『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 伊勢白山道の出現〜 今まで気づかなかった 「アタリマエ」 に感謝する

2021-12-29 05:01:14 | 小覚

__ある時から日本人は、両親に対する感謝や、裏方のスタッフに対する感謝、ボランティアに対する感謝や、毎日の「あたりまえ」を実現するために尽力している「陰」の方々への感謝を、あたかも優勝インタビューに応えているかのよーに公けに堂々と口にするよーになった

 

伊勢神宮では「神恩感謝」、浄土系仏教では「報恩感謝」と、目に見えない「お蔭」に感謝してきた伝統はたしかにある

しかし、「いまの自分があるのは〇〇のお蔭だ」と、やたらに「感謝、感謝」と言い始めたのは、明らかに2007年以降のことである

 

ブログ『伊勢-白山 道』の人気が徐々に上がってきたのと軌を一にする

伊勢白山道では、自己の存在への感謝(「感謝想起」生かして〜の聖句、人類全体の存在への感謝でもある)をはじめとして神恩感謝と先祖供養(先祖に感謝する行為)が柱となっている

伊勢白山道では、天皇陛下や内閣総理大臣の御心のうちを霊視したりするものだから、皇室や政治家たちの閲覧者も多いと思われる(いままで大人数の一般人が、世に知られていなかった陛下や総理のご努力に感謝を捧げることなど先ずあり得なかった、しかし伊勢白山道ではそれが常態化している)

あたりまえのよーに愛情をそそぎ世話をやいてくれる両親への感謝も語られるよーになった、両親とは直近の「ご先祖」に他ならないからだ

いままで意識していなかった、さまざまな人々の尽力こそが社会を下支えしていることに気づくことが「正見」に繋がるのである

 

 

__ わたしは、2008年から継続して伊勢白山道の読者だが……  ブログを読み続けることによって自分にどんな変化が起こったか、書き留めておきたい

◆伊勢白山道を通じて、止めるに至った習慣

・タバコ 🚭〜 たとえば「不老不死」を求めるのは永い時間があれば覚醒する機会が多いだろーとゆー中国人のプラグマティックな思想から来ている、タバコは健康を害する、この事実を直視するならば、「喫煙とは長期間かけた自殺である」

・占い 🔮〜 宇宙進化の道筋を示す思想(例えば、西洋占星術では星座ごとの太陽の意味を牡羊座から順繰り読んでゆくと最後の魚座まで進む過程が、いわば魂の錬金術を表している)とも云えるが、高度な理論を有するタロット・カードや西洋占星術、そして易学(儒学の最高峰『易経』を大上段からバッサリ否定する人を初めて見た、伊勢白山道では「8×8=64」の易理の上に「9×9=81」の『道徳経』の理を置く)を潔く諦めた

・呪文、唱え言 🪄〜 すべてのマントラ・真言、祈祷、祝詞、西洋では「コンスタント・プレア」と呼ばれる唱え言を止めた、伊勢白山道では聖句と太祝詞「あまてらすおほみかみ・あまてらすおほみかみ」そして観音経の一節だけがいまでも命脈をたもっているとゆー由縁で唱えられる

・父親への憎しみ 💢〜 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の親子みたいにソリが合わなかった、前世は敵同士だったのかと嘆いたものだ、しかし伊勢白山道のお蔭で生前に父に向かって感謝想起することが出来たし、先入観なく父をみると聖ラマナ・マハリシの慈愛に満ちた眼差しと酷似していることに気づいた、愛されていたことが沒後にようやく分かった

・仏事へのこだわり 🪷〜 禅宗の葬礼法事はとにかくお金がかかる、戒名つけるのも読経もご先祖にとってほとんど無意味だと徹見するに至った

・霊的な奇異への興味 👁️〜 「正神に奇異なし」「正神は言挙げせず」は伊勢白山道の金言である

・オカルト書籍の収集 📚〜 たとえば、色々な世界宗教に入門してそれぞれに覚りの最高位まで到達したラーマ・クリシュナは、それ自体偉大なことだが、時間はかかるし危険も伴うことから伊勢白山道では、ラーマ・クリシュナや白隠の生き方(破天荒に過ぎる為)は推奨されない、わたしもラーマ経由で手当たり次第に辿るのは幸運なくば到底かなわぬと諦めた、伊勢白山道の毎日の記事で霊的な間違いはひとつ一つ消していったので、わざわざ時間を労してオカルト本を読む必要がなくなった

 

◆伊勢白山道を通じて、新たに始めた習慣

・古神道の根本的見直し〜 伊勢白山道に出逢うまでは、オカルト全般に張り巡らされた私のアンテナに「神道」が引っかかることは不思議にもなかった、伊勢神宮の外宮を神聖に保つために内宮に人びとを引き寄せているとゆー方便とおなじく、オカルト好きに対しても伊勢神宮と白山の神界の大秘は幾重にも厳重に隠されているよーである

・手作りの短冊供養〜 「霊的な計らいは空気と同じく無料(タダ)」が伊勢白山道の信条なので、初期費用がほとんど掛からない位牌(短冊で作る)を自分で手作りする、貧乏な人のために割り箸の「おてもと」を流用したアイデアを披露しておられたのを読んだときにはやおら感動した

・三本の線香供養〜 線香を何本立てるか、そこには霊的な理由があった、三本を三角形に立てる、三角形の向きにも理がある、イザナギ・イザナミ両神がオノゴロ島に降り立ち「天の御柱」を御「見立て」になったよーに、日本文化は「立てる」ところから始まる

・神社札、生榊、水玉の祀り〜 神気の渦を巻き起こすために三社を祀るものだそーだ、榊も対称である必要がある、水玉は大きければ祓いの力が増すらしい

・氏神神社、崇敬神社への月参り ⛩〜 脳裏に思い浮かべるだけでなく、実際足を運ぶことが最重要な事、神祀りとは自発的なもの故に氏神神社は一里以内から自分で選べるものだそーだ

・感謝想起(「生かして〜」の聖句ですべてを括る)〜 このことばこそ伊勢白山道の根元である、伊勢神宮の外宮で降ろされた由来があるが、宗教的なことばを一切つかわない伊勢白山道が「聖句」とみずから名付けている処に深い消息がある、グルジェフの「自己想起」が余りにも難しくて誰も成し得なかった故に、このことばをつかった「感謝想起」に変更してバージョンアップしたことは伊勢白山道の偉大な発明であろー

 

◆伊勢白山道への不満・疑問・批判

・文章力、たとえのセンス、語彙が乏しい〜 霊視して内容が把握できるため、時間をかけて読書していないことが根本原因かと思う、美しい和文例をある程度は暗記して自家薬籠中の物にしていないと応用が利かないし、文章にキレが無く締まりもよくない

・「分かりやすさ」への拘り〜 真理を小学生にも分かるよーに易しく解説しよーとして現在も奮闘中である、わたしは「噛む(=体当たりで思い切り味わう)」体験はもっとも重要なアプローチ(世界との接し方)ではないかと思っている、子どもに柔らかい物しか食べさせなければ、強靭な顎は育つまい

「言霊の調整の為」と称して誰もわからない手間暇をかけて推敲してから出版する〜 和歌のひとつも吟じないのに、なにかにつけ「ことだま」の作用に言及する、音霊が大事なのか、美しい日本語が大事なのか、よくよく考えて頂きたい、とうてい後世に語り継いで遺したいよーな文章には成っていないと思うのだが…… 

 

‥‥ ざっとこんな具合だが、最初から伊勢白山道を信用していたわけではない、私がブログを訪れたのは、処女作『内在神への道』のなかにあった卓抜な人物評(「人物論」)に心惹かれたのがきっかけだった

ブログの過去記事・コメント欄すべて読破して、質問などしてみて、半年間ほどは疑心暗鬼で胡散臭い感じもあり、疑ってかかっていたと思う

しかし、なかなかボロが見つからなかったし、朴訥で素人じみた生硬な文章にかえって「市井にまぎれた真人」の真実味を感じとっていた、リーマンさんの出自は代々「鬼塚」を守る家系で、敏達天皇につながる橘家だと云ふ(本人談)

短冊位牌も手作りして、本格的に伊勢白山道式の神祀りと先祖供養を始めると、なにやら手応えがあった、やはり故人の供養はその子孫がおこなうべきだし、そーするのが自然であり、子孫しか真心こめての供養は出来ない

 

わたしの家は、山形県の田舎町で伝統仏教(曹洞宗)の檀家であるから、両親が拝む様子をみて子どもながらに真似して、毎朝神棚・仏壇は拝んでいた

水を上げて線香点けてと基本的な所作は変わらない

しかし、ひとつ一つの礼式の意味を伊勢白山道で学び、みずからの実践のうちにその内的な意味まで実感してくる、霊的(=礼的)型がわかってくると、供養が只の儀式ではなくなる

自己満足的ではあるが、双方向のコミュニケーションとなってくる

霊がいやがること(例えば、線香を折る、左右の榊の接触等)も理解した上での真心供養は、いままでの姿勢と一線を画すものとなった

 

 

ーこーして記述していると普通の田舎人が、伊勢白山道に出逢って転機を迎えただけのありふれた出来事に見えるが、中身はまるで違うのである

なぜなら、わたしは筋金入りのオカルト・マニアだったからである

長年の霊的探求により、すでに自分律をもっていた、新宗教みたいなものは匂いでその不安定さを嗅ぎ取って即座に離れる、集団狂気の匂いかな

ところが、伊勢白山道の場合、私がいままで全く触れたことがなかった霊脈につながっている感応があった、伊勢神宮(日本の親神さま)と白山神(宇宙規模の大霊)による古神道には畏怖のあまり手を出せないよーな、わたしの肉体が肌で危険を感じとった

神道に「修行」はなく、「教義」も「教典」もなく「教条」すら無い

既知の世界宗教からは感じられないよーな、まったく隠されたもの、それがいままで馬鹿にして軽視していた、いわゆる「神道」の内に見い出せることに、通常の善知識(知性)を遥かに超えた叡智のよーな感触を懐いた

 

●一例として、グルジェフの「自己想起」から伊勢白山道の「感謝想起」へと深化(進化・神化)した霊的な偉業を見てみよう

(拙稿)> 

グルジェフの第四の道が、第一(ファキールの道)第二(修道僧の道)第三(ヨーギの道)道筋のいずれもに絶望した探求者たちに提示されたよーに

リーマンさんの第五の道は、第四の道にも挫折した者をも視野に入れている画期的なものだと思います

第一の『肉体との闘いの道』や、

第二の『信仰の道』

第三の『知識と精神の道』

そして第四の、なにものとも自己同一化しない『自己想起の道』

リーマンさんの第五の道は、更にビルド・アップされて、無師成道の『感謝想起の道』である

 

‥‥ リーマンさんの記事で、グルジェフの「自己想起」のやり方を四段階に分けて詳細に独自解説した、注目すべき記事があるので、以下にリンクしておく

📖 ブログ『伊勢-白山 道』の記事 [2016-09-16 11:10 | Weblog] にリンク

自分の心に良い仕事をして頂くこと

 

 

‥‥ 四段階、四相()、四様の「自己想起」となっている

 

1️⃣ 私は存在している。 〜 自分を「見る」

2️⃣ 私は今ここに生きている。 〜 自分のビーイング(存在)を観る

3️⃣ 私は生かされている。 〜 良心から「正知」を振り返る・顧みる

4️⃣ 生かして頂いて 有り難う御座います。 〜 聖句(叡智の結晶)に極まる

 

★四層にわたる「感謝想起」をした上で、例えば相手と自分、その中間を恒に意識する。つまり、どちらにも肩入れせずに、中間から観る。それ、鳥瞰すると言おうか、第三の意識を持つ、あるいは神の視座に立つとでも言おうか。(「離見の見」でもよいか)

 

 

‥‥ 『第四次元』へ挑み、意欲的著作『ターシャム・オーガヌム』で、グルジェフに目を付けられた数学者・哲学者・神秘思想家のロシア人〜 P.D.ウスペンスキー……

その代表作『ある未知の教えの断片(=『奇蹟を求めて』)は、彼の注目すべき妻・ソフィー(マダム・ウスペンスキー)の尽力によって、グルジェフから出版の許可を得た

夫の、この著作の五分の四がグルジェフ自身の言葉であることが彼女には痛いほどよく分かっていたからだ

それは、グルジェフの下から離れた「高弟」ピョートル・ウスペンスキーが突然亡くなった後のことであった

日本では、まっとうなグルジェフィアンたる浅井雅志さんの御手によって翻訳された『奇蹟を求めて』(平河出版社)を初めて目にした20代初頭、腰抜かすほどびっくり仰天したものだ

理系アタマで滅法知性の鋭い実践的理論家のウスペンスキーが、精魂込めた力作原稿である

解らなくて頭がクラクラしたが、興奮冷めやらぬまま最後まで読み通していた

それ以後も、なんど読み返したことか……

今では、伊勢白山道の御蔭もあって、第一愛読書からは外れたものの、愛蔵本には変わりはない

この本の中で、ウスペンスキーご自身が挑まれた「自己想起」への試みが縷々と語られている

みんな失敗例ばかりで、すこぶる困難を極めると云った報告であった

わたしも勿論挑戦したが、ウスペンスキーと同様、グルジェフから言わせると「弱い」のだった

ーそれらの過去体験を踏まえての、今回の伊勢白さんの示唆なのである

グルジェフ流の「自己想起」は、普通一分も保たない

「自分がいま◯◯している」ことを意識し続けるのは本当に至難なのである

それを、リーマンさんは「生かされている」と被造物としての受動をも盛り込み、更に神恩感謝【感謝想起】にまで昇華させて……

聖句『生かして頂いて ありがとう御座います』一句にすべてを収束結実させてお仕舞いになった

今回の示唆は、自分の内からの自覚から始まり、陰陽三位の聖三角形いたって具体的なご親切さ……

長くご先祖供養に勤しんで来られた方々には、線香火三位一体、親しみの深いご示唆ではないか知らん

 

 

ーここで、伊勢白山道に邂逅する以前のオカルト・読書遍歴を羅列してみよー

柴田錬三郎『運命峠』〜 五味康祐『柳生武藝帳』〜 池波正太郎〜 百地三太夫〜 ブルース・リー〜 大山倍達〜 今東光・叡山文庫〜 稲垣足穂『彌勒』〜 須弥山〜 プトレマイオス〜 ヴィトゲンシュタイン〜 ガウス〜 数学者リーマン〜  アインシュタイン〜 ウィリアム・ブレイク〜 永井豪『魔王ダンテ』〜

親鸞「自然法爾」〜 五木寛之〜 山本玄峰〜 鈴木大拙〜 加藤耕山〜 スウェーデンボルグ〜 イマヌエル・カント〜 ショーペンハウエル〜 メーテルリンク〜 ラブクラフト〜 フィリップ・K・ディック〜 南方熊楠〜 松岡正剛・工作舎〜 渋澤龍彦〜 荒俣宏『世界神秘学事典』『帝都物語』〜

老子『道徳経』〜 釈尊〜 摩訶迦葉〜 マハトマ・ガンディー〜 パラマハンサ・ヨガナンダ〜 ババジ〜 ロマン・ロラン〜 ラーマ・クリシュナ〜 ヴィヴェカーナンダ〜 カバラ・ゲマトリア〜 クリスチャン・ローゼンクロイツ〜 ピュタゴラス教団〜

『ヘルメス文書』〜 ヤコブ・ベーメ〜 マイスター・エックハルト〜 ヒルデガルト〜 シモーヌ・ヴェイユ〜 魔人アレイスター・クロウリー〜 ビスコンティ監督〜 グスタフ・マーラー〜 ルドルフ・シュタイナー〜 ゲーテ〜 カール・ヒルティ〜 イエズス・キリスト〜

 

【この御本はね、分厚くて「枕」にもなるんですよ ♪】

 

G.I.グルジェフ『ベルゼバブの孫への話』〜 P.D.ウスペンスキー『奇蹟を求めて』〜 アサシン「山の長老」〜 スーフィー旋回舞踏〜 オイリュトミー〜 ダライ・ラマ〜 チョギャム・トゥルンパ〜 儒家・孔子〜 酒見賢一『陋巷にあり』〜 顔儒・顔回〜

王羲之〜 顔真卿〜 空海〜 神智学クリシュナムルティ〜 出口王仁三郎〜 熾仁親王〜 山岡鉄舟〜 勝海舟〜 小笠原玄信斎〜 上泉伊勢守〜 塚原卜伝「一の太刀」〜 宮本武蔵〜 柳生十兵衛〜 津本陽『柳生兵庫助』〜 戸部新十郎『服部半蔵』〜 秦河勝〜 世阿弥〜 聖徳太子〜 卑弥呼(日見子)〜 鬼道〜 半村良『妖星伝』〜 夢枕獏『魔獣狩り』〜

カルロス・カスタネダ『イクストランへの旅』〜 グレート・スピリット〜 映画『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』〜 古代アレキサンドリア図書館〜 ジプシー〜 タロット・カード〜 西洋占星術〜 宿曜占星術〜 易占〜 中国武術・内家拳〜 神仙思想〜 慈雲尊者〜

黄檗・臨済・普化和尚〜『無門関』〜 白隠〜 盤珪〜 肥田春充〜 世親菩薩〜 C.G.ユング〜 エラノス会議〜 井筒俊彦〜 中沢新一〜 岡本太郎〜 アンドレ・ブルトン〜 サルバドール・ダリ〜 トリスタン・ツァラ〜『死海文書』〜 グノーシス〜 プロティヌス〜 ゾロアスター〜

 

その他諸々あるが、武術の極意の探求はほぼオカルト・マニアのサトリ探求と相似であるよーだ(剣禅一如とか)、たしか伊勢白山道との出逢いの直前には、映画『マトリックス』(1999年)と並行して、ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』シリーズを熱心に読み耽っていた、同じ頃『奇跡のコース』も話題となっていたが、私は読んでいない

 

 

80年代の書店の「精神世界」コーナーは、空前の繁盛ぶりであらゆる怪しげな書籍が山盛りにされていた(私は大阪駅前の「旭屋本店」❤️ に連日入り浸っていたもの だ)

「地下鉄サリン事件」(1995年)は、カルト宗教の怖ろしさを日本全国に周知させた象徴的な出来事であった

ノストラダムスの予言の1999年7月が過ぎるまで、信じていない風を装って、実は本気で心配していたものだ

2000年代になると、さすがの神秘不思議ブームも下火となって、60年代から続いた「新宗教〜オカルト〜覚醒〜精神世界」のスピリチュアル・ムーブメントも人々の口の端に上らなくなった

一方では、アニメやインターネットの流行が、仮想現実や異次元への親和性を高めたかも知れない

 

で、いよいよ2007年になって、「2ちゃんねる」のオカルト・スレッドに不定期に出没し始めていた伊勢白山道が、ある人物(伊勢白山道ファン)に招待される形でブログ『伊勢-白山 道』が開設される

翌年、広く心ある人びと縁ある人びとに「お知らせ」する為に、処女作、

『内在神への道』 が刊行される

わたしは、この本の巻末に記載されていたブログ案内を辿って、ブログ『伊勢-白山 道』に参入した(2008年)

当初は、3000人程の氏子(=読者)を獲得するために建立された「ネット神社」みたいな趣きがあった

 

【最初期のこの二冊は、良き本の持つオーラを纏っている、ビブリオ・マニアからすると、これ以降の書籍📚からは豪華な内容から流出する奥行きがあまり感じられない、本棚に並べてみるとよく分かる、良き本は存在感があるものだ】

 

その頃は、コメント欄も50〜100名くらいじゃなかったかな、気になるコメントを投稿した読者にブログ主のリーマンさんがコメント欄で任意にコメントを返していた

当時から、既成の新興宗教サイドからの妨害は甚しかった印象はある、神さんを利用したビジネス(教団組織運営)を熾烈に指弾していたから、生命の危険も顧みずによくやるもんだと感服していた、それがいまや表立った妨害工作はみられなくなったのだから不思議だ(何かが裏で働いているのか)

 

現在のよーに、誰でも質問できる形式になったのはいつ頃のことであったか…… 

何年か経ってからだったな、全面的な身の上相談(霊的な相談も含む)をしてまでも読者を増やさなければならない事情があるのかなと憶測していたものだが…… 

いまになって思えば、量子力学が発動するために必要だったのかも知らない

 

その頃は、リーマンさんの神社参拝日記(近畿圏に鎮座まします由緒ある古い神社)みたいな面白い記事も多数掲載され、韓国の南大門に白頭山の神霊の流れをうけとりに行かれたこともあったな ♪

東宮で祓われた「九尾狐」との霊戦も実況してくれた

霊的な知識に飢えていた、わたしたちオカルト・マニアは狂喜したものだ

 

現在は、もはや『伊勢-白山 道』は社会的に多方面に影響をもたらすよーになって、宗教色やオカルト色を一切排除して、まっとうな日本人を養成することに尽力している印象がある

生活全般にわたって、リーマンさんに十回二十回と質問して解答を得ている読者もかなりの数にのぼり、ブログの主旨(集団信仰ではなく個人の自己責任での信仰をすすめる)とはかけ離れて、多数のリーマン信者がいる模様である

 

「宗教は無くなります」との姿勢で、既成の有料先生を手厳しく攻撃してきたリーマンさんなので、新興宗教臭いのは根っから受け付けないのだが…… 

いつの世でも、信じる者は見境なく信じて従いてゆく依存体質であるのは変わりなく、いままで信仰していた宗教から「リーマン教」に鞍替えしただけみたいな読者も少なからずいるよーだ(リーマンさんを「先生」扱いして、教祖に祭り上げよーとする読者が絶えない、個人の自分信仰とゆーのは日本人には難しいのかも知れん)

 

わたしみたいに、凡ゆる霊的指導者に本を介して私淑しては広大な霊の海に翻弄され彷徨した経験がないものだから(真贋の見分けがつかなければ丸々無駄になる、神秘家は実践を貴ぶレアリストに成るものである)……   信仰生活の初手から「伊勢白山道」に参入するのも必ずしも恵まれた環境ではないみたいだ

 

たやすく手に入るものを、ひとは大事にうけとらない、自分で動かずに、与えられるのを待っている(つまり祈願である)

巣の中の雛鳥が、口を開けてエサを待っているよーに……   リーマンさんに食べやすく咀嚼してもらわないと消化できない依存症みたいな人もよくいる

自分で調べないのだ、噛み砕いて易しくしてあげないと受け取らない弟子を教えるマスターは大変である、伊勢白山道では師弟関係を完全否定するが、その「教え」を鵜呑みにして頼り切っている読者は多い

閲覧無料だし、よけいな霊的な作法に縛られないあたりは、何も知らない若い者たちには取っ付きやすいシステムではある

とはゆーものの、マルクスが「宗教は阿片である」と云った真の怖さに勘付いていない者にとっては、お手軽でゆるい精神覚醒道場であるよーだ

 

最近は、ほんとコメント欄がつまらなくなって(女性読者のもちこむ相談事は、霊的探求にうちこむ男性読者には全く相容れないものがある、最近では質問者のほとんどが女性である)、読むに堪えない有り様なので、リーマンさんに文句をつけては不掲載の憂き目をみている

お蔭さまで、伊勢白山道を熱心に熟読するうちに、老子『道徳経』は全章クリア、聖ラマナ・マハリシ(シヴァ神に帰依)もある程度は浸透している

伊勢白山道推薦のニサルガダッタ親爺(非二元の「賢者の道」の系統)は、吟味し終わった処なので、伊勢白山道の言語表現の甘さを突っつくくらいは、朝飯前である

 

にわかには信じがたい話しだが……  神さんは『伊勢-白山 道』を知らしめるために「インターネット」と云ふものを産み出したのだそーだ

 

いろいろと辛辣な諫言はしているが、わたしにはその畏れるべき「お知らせ」が真実だと心の内なる声が囁いているよーに感じてならない

        _________玉の海草

 

 

 


 自分で考えない〜 「分かりやすさ」 を礼讃する人びと

2021-12-17 20:07:39 | 危機感

__時を同じうして

・武田砂鉄『わかりやすさの罪』

・池上彰『わかりやすさの罠』

の2冊が刊行された(未だ読んでいないので、画像は載せない)

 

世間がいかに「分かりやすさ」を求めているか……

また、池上さんに代表される「分かりやすく解説してくれる人」を歓迎する世相がよく現れた出来事だと思う

「分かりやすさ」が絶対的に良いものだと盲信している人びとが多くなったのは、実は最近のことだ

 

Twitter では、最初の3行しか読まないひとがほとんどである のが現状だとか聞く

「知る」ことに時間を掛けないのだ

わかりやすさ=即座に理解できる 

世間でゆー「コスパ」が悪いことに堪えられなくて、手っ取り早く手に入れたい風潮なのだと思う

 

むかし(昭和頃)は、自分が「知らない」ことが恥ずかしかった、それ故にもし自分に理解できないことがあっても、自分が未熟なのだと反省して黙っていたものだ

そんな風潮だから、当時知識人の代表たる作家や教授は異常に尊敬されたし、職場の経験ゆたかなせんぱいは神さまみたいなものである

しかし、いつの頃からか、自分が理解できないとなると逆上して「分かるように教えないオマエが悪い!」と文句をつけるよーになって来た

この教師に対する逆ギレは、いつ頃始まったのだろう、なにか「教育」が孕む闇に触れているよーだ

真に賢い人は、子どもにも分かるよーに噛み砕いて説明してくれると、

難しいことを書いている時点で「オマエは頭が悪い」とゆーわけだ

 

「真理はシンプルである」とゆー命題は、わたしにも共感できる処があり、「複雑さ」に至るインテリジェンスを最重要視するわけではない

アカデミックな権威とは、ある一つの観方に過ぎないことも間々ある

しかし真理はたとえシンプルではあっても、分かりやすくはない

相対性理論が、「E=mc自乗」とゆー美しい数式に帰着するにしても、そこに至る道筋は極めて複雑で誰にでも理解できるものではない

ものごとを厳密に「正確に」描写しよーとすれば、専門用語などつかって難しく「分かりにくく」なる

専門用語とゆーものは身の回りの生活用語(口語)の中に、「そのこと」を表す適切なコトバが見当たらないから、新しく概念を設定するものである

哲学など代表的なものだが、そーした難しさ(=正確さ)を拒んで「分かりやすさ」を追求すれば……

 

つまり、複雑な実態をもつものを強引に簡素化して「分かりやすく」してしまうと、必ず抜け落ちてしまう「大切な何か」がある

実に象徴的なんだが…… 「フェイク・ニュース」も同じ消息で出来上がる

誰かの主観的なフィルターが掛かった「分かりやすさ」は、決して実相を伝えてはいない

 

「分かりやすさ」に慣れきった知性は、「分かりにくさ」のとっつき難い拒絶にあって尻尾を巻いて逃げ去る

あたかも、柔らかい物ばかり食べていた者が、硬い物を出されて歯が立たず咀嚼できない有り様に似ている

菓子パンばかり食べていては、顎が弱って、フランスパンは食べられなくなる

「噛む」とゆー行為は「脳」に直結していると聞く、神道では「噛む=神(カム)」である

咀嚼力=理解力 、発達した顎(アゴ)が鍛え抜かれた知性をあらわす

よく噛み砕いて、自家薬籠中の物にしてから…… 

自らの言葉で相手に合せて説明できる

これが「分かった」ということであろう。

 

 

ー次に記す是枝監督のコトバは、もっと注目されてよい

「僕は意図的に長い文章を書いています。

これは冗談で言ってたんだけど、ツイッターを140字以内ではなく、140字以上でないと送信出来なくすればいいんじゃないか()

短い言葉で『クソ』とか発信しても、そこからは何も生まれない。文章を長くすれば、もう少し考えて書くんじゃないか。字数って大事なんですよ

だって、世の中って分かりやすくないよね。

分かりやすく語ることが重要ではない。むしろ、

一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えていかねばならない。僕はそう思っています」

 

‥‥ わたしも、伊勢白山道に投稿していると、必ず「長文やめろ」「難しい」と、短文礼讃の読者から文句を頂戴する

短く端的に言い表せる人は賢いと思い込んでいるのだ、

そして、サクサクとコメント欄を読み進めたい望みをもっている人なのだ

 

ブログ主のリーマンさんは、易しく説明してくれるし、真理とゆーものを子ども(小学生)にもわかるよーに説くことが出来ると豪語しておられる御仁でもあるのです

しかし、果して予備知識(あるいは体験)のない子どもに、わかりやすく伝えることができるものだろうか

そもそも、言葉だけで深い消息を伝えるのは、無理がある

わたしの観る処、歴代の聖者でそれを成し遂げた人は見当たらない

神秘主義とは、コトバの限界を痛感しており、仕方なく「沈黙」に到り着く

わたしは「神秘」については何処までも「正確さ」をもって追求したい者なので、バッサリと主婦や子どもでも分かる「生活用語」で「分かりやすく」してもらいたくないわけ…… 

真理つーのは、分かり易いものではない

分かりやすかったら、きっと飽きるでしょ

 

「分かりやすさ」は、自分がいま既に持っているものを使って説明する

既存の伝統と違うから新しいのだし、同時にわかりにくいのだ

区別するために、違う専門用語をつかうのである

古代中国人は、インドから渡来した仏教の「無」を、すでに自分たちが持っていて何か似ている感じの道教の「無」と一緒くたにしてしまって、「分かった」ふりをしてしまった

この消息に似通ったことが、現代の日本で起きている

誇り高き日本人が、大陸から渡来したものを決してそのまま受け取らなかった日本人(儒学は輸入したが儒教は国内に入れなかった)が、あまりにも変わってしまったものだ

 

他人にまかせて自分で考えることを怠り、短絡して「分かりやすさ」を喜んで受け入れている

これじゃあ、本物の知性は育たぬよ、いまや「碩学」は絶滅危惧種となってしまった

 

ほんとうに心配しているのは、TVのコメンテーターの質が素人レベルになってしまった事だ、お笑い芸人を並べても何ら参考にはならない

人生全般なんでも知っている、街のご隠居さんがいなくなった、昔は寿命が短く「人生五十年」とか云っとったから、40歳くらいで立派なご隠居だったと思う

いまどきの40歳は、まだアイドルなんてやってますからねえ、子どもの国・日本だから「老獪」もまた育たぬのよ

       _________玉の海草

 


《玉断2》 謎の歴史的名言〜 「女人地獄使 …… 」

2021-12-15 14:16:26 | 歴史・郷土史

《玉断》とゆーと、無外流極意「玉簾不断」を思い出すが、これは単に《玉の断章》の略である

 

__本を読みはじめた10代、ラ・ロシュフコー『箴言』にしても、知識人に人気のある皮肉屋ショーペンハウエルにしても、女性とゆーものをこき下ろしているよーな印象を持った

なにかヨーロッパには伝統的な女性観が連綿と受け継がれているよーにも思う、日本でも芥川龍之介なんか『侏儒の言葉』では「女性は諸悪の根源」とまで言い切っている(梅毒に罹患したからでもなかろーが)

上記のお三方は、ある意味男性らしい鋭さ(知的な結晶めいた)を発揮した文人である、一方にゲーテの女性讃仰「永遠に女性なるもの」もあるが、一般に知識人たちは女性に恨みでもあるかのよーに、女性に冷淡である

 

つらつら読書をつづけてゆくと、ある仏教のフレーズ(偈・げ)が時々目に入って来るよーになった

引用している人はいずれも一廉の人物だったので、徐々にこのコトバが私の胸の内で大きくなっていった

 

女人地獄使、能断仏種子 外面似菩薩、内心如夜叉

読み下し「女人は地獄の使いであり、仏の種子を断つことが出来る。外見は菩薩に似ているが、内心は夜叉のようである」

 

‥‥ このフレーズが仏典の何処に載っているのか、典拠がまちまちなので面喰らう

ある人は『大乗起信論』だし、ある人は『大智度論』だし他にもあった気がする

[※ 『日本国語大辞典』より引用;出典について「成唯識論」「大智度論」「華厳経」「大宝積経」「涅槃経」などとするいろいろの説があるが不明。おそらく平安時代末頃日本で作られた語と思われる。

私は、このお経の一節のよーな漢文の偈にいたく共感していたので、どーしてもウラを取りたくなって、中之島図書館(大阪)にでかけて、『大乗起信論』の漢文版を眺めてみたが、残念ながらこの句はなかった、龍樹『大智度論』は大部なので泣く泣く引き下がった

ネットが普及してから、この句を検索してみたが、いまだに正確な典拠が判明していない(存知よりの方は教えて頂きたい)

つまり、誰のコトバなのか分からないのである

困ったことに、このコトバの裏を取ることなしに、引用している者がいるから堪らない

実は、日蓮さんも『女人成仏抄』において、華厳経に書いてあると引用なさっているとか、どなたかの孫引きなのか、案外イイ加減なインテリ度ですな

 

確か、原始仏教教団(サンガ)において、釈尊は女性の入門を禁じている

釈尊の女性親族の相談に乗っていた阿難尊者が、釈尊に切々と訴えて、やっと比丘尼として許しを得て、女性にもサンガの門を開いたと聞いている

なにか気にかかる、道元さんも晩年の出家主義に傾いたとき女性に手を差し伸べてはいない

 

C.G.ユングは、夢分析において男性の夢に出てくる女性像に注目していた

ユングの考え方でいくと、人間の心の中には自我というものがあるのですが、非常に深いところに人間の魂というものがあるとすると

魂はそのままでは自我には絶対にわかりません。

けれども、魂がどういうものかを自我が把握しようとすると、それは

【イメージとして把握される】のです。

たとえば男の人でしたら、その夢に出てくる女性のイメージが魂の像だというのです。

[※ 河合隼雄『こころの読書教室』新潮文庫ーより]

 

‥‥ 単なる心理学であり、夢分析なんて唱えはじめたのはユングだし、なんら信憑性のあるものではない

しかし、世界中にのこっている神話の分析から人間にとって最も基礎的な「母性(創造性)」とゆーものを探るのはあながち間違っていないよーに思える

ユングの場合、しかし最高度の教養の持ち主で、『易経』『黄金の華の秘密(道教の瞑想書)』にも、聖ラマナ・マハリシにも造詣が深い

東西の霊的知性をつなぐ世界会議「エラノス会議」は、ユングにその発祥を辿れるのである

それだけの知性にくわえて、ユングはよくモテた

カウンセリングした女性たちが軒並みユングに惚れてしまって、まるで教祖のよーだったと伝わる

サリン事件の「尊師」の周りにもハーレムが形成されたよーに、深い宗教性とゆーものは何故か女性を惹きつけてやまない

宗教的天才を「最初に」見つけるのは、常に女性であるとも云われている

極論を言うと、教祖であって、女性にモテない人は偽者であるとゆーことになる

 

知性が、宗教性や神話性を呑み込むほどに熟している場合、何らかの物質が揮発される感じがある

女性はそれをキャッチするアンテナを備えているのだろー

天行に照応する身体を持つ女性(月経など)は、肉体そのものであり、肉体の支配をうけるが故に、よけいに自らとまったく異なるものには敏感なのかも知れん

宗教性とは、肉体の支配をうけないものである

世間の欲望の埒外におかれている、たとえばヒンドゥーでは自分と肉体(身体)を同一視しないことが基礎となっている

 

ーこの「女人地獄使…… 」が、平安末期から連綿と引用されつづけている処に、抑圧された男性修行者の共鳴を感じ取る

翻訳の大家・鳩摩羅什が、こっそりと捏造した句を経典にひそませたよーに、この名文句も誰某の捏造したものらしい

少年ジャンプに連載された『魁!男塾』に、「民明書房」からの引用として詳細な説明文があったのだが、われわれ馬鹿な男たちは実在の出版社だとして信じて読んでいたものだ

だれが仕掛けた悪戯なのか、案外女にフラれた腹いせだったりして、男とゆー生き物は可愛い処があるものだ

              _________玉の海草

 


  釈尊正伝の仏道 (≠仏教) 〜 道元さん、勘違いしながら見神

2021-12-07 06:03:57 | 小覚

__曹洞宗の檀家なのに、道元さんの偉さにはとんと気付かず、伊勢白山道のリーディングで初めて、釈尊の正法を伝える唯一のブッディストだと云ふ道元さんの「見神」に畏れ入った有り様で、

慌てて『正法眼蔵』を覗いてみる

 

道元さんって、肖像画をみると「今でしょ!」の林先生に似ている、あの口元のゆがみに並外れたものを看取する(モーツァルトも歪んでおりますね)

哲人としても、道元さんは、「衆生済度ひとりも漏らさず」の法然さん親鸞さんレベルの世界宗教的な貫禄はある、勇猛日蓮さんと云い、鎌倉時代とは何とゆー人間国宝時代であったろー

 

おふくろを歯医者に連れていった途中で……

お寺の門前の掲示板に、ある言葉が貼られていた

「仏仏祖祖 皆もとは 凡夫なり  道元

 

‥‥ あらま、道元さん、そんなことゆーてはったん?

ネットで探ると、確かに『正法眼蔵随聞記』のなかに……

「仏仏祖祖皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり、・・・然れども皆改めて知識に従い、教行に依りしかば、皆仏祖と成りしなり」とあった

 

 

 

 

ここに、ひろさちや さんの解説を挙げる

われわれは、仏教の修行者は悟りを求めて修行すると思っています。

若き日の道元もそう考え、われわれに仏性があるのに、なぜ悟りを求めてわざわざ修行しないといけないのか、と疑問に思ったのです。

だが、道元が達した結諭からいえば、それは逆なんです。

 

「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。

【身心脱落】させるのです。

そして、悟りの世界に溶け込むそれがほかならぬ「悟り」です。

 

道元は、如浄の下でそういう悟りに達したのです。

だから、わたしたちは、悟りを得るために修行するのではありません

わたしたちは悟りの世界に溶け込み、その悟りの世界の中で修行します。

悟りを開くために修行するのではなく、悟りの世界の中にいるから修行できるのです。

「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だから修行できる。それが道元の結論です。

 

仏だという自覚があれば、「自分は仏なんだから、こういうことはしてはいけない」と考えて、悪から遠ざかることができます。

それが、仏になるための修行ではなく、仏だからできる修行です。

 

修証一等・修証不二・修証一如・本証妙修

修行(修)と悟り(証)が一つ であって別のものではない。

本証とは、われわれが本来悟っていることであり、その悟りの上で修行するのが妙修です。

そうだとすれば、坐禅というものは、悟りを求める修行であってはならないのです。いや、そもそもわたしたちが何のために仏教を学ぶかといえば、

 

- 仏らしく生きるため -

 

です。その意味では、悟りを楽しみつつ人生を生きる。それがわれわれの仏教を学ぶ目的です。

 

>  釈迦は入滅に先立って、後世の仏教者に遺言された。

「わたしが亡くなったあとは、あなたがたは、自分自身を灯明とし、わたしが教えた真理()を灯明として修行をつづけなさい」と。

>  釈迦の教えた真理を灯明にする(法灯明)のはよくわかるが、

釈迦はそれより前に「自灯明」、自分自身を灯明とせよ、と言っているのだ。

他人がああするからわたしもああする、他人がこうすればわたしもこうするーというのは、およそ釈迦の教えから遠い態度だ。

 

◆仏教においては、強靭なる主体性が確立されねばならない。それが一番大事なことである。

そしてそれが、

「仏道をならふといふは、自己をならふなり」(道元)

だと思う。

世間の物差しを蹴とばして、まずは主体性の確立ーそれが仏教者の第一歩である。

しかしながら、われわれが主体性を確立すると、「人間が万物の尺度」になってしまう。

 

◆人間の物差しの放棄

「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」(道元)

いったん確立された自己を、仏教者はきれいさっぱり忘れてしまわなければならない。つまり自己をゼロにしてしまうのだ。

それがすなわち「無我」なのだ。そういうパラドックス(逆説)を道元禅師は主張しておられる。

主体性の確立は、とどのつまりは「無我」である。

 

「自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」(道元)

万法とは、宇宙の真理である。

しかし、この宇宙の真理をわたしが体得する(悟る)のではない。

わたしが宇宙の真理を悟れば、わたし()が宇宙の真理の上に立つ。それだと自己()を忘れたことにならない。

逆である。

わたし()が、宇宙の真理(万法)に吸収されてしまうのだ。

それが「証せらるゝ」といった受身形の意味である

わたしはすでに人間の物差しを捨てた。それが「自己を忘れた」ことである

人間的な物差しを捨ててしまったその人間が、

そこで 仏の物差しを身に付けるのではない 

ややもすると、仏教の悟りといったものを、仏教で悟りを開くということを、仏の物差しを手に入れることだと思われかねない。

そういう理解の仕方をする人もいるが、道元禅師はそうでは【ない】と言っておられる。

 

わたしたち凡夫には仏の目に見えているものはわからないのだから、

素直に、

「わからない」「不思議」

でよいのである。

 

病気が治るのがいいか、治らないのがいいか、われわれにはわからない。短命が幸福か、長命が幸福か、所詮凡夫にはわからない。

わからないものをわからないまま、そのまま「仏のはからい」と信じさせていただくのが、「万法に証せらるゝ」である。

宇宙の真理 ーそれが仏だー に、自分自身をそっくり預けてしまえばいいのだ。

 

‥‥ ひろさちやさんって、ダライラマ14世に似ていて(つまり俗っぽく隣の親父みたいな印象)、敬遠していた時期があったが、どこから引っ張ってきたのか、上記の解説には凄みがある

 

● 勘違いから 悟ってしまった道元さん

道元さんって、思うに典型的な「日本語脳」で、大陸に渡って結構中国語を勘違いして捉えているなって、いたって面白い一面があらしゃる

 

『正法眼蔵』で、六祖慧能と五祖弘忍との会話(商量)の中で…… 

五祖「そなたはどこから来たのか?」

六祖「私は嶺南人です」

五祖「ここに来て、何を求めているのか?」

六祖「仏になることです」

五祖「嶺南人は無仏性である、どのようにして仏となるのか?」

 

‥‥ この公案についての道元さんの読み方は独特で、

「嶺南人は無の仏性である」(道元)

嶺南人には仏性が有るだの、無いだのとゆー話しではなくて、

どうしてわざわざ仏になろうとするのか、いま無の仏性であるのにと読み解きます

もう一つ…… 

…… 『涅槃経』にある、

《一切衆生、悉有仏性》〜一切の衆生は悉く仏性を有す〜

といった言葉を、道元は、

〜一切の衆生が「悉有」(全宇宙)であり、その「悉有」(全宇宙)が仏性である〜と読んでいます。

[※ 『【新訳】正法眼蔵』ひろさちや・編訳ーより]

 

‥‥ この一節は、漢訳された『涅槃経』を解釈したものですが、翻ってサンスクリット語で解釈すると、道元さんの訳の方がサンスクリット原典に近く正確なものとなるそーです

不思議な話ではあるが、伊勢白山道のリーディングでは、釈尊の正伝は道元さんに伝わった、つまり道元さんは「見神」しているとの見立てなのです

 

 

 

ついでなので、『正法眼蔵』からもう一節とりあげますと…… 

「自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、世界を真に見ることができない。
自己が自由自在に動くとき、世界もいきいきと生動する。」(ネット上で見られる道元の名言)


‥‥ 道元の名言として、あちこちで目にする現代語訳ですが、訳者が誰なのか、確かに不明です
この条りの原文だと思われるものを引用します


「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、

万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
※ 道元『正法眼蔵』第一巻「現成公案」より


‥‥ ひろさちやさんの現代語訳を参照してみると、
> 「自分のほうから悟りの世界に近づいて行こうとするのは迷いであり、
悟りのほうから自分を目覚めさせてくれるのが悟りである。」

 

‥‥ この一節からは、道元さんが「自力」に拘らずに「他力(神の恩寵)」までも抱き参らせて仕舞われていることが分かる
前段の「自己を運びて万法を修証する」を、

・西洋式に【初めに自我ありき】


後段の「万法進みて自己を修証する」を、

・東洋的に【初めに無我ありき】


と観たのは、鈴木大拙の弟子・秋月龍珉さんでした
彼の捉えた「無我」とは、「我が無い」ことではなく……
道元さん特有の読み方ですが……

「無という我れ」があること です、

世界そのものが「無の場所」であります

こーして纏めてみると、
前段の「自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、世界を真に見ることができない」も、
後段の「自己が自由自在に動くとき、世界もいきいきと生動する」も、
ともに「自己を中心にすえた(自己が主体となった)」視点であり、道元さんの原文にある、視点を主客逆転させた妙味が表されておりません
「自己が自由自在に動く」のは、「自分で」そーするからではないからです


「万法すすみて自己を修証する」の解釈は、


「 宇宙そのもの(万法)に溶け込んで自己が自由自在に動かされるとき、

(本来自己の内にある)世界はいきいきと生動する 」

とでも申しましょーか

この名言は親しみやすい意訳ですが、道元さんの意を汲んでいないとゆーのが私の意見です

 

ー道元さんの懐く「サトリ」の感じ方は、自力で掴みとるのではなく、自分をなくして溶け込むと云いますか、受動態で表現しておられる処が間々みられます

これはつまり、「他力」も包含するとゆーことです

一休さんが蓮如と肝胆相照らす仲だったよーに、案外と道元さんの出家主義と親鸞さんの在家信仰はフラクタルなものではないのかなと夢想しています

その意味でも、道元さんが深草で 在家信者のために執筆なされた「現成公案」とか「道心」の章 は、深く吟味味読する必要があるなと思っています

伊勢白山道に拠れば、聖なる十次元(十一次元まである)に参入するためには、神の恩寵が不可欠だと云われていました

聖ラマナ・マハリシとニサルガダッタ・マハラジとの差は、ニサルガ親爺に最後の一押しが足りない、つまり恩寵が降りていないことにあるよーに思います

与える者と受け取る者がひとつ、真我ひとつのありようは、道元さんの内にもみられるとゆー事で、仏道でもここまで行けるとゆー証しがあるのは欣ばしいことである

尚、ラマナ・マハリシと私は表記するが…… 

昨今の表記は、マハルシが主流のよーである

しかし、聖ラマナはタミール語を話したことから、マハルシ(サンスクリット語)よりもマハリシ(タミール語)の方が相応しいのではないかと私考する

            _________玉の海草


ヒンドゥーの叡智6️⃣〜 “ Knowledge ” 真我ひとつのありよう

2021-12-07 03:33:31 | 小覚

__ Knowledge、大文字に特別な意味を込めました

長年にわたって探し求めてきた 「サトリ (悟り・覚り」 とゆーか、長年にわたって苦しめられてきた 「サトリ」 について……

伊勢白山道で霊的な基本を学んだ御蔭で、つまり 「サトリ」 なんて、そんなに大仰な大したものじゃないよと認識した上で、それでも 「あるがままに」 自由にあるために何としても欠かせない、私が感じた 「真理への知慧 (Knowledge) 」 をまとめておきます

 

伊勢白山道推薦本である、 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの〜時間以前からあった永遠の真実』 の中から、シンプルによく要約されてある

22章 「自己覚醒は努力がいらない」

に沿ってまとめます

 

他ならぬこの本が、聖典級に偉大な処は、ジュニャーニ (賢者) の系統であるにも拘らず、ニサルガ親爺も著者のラメッシも共に 「真我」 とゆー用語を遣っていないことです

真我は絶対主体であり対象にはなり得ないために、それ自体をコトバで表現できず ( 「真我は〇〇である」 と言うことは出来ない) 、否定的表現のみが可能 ( 「〇〇は真我ではない」 と言うことは出来る) であるため、 「真我」 とゆーコトバ抜きでも対話には困らないわけではあるが…… 

ラメッシは、解説する場合には、 「意識」 とゆーコトバで統一して、 「マインド (心と訳される) 」 つまり自我的なものと真我を一緒くたにしない配慮がなされている

 

たとえば、伊勢白山道を例にとると、心の奥底に内在神 (真我) が隠れているといった表現をとっている

[ ※  伊勢白山道は引用禁止なので私の理解の範囲内で勘弁してもらいたい ]

心の一部が真我とか、自我が真我に 「なる」 と勘違いしている読者がいっぱい出てくるわけである、存在とは 「在る」 ものであり、 「成る」 ものでは決してない

つまり、存在と仮象 (現象) との峻別が出来ていない

「こころ」 などとゆー定義の定まらない不安定なコトバをつかっている処に、そーした致命的な誤解が生じる原因があるのである

 

ニサルガ親爺の口から出るコトバは、数学的な精妙さをもって一厘のゴマカシも感じられない、無学な煙草屋のおやじなのに、その御コトバはジュニャーニ (賢者) のそれなのだ

伊勢白山道の霊視では、もう一世生まれ変われば仏陀となれるそーだ、つまり神の恩寵による 「最後の一押し」 が今生でなかったものだから、聖ラマナ・マハリシの境涯には今ひとつ及ばないよーだ

ニサルガ親爺の口吻には、 「感謝」 が感じられないと言った伊勢白山道読者がおられた、最後の究極では「感謝」の形をした自霊拝つまり神の恩寵といったサイクルが必要不可欠なよーだ

 

かといって、聖ラマナの書物の方がよいかとゆーと然にあらず、聖ラマナは 「知識の道 (ジュニャーニ) 」 と「帰依の道 (バクティ) 」 とがご自分の経験のなかで渾然一体となっていて、ニサルガ親爺の如き整合性をもたない処があるのだ

代々賢者の道を辿った、ジュニャーニの系統に連なるニサルガ親爺の徹底ぶりには及ばない処がたしかにある、聖ラマナが詩的であり、ニサルガ親爺があくまでも散文的であるのはそーした立ち位置 (視座) の違いを証しているのかも知れない

 

とにもかくにも、この 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 は、オカルト (隠秘学) に彷徨った魂に安らぎをもたらしたことは間違いない

そして、わたしはこの書を熟読玩味して紙背に徹するほどに精読した結果、畏れ多くも推薦してくださったリーマンさんの真理表現に疑問を抱くよーになったのである

伊勢白山道に公然と文句をつけられるほどの存在論的確信にいたる基盤をつくってくだすった得難い書である、戦役とか無人島に一冊だけ持っていけるとしたら、わたしは迷いなくこの書を択ぶだろー

 

 

 

【画像= 私なりに一言でいえば、 

「霊的探求の旅を終らせる書」 である、真実へのアプローチを教えるアドヴァイタ (非二元) の智慧、いわば 「最後の知識 (Knowledge) 」 とでも云えそーなシンプルな観方を伝える、ここから先はコトバ (観念化の道具) が役に立たないどころか、かえって邪魔になる】

 

 

‥‥ 、マハラジはしばしば訪問者たちに強く勧告します。

「あなた方は言われたことについて何を質問してもいいが、ただし 自分自身を肉体と一体化せずに 質問しなさい」

 

なぜマハラジは、質問者が肉体との一体化を解除するべきだと主張するのでしょうか?

その直接的な答えとは次のようになるでしょう〜〜なぜなら、

一つの対象物その主体を理解することを想定できないからです。

つまりは、自分がその影である本体を理解することが不可能だということです。

自分自身を自立的実体として肉体 (それは単なる肉体精神装置、一個の対象物にすぎませんと一体化している観念的 「個人」 がいるかぎり、対象物にまったく影響されない絶対について、人が何かを理解することは可能でしょうか?

 

‥‥ 私なりの  [註]  をいれます

・ 「一つの対象物 (object、客体」 自我としての自分自身

・ 「その主体(subject)」 真我

・ 「影」 光に照らされたときの本体  (真我の影、つまり自我

観念的 「個人」 自我

・ 「対象物にまったく影響されない絶対」 = 自我および自我の創り出す対象物にまったく影響をうけない絶対主体の真我

真我 (絶対的に見る主体は  対象 (見られるもの・客体になることがない

それゆえに 「真我は〇〇である」 と現象世界の言葉で言うことが不可能である…… この場合、真我 = 〇〇であるならば、言葉で限定された対象である〇〇が真我であることになる

 

しかし、真我  ≠  対象 ()  であるからにして

「〇〇は真我ではない」 と否定的表現をすることは可能だが、 「〇〇が真我である」 または 「真我は〇〇である」 と限定 (言葉の制約によるして言うことは出来ない

とすれば、現象世界で私たちの知覚できるものは (私たちが主体となって、対象として知覚できるものはすべて、当然ながら真我ではない

 

>  「観念は思考から生じ、これらが一束になってマインドとして知られているものを形成する」 と彼 (マハラジは言います。

「考える」 とは、観念化、マインドの中で対象物を創造することを意味し、これが 束縛 です。

言葉は根本的に二元的で観念的なので、悟りへの妨げとなります。言葉はコミュニケーションのための一時的目的のためだけに役立つことができますが、そのあとではそれらは束縛です。

観念的に考えることを取り除く ことが、悟り、目覚めという意味であり、それ以外では、誰もそれを 「達成」 したり、 「獲得」 したりすることはできません。

「悟り」 は、どんなときにもどんな場所でもどんな人によっても、獲得されるべき 「物」 ではないのです。

マハラジの言葉を矢のように貫通させることが、この 【 直観的理解 】 をもたらし、それが悟りです!

 

> …… マハラジは 「 (直観的理解の効果を上げるためには、私の言葉が矢のように貫通しなければならないし、私は意識に話しているのであって、どんな個人に話しているのでもない」 と言います。

 

‥‥ 実に簡単な定義です

ヒトは 「考えること」 で、それを観念化します

そしてその観念を受容れることによって、自分自身を自ら束縛しています

 

例えば、グルジェフが皮肉めいて云っていたのは、

何の前触れもなく女が暴れるとき、毎度苦慮する男はそれを 「ヒステリー」 と名づけた、しかし、そのよーに命名 (概念をつくるしたからといって……

それが 「ヒステリー」 だと分かったところで (被害者は自分だけではないとゆー慰めは得られるが、それは一体何なのか、何が原因で起こるのか分かったわけではない、ただの対象化であり観念化であるに過ぎない

こんな事は世の中一杯ある、観念の遊戯・言葉遊びみたいなものである

 

「あなたが言わんとしていることは、 『私たち』 それ自身が観念的に考えることの一部であるということですね? 完全なる幻想ということですね ?

この段階でマハラジは、彼がいつも言ってきたことを繰り返しますーー すべての知識は観念的であり、それゆえ、真実ではない

このことを直観的に認識し、知識の探求をあきらめなさい。

 

> …… 最初にまず取り除くべき障害がある。

考えること」 、 「観念化」 、 「対象化」 、すべてが停止しなければならない。

なぜだろうか?

それは あるがまま は対象性のほんのわずかな影響も受けないからだ。それは、すべての対象物の主体であり、一つの対象物ではないので観察されることができない。

目はそれ以外のすべてを見ることができるが、それ自身を見ることはできない。

 

‥‥ 「あるがまま」 とは真我の状態、真我の絶対主体としての能動性を 「目」 で例えている (よく 「太陽」 にも喩えられる)

実際には、この絶対主体ですら真我には当てはまらない、分離がないから主体も客体もない

真我は、真我を知らない、真我を意識しない

「考えること」 「観念化」 「対象化」 は、真我にはまったく繋がらない、真我に決して導かない

 

>   「人は観念化を止めるために、何をするべきか、どんな努力をしなければならないのか?」 という質問に対するマハラジの答えは次のことですーー何もない。どんな努力もない。誰が努力をするというのか?

母親の子宮の中で小さい精子から完全に成長した赤ん坊になるために、あなたはどんな努力をしたのだろうか?

そしてそのあと、数ヶ月間であなたは無力な赤ん坊から幼児へと成長したが、あなたが自分の存在を感じるためにどんな努力をしたのだろうか?

 

自分の本質に覚醒することは、現象的努力を必要としない。悟りは達成されることも強制されることもできない。

それはそうする機会が与えられるとき、観念による障害が止まるときだけ、起こる ことができるだけだ。

それは、それが現れることができる空っぽな空間が与えられるときだけ現れることができる。

もし誰か他の人がこの家に住んでいるとしたら、私はまずそれを空っぽにしなければならない。

もし観念的 「私」 がすでに占拠しているなら、どうやって悟りが入って来ることができるだろうか?

 

考えることを止めようと積極的に努力をすることも無駄な練習であるし、それ以外のほかの種類の 「努力」 もそうである!

唯一の効果的努力は 真実を瞬間的に直観的に理解すること である。偽者を偽者と見れば、残るものが真実である。

今、実存するものが消えるとき、今、不在のものが現れるのだ。それくらい単純である。

実存するものの不在がその唯一の答えである。

 

‥‥  「私」 を家で喩えて、すでに 「自我 (観念」 が家を占拠しているならば、 「サトリ」 が訪れる余地はないと云ふ

家を一度元の (本来の状態 = 「空っぽ」 にしなければ、新しい何かが入ることは出来ない道理

先入観を、自分の家に住まわせていては、新たなものが入ってこない

同様に、自分の家に自我が棲みついている限り、真我のおとづれはあり得ない

この辺りは、道元さんの 『正法眼蔵』 現成公案の条りによく似ている

「自己を忘るる」 と、サトリの方からやって来るとな

            

ー 「現前に展開する世界は、すべて幻影 (マーヤーである」 とゆーヒンドゥーの世界観は首肯できる

ここで忘れてはならない事は、その世界観を受け容れている当の本人も幻影であるとゆー厳然たる事実である

ヒトは、真我そのものを観受できないにしても、何か偽りの実体 (実存については、たしかな感触を間違いなくもっているらしいことに私は驚いている

その感触が、ヒトをして真理 (真実に向かわせる原動力になっているのであろー

やはり私が不運に見舞われてきた事が、日常の実践の中で養われる堅実な信仰へと導かれたのだと思う

 

> 「不運に見せかけた幸運」 (オノヨーコ談、NHK 『ファミリー・ヒストリー』 より)

 

そして必死の彷徨の末に、伊勢白山道に邂逅できたことに心の底から感謝しております

信仰の本質は、設備もお金も外在する神も要らないこと、ただ内なる神に心を向けるだけでよいとゆーシンプルな生き方 (行き方) ……

その生きたお手本となるヒンドゥーの聖者たち、

おそらくインドに覚者が頻繁に現れるのは、その 「存在 (私は在る」 とゆーものへの知慧 (悟り・Knowledge) が本質を衝いているからだと思う

その究極にあるのが、真我実現、おそらくさしたる難事では実はないのだろー

           _________玉の海草