『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

【自分回帰】 伊勢白山道とは〜 渡ったら 「筏」 はいらなくなる

__ おもえば、伊勢白山道のコメント欄📝で、出禁を喰らったのが、このブログを始めるキッカケでありましたな。

ほぼ二年を経て、伊勢白山道へ投稿した拙稿をまとめたり、加筆🖌️したりして、まあまあの密度の記事が書けたかと思う。

ブログ『伊勢-白山 道』なくば、この程度の記事すら書けなかったことは確信がもてる。まとめられて良かったと芯から思う。

 

伊勢白山道のコメント欄📝に投稿するということは、どーゆーことだろう、いまどのくらいの人数が閲覧しているだろう?

稲垣足穂は、みずからの読者が4000〜5000人位であろうとの実感から、その心ある少数の読者に向けて執筆していたものである。

わたしも、それに似た思いはあった。伊勢白山道では、かなりの初期に5000人の読者はクリアしていたから、コメント欄投稿の初手から、作家としての足穂より恵まれた環境だと思ったものだ。

 

どうしても、同胞たる日本人(まっとうな日本人)の耳に入れておきたい逸話なり物語があった日本が大好きな人びとと、そのエピソードを共有したかったのである。

その対象となる読者としては、伊勢白山道を読むほどの日本人なら資格充分じゃないかと思い、読書三千冊のうちに胸にあたためてきた「ある意地やある粋」を披瀝してみたいと思った。

その反応も、即座に得られるのがコメント欄の良い処でもある。けっこう励まされたし、血肉となった貴重な識見も多かった。(あくまでも初期〜中期の頃の話です)

 

目的は叶えられた、第二の目的ではあったが。

第一義は、やはり秘儀参入である。霊的な境涯を上げることで、新たな景色を見ること。これについては、何とも言えない。すでに、リーマンさんから授かっているようでもあるし、気づいてないだけかも知れない。

 

本来の目的は、ほぼ完遂できたようなので、ここで一度もとに還ろうと思う。伊勢白山道から距離をおく。

いままで通り、記事は毎日拝見することは変わらない。

・国難の予知

・防災グッズの情報取得

などの霊視情報は貴重なものだからだ。幾つか取り寄せて使ってみたことがあるが、とても重宝している。(そもそも、伊勢白山道で「Amazon」を推薦されなければ、ネット通販を利用することはなかったであろう。)

 

さて、「伊勢白山道から離れる」 と一言でいっても…… 

自分の祭祀と伊勢白山道の祭祀とが渾然一体となって、分離しようにもそれは不可能である。

意識の持ち方とかは、まるで伊勢白山道を知る以前とは別物なのだが、祭式や外的な要素はあんまり変わりはない。

見た目で、一般家庭といちじるしく異なるのは、『短冊🎋位牌』くらいのものだ。

いま、やめようと思い立っても、ほぼ対外的には変更していないので、問題は無い。

伝統的な神祭りと先祖供養も、なかなか馬鹿にならないものだ。基本は伊勢白山道を学んだ後でも変えなくとも良かったのだから。

 

嗚呼、伊勢白山道読者なんて気を張って、あたかも新宗教に臨むが如く真剣に取り組んでいたが……   傍目からは、そんなに違和感はなかったのだ。

な〜んだ、いつ止めてもモーマンタイだったのだ。

ちょっと安心した。

 

伊勢白山道にお金💰払っているわけではないし、入会していない以上、脱会届けも不要である。

なにやら、コメント欄の読者がよく言っている「イセハクサンダー」というのは、いたって根拠の薄いものだったんだと改めて気付かされた。

 

これで、身軽になって、自分本来の湧き上がる気持ちで生きることとなる。

何故、こんな形式的な宣言めいた断りが要るのかというと、やはり伊勢白山道には多大なる恩義を感じているのだ。

実際、伊勢白山道に出逢う以前の私とは、別人になった思いがある。その有り難みもあって、やっぱり伊勢白山道を守ろうとするだろうから、そんな気持ちからも離れるために、止める意識は明確にしておかなければならない。

 

 

まー、何が変わるわけでもない。

根源神、天津神、国津神、眷属神に対し奉り、なにも崇敬の姿勢に変わりはない。

変わるのは、リーマンさんに対する姿勢だけであろう。

個人的に、リーマンさんの選択したやり方には不満があるし、文章をはじめとする左脳的な習熟度には不信感が絶えない。(まともに学校🏫の勉強をしていない)

阿難尊者もけっこう「お間抜け」だったが、リーマンさんも先行する社会常識に対する如才なさが欠如している。それなりに精巧なコノ世の仕組みに合わせて、ご自分を落とすことがお出来にならない。

証拠も幾つもあるが、いまは時節柄遠慮しておこう。

静かに烈しく、批判的精神(検証しようず)で臨めば十分であろう。

縁がないのかも知れんし、腐れ縁なのかも知れなかった。よく分からん。

 

 

というわけで、熱き思いの外、いたって殺風景ではある文面だが、ケジメとはそんなものである。

もう、コメント欄を守ったり、不埒な読者を諌めたりする義務はなくなった。やるべきことはやり終えたといってもよいのかな。

それにしても、リーマンさんのバイアスで操作されたコメント欄に成り果せたのだけれど、ポリティカル・コレクトネスもあり、コンプライアンスもあり、不自由なコメント欄になって仕舞ったものだ。

風俗資料としては、もはや二流になってしまった。

遺憾である、さまざまな日本人の精神内容や潜在意識を知ることのできる、得難きブログであったというのに!

 

わたしは、15年読者だが、伊勢白山道ブログの歴史は16年になるわけですね。

いまだに公的には、有名なブログではないが、なかなか強力な推薦人があらわれないからなんだろうな。

 

「絶対に引用禁止🈲」も、ハードルが高い。

著書を出版する際にも、編集部の校正が入らないのは致命的である。(眷属神からの啓示で書いている、日々の記事なので、編集部で推敲することは出来ない)

たとえナチュラルスピリット社のような、大手の出版社であっても、例を挙げればスピリチュアル界にあって「遍在」と「偏在」を取り違えるような編集者では使い物にならない。(同音で、まったく反対の意味を持つ語)

出版界の知的なレベルも、かなり落ち込んでいる。(紙の媒体の衰退が大きい、優秀な人材が入って来ないのだ)

リーマンさんのおかしな文体も、そうした編集事情のために、素通りして世間に上梓されてしまう。

日本語の執筆レベルが低いのである。

 

 

伊勢白山道の著書の場合、いままでに本📕の帯に推薦文を書いてくれた作家は、吉本ばなな女史しかおられない。

老子の柔訳にしても、初期仏教の経典の柔訳にしても、斯界の専門家からは完全無視されている。

ネットで、素人読書家の口の端にものぼらない。

批判や論考の対象にすらなっていないのだ。

世間の人びとは、信頼できる重要な誰かの「お墨付き」がないと、信じられないものである。

 

ー 藤井・新名人は、将棋を「技術」と言明していた。

さすれば、eスポーツも「意識だけで、体術の伴わない技術(指の反射神経は使うが)」と呼んでもよかろう。

脳の進化は、脳🧠単独ではありえない、身体の進化に伴って起こるものである。末端からのフィードバックが司令塔の存在感をいやましに増幅させる。

ひとつの思想が成立するには、その思想特有の体術(身体の操法)が内包されているというのが、私の持論である。

「武」においても、その特有の認識が現象化したものが「奥義🪭」であり「極意」であろう。

さて、伊勢白山道の体術とは何か?

なんの体系も、システムもない。毎日の記事によってもたらされる「思い癖」(弛緩リラックス系の言葉が多い)で、心身統一できるものだろうか?

 

ここまで思いを巡らせて、ある決定的な違いに初めて気がついた。

リーマンさんが幾度となく繰り返して「読者への返答」のなかで述べた、ある言明に重大な秘密がある。

直近の言葉を挙げれば……

このブログも、大神から、1度の縁を示せ。

が任務です。

1度だけ知らせれば、私の任務は終わり。

あとは個人次第のことです。

 

…… つまりは、原始キリスト教でたとえるならば、

・リーマンさんは「お知らせ」が使命であるということ。

・いわば、バプテスマ(洗礼)のヨハネであり、

救世主としてキリスト=イエスとして受肉したわけではないということ。

・では救世主とは誰か? それはリーマンさんが縁を示した一人ひとり、つまり(神性を預かった)私たちであるということ。

 

そういうことならば、単純な事実だが…… 

・リーマンさんは、霊的な指導者として露われたわけではない。

・伊勢白山道とは、リーマンさんの「スクール」ではない。

・伊勢白山道に、秘儀参入のプログラムはない。

 

 

__ 単純なことだったのです、

リーマンさんとは【メッセンジャー】だったのです。「お知らせ」するために来たということです。

まとめれば、次の拙稿(これはリーマンさんに掲載されました)となります。

 

🔴 明らめ(諦め)

たとえ、和歌も詠めず文章も日本語の流れるような調べのない拙いもので、その伝え方は情緒とは程遠いものであったとしても……

その伝えようとしている本源、つまり根源神が悪いわけではない。

ただ、間に入った人の伝え方が悪いだけなのです。

 

素晴らしい人がいる、しかしその人を伝えてくれたインフルエンサーが気に触るイヤな奴だとしても……

素晴らしい人は、素晴らしい人なのに変わりはないのです。

 

太陽☀️に、雲☁️がかかったようなものです。

薄暗い雲越しにも太陽の眩しさは充分伝わります。

それと同じことです。私はそーゆースタンスです。

 

…… これはつまり、

・リーマンさんを拝んではいけない。

・リーマンさんを信仰するわけではない。

ということです。

たとえ「聖なる道具」(易行道の「船」のたとえや、対岸へ渡す筏など)であっても、河を渡ったら要らなくなることが往々にしてあるのです。

自転車乗りを覚えるときの、補助輪に似ています。

 

そういう「キッカケ」によって、遺伝子🧬が変異することもあるでしょう。

すべての経験を刻んで、いまの遺伝子があります。

そのようなベクトル(力✖️方向)が〜 「往相」や「還相」のようなものが〜 ある流れの方向があるということです。

グルジェフの「創造の光」、グノーシスの「流出」、あるいは「滲透(オスモーズ)による認識」もそうであろう。

        _________玉の海草

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「小覚」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事