣ 私は存在している。 〜 自分を「見る」
2️⃣ 私は今ここに生きている。 〜 自分のビーイング(存在)を観る
3️⃣ 私は生かされている。 〜 良心から「正知」を振り返る・顧みる
4️⃣ 生かして頂いて 有り難う御座います。 〜 聖句(叡智の結晶)に極まる
★四層にわたる「感謝想起」をした上で、例えば相手と自分、その中間を恒に意識する。つまり、どちらにも肩入れせずに、中間から観る。それ、鳥瞰すると言おうか、第三の意識を持つ、あるいは神の視座に立つとでも言おうか。(「離見の見」でもよいか)
‥‥ 『第四次元』へ挑み、意欲的著作『ターシャム・オーガヌム』で、グルジェフに目を付けられた数学者・哲学者・神秘思想家のロシア人〜 P.D.ウスペンスキー……
その代表作『ある未知の教えの断片(=『奇蹟を求めて』)』は、彼の注目すべき妻・ソフィー(マダム・ウスペンスキー)の尽力によって、グルジェフから出版の許可を得た
夫の、この著作の五分の四がグルジェフ自身の言葉であることが彼女には痛いほどよく分かっていたからだ
それは、グルジェフの下から離れた「高弟」ピョートル・ウスペンスキーが突然亡くなった後のことであった
日本では、まっとうなグルジェフィアンたる浅井雅志さんの御手によって翻訳された『奇蹟を求めて』(平河出版社)を初めて目にした20代初頭、腰抜かすほどびっくり仰天したものだ ♪
理系アタマで滅法知性の鋭い実践的理論家のウスペンスキーが、精魂込めた力作原稿である
解らなくて頭がクラクラしたが、興奮冷めやらぬまま最後まで読み通していた
それ以後も、なんど読み返したことか……
今では、伊勢白山道の御蔭もあって、第一愛読書からは外れたものの、愛蔵本には変わりはない
この本の中で、ウスペンスキーご自身が挑まれた「自己想起」への試みが縷々と語られている
みんな失敗例ばかりで、すこぶる困難を極めると云った報告であった
わたしも勿論挑戦したが、ウスペンスキーと同様、グルジェフから言わせると「弱い」のだった
ーそれらの過去体験を踏まえての、今回の伊勢白さんの示唆なのである
グルジェフ流の「自己想起」は、普通一分も保たない
「自分がいま◯◯している」ことを意識し続けるのは本当に至難なのである
それを、リーマンさんは「生かされている」と被造物としての受動をも盛り込み、更に神恩感謝【感謝想起】にまで昇華させて……
聖句『生かして頂いて ありがとう御座います』一句にすべてを収束結実させてお仕舞いになった
今回の示唆は、自分の内からの自覚から始まり、陰陽三位の聖三角形いたって具体的なご親切さ……
長くご先祖供養に勤しんで来られた方々には、線香火三位一体、親しみの深いご示唆ではないか知らん
ーここで、伊勢白山道に邂逅する以前のオカルト・読書遍歴を羅列してみよー
柴田錬三郎『運命峠』〜 五味康祐『柳生武藝帳』〜 池波正太郎〜 百地三太夫〜 ブルース・リー〜 大山倍達〜 今東光・叡山文庫〜 稲垣足穂『彌勒』〜 須弥山〜 プトレマイオス〜 ヴィトゲンシュタイン〜 ガウス〜 数学者リーマン〜 アインシュタイン〜 ウィリアム・ブレイク〜 永井豪『魔王ダンテ』〜
親鸞「自然法爾」〜 五木寛之〜 山本玄峰〜 鈴木大拙〜 加藤耕山〜 スウェーデンボルグ〜 イマヌエル・カント〜 ショーペンハウエル〜 メーテルリンク〜 ラブクラフト〜 フィリップ・K・ディック〜 南方熊楠〜 松岡正剛・工作舎〜 渋澤龍彦〜 荒俣宏『世界神秘学事典』『帝都物語』〜
老子『道徳経』〜 釈尊〜 摩訶迦葉〜 マハトマ・ガンディー〜 パラマハンサ・ヨガナンダ〜 ババジ〜 ロマン・ロラン〜 ラーマ・クリシュナ〜 ヴィヴェカーナンダ〜 カバラ・ゲマトリア〜 クリスチャン・ローゼンクロイツ〜 ピュタゴラス教団〜
『ヘルメス文書』〜 ヤコブ・ベーメ〜 マイスター・エックハルト〜 ヒルデガルト〜 シモーヌ・ヴェイユ〜 魔人アレイスター・クロウリー〜 ビスコンティ監督〜 グスタフ・マーラー〜 ルドルフ・シュタイナー〜 ゲーテ〜 カール・ヒルティ〜 イエズス・キリスト〜
【この御本はね、分厚くて「枕」にもなるんですよ ♪】
G.I.グルジェフ『ベルゼバブの孫への話』〜 P.D.ウスペンスキー『奇蹟を求めて』〜 アサシン「山の長老」〜 スーフィー旋回舞踏〜 オイリュトミー〜 ダライ・ラマ〜 チョギャム・トゥルンパ〜 儒家・孔子〜 酒見賢一『陋巷にあり』〜 顔儒・顔回〜
王羲之〜 顔真卿〜 空海〜 神智学クリシュナムルティ〜 出口王仁三郎〜 熾仁親王〜 山岡鉄舟〜 勝海舟〜 小笠原玄信斎〜 上泉伊勢守〜 塚原卜伝「一の太刀」〜 宮本武蔵〜 柳生十兵衛〜 津本陽『柳生兵庫助』〜 戸部新十郎『服部半蔵』〜 秦河勝〜 世阿弥〜 聖徳太子〜 卑弥呼(日見子)〜 鬼道〜 半村良『妖星伝』〜 夢枕獏『魔獣狩り』〜
カルロス・カスタネダ『イクストランへの旅』〜 グレート・スピリット〜 映画『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』〜 古代アレキサンドリア図書館〜 ジプシー〜 タロット・カード〜 西洋占星術〜 宿曜占星術〜 易占〜 中国武術・内家拳〜 神仙思想〜 慈雲尊者〜
黄檗・臨済・普化和尚〜『無門関』〜 白隠〜 盤珪〜 肥田春充〜 世親菩薩〜 C.G.ユング〜 エラノス会議〜 井筒俊彦〜 中沢新一〜 岡本太郎〜 アンドレ・ブルトン〜 サルバドール・ダリ〜 トリスタン・ツァラ〜『死海文書』〜 グノーシス〜 プロティヌス〜 ゾロアスター〜
その他諸々あるが、武術の極意の探求はほぼオカルト・マニアのサトリ探求と相似であるよーだ(剣禅一如とか)、たしか伊勢白山道との出逢いの直前には、映画『マトリックス』(1999年)と並行して、ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』シリーズを熱心に読み耽っていた、同じ頃『奇跡のコース』も話題となっていたが、私は読んでいない
80年代の書店の「精神世界」コーナーは、空前の繁盛ぶりであらゆる怪しげな書籍が山盛りにされていた(私は大阪駅前の「旭屋本店」❤️ に連日入り浸っていたもの だ)
「地下鉄サリン事件」(1995年)は、カルト宗教の怖ろしさを日本全国に周知させた象徴的な出来事であった
ノストラダムスの予言の1999年7月が過ぎるまで、信じていない風を装って、実は本気で心配していたものだ
2000年代になると、さすがの神秘不思議ブームも下火となって、60年代から続いた「新宗教〜オカルト〜覚醒〜精神世界」のスピリチュアル・ムーブメントも人々の口の端に上らなくなった
一方では、アニメやインターネットの流行が、仮想現実や異次元への親和性を高めたかも知れない
で、いよいよ2007年になって、「2ちゃんねる」のオカルト・スレッドに不定期に出没し始めていた伊勢白山道が、ある人物(伊勢白山道ファン)に招待される形でブログ『伊勢-白山 道』が開設される
翌年、広く心ある人びと縁ある人びとに「お知らせ」する為に、処女作、
『内在神への道』 が刊行される
わたしは、この本の巻末に記載されていたブログ案内を辿って、ブログ『伊勢-白山 道』に参入した(2008年)
当初は、3000人程の氏子(=読者)を獲得するために建立された「ネット神社」みたいな趣きがあった
【最初期のこの二冊は、良き本の持つオーラを纏っている、ビブリオ・マニアからすると、これ以降の書籍📚からは豪華な内容から流出する奥行きがあまり感じられない、本棚に並べてみるとよく分かる、良き本は存在感があるものだ】
その頃は、コメント欄も50〜100名くらいじゃなかったかな、気になるコメントを投稿した読者にブログ主のリーマンさんがコメント欄で任意にコメントを返していた
当時から、既成の新興宗教サイドからの妨害は甚しかった印象はある、神さんを利用したビジネス(教団組織運営)を熾烈に指弾していたから、生命の危険も顧みずによくやるもんだと感服していた、それがいまや表立った妨害工作はみられなくなったのだから不思議だ(何かが裏で働いているのか)
現在のよーに、誰でも質問できる形式になったのはいつ頃のことであったか……
何年か経ってからだったな、全面的な身の上相談(霊的な相談も含む)をしてまでも読者を増やさなければならない事情があるのかなと憶測していたものだが……
いまになって思えば、量子力学が発動するために必要だったのかも知らない
その頃は、リーマンさんの神社参拝日記(近畿圏に鎮座まします由緒ある古い神社)みたいな面白い記事も多数掲載され、韓国の南大門に白頭山の神霊の流れをうけとりに行かれたこともあったな ♪
東宮で祓われた「九尾狐」との霊戦も実況してくれた
霊的な知識に飢えていた、わたしたちオカルト・マニアは狂喜したものだ
現在は、もはや『伊勢-白山 道』は社会的に多方面に影響をもたらすよーになって、宗教色やオカルト色を一切排除して、まっとうな日本人を養成することに尽力している印象がある
生活全般にわたって、リーマンさんに十回二十回と質問して解答を得ている読者もかなりの数にのぼり、ブログの主旨(集団信仰ではなく個人の自己責任での信仰をすすめる)とはかけ離れて、多数のリーマン信者がいる模様である
「宗教は無くなります」との姿勢で、既成の有料先生を手厳しく攻撃してきたリーマンさんなので、新興宗教臭いのは根っから受け付けないのだが……
いつの世でも、信じる者は見境なく信じて従いてゆく依存体質であるのは変わりなく、いままで信仰していた宗教から「リーマン教」に鞍替えしただけみたいな読者も少なからずいるよーだ(リーマンさんを「先生」扱いして、教祖に祭り上げよーとする読者が絶えない、個人の自分信仰とゆーのは日本人には難しいのかも知れん)
わたしみたいに、凡ゆる霊的指導者に本を介して私淑しては広大な霊の海に翻弄され彷徨した経験がないものだから(真贋の見分けがつかなければ丸々無駄になる、神秘家は実践を貴ぶレアリストに成るものである)…… 信仰生活の初手から「伊勢白山道」に参入するのも必ずしも恵まれた環境ではないみたいだ
たやすく手に入るものを、ひとは大事にうけとらない、自分で動かずに、与えられるのを待っている(つまり祈願である)
巣の中の雛鳥が、口を開けてエサを待っているよーに…… リーマンさんに食べやすく咀嚼してもらわないと消化できない依存症みたいな人もよくいる
自分で調べないのだ、噛み砕いて易しくしてあげないと受け取らない弟子を教えるマスターは大変である、伊勢白山道では師弟関係を完全否定するが、その「教え」を鵜呑みにして頼り切っている読者は多い
閲覧無料だし、よけいな霊的な作法に縛られないあたりは、何も知らない若い者たちには取っ付きやすいシステムではある
とはゆーものの、マルクスが「宗教は阿片である」と云った真の怖さに勘付いていない者にとっては、お手軽でゆるい精神覚醒道場であるよーだ
最近は、ほんとコメント欄がつまらなくなって(女性読者のもちこむ相談事は、霊的探求にうちこむ男性読者には全く相容れないものがある、最近では質問者のほとんどが女性である)、読むに堪えない有り様なので、リーマンさんに文句をつけては不掲載の憂き目をみている
お蔭さまで、伊勢白山道を熱心に熟読するうちに、老子『道徳経』は全章クリア、聖ラマナ・マハリシ(シヴァ神に帰依)もある程度は浸透している
伊勢白山道推薦のニサルガダッタ親爺(非二元の「賢者の道」の系統)は、吟味し終わった処なので、伊勢白山道の言語表現の甘さを突っつくくらいは、朝飯前である
にわかには信じがたい話しだが…… 神さんは『伊勢-白山 道』を知らしめるために「インターネット」と云ふものを産み出したのだそーだ
いろいろと辛辣な諫言はしているが、わたしにはその畏れるべき「お知らせ」が真実だと心の内なる声が囁いているよーに感じてならない
_________玉の海草