__むかし、ヴィットゲンシュタインの『反哲学的断章』が好きだった
内容はそこそこで、このタイトルが素的だと思ったので、ちょいと拝借しよーと思い、起承転結まで持ち込めない断片を 《玉の断章》 と名付けて、まとめて貼ることにした
● “ 正統なる神道家〜 副島種臣(雅号=蒼海)”
佐賀の副島種臣については、以前NHKで書家の石川九楊さんが解説した番組を面白く拝見しました
空海の神品に匹敵する書をのこした、史上唯一の書家であるとの評価でした
「カリグラフィー」の意味では堪らない書家なのでしょーが、副島蒼海の書は余技であるところに彼の真面目(しんめんもく)があると思います
書を専門に手掛ける「職業書家」では、決してないのである
外交官としては、大陸で提唱した「士大夫の道」でも注目され、政治家としても高度の教養を兼ね備える仁士として、西郷さんからも後事を託されるほどの有為な偉材でした
【画像=明治23年(明治天皇の恩赦の後)荘内藩によって発行された西郷さんの語録『南洲翁遺訓』の序文は、副島翁に依頼された】
そんな副島が、深く神道を修めた人であることを忘れてはならないと思います
本田親徳 に「鎮魂帰神法」を学び、大本教の出口王仁三郎に古神道を教えた 長沢雄楯 とは相弟子である蒼海は、本格の神道家なのです(山形県遊佐町蕨岡の大物忌神社拝殿の大額を書かれた有栖川宮熾仁親王は、王仁三郎の父御だと云われます)
[※ 薩摩藩士の子息で、「精忠組」では重く用いられた異能の親徳は、明治六年頃西郷さんの紹介で副島と会い、「帰神」による危急の見立てを伝えた、「明年早々西郷は衆に擁せられて兵を挙ぐるにつき未然に防ぐには種臣自ら赴いて説き東京に倶う外道なし。若し挙兵にいたらば災必ず汝の身に及ぶ故難を国外に避くべし」…… これにより副島は清国へ向かい、西南戦争の前後は日本に居ない]
本田親徳はまた、明治天皇に伯家神道を教えた 高濱清七郎 翁とは親友です
いま567感染者を激減させた「ファクターX」としてネットで注目されている今上陛下の「祝(はふり)ノ神事」とは、120年振りに挙行された伯家神道の秘事であるのです
それほどまでに古神道に精通した蒼海は、根本の意念からしてその辺の書家とは隔絶した境涯にあるのです
老子ー王羲之ー空海ー日本の入木道(青蓮院流など)へと連綿として流れる神仙道の意念は、天皇家でも脈々と受け継がれております
秋篠宮の修めた「有栖川流書道」がそれですが、副島翁は大正天皇の「書」を高く高く評価されておられるほどなので、その深淵は窺い知れません
まー、私しにとりまして書の道は趣味などとゆー生易しいものではなく、生き方全般につながる道標と云えるものです
伊勢白山道が、神道の書は「清」と「凜」だと喝破されていますが、高野山の両部神道、比叡山の山王一実神道、慈雲尊者の雲伝神道、現代では伊勢神宮内宮の荒木田神主の書にまで、日本古来の神道の「中空」性は観て取ることが出来ます
尊円親王の『入木抄』(1352年)より引用します
「古賢能書の筆のつかひ様は、いづくにも精霊有りて弱き所無し」
「能筆の手跡は生きたる物にて候。精霊魂魄の入りたる様に見(へ)候うなり」
‥‥ 「昔からよい書というものは、どこもかしこも生きていて、弱いところがない」とはその通りだと思います
現代書家の、白い紙に墨液を塗りたくっただけのよーな作品は果して「書」と云えるのか
王羲之伝来の「入木道」では、「大」の字ばかり、三年の間ひたすら練習させられると聞く
三島の龍沢寺(入木道の正統伝承者である山岡鉄舟が参禅した臨済宗の禅寺)の師家、山本玄峰老師(終戦時の鈴木貫太郎首相が参禅された)は無学であったが必死に筆字を稽古された、孫弟子の鈴木老師がその様子を書き留めておられる
> 「まず、紙を展べて筆を執る、そのとき、
・太い筆の軸の上に重い米俵を三俵ほど載せて、
・石工が、堅い石を刻むように、
・文字を石の中へ、突きさすように
して書きます。つまり禅定力をもって書くのです。丹田に気力を満たして書きこむという方法です」
[※ 鈴木宗忠『玄峰老師への追憶』より]
‥‥ 現代書道界は、このよーな「境涯の書」を、書道技術の拙さをもって本格的にとりあげることなく、傍流の位置に追いやってきた
ジョン・レノンは、白隠の書を床の間に掛けるためだけに、わざわざ和室まで新築したんだよ、あなたがたの書にそこまでの魅力があるのかい?
とはゆーものの、NHK大河『青天を衝け』の題字みたいに、ただの素人が書いたような「書」を「境涯の書」とは言わんから 💢プンプン
● “ 空海さんのサイン(署名)”
[2021-05-06 01:47:26 | 玉の每水(王ヽのミ毎)]
大乗仏教の祖、八宗の祖とも云われ、「小釈迦」の異名で景仰される龍樹菩薩……
『華厳経』にある「菩薩の52位」で、唯一最高位の52段の悟りまで辿り着いた人間は釈尊だけで、
次席の41段目まで至ったのは、わずかに龍樹菩薩と、唯識派の無著(アサンガ)菩薩だけだと聞く
空海の密教(秘密仏教)の淵源を辿れば龍樹に行き着くし、龍樹が阿弥陀の本願を明らかにして下さったことを衷心より感謝なさっている親鸞……
この御二方は、龍樹菩薩の後継者なのです
さて、なにかと気になる空海さんですが……
高校時代、書道部だったにも拘らず、三筆の空海さんを素通りした私でした(到底人の手になる書とは思えなかったから、王羲之にも肌身でそー感じた)……
はて、空海さんって、どんな署名してたかしらん?
つまり「空海書」と末尾に添えて落款(ハンコ)を押すのが、書家の仕上げ方だから
でも、空海さんは時代が古いから、禅宗の「墨蹟」みたいな作品としては遺ってはいないはず
とはゆーものの、かの『風信帖』(最澄さんにあてた手紙をまとめたもの)ならば、お便りだから「空海」の署名があろー
で、見てみると……
いやあ、驚きました、あの空海さんがカッコつけているのです ♪
「則天文字」といいますか、通常使われている書体ではなかったです
「空」の字はそのまま、「海」の字はサンズイ篇を「水」に見たて、「每+水」を縦に並べた漢字をお使いになっています
每(つねに)水、水象のイメージを大切になされたのかと存じます
[※ 同じ用法として、「峰→峯」「島→嶋・嶌」「崎・﨑→㟢・嵜」などがあります]
🔴 以下の4枚の貴重な画像は、『花筏(はないかだ)』と仰る、博覧強記の学術的サイトから、引用させて戴いた。(このサイトのリンクを貼っておきます、是非ご高覧いただき深掘りしていただければと存じます)
【この「海」の異体字は、かの『康熙字典(こうきじてん)』にも記載されているそうです。】
【画像= 空海の『ご請来目録』を、最澄が借りて書き写したもの。巻頭と末尾に「沙門空海」の文字が見えるが、さすがの秀才・最澄も書き慣れない書体に四苦八苦している様が窺えて、そぞろに可笑しい ♪
空海さんって、ほんとに変わり者だったんですね。】
やはり、宗祖として世間的に目立たせる必要があったのだろーか?
20年の留学生(るがくしょう)としての義務を自分勝手に破って、2年で帰国したものの…… 朝廷から入京のお許しが出るはずもなく、3年もの間、無駄に九州太宰府に留め置かれる
「密教の正統伝承者」(数多の中国人を差しおいて日本人の空海が指名された)として、洋々と帰朝なされた空海だったが、朝廷のお墨付きのある最澄とは、依然として置かれた立場が地位が余りにも違いすぎた
嵯峨天皇の寵愛を得るまでは、ご苦労が絶えなかった在野の巨人であったのである
> 書の極意は、心を万物にそそぎ、心にまかせ万物をかたどること。
正しく美しいだけでは立派な書にはならない。
心を込め、四季の景物をかたどり、字の形に万物をかたどる。
字とは、もともと人の心が万物に感動して作り出されたものなのだ。
[※ 空海『性霊集』より]
‥‥ 万能の天才空海と同時代に遭遇したがゆえに、最澄さんは比べられて気の毒であったが、しかし、
例えば空海さんが唐より持ち帰った品々の「ご請来目録」(上掲の画像参照)は、長らく空海さん直筆と思われていたが‥‥
延暦寺印などが押してあることから、実は最澄さんが書き写したものが現存するものだと分かった
つまり、空海直筆と間違われるほどに、最澄さんも能筆であられるのである
端然たる静けさにおいて、空海にまさる最澄であると私は思う
秘蔵っ子の泰範(最澄の「澄」が泰澄大師から由来するよーに、泰範の「泰」も同様であろー)は、最澄を裏切って空海になびいた様に、何をやっても抜群の器量を示した、並ぶ者なき空海さんであったが……
東嶺金蘭の最澄さんのよーに、後年に次々と宗祖となるよーな人傑を比叡山ならぬ高野山で輩出することは遂に叶わなかった
空海さんが出来過ぎていただけで、墨蹟で観る限りは、最澄さんの書に匹敵するよーな鎌倉時代の宗祖はおられない
伝承の難しい密教の不安定性に対して、比叡山の開かれた顕教は防波堤とゆーか土嚢(どのう)のよーな重要な役割は担ったことと思う
この陰陽が必要不可欠だったのだと思う
東密(真言宗)と台密(天台宗)は、これまた最澄の後を継いだ、天才の慈覚大師・円仁によってバランスを取るに到った
ー「正しく美しいだけでは立派な書にはならない」
とは、いかにも山野を自由自在に駆け巡った空海さんらしい
「万物をかたどる」、象る、つまり字の形に森羅万象を映すと云われている
このあたりが、スーパーエリート最澄さんが在野の自由人空海さんにどうしても及ばない処だと思われる
_________玉の海草