『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 いやな日本語〜 「感謝です」 に再ダメ出し❌

2022-01-27 12:11:30 | 日本語

__ブログ『伊勢-白山 道』に投稿して、掲載されたものと不掲載だったものをまとめてみる。個人的にはよく出来ていると思ったのだが…… 

 

「感謝です」は、敬語ではない

ーこの間、新庄ビッグボスがこう発言した

「報道関係の皆さんが球場に来てくれることによって選手の気合の入り方が変わることに【感謝です】」

 

個人的には、「感謝のことば」には敬意を込めるものだと思う

そして、「感謝のことば」は、ぞんざいな話しぶりであってはならないと思う

 

それで、私は「感謝しております」を使うのだが……

この場合、「おります」と謙譲(へりくだり)の表現を添えているので……

「感謝しております」は、敬語である

それに対して、「感謝です」は、普通に気持ちを述べているだけで、尊敬あるいは謙譲の意味は含まれていない

つまり、「感謝です」は、敬語ではないのである

「感謝」に「です」を付けただけの丁寧語である

 

同じような言い方に……

・「お世話様です」(目上には使えない、メールの冒頭にも使えない)

・「お疲れ様です」(秘書検定では、目上にも使ってよいとされている)

・「ご苦労様です」(目上から目下にしか使えない)

・「恐縮です」(この言葉自体に身を縮めるような畏れや謙虚さを含んでいるため、正式な場でも使ってよい)等がある

 

わたしが、そのなかで特に「感謝です」という言い方に、異様なほどの違和感を抱くのは何故なのか、いままではっきりと分からなかった

しかし、どうやら「感謝です」という言い方には、当然あってしかるべき「敬意」が込められていないことにようやく気がついた

「感謝」という厳粛な気持ち、真心をこめて発するのが「感謝のことば」なのだと思う、そこには相手に対する敬意が伴うはずである

 

たとえば「生かして頂いてありがとうございます」は、「頂いて」が謙譲表現、「ございます」が丁寧表現で、立派な敬語である

神に対し奉っても、ご先祖に対して発しても、ふさわしい言葉・言い方となっている

それに対して、「ご先祖様に感謝です」と言ったらどうなのか

「ご先祖様に感謝します」でも同様である

要は、この二つは普通の丁寧な言い方なのであって、そこに敬意は込められていない

「感謝しております」「感謝いたします」ならば、謙譲の意味をもった敬意表現である

「感謝する」で、一語の動詞なのである

その「感謝する」を丁寧に言ったものが「感謝します」である

そして、動詞の「感謝する」の頭のみ使って、末尾の「する」を省略して、軽〜く言い回して、丁寧語の「です」を付けたものが「感謝です」である

 

ー「感謝です」って、随分と軽薄な言い方なのだとお分かり頂けるだろうか?

「感謝です」と口から出てくる、その薄っぺらい日本語感覚、中身の無さが問題なのである

わたしは50代の読者だが、「感謝です」なんて言っている人は到底日本人とは認められない

さらに云えば、たとえ「感謝しております」と正しい敬語を口にしたとしても、相手に対する直接的なお礼表現である「ありがとうございます」を必ずそこに添えるべきだと思う

 

 

こういう日本語は語り継ぎたくない

「報道関係の皆さんが球場に来てくれることによって選手の気合の入り方が変わることに❌感謝です」(日ハムの新庄ビッグボス)

  「一度プロ野球選手として死んだ身。

僕をもう一度生き返らせてくれたファイターズに❌感謝です」(トライアウトから日ハムに入団した古川選手)

__ そして、

忙し◯こと◯も、感謝が大切です。

そ◯成れる健康にも❌感謝です

__ これは、リーマンさんの記事から引用しました[※  私注;『伊勢-白山 道』から引用するのは禁止されているので、一部伏せ字にしました]

上記のお二人は、大学教育をうけていませんから、リーマンさんと同列に並べるのは不公平かも知れません

でも、お三人とも同じレベルの日本語です

以前、これからリーマンさんのブログを研究する者があらわれるとの予言がありました

わたしは、一日本人として、この手の日本語を後世に伝えたくはありません

そういう思いを懐いている者がいることを、ここに表明しておきたく存じます

「感謝です」なんて、文章に書く時代が来るとは……

本の形で、あるいはデータとして残ることに同じ日本人として恥かしさを覚えます

ただし、こうして文句を云えることにも感謝いたしております

 

[ 悲しい追加:2022-10-14 の拙稿より

ついきのう、テレビ画面をみて、烈しくSHOCKを受けたのだが……
50周年のユーミンのアルバムが、ランキング一位になって、彼女が御礼のコメントを述べる映像を観ていたら…… なんと、あのユーミンがですよ、
「❌感謝です ♪」と言っておった。
あの、言葉の魔術師との形容がサマになる、数少ない作詞者であるユーミンが、近年流行りの短縮化表現「感謝です」を口にするとは、何たる時代なのだろう。そのうち、公の席でも使うようになるだろう。
(私は、厳かな感謝の気持ちを短縮して言うのは大反対である、「感謝です」に感謝の意は乗らない) ]

 

 

__ ことばは丁寧ながら、われながら充分皮肉のきいた辛辣さではあるね、後段の投稿“こういう日本語は語り継ぎたくない”は、不掲載でした

「悪貨は良貨を駆逐する」とゆー諺は、言葉にもあてはまりそーだ

一般大衆から広くつかわれるよーになった言葉は、たとえ伝統的な日本語と比べておかしくても、また文法的に間違っていたとしても、その言葉が定着してしばらくすると辞書にも書き加えられる

だから、日本語とくに口語は、国民の総意で決まるのである………… (以前に、「顔晴れ(=頑張れ)」と書いていたスピ系団体があったが、伊勢白山道でも「ありがとう御座位ます(=ございます)」と書いていたことがあり、いまだに呪文のよーにそのまま書いている読者が存在する……   日常的に本を読まずにネットでも限られたブログしか読まない無学な人は、ほんとうにそー書くものだと思っているから手に負えない、フォロワー数の多いブログ主は自分の記事の文章について、社会的責任を果してもらいたいものだ)

それだけに、後世の日本人に手渡せる言葉をつかいたいとゆーのは、私の偽らざる心情である

 

『うっせいわ』とゆー十代の若者がつくった歌が流行ったが、あれを彼女が生涯歌い続けなければならないことに、私は切に同情する

一時の気の紛らわしのために、こんな幼い歌をリリースして世間でヒットする、これは有名税どころではない負債を背負いつづけねばならない

この歌をピックアップして流布させた大人には、より責任があろー

日本は、なるほど「子どもの国」である

            _________玉の海草

 


裏の日本〜 奇書 『日本のまつろわぬ民』 抜き書き (4)

2022-01-25 01:54:32 | 歴史・郷土史
__以下の引用は、水澤龍樹『日本のまつろわぬ民〜 漂泊する産鉄民の残痕』に拠っている。
今回が最終回です。まことに有り難うございます。
 
 
 

> …… 博打の現場を、鍛鉄で火花を散らす「鉄火場」と呼び、生意気な若僧には「焼きを入れ」、老いぼれると「焼きが回って」衰える。また、怠惰な者や意気地なしを「鈍(なまくら)者」と嘲るなど、博徒の「業界用語」には、鍛冶をルーツとしいるものが多いのである。

__ 映画で「股旅もの」ってなんでこんなに沢山あるんだろーと思っていたが、理由があったんですね。国定忠治の伝説もまた違った眼でみることが出来そーです。

 
> …… 関ヶ原の前後は、乱世に「遅れてきた青年」たちが徒党を組み、異風な身なりや突飛な言動で世を騒がせていた、ご存知かぶき者(傾き者、歌舞伎者)の時代であった。
在野の民俗史学者 田村栄太郎は、著書『考証忍者物語』のなかで、このかぶき者の首魁の一人であった大鳥一兵衛(いっぺえ、逸兵衛、逸平)を近世の「侠客の祖」と見なし、鉱山に関係が深い修験道と一兵衛とのつながりを指摘している。
> …… この大鳥一兵衛には、本稿で忍者の可能性を指摘したことがある幕府の代官頭、かの大久保長安に仕えていたという前歴があった。
> …… 博徒のルーツは神意を占う職人であり、巫女や神官、陰陽師のような神々の世界に通じている存在であった…… 
> 博打は世襲の家職ではない。非行に明け暮れた青少年が、連座による処罰を恐れる親族により勘当され、現在の戸籍に当たる人別帳(にんべつちょう、宗門人別改帳)から籍を抜かれて無宿になる。たとえ、どこぞの借家に定住していたとしても、公的には浮浪者の扱いになるのである。この正業に就けなくなった無宿者たちが、生活の糧を得る手段として、博打や賭場の経営を生業とした。
ただし、賭場や縄張りの経営、諸国に張り巡らされたネットワークや各種の儀礼など、江戸時代に始まる博徒の構造は、元祖の鬼たちが築いたものに違いない。
たとえば生国の紹介から始まる、仁義という初対面の挨拶は、同じく鬼の末裔とみえる山窩の自己紹介である「たまごと(魂言)」に通じているのである。
> …… 漂泊者たる反体制的な鍛冶・鉱山師、すなわち鬼の末裔が、近世の封建体制下でとった擬態の一つが博徒であった…… 
 
 
> …… 法皇(後白河院)が生涯のうちに急峻な熊野道を34回もたどり、熊野詣をしていた理由の一つとして、情報収集があげられる。熊野は修験の聖地であり、全国の「山伏=天狗」が集まる土地である。
一説に、義経の側近である武蔵坊弁慶が、源氏に合力した熊野水軍の総帥、熊野別当 湛増(たんぞう)の息子とされることも、法皇による斡旋をうかがわせる。
さらに、奥州産出の黄金を商う金売吉次(かねうりきちじ)という商人、すなわち鍛冶・鉱山の類縁が、若き日の義経を奥州へ伴い、藤原氏の棟梁である秀衡に紹介したという伝承にも、法皇の関与が感じられるのである。
 
 
__ 「遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん」とは、稀代の風流人であらせられる後白河院にして、はじめて自然に口に出る至言であるのかも知れません。
この、無垢な童心こそが、真におそろしく真に芸道を極めるよすがともなりましょー。
 後白河院の御代に、なにか目に見えぬ諸力が皇室にはいったよーに思います。
 
> 鎌倉末期に編纂された神仏混交の神道書『天照太神口決(あまてらすおおみかみこうけつ)』には、歴代の天皇が即位する際に「四海領掌の法」という、特別な「荼枳尼天法」が修されていたことが記されてある。同書によると、この呪法を受けない天皇は「王位が軽く、天下を掌握することができない」という。
また、先の『外法と愛法の中世』(田中貴子著)に抄録されている 室町時代成立の『即位灌頂印明由来事』によると、藤原摂関家の桎梏から脱し、院政期への扉を開いた後三条天皇の即位の際に、仁海の弟子である成尊により「荼枳尼天法」が修されたことが起源になっているという。
この由来の正否は知れないが、中世から近世まで、言い換えると、明治政府により神仏が分離されるまで、天皇の即位の礼に際して、この「荼枳尼天法」が修されていた可能性がある。
 
 
__ ダキニ天はインドの女夜叉で奪精鬼と聞くが、たしか空海が請来したんではなかったかな? インド本国ではあまり信仰されていないとかで、大黒天から調伏された過去がある天部の神格である。
眷属のジャッカル(中国では野干)が、わが邦の狐に似ているから、稲荷大神に習合されて、いっぱんに「派手なお稲荷さん」になった。
 
外宮系統のウカノミタマ命(稲荷大神)は、伏見稲荷大社が著名だが、お狐さんが稲束を口にして日本中に運ぶ神道のイメージである。
 
いっぽう、豊川稲荷(芸能人が信仰する荼枳尼天、愛知県の曹洞宗系の寺)は、仏教系のキツイ尊格である。かたや神道かたや仏教で、本来全然違うはずだが、わたしも眷属の相違以外はよく分かっていない。
ただ、ウカノミタマ命とダキニ天では、参拝したときのご神気がまるで異なる。とゆーか、荼枳尼天と聖天様(インドの象頭ガネーシャ神)は参拝しよーとすると足が動かない。浅草の待乳山聖天宮は足がすくんで石段を登れなかった怖い思い出がある。
一般にお稲荷さんは祀るのを怠ると、祟る。七代の富を当代に集中させるとゆー神理のために、祀るのを止めるといわば「請求書」が発動するものらしい。
この、皇室に採用された「荼枳尼天法」は一際気になる。
 
さっこん今上陛下が、明治天皇以来120年ぶりに伯家神道の「祝ノ神事(はふりのしんじ)」を挙行なさったとのお噂がある。
大霊格者であらせられる明治大帝が、みずから発令なさって伯家神道の祝詞やら諸々の神事を禁止したと伊勢白山道で耳にした。
さもあらん、祝ノ神事は強力に作用して、たとえば皇室の結婚もなかなか叶いがたくなる程にガードが堅いらしい。
大晦日の夜に毎年挙行される、陛下が司祭なさる「四方拝」(長時間にわたり、終わったらおひとりで歩けない程疲弊なさる荒行だとか)には、道教の香りが強い。
帝国海軍の指針となった、明治天皇の御製「四方の海みな同胞(はらから)と思う世に など波風のたちさわぐらむ」には、荼枳尼天法の「四海領掌の法」の影が感じられる。
 
鳥海山大物忌神社の蕨岡口宮は明治以前は、阿倍一族の入り込んだ武装集団で、僧兵のよーな勢力をもって、鳥海山山頂を他地域の山伏と奪い合っていた歴史がある。
 
[※  現在、鳥海山山頂は山形県遊佐町となっているが、鳥海山麓に屯する幾つかの有力修験村同士の頂上獲得権争いは凄まじく、ある抗争では蕨岡側と秋田県矢島側双方で70人からの戦死者を出した有様で、その結果鳥海山の秋田県側は六合目付近まで荘内藩領(現在は山形県に編入されている)となっている、当時蕨岡修験者は荘内の酒井侯から感謝状を賜っている]
 
先達大先達と呼ばれた山岳行者たちによって、この修験道修行組織の長は「四天の司」(郷土史家・松本良一より)と尊称された。学徳兼備で武も抜きん出た傑物がその任にあたり、このだいそれた僭称には「荼枳尼天法」を修めていたのではないかと疑わせる節がある。さなきだに、天皇と呼ぶに等しい「四天の司」などと、学頭(龍頭寺)もあった武装僧兵組織(宿坊村)で呼びならわすものだろーか?
蕨岡口宮のある上寺地区の宿坊ご出身の郷土史家・松本良一は、地元中学校の校長もつとめた名士であるが、鳥海山修験の資料を生涯あつめていた。
しかし、あるとき突然の落雷により総ての鳥海山信仰の資料を焼失してしまった。この因果には、鳥海山の隠された闇の匂いがただよう。荼枳尼天のご発動ならば、あるいはと思わせる畏怖の念を伴う。
伊勢白山道の審神では、大物忌神は三輪明神と思えばよいとのことだった。古代日本で「物」とは、ご神霊や鬼を指す。
 
 
> 中国最古の地理書であり、戦国時代から秦、漢代にかけて徐々に編纂された『山海経(ぜんがいきょう)』を読むと、鬼門とは東海の度朔山(どさくさん)の東北にある門で、この世とあの世の通行口であり、鬼、すなわち死霊が往来しているという。
だが、あの世に通じているからといって、中国人は鬼門の方角を忌み嫌ったりはしていない。
本場中国の風水において、鬼門は凶と見なされていないのである。
また、日本でも、奈良時代までは鬼門を忌む風習が存在していなかった
そのため、平城京には鬼門封じの仕掛けがなされていない。
> …… 鬼門の禁忌は、奈良時代から平安時代にかけて、日本で生まれたものなのである。
では、なぜ、そのような禁忌ができたのかというと…… 。日本地図へ目を向ければ、おのずと答えが見えてくる。
平城京や平安京に拠る大和王権にとって、鬼門の方角とは陸奥国(むつくに、福島県、宮城県、岩手県、青森県、青森県、秋田県北東部)、すなわち東北地方のことであり、鬼門の先には、反抗的な原住民の蝦夷(えみし)が割拠していたのである。
 
 
__ 奥州(陸奥国)と羽州(出羽国、羽前羽後)・越州(越-こしの国、新潟県)は違う。つまり、現在の山形県から秋田県にかける鳥海山を挟んだ地域は「陸奥(みちのく)」ではないのである。
蝦夷の奥州とは違い、大和朝廷に割と知られていた土地だった。鳥海山が噴火するたびに官位を上げたりしている。
 
> 天平勝宝元年(749)に、陸奥国小田郡(宮城県と遠田郡涌谷町)から黄金が発見されたとの報告が平城京へ届き、大仏造立に奔走していた聖武天皇を狂喜させた。
> この奈良から平安時代にかけて続いた戦乱の原因が、黄金の採掘権を巡る、蝦夷と朝廷の争いであった可能性も否定できないのではなかろうか。
 
 
__ 平泉の黄金は、陸路で山形県まで運ばれて、最上川水運で北前船の拠点である酒田湊〜京都へと輸送されている。
奥州藤原氏三代目秀衡公の姉妹とか妻とか聞く「徳の前」が、家来の三十六人衆とともに、日本海の夕陽光に合わせて浄土街地・酒田を造りあげた。奥州藤原氏は婚姻により、安倍(本来は阿倍)一族の血を引いている。
 
> …… 日本刀の原型となった古代の蕨手刀(わらびてとう)が、主に東北地方から発見されている…… 
> 柄や鍔が、反りのある刀身と一体になっている共鉄造(ともがねづくり)の蕨手刀は、その改良型である後世の太刀と同じく、騎馬による斬撃を想定して作られた武器であり、朝廷側の剣とは形も使い方も全く異なっていたのである。
この蕨手刀をかかげた蝦夷の騎馬軍団が、歩兵を主体とする朝廷軍の前に立ちふさがっている情景を想像していただきたい。圧倒的に数で勝る朝廷軍が、30年間も苦戦していた理由が理解できるのである。
蕨手刀は、東北地方に多い鉄山での鉄鉱石の採掘や、砂鉄と餅鉄(もちてつ、川底の磁鉄鉱)の採取、蹈鞴製鉄や鍛造に関する技術と知識の結晶である。
 
 
__ 鳥海山麓の海沿いにある三崎公園(山形県遊佐町)から、国宝級の遮光器土偶やら大陸のシベリアン・ナイフが発掘されている。
日本海沿いはリマン海流の影響で、大陸から流れ着く船も少なからずあっただろーと思われる。
そんな経緯もあって産まれた蕨手刀から日本刀の太刀にいたる過渡期に、天国作「小烏丸(こがらすまる)」が作刀された。わたしは先祖の霊線によるものか、この両刃の刀に異様に惹かれる。なんとご先祖の平家重代の刀であると云ふ。
【伝説の刀匠・天国の作、古刀「小烏丸」】
 
 
> …… 金神は金気の精霊であり、鬼と同じく朝廷に逆らう鍛冶・鉱山師の象徴に相違ない。
> …… 艮(うしとら)の金神が最凶の存在…… 
> なお、この金神についての概念は、儒学を研究する明経道(みょうぎょうどう)を家業としていた清原氏の系統である、実務官人の清原定俊が平安後期に提唱した「金神七殺方禁忌」という方忌(かたいみ)が起源になっている。
 
 
__ 皇道大本・出口王仁三郎がよく言及される「艮の金神」、東北(ウシトラの方角)に隠された埋没神であると云ふ。
いわゆる東北地方の匂いとゆーものは、この神さまに由来するのではないかと最近頻りに思う。
東日本〜東北の大震災は、艮の金神の目覚めなのかも知れないと…… 
 
 
> …… 平泉(岩手県西磐井郡平泉町)を中心として開花した、奥州藤原氏三代の黄金文化は決して西国の模倣ではない。繁栄を導く知識と技術が、長い年月をかけて陸奥の地に蓄積されていた結果なのである。
 
 
__ 東北人の身贔屓で言うわけじゃないが、波瀾万丈で悲運な半生をおくった初代・清衡公の初発のこころざしは立派だと感じ入る。
東北の原野で、大和朝廷との無為な戦いで死んでいった無名の戦士を弔わんとする慈悲心のふかさが、浄土都市平泉の造成に向かう。
街全体が墳墓であり、鎮魂のための建造物で構成されている。
この世に、一時的とはいえ、「浄土」を現出させた心意気は物凄かった。
四代目の泰衡公は、なんや初代の遺志を汲み取り、あえて戰さを広げないよーにと敗けを選んだよーに思えてならない。
中尊寺は、天台宗ナンバー2の名刹である。奥州藤原氏四代の観音力がこの地に天台宗を根付かせる礎となっているよーに感じる。
誰も顧みなかった、野晒しにされた戦士の遺体に思いを寄せて、弔いの大伽藍を建立する、これが黄金の正しい使い方かも知れない。
 
 
> 平安後期の『傀儡子記』を読む限り、傀儡子は騎馬に長じた狩猟民の系統である。つまり、鉱脈のありかを占う巫女の側面を持ち、鍛冶・鉱山師と関わりがあった水上民の遊女とは別種の存在であった。
しかし、中世以降、傀儡子と遊女の間に微妙な混交が生じ、傀儡子が水や金属と関わりを持つのである。
たとえば、鍛冶神と海神の両側面を併せ持つ宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の放生会(ほうじょうえ)では、船上で人形が舞う傀儡子舞(細男舞−かしおのまい・神相撲)が奉納されていた。
この混交の原因は、傀儡子と遊女が、漂泊民の守護神であり、男女和合の神、もしくは道祖神としての性格も併せ持つ百太夫(ひゃくだゆう)をともに信仰したことにあったと思われる。現に宇佐八幡宮の末社として、百体(百太夫)神社が存在しているのである。
 
 
__ 道祖神=塞の神は、交通にかかわるが、性器を象ったご神体が多い。つまり男女の仲も、自然界の交通(コミニュケーション)であるからであろー。
タタラ製鉄でも、火床と書いて「ホド」と読み「ほと=女陰」の意味合いを付与されている。ひとの妊娠出産の神秘が、鉄つくりと相似していることを見抜いたのだと思う。金の精が道鏡の生殖力に結びつくわけである。
 
> そもそも、人形浄瑠璃の起源は、全国の蛭子(恵比寿–えびす)神社の本社である西宮神社(兵庫県西宮市)に仕えていた傀儡子たちが、主祭神の蛭子と末社の百太夫が習合した神の依代である人形の「でこの坊」を操り、諸国を巡って門付(かどづけ)芸を行っていたことにある。
この門付芸に三味線の伴奏が加わって人形浄瑠璃の原型が成立、瀬戸内海を渡り淡路島で興隆し、さらに阿波(徳島県)へと波及して、人形浄瑠璃の本拠地を形成していくのである。
> …… 人形浄瑠璃のルーツとなった蛭子も、それが興隆した淡路島も、古代の大和王権にとっては好ましくない存在であった。すなわち「鬼=反体制的な鍛冶・鉱山師」とリンクしていると考えられるのである。
事実、淡路島の南あわじ市には古代の蹈鞴製鉄の跡があり、鞴の口や鉄の溶解屑である鉄宰が出土しているという。
 
 
__ 現在の形で、人形浄瑠璃が遺っているのは、作家・夢野久作の父上である杉山茂丸(右翼の大物、頭山満の盟友)の、度が過ぎた道楽の御蔭をこうむっている。
 
 
🔴「金太郎」の伝説
> 『黄金と百足』(若尾五雄著)によると、鋳物で知られた吉備の阿曾(岡山総社市)、それを販売していた旧足守村(岡山市)、足尾銅山(栃木県日光市)、別子銅山(愛媛県新居浜市)の別名である足谷など、「アシ」がつく土地は金属や鉱山に関係しているという。
また、『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)には葦・芦(アシ)の根に水酸化鉄が沈殿し、鉄バクテリアの自己増殖によって褐鉄鉱の団塊となり、蹈鞴製鉄の原料になったことが紹介されている。
つまり、足柄(足柄山の金太郎)とは、製鉄や金属に関係した土地であったことが、より明確に見えてくるのである。 
> 安永7年(1778)刊行の川柳句集『誹風柳多留』に残された「金太郎悪く育つと鬼になり」は、含蓄のある句なのである。
> …… 柳田國男は著書『妖怪談義』のなかで、「山姥がいる地方には必ず山爺(やまちち)がいる」と指摘している。この山爺とは一つ目、一本足の妖怪であり、その起源は一つ目小僧や一本蹈鞴と同じく、『日本書紀』に記された鍛冶神、天目一箇神に通じている。つまり、山爺は零落した鍛冶神であり、「鬼=アウトサイダーたる鍛冶・鉱山師」に相違ないのである。
> …… この相方の山姥は、山内の蹈鞴場への出入りが許されていた唯一の女性、つまり職長の村下(むらげ)や補佐役の炭坂(すみさか)、配下の番子(ばんこ)たちが製鉄の作業している最中に、炊事を担当していた宇成(うなり)の象徴といえるのではなかろうか。
 
 
__ 金太郎の母が、山姥(やまんば)だったと言い伝えにある。マサカリも鍛冶屋らしい装いである。
鬼退治の源頼光四天王の坂田公時→金時→金太郎と変遷する。鬼として異能をもっているから鬼退治が出来るのである。
 
 
🔴「桃太郎」の伝説
> …… 『陰陽五行と日本の民俗』(吉野裕子著)によると、古代中国において、桃太郎の母胎である桃は、木火土金水の五気のなかで最も堅固な金気の果実、すなわち金果と見なされていたという。
この陰陽五行思想が渡来した日本でも、桃は辟邪(へきじゃ)の金果であり、黄泉から逃走した伊邪那岐命が、桃の実。投げて黄泉の軍勢を退けたという話が『古事記』に残されてある。
また、平安中期の法典『延喜式』には、大晦日に宮中で行われた追儺(ついな)の儀式の際に、鬼を追い払う呪具として桃の木の弓や杖を用いたことが記されてある。
 
 
__ 桃の果汁は、いまでも特別な成分をもっていて、一際洗いおとしにくい。あのどろっした風味は格別な味わいである。
 
 
> 陰陽五行思想によると、桃太郎の供である猿(申)雉(酉)犬(戌)も十二支の内の金気に配当されている。同じ十二支の獣なら、虎(寅)や龍(辰)の方が頼りになりそうだが、このニ獣は木気であり、金属神の申し子である桃太郎にはふさわしくないのである。
> …… 猿は山の猿神であり…… 猿田彦や鍛冶・鉱山師の一党である小野猿女氏に通じている。
> …… 犬も山の犬神であり、探鉱と狩猟の神であって、蠱毒(こどく)や憑き物の系統に入る犬神とは異質である。
『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)には、「『犬』とは製鉄民の間では、砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人々の呼称である」との一文がある。
また、同書によると、鉄の在り処を求める行為を神事では「狩」と表現したという。
> …… 雉も山の雉神であり、石川県と岐阜県にまたがる修験道の聖地、白山への登山道である白山禅定道の小原峠(福井県勝山市)には、白山の開祖とされる奈良時代初期の僧、泰澄大師を雉神が先導したという伝承が残されている。
> …… この猿、雉、犬が道案内の御先神であるからこそ、桃太郎は神に捧げる神饌(しんせん)として黍(きび)団子を与えるのである。
> …… 『鑠神(しゃくじ)』(前島長盛著)によると、打出の小槌は、鉱山の利権を象徴しているという。
> …… 吉備中山(岡山市)の吉備津神社の縁起…… 温羅(うら)
> …… 古代の朝鮮半島の人々は鉄鉱石を炉で溶かし鋳鉄(ちゅうてつ)を得ていた…… 
> 『青銅の神の足跡』(谷川健一著)によると、蹈鞴吹きのような砂鉄から錬鉄や鋼を精錬する方法は中国大陸の江南から海路で日本に伝わったとのことである。
> 鍛冶・鉱山の知識と技術は、南方の植物である稲とともに、江南から海の道を通り、この島国へ渡来してきた。
黒潮を渡る海人は鍛冶・鉱山師であり、農民であり、また鬼であった。
鍛冶・鉱山の技術と農業は一つのものである。また、鬼と人も一つのものなのである。
 
 
__ 中国の江南から伝わった製鉄技術は、おそらくヒッタイト王国からシルクロードを通って徐々に伝播してきたものだろー。
鉄器のもつ文明的意味をもう一度考えてみる必要がありそーだ。
鉄がなければ出来なかったこと、製鉄とゆー極めて特殊な技術がいかにして生まれて、伝わっていったのか。
鉄工所につとめた経験から云えば、鉄を扱う人々は例外なく短気で怒りっぽい。これは鉄の帯びる磁気が関係するのか、なんらかの体内成分に作用している気がしてならない。
それゆえ、鉄の民は一種独特の雰囲気をまとい、農耕民とは違った風情の集落を営んでいたのではないかと思っている
        _________玉の海草
 
 
 
 
 
 

裏の日本〜 奇書 『日本のまつろわぬ民』 抜き書き (3)

2022-01-24 13:57:42 | 歴史・郷土史
__藤原摂関家や歴代の幕府から日陰においやられた「伏ろわぬ自由民」については、記しておきたい。
 
以下の引用は、水澤龍樹『日本のまつろわぬ民〜 漂泊する産鉄民の残痕』に拠っている。
厚く御礼申し上げたい。
 
 
この本の帯に「鬼をめぐる暗号を読み解く」とある。
世間には、それが鬼の現れとは知られぬままに流布している昔話が幾つか存在する。
たとえば、
河童
小野小町伝説(小野猿女氏)
猿面冠者秀吉
弓削道鏡の巨根伝説(金精神、金屋子神)
髑髏(どくろ)本尊
摩多羅神
真言立川流、天台玄旨帰命壇
一つ目の天目一箇神
傀儡子、遊女、遊廓
忍者、修験者、能役者、悪党
上州の博徒
国栖、土蜘蛛
外法荼枳尼天
安倍晴明と陰陽師
足柄山の金太郎伝説
蛭子と恵比須神
桃太郎と温羅(うら)の伝説 等々
 
 
これらすべて、「真金(まがね)」とよばれた「鉄」に絡めた物語なのである。
ご興味のある向きには、直接この名著『日本のまつろわぬ民』にあたってもらって、正史と呼ばれる歴史の裏面に追いやられた日陰者たちに思いを致していただきたい。
 
今回は、さまざまな章より任意に引用する。
「__ 」以降が私の声(地の文)である。
 
 
🔴「遊女」の本来の意味
> 『古事記』の「天岩戸」の項…… 
> 天照大神が隠れた岩戸の前で、ほぼ裸体の天宇受売命(あめのうずめのみこと)が神がかったエクスタシーの所作で舞い踊る様子や、それを見て八百万の神々が笑うことを指して「楽ぶ(あそぶ)」と記しているのである。
また『古事記』では、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)に射殺された天若日子(あめのわかひこ)の遺体を納めた喪屋(もや)で、八日間にわたり家族が歌い、舞ったことも「遊び」としている。
 
> 江戸寛政年間(1789〜1801)の『摂津名所図会』に記された住吉神社(大阪市西淀川区野里)の一夜官女、もしくは一時上臈(じょうろう)など、乙女が神の一夜妻となって、子孫繁栄や豊漁・豊作を祈る神事が諸国の神社に残されている。
『遊女と天皇』(大和岩雄著)や『ヒメの民俗学』(宮田登著)によると、これらの神婚のルーツは、神の役を演ずる神官や土地の長老が、祭日の夜に巫女と交歓した「神遊び」の神事にあるという。
以上の事例から、神を祭るための性的な没我の舞踏や宴、死者の復活や鎮魂のための歌舞音曲、肉体的に神と交わる豊饒儀礼、これらのすべてが遊びであり、天宇受売命や一夜官女などの遊ぶ女、すなわち遊女の正体が、神界に通じる巫女であったことがうかがい知れる。
巫女に純潔を求める思想は、儒教やキリスト教の倫理に影響された、はるかな後世の所産にすぎないのである。
事実、天宇受売命の子孫は猿女(さるめ)氏となり、鎮魂祭の演舞や、国家の豊饒儀礼である大嘗祭、新嘗祭に供奉する「巫女=遊女」の猿女(定員4名)として、氏族の乙女たちが宮中に出仕していた。
また、平安初期の『令集解(りょうのしゅうげ)』によると、垂仁天皇の庶子である円目王(つぶらめおう)が祖となって、天皇崩御の際に、遺体を仮安置した殯宮(もがりのみや)で鎮魂の祭事を挙行する遊部(あそべ)が成立したという。
さらに、近世の遊郭にも「巫女=遊女」の名残りがあり、客を「大神(だいじん)」客の取り巻きを「末社」と呼び、最上位の遊女には宮中の「巫女=遊女」の格式をもとにして、高等官である太夫の位がつけられていた。
遊郭の宴や床の作法は、「神遊び」の形式を模したものだったのである。
 
> マチ針の話は、小町に対する誤解にほかならない。彼女は「大神=天皇」に仕える一夜官女であったため、他の男性と交際できなかったのである。
 
 
__ マチ針は糸を通す穴がない、と小野小町を貶める噂が流布したのは、反対勢力がいたからなのだろー。
うちの近所に鎮座まします八幡宮の宮司は、小野小町の父にあたる小野良実(出羽国の郡司)をご先祖として、約1200年代々「小野」を継いできた名家だが、小町が秋田に帰るときに一夜泊まっていったとゆー伝承があるそーだ。
すこし離れた所に「小野塚」なる墓地があり、千軒の集落があったと伝わる。渤海国から庄内地方へ千人の移民があったとする史実に照合する。小野小町の生誕を西暦800年代前半とすると、700年代の移民と辻褄が合う。
その小野塚のある熊野神社(庄内町狩川)は、まさにタタラ製鉄の拠点であった。
 
 
> …… 水辺の巫女をルーツとする平安の遊女たちは、淀川ぞいの淀津(京都府乙訓郡大山崎町)や神崎(兵庫県西宮市)、江口(大阪府東淀川区)などの宿を拠点とし、水面に小端舟を浮かべて客を引いていた。真の意味での「水商売」をしていた彼女たちは、女性の長者に率いられた遊芸のプロ集団であり、行動の自由を奪われ、管理されていた江戸時代の遊女とは異質な存在であった。
また、社会的に卑賤視されていたわけでもなく、江口の遊女であった丹波局は、後白河天皇に寵愛され、承仁法親王の生母となっているのである。
 
 
__ 小野氏は定住民としての顔と漂泊の産鉄民としての顔の両面をもつ。小野氏と霊的な猿女氏とが結合した小野猿女氏の中では、「地質や地下の水脈の卜占透視」が猿女の女性の役割であった。
一族の誇りである小町の物語を全国に流布したのも彼らである。
そんな彼らの血筋から、戦国時代の末期から江戸初期にかけて「小野於通(おつう)」を名乗る幾人もの女性が現れる。
初代松代藩主の真田信之は、京で小野於通(おそろしく教養があった)とつきあい、国元に二代目於通を呼んで息子の妻に迎える。
ちなみに真田信之(幸村の実兄)の庶子に正受老人が産まれている。あの白隠を打ち出した禅匠である。
 
 
> …… 『黄金と百足』(若尾五雄著)によると、陣地や橋などを構築する戦国時代の工兵であり、江戸幕府の隠密や下級御家人として存続した「黒鍬(くろくわ)衆」は、小野氏の系統であるという。
また、安土城や聚楽第、江戸城をはじめとする各地の城郭の石垣積みを担当した石工集団「穴太(あのう)衆」と、近江の小野氏の故地小野郷はともに滋賀郡内(大津市)で隣接していた。
 
 
__ 『子連れ狼』によく出てきた「黒鍬もの」、建築スキルをもった工兵のイメージが強いが、やはり小野氏つまり鍛冶・鉱山師の系統だったのですね。こーゆー時代背景わかった上で時代小説よむと、またちがった感慨に浸れます。
 
 
> 戦国末期に一人の小野猿丸が現れ、豊臣秀吉になったのでは?と、筆者は推察している。
 
 
__ 秀吉の城取り戦法は尋常ではありません。前田家に遺っている文書に、太閤さんは指が六本あったと記されてあり、かなり下層のお生まれだと思われる。一代で天下人に昇りつめるなど運だけでは出来ますまい。
 
 
> …… 巷間の伝承によると、この金精は、称徳(孝謙)女帝を惑わして皇位を簒奪しようとした奈良時代の怪僧、弓削道鏡の巨根が起源になっているという。
> 金精神、別名金麻羅(かなまら)
> 金精神は金属の精霊であって、鍛冶や鉱山と縁が深い神なのである。
> …… 金で信仰の起源という説もある岩手県の巻堀神社(盛岡市)の近くにも大ヶ生(おおがゆう)金山があった。
> 吹屋銅山の近くに金精神社(高梁市)
> 金山神社(神奈川県川崎市・若宮八幡宮境内)
> 神奈川という県名も、砂鉄採取の鉄穴流し(かんながし)に用いた川のことであり…… 
> 鉄の古語である須賀(スガ)の文字が含まれる横須賀
> 川崎市麻生区の麻(アサ)も鉄の古語
> 相模国で製鉄業が盛んだあったからこそ、あの正宗をはじめとする「相州伝」の名刀が生まれたのである。
  【金山神社(川崎市)の、お守りと絵馬】
 
 
 
弓削道鏡のご先祖は、
> 用明天皇2年(587)に討死した物部弓削大連守屋
> 軍事豪族である物部氏は鍛冶・鉱山師でもあり、砂鉄から道具を作るという、当時としては先進的な技術を保持していた。
> …… 『道鏡』(吉田健一著)によると、当時としては珍しく、道鏡政権には下層民に対する視線があり、多くの奴婢を開放して良民に変えたという。また道鏡は、開墾地の私有を認めた墾田永年私財法を停止し、貴族や有力者への土地と富の集中を防いだ。後世に作られた印象とは違い、道鏡はただの野心家ではなかったのである。
 
 
__ この弓削道鏡事件は、皇室および宮中を揺るがす大事件であったらしく、道鏡を斥けた和気清麻呂と、後白河院と平清盛の間に立って守った平重盛、臣籍降下して皇室を護る蔭働きをなさった中山忠伊卿の御三方は、臣下であるにも拘らず皇室で祀って神事をなさっているらしいです。
 
__ 物部氏といえば、物徂徠(荻生徂徠)が有名だが、隣県の秋田に伝わる「物部文書」が知られている。
うちの近所にも「生石(おいし)神社」があり、あの物部氏の遺構ではないかと云われる石のご宝前(巨大なご神体)のある日本三奇の「生石(おうしこ)神社」(兵庫県高砂市)の唯一の分社となっている。成務天皇の御代に分祠したと伝承されているが、西暦でおよそ100年頃だろーか、信じられないが多分庄内最古の神社となろー。
なにゆえ、こんな処に分霊したのか? 
このへんの一ノ宮は、鳥海山大物忌神社なのだが、この「大物忌」とゆー雅びな命名も田舎に不釣り合いで謎とされている。
伊勢神宮や鹿島神宮には、「大物忌」と呼ばれる童女の巫女のよーな重要な役職が存在する。なにか関係があるのか?
神武天皇の東征は鳥見山まで、つまり鳥海山までといわれている。
ここ出羽国は、越(こし、新潟県)の国の出羽(=出端)の意味で、大和朝廷からはよく知られていたよーだ。
かれらの恐れる陸奥(みちのく、道の奥)は、出羽から向こう、つまり出羽の奥にあるとの認識で、なんと山形県から秋田県あたりは陸奥国に入らないのである。
 
 
> 鍛冶の神、天津麻羅(あまつまら、天界の男性器)
> なぜ、金属神が男性器なのか?
> 『鉄の民族史』(窪田蔵郎著)には、羽口(はぐち)と呼ばれる鞴の送風口が男性器に似ていることが記されてある。
> 堂(日光山輪王寺の常行堂)の祭神である摩多羅神(まだらじん)は来歴不明の神であり、一説によると、天竺渡来の大黒天(男体)と荼枳尼天(だきにてん、女体)が合わさった、人の精気を奪う鬼神であるともいわれている。
 
 
__ うちも、刀鍛冶の家系だからなのか、足をあげた大黒天の置物を飾っている。摩多羅神も案外近しいのかも知れんが、庄内の冬の行事「大黒様のお歳夜」では二股大根をつかい、いわば聖天さまとも習合している。
大黒天と荼枳尼天とは、縁深い関係で、たしか破壊神シヴァ神の化身である大黒天が荼枳尼天(女夜叉)を調伏した歴史があったはずである。
大黒天は本来畏怖される神格である。大暗黒天の意味だから、ニコニコ笑っているのがよけい恐ろしい。
大黒天はタタラ産鉄民から信仰されているが、出羽三山の湯殿山も大黒天信仰である。
 
 
> …… 「煩悩即菩提」を教義とする一派…… (略)…… 真言立川流である。
> …… 後醍醐天皇の帰依により、立川流は一気に興隆するが、南朝の衰退とともに勢力を減じ、歴史の表舞台から消えていく。その後、立川流の法灯は、南朝と関わりが深い鍛冶・鉱山師や修験者、職人や芸人など、諸国を漂泊する人々に受けつがれ、迫害に耐えながら細く隠微に燃え続けた。
> …… 文永7年(1270)に成立した立川流の批判書『受法用心集』には、髑髏本尊なるものが紹介されている。
> …… 天明4年(1784)に伯耆国(鳥取県)の鉱山師下原重仲が著した蹈鞴製鉄の解説書『鉄山必要記事』の内に、「往古に天下った髑髏に祈ると、色が変わる。その色の変化により、炉の全てのことがわかる」という妙な記述がある。
> 事実、蹈鞴場の内では、死穢を忌まなかったと伝えられている。また、中国地方を中心として、鍛冶・鉱山師に信仰されている金屋子神(かなやごかみ)は、死体を好むという話もある。
『竈神と厠神』(飯島吉晴著)には、鉄が沸かない時は死人を背負って歩くとか、鍛冶屋で仕事の調子が悪い時は、柱に死体をくくりつけたなど、農耕民の習俗とは異質な伝承が紹介されている。
 
 
__ 『子連れ狼』の第二部、大五郎と東郷重位(示現流)とのシリーズ中に、黒い刀を打ってもらうシーンで、この死体好きの金屋子神が出てくる。
刀鍛冶が作刀まえに精進潔斎するとか、神がかった高貴なイメージは、後鳥羽院が壇ノ浦で失われた三種の神器の剣のレプリカをつくろーとなさってから出来たものである。
日本の職人文化は、聖徳太子と後鳥羽院がその淵源となっていると思う。
 
 
> 念仏聖の一派である時宗は、二代遊行上人他阿(たあ)の時代から、鍛冶・鉱山師の神である小野神を守護神としていたのである。さらに、小野神を信奉する小野猿女氏の系統に連なる小野源大夫家が、代々日光山の神官を務めていたことも重要である。
 
 
__ 時宗の一遍上人の絵巻物には、熱狂的な踊り念仏の大行列にあっても、殺されたの盗まれたのとかのキナ臭い逸話がまったく遺っていない。
これは、あの当時治安もよくなかったのに、いかに上人が信奉されたかを示す証しだと思う。もちろん、陰で働いた組織はあったであろー。
「まつろわぬ者」のネットワークが、時宗の信者たちを護ったのであろーと私は確信している。
 
 
> 南朝の衰微とともに、異形異類の者たちは歴史の闇の内へ隠れていった。
だが、後の豊臣秀吉は小野猿女氏の系統に連なる者であり、また、徳川家康は南朝に属した新田氏の末裔であるといわれている。つまり、戦国の動乱を経て、鬼の王国は見事に成立したのである。
 
 
__ このあたりの水面下での策謀は、隆慶一郎『影武者徳川家康』に詳しい。道々の輩である世良田次郎三郎が、徳川家康になりかわる筋は、家康公の晩年のひとが変わったよーな様変わりをよく説明していた。
道々の輩は、ナンバーネームが好きだなとも感じた。坂東八十助、蓑助、三津五郎とか山の民の風俗も関与していそーだ。
歴史とは成文化されたレポートには書かれない珍事にあふれている。
江戸時代の風呂屋は、男女ともに裸を恥ずかしがっていないよーだし、西国でおおっぴらに行われていた「夜這い」の風俗も現代には継承されていない。
案外、『るろうに剣心』の維新観や暴動などは、史実に近いんじゃないかと言う歴史家もあらわれている。昔のことはわからないものだとゆーのが正直な思いである。だってわたしんちでも「百回忌」やることがあるが、親戚の長老とかに訊いても、その当該の先祖を知っている者は一人としていない。たった百年でひとは忘れ去られるのが現実なんである。
明治維新のころ、剣心のよーな闇のテロリストがいても不思議ではないではないか。
 
 
> 火男が鍛冶の化身であり、とがった口は炉の炎を煽る鞴の象徴であること。
> …… 『闇の日本史』(沢史生著)によると郡内(鎌倉郡)の銭洗弁天宇賀福神社(鎌倉市)も製鉄に関係していたという。一般に、この神社の霊泉で銭を洗うと何倍にも増えるとされているが、その起源は金洗いであり、灼熱の炉から取り出した鉄塊(ころ)を冷却した泉が、信仰のルーツになっているというのである。
また、弁天は砂鉄を産む川の水神、宇賀福神も河川と鍛冶に縁が深い蛇神である。
 
 
__ 最近、「宇賀神」とゆー珍しい苗字をテレビでよく見かけるよーになった。人の顔に蛇体の気持ち悪い神像がアタマから離れないが、頭上に蛇を載せた龍樹菩薩(ナーガルージュナ)もそーである。
中沢新一によると、蛇はいろんな価値あるものを象徴していて、刀への信仰も蛇神信仰であると云ふ。
なるほど、火と水で火水(かみ)で、蛇は刀で河川でもあり、強力な水神につながる、スサノオは水刀祝詞をつかう。
 
 
> 宮中の祭祀を担当していた忌部氏の古伝承を、平安時代の初期にまとめた『古語拾遺』の天の岩戸の項に、刀や斧、鉄鐸(くろがねのさなぎ)を作る天目一箇神(あめのまひとつのかみ)という一目の鍛冶神の名が記されているのである。
> …… 鉱山師に縁が深い、修験道の本尊とされる不動明王の左目が眇であることも、この天目一箇神に関係している。さらに、妖怪の一目小僧や一眼一足の一本蹈鞴などは、この鍛冶神が零落した姿であるとされている。
> …… 『鑪(たたら)と鍛冶](石塚尊俊著)には、鍛冶職人が一目をつむって炉の火の色をながめ、金属の溶け具合を確かめることにより、片方の目を悪くしてしまうという職業病が記されてある。
さらに、『青銅の神の足跡』(谷川健一著)には、製鉄に携わる鍛冶職人は休まず鞴を踏み続けるため、片足も不自由になってしまうことが紹介されている。
 
 
__ 片目びっこの山本勘助である。鍛冶の家系を継ぐわたしの父は、片目の視力がほとんどなく、そのうえ事故で片脚を失ってしまった。なおかつ突然大黒天の大きな置物を求めて大事に飾っていた。タタラ産鉄民は大黒天を信仰することは知らなかったはずである。かくゆー私も、鉄の溶接を生業としたことがある。ご先祖の記憶とは、いま生きている人にもフラッシュ・バックするものなのか? 興味は尽きない。
 
 
 
> 大和朝廷に迫害された役の行者を始祖とする修験者のルーツは、朝廷の支配から逃れて山野に隠れた反体制派の鍛冶・鉱山師、すなわち鬼であった。
> …… 修験道の法具が、山中の岩肌を砕いて鉱脈を探す鉱具でもあった…… 
 
> …… 楠木正成の本拠地である赤坂(大阪府南河内郡千早赤阪村)の赤は、白粉や薬、塗料の材料として高値で取り引きされていた水銀の原料「硫化水銀(丹砂・真朱-まほそ)を表わしているのである。
楠木正成は河内から大和を横断して伊勢に至る大和水銀鉱床の採掘や精製、売買を仕切っていたといわれている。
> 『楠木正成』(森田康之助著)ほかの資料によると、戦後に伊賀市(旧上野市)の旧家で発見された上嶋(かみしま)家文書には、
上嶋家から出て、服部一門の宗家である服部清信の跡を継いだ元成の三男が大和(奈良)申楽観世座を創始した観阿弥であり、その観阿弥の母は、河内(大阪市東部)の悪党を前身とする 後醍醐天皇の忠臣楠木正成の姉か妹であることが記されている。
> …… 散楽もしくは申楽(猿楽)と呼ばれていた能楽師は「七道の者」、すなわち諸国放浪の者とされ、定住民から差別的な視線で見られていた。
> しかし、「七道の者」から出発した能楽が伝統芸術の地位にまで昇格したのも、長らく忘れられていた観阿弥や世阿弥が再評価されたのも明治の末以降のことなのである。それは能楽師の家に秘匿されていた世阿弥の伝書の数々(『風姿花伝』『申楽談儀』ほか)が世間に公開され、能に関する研究が進んだ結果であった。
 
 
__ 『雲霧仁左衛門』にも「七化けの〇〇」と女盗賊が出てくる。この「7」とゆー数は、妙見さんつまり北斗七星に繋がるものだそーだ。
七支刀とか破軍星旗とか、意外に根深い北斗七星信仰が日本の随処にみられる。北辰一刀流もそーだし、妙見信仰は奥深い。
 
 
> …… 伊賀の文人である菊岡如幻は、江戸初期に著した『伊乱記』のなかで、服部氏の祖先を雄略天皇に仕えた秦酒公(さけのきみ)であると説いている。
> 『日本書紀』応神天皇の項をひも解くと、秦の始皇帝の子孫といわれる弓月君(ゆづきのきみ)が120県の民を率い、朝鮮半島を経由して来日したことが記されている。
この弓月君を祖とする秦氏は養蚕や機織、灌漑や鍛冶・鉱工業など大陸の先端技術とともに、申楽や能楽の原形である散楽を日本へ伝えたとされているのである。
この秦氏。ルーツとし、機織を職掌としていた機織部(はとりべ)が、後に服部と呼ばれるようになったとされている。
また、『日本書紀』欽明天皇の項には、大蔵の司に任じられた秦大津父(おおつち)が、伊勢で商いをしていたことが記されてある。この伊勢での商いは水銀の売買である。
『朱の考古学』(市毛勲著)によると、水銀の需要が増大した欽明天皇の御世、すなわち6世紀後半に、秦氏が伊勢水銀鉱床の坑道採掘を始めたという。
つまり、秦氏は水銀長者の楠木正成と直につながっているのである。
> …… 世阿弥は著書『風姿花伝』のなかで、聖徳太子の近臣で広隆寺の創建者として知られる秦河勝(かわかつ)を申楽の始祖としている。
> …… 江戸初期の幕府代官頭であった大久保長安(ながやす)…… 
天文14年(1545)、長安は金春流の申楽師大蔵大夫の次男として生まれた。
『佐渡の風土と被差別民』(沖浦和光著)によると、大和の金春家に残された系図には、彼の名が「秦長安」と記載されているという。
> …… 佐渡金山で彼が推進した「水銀流し」という精錬法…… 
これは鉱石に含まれる金の成分を水銀で溶かし、金アマルガムとした後に熱し、水銀を蒸発させて純金を得る方法で、メキシコで生まれた新技術とされている。だが、その原形の技術は古代日本で実用化され、奈良東大寺の大仏の鍍金(メッキ)に使われていたのである。
 
 
__ 金山奉行の大久保長安は、ほんとうに異能なおとこで、国史にいきなり金(ゴールド)の「水銀アマルガム製法」を登場させた、徳川幕府の功労者でもある。
この大久保長安と将軍家の兄弟・松平忠輝とを主人公にすえた歴史絵巻が、隆慶一郎『松平忠輝』である
家康公の血筋を引く忠輝卿は、文武にまさに異能を発揮して、なんでも出来たが将軍に成り損ねた男である
異国のコトバに堪能で、クリスチャンであり、剣も歌舞音曲も往くとして可ならざるはなき天賦の才を発揮して、同時代人にかえって警戒されてしまう悲運の貴種ではあった
幕府内で独特の立ち位置を占めるので、TV時代劇の陰のヒーローになったりもした
駿河の忠長卿をかついだ面々のよーに、大久保長安も忠輝卿をかついで幕府を我が手に入れよーと画策したものかも知れない
大久保長安は忍者出身でもあり、自身の安全には周到な警戒を露ほどもゆるめなかった、そのために長安在世中は流石の辣腕の幕府方も手を出せなかったのである
厩戸皇子よろしく、長安が亡くなってから、莫大な財産もろとも、長安の子孫の命も根こそぎ奪われた
独眼竜政宗のごとく、大久保長安が天下を奪る目もあったのだから凄まじい、「漂泊の民」の出自で頂点を極めた太閤秀吉公に匹敵する偉材であったと私は思う
幕末の小栗上野介もそーであった様に、徳川幕府はどーも掌中の珠を手放してしまう性癖を内に秘めているよーだ
             _________玉の海草
 

裏の日本〜 奇書 『日本のまつろわぬ民』 の抜き書き (2)

2022-01-22 15:12:00 | 歴史・郷土史
__きょうは、敬愛する作家・隆慶一郎へ文句つける形になるが、史実は表面も裏面も正確に伝えなあかんからな。
 
以下の引用は、水澤龍樹『日本のまつろわぬ民〜 漂泊する産鉄民の残痕』に拠るものである。
 
さっそく抜き書きしてみよー。文中、段落替えした「‥‥ 」以降がわたしの声である。
 
 
第6章 東の傀儡子(くぐつ)と西の遊女
 
> 水辺の巫女をルーツとする平安時代の遊女たちは、水上交通の要衝である淀津(京都府大崎町)や神崎(兵庫県西宮市)、江口(大阪市東淀川区)などの宿を拠点とし、小端船(こはしぶね)で川を行き交い、都の公卿や皇族とも交流していた。また、当時の遊女たちは女性の長者に率いられた文字どおりの水商売、歌舞音曲の技に生きる芸能人であって、身請け証文に縛られた後の世の遊女とは性格を異にしていた。
 
 
‥‥ 「遊女」ってゆーと、男が遊ぶときの「あそびめ」の印象が強いが、「遊女」の初まりは高位の身分の者である。
なぜなら、「神の遊女」が本来の意味だからである。
 
 
> …… 江戸吉原の遊里を舞台にした時代小説『吉原御免状』(隆慶一郎著)のなかに、
「遊女屋の主を『遊女が長(きみがてて)』と呼ぶのは、江口・神崎以来の色里の習慣であり、同時にこれは傀儡子族の首長であることを明かす言葉でもあった」との記述がある。
文中の「遊女が長」は、吉原の創設者である小田原浪人 庄司甚内の子孫、庄司勝富が記した『洞房梧園異本』のなかで、甚内が徳川家康に言上したとされる名であり、それが平安時代の江口や神崎にまで遡るという話は、いまだ聞いたことがない。先に申し上げたとおり、古代の遊女は女性の長者、すなわち母が率いた組織であり、「長(てて)=父(てて)」が入り込む余地はなかったのである。
さらに問題なことは、傀儡子(傀儡とも書く)と遊女の混同である。近世の遊里の作法は、豊作や豊漁を祈念して、神役の男と巫女が呪的に睦み合う「神遊び」という祭事を踏襲したものであり、客は「大神(だいじん)」、客の取り巻きは「末社(まっしゃ)」と呼ばれていた。
つまり、近世の遊女は古代の「巫女=遊女」の模倣であって、傀儡子とは何の関係もなかったのである。平安の末期あたりから、傀儡子にも巫女の側面が具わってくる。
しかし、「神遊び」は、あくまでも「巫女=遊女」の職掌なのである。
だからこそ、平安中期の学者官僚 大江匡房は、花柳界の女性についての随想を記した際に、その一つを『遊女記』、もう一つを『傀儡子記』として明確な区別をつけている。
 
 
‥‥ ネットのサイトに『隆慶一郎ほとんど事典』と云ふ、注目すべき批判サイトが存在して、微に入り細を穿って一言ひとこと隆慶一郎の文章にケチをつけている。その参考文献は膨大な冊数に及び、よく研究・勉強なされているのが一読すぐに分かる。
わたしは、このサイト(ブックマークしている ♪)を紐解く度に、批判とはかくあるべきものだとの思いを強くする。これだけの重厚な批判をあいうえお順に列挙するには、大変な力量と教養そして時間が不可欠である。
 
このサイトを、味読するたびに頭を過ることは、「この人はほんとは隆慶一郎が大好きなのではあるまいか?」と。
 
この御仁は「野に遺賢あり」をまざまざと感じる。
彼が仰るには、隆慶一郎は民族学者の網野善彦の中世職能民の説に拠っていると思っているが、実は東国(江戸)にあっては「道々のもの」「公界往来人」「上ナシ」はほとんど意味がないとする、都近くの西国でのみ機能した不文律だったのかも知れない。
聖別は差別を生む。西国での部落差別は酷いが、東国とくに東京以北ではほとんど見られない。縄文系狩猟民には「血の穢れ」がないからである。
そんな消息と相通ずる気がした。
 
[※   たしかに隆慶一郎『吉原御免状』は、池波正太郎を初めとする選考委員(村上元三もか?)の強硬な反対により直木賞を逃したと云われている。
前評判が高かった隆慶一郎作品は「さまざまな文献を引用して書いているが、吉原に関する基本的な時代考証が書けていない」という欠点から早々と落選した。」(『読売新聞』夕刊 昭和61/1986721日文化面より)
シナリオライターであり、映画人でもある池田一朗(隆慶一郎)は確かに時代小説を舐めている処は見受けられたのだ。]
 
 
傀儡と遊女を混同しているとは、なるほどそーだが、隆慶一郎の「吉原」の描写はそれまでに見たことのない異空間を描いてあって、一言で云えば「アジール(治外法権の避難所、聖域)」なのだが、私はその「流れ者」感に烈しく感動したものだ。
吉原を創設した庄司甚内なる者が相州乱破の風魔(忍者)の系統をひく者だとはつとに知ってはいたが、『吉原御免状』の吉原風俗とゆーか吉原の掟は、随分とエキゾチックな感触がして、散楽やら越天楽のリズムを想わせた。
剣豪小説としてのチャンバラ描写も秀逸で、庄司甚内は「道々の輩(ともがら)」らしく、刀身のしなる中国系の軟剣をつかうのである。
主人公が宮本武蔵の秘蔵弟子でミカドのご落胤、幕府方の裏柳生忍者群と戦う設定も読み応えがあり…… 
柴田錬三郎と五味康祐の本格剣豪小説が大好物の私からみても、ほんとうに久方ぶりに顕れた一流の剣豪作家であった。
手に汗握る、飯を食うのも忘れる体の至福の読み物であった。
なかでも印象に遺っているのが、吉原で生まれ育った「おしゃぶ」とゆー娘(庄司甚内の血筋)である。ちょっと手塚治虫の『ブラックジャック』に出てくる「ピノコ」と似通った魅力がある。
 
この作品は、作者が還暦すぎてから世に出た処女作なのである。なんと松岡正剛の『千夜千冊』にもエントリーされてある。
吉原に秘蔵されている「神君御免状」には、庄司甚内と徳川家康との間で交わされた吉原創設の許しが書かれているのだが、徳川家康が「無縁」「道々の輩」であることが明示されてある箇所があった。実は世良田二郎三郎なる道々の輩が徳川家康として身替わりとなって生きていた証拠となるものが、この御免状には書かれていた。
このミステリーが、五味康祐『柳生武藝帳』に匹敵するよーな仕掛けとなっている。
重大な秘密に箔をつけるのは、いつも天皇家である。
この道筋をつけたのは、無縁の職能民と友だちになった後白河院の遺徳なのかも知れないな。お孫さんの後鳥羽院が、日本の「職人」が尊敬される礎を築いた御方である。
 
 
> …… 『吉原御免状』では、川原の天幕に野営しながら箕(み)や笊(ざる)を作り、里に出てそれを行商していた漂泊民の山窩(さんか)を、傀儡子の同族として紹介しているが、これも鵜呑みにはできかねる。
山窩はウメガイという両刃の短刀や、テンジンという自在鉤(かぎ)を携帯し、それらを身分の証にしていたという。もちろん、この二種の鉄器は金物屋で誂えたわけではなく、鍛冶に鍛えてもらった物でもない。あくまでも山窩の自作である。つまり、山窩とは朝廷の支配の外にいた鍛冶・鉱山師の末裔、すなわち鬼の一類なのである。
同じ漂泊の民として、山窩と傀儡子の間に交流があったことは想像に難くない。
 
 

【山窩の日常使いしていたウメガイ】

 
 
‥‥ 北海道のアイヌが日常つかった「マキリ」とゆー小刀は、北前船の湊町・酒田で作られた。私のご先祖は酒田で刀鍛冶をしていたと伝承されているが、おそらく出羽三山の「月山鍛冶」の系統であろー。酒田には西暦700年代に渤海国から千人規模の移民があったと伝わるから、おそらく渡来系の鬼の一族だったに違いない。
日本海沿いの「庄内」とゆー地方は、一種独特な風土で欧州におけるスペイン・フランスの「バスク人」みたいなもので、回りとは隔絶している特徴がある。
隣接する山形県の内陸部や秋田県南部ともまるで異なる土地柄・人柄で、なんの繋がりも感じられない異質な雰囲気がある。
おそらく、渤海は高句麗系で古代朝鮮の血なので、その混血によるものだと思われる。
司馬遼太郎も、庄内には随分と関心を持たれたが『街道を行く』にまとめることが出来ず、お手上げだった土地である。
 
 
> たとえば、鍛冶神である宇佐八幡宮(大分県宇佐市)では、傀儡子舞が奉納されていたのである。
 
 
‥‥ 宇佐八幡は、弓削道鏡事件でもクローズアップされる神社ですね。道鏡も産鉄民との関わりが深いのだが、きわどい処で負けてしまう。
 
 
> では、傀儡子とは、いかなる「種族」であったのか?……(略)…… 
『傀儡子記』の文を途中まで意訳すると、
「一所に定住することなく水場や草地を求めて移動し、穹盧氈帳(きゅうろせんちょう=テント)に暮らす傀儡子の様子は、北狄(北方の蛮族)の風俗に似ている。
傀儡子の男たちは皆弓矢を使い、馬に乗って狩猟をしている。または曲芸や手品、人形使いの技に長けている。
かたや女は妖艶な化粧をして、媚態を見せながら歌をうたい、男を誘惑して一夜の契りを結ぶ。好いた男がいると、金襴錦の衣や黄金の装飾品、螺鈿細工の箱など高価な品を贈って関心を買おうとする。
農耕とは無縁で役人を恐れず、夜になると百大夫(ひゃくだゆう、道祖神の一種。求愛や遊芸の神)を祭って鼓を打ち、舞い踊っては馬鹿騒ぎをする」といった内容となる。
 
[※ 文中の北狄とは中国大陸の北宋を基準にしたもの、すなわち、その北方に暮らしていた粛慎(しゅくしん=みしはせ)や扶余(ふよ)、女真ほかツングース系諸民族を差しているのである。満州からシベリア沿海州の辺りを領土としていた渤海国との交流からも知れるとおり、古代の日本はツングース系の民族と関わりを持っていた。]
 
 
『遊民の系譜』(杉山二郎著)によると、粘菌の研究で知られる在野の大学者 南方熊楠は、柳田國男に宛てた書簡のなかで、ヨーロッパの漂泊民であるジプシー(ロマ)と傀儡子の生態が似ていることを指摘している。
ジプシーが、故郷とされる西北インドから放浪の旅に出たのは11世紀前後のこととされている。
いっぽう、奈良時代の文献に傀儡子の記述は存在しない。そして『傀儡子記』の成立が推定12世紀の初頭。
これらの事柄からみて、ジプシーの一派が東回りのルートを経て海を渡り、平安時代の日本にたどり着いたとしても、あながち不思議ではないのかもしれない。
 
 
 
 
‥‥ この『遊民の系譜』とゆー書籍は、世に知られぬ名著にちがいない。
青土社から刊行されたものだが、もー装丁の荘重なるオーラを裏切らないコンテンツで、ページ内の字面もすこぶる佳いし、ルビも工夫が凝らされている。
 
〈〉内が貼られてあるルビを示す
≫ 蝟集〈むれあつまり〉した
≫ 閑話休題〈あだしごとはさておき〉
≫ 姦事〈いけないこと〉
≫ 儒学や墨子の徒〈えらいせんせいがた〉
≫ 廉潔〈さっぱりして〉、退譲〈へりくだり〉
≫ 豪富〈いやみなかねもち〉が
≫ 当意即妙〈ツーといえばカー〉の頓智〈あたまのひらめき〉をはたらかせる
 
‥‥ とまーこんな感じのルビで、まさに行間を読める文章となっている。
センスのある漢字の羅列は嬉しいもので、かの著者独特のルビが和様の口語を加味して風流極まりない。
女真とかいかにも異国情緒にあふれて、意外に国際的な展開となっている処に浪漫が滲み出る。
 
 
> …… 傀儡子は大陸の北方を故郷とするツングース系民族であると推測される。
 
> 傀儡子は、単なる遊芸の民でもなければ狩猟民でもなかった。傀儡子は疾走する馬上から矢を射るという、極めて難しい技術を保持していた騎馬民族だったのである。
 
> 大陸の草原で鍛えられた傀儡子男の騎射の方法が、東国の武装集団、すなわち源氏の武者たちに伝わったのではないかと、筆者は推測しているのである。
その証拠として、月代(さかやき)と丁髷(ちょんまげ)の発祥が平安時代末期であることがあげられる。
江戸中期に編まれた『貞丈雑記』によると、月代は武者が兜をかぶる際に、気が逆上して苦痛なので額から頭頂部にかけての髪を剃ったことが始まりであるという。
だが、本当にそうなのであろうか。兜をかぶる際に髪を剃ると勝手が良いのなら、月代の風習は世界中に普及していたはずである。
しかし、筆者が知る限り、僧侶でもないのに頭頂部を剃る民族は二種しか存在していない
その一つが日本人、もう一つは弁髪の女真人である。また、丁髷を後ろに垂らすと、そのまま弁髪になることも事実なのである。
 
 
‥‥ ひとくちに「弓馬の道」と云われた坂東武者が、大陸の騎馬軍団に由来するなど興味は尽きない。
 
 
> …… 『傀儡子記』に、傀儡子の本場が美濃や三河・遠江(とおとうみ)などの東国であるとしていることも見逃せない。
 
> かたや、遊女は船で河川を行き来する水の民であり、各地の水軍や廻船商人を統括していた「海の武士団」平氏の本拠である都から瀬戸内にかけての西国が本場であった。
これは、網野善彦が提唱した「西船東馬」の構図そのものである。
 
> …… 西国の遊女と平氏が特別な関係にあったという話は伝えられていない。ただ、棟梁の平清盛が、男装した遊女である白拍子を寵愛した逸話が『平家物語』に残されているばかりである。
 
 
‥‥ この白拍子こそ、平清盛の母とされていて、わたしの先祖(平重盛)の御母堂である。
白河院のお手つきを平忠盛が引き取ったと聞く。平氏は日宋貿易に力を注いだわりには、「遊女」や鬼の一族とは付き合いが薄いよーだ。
 
 
> いっぽう、源氏の歴代の棟梁と傀儡子の間には、注目に価する濃密な関係が構築されていた。
 
 
‥‥ 源義経もまた、京は鞍馬の鬼一法眼(天狗)に師事したとか、京八流の剣術を引いている。山本勘助もそーで、タタラ民の身体的特徴そのもの(火床を見つめる眼と、鞴を夜通し踏み続ける脚を痛める=片目片びっこ)である。信玄公は勘助を通じて鍛冶・鉱山師のネットワークと契りを交わしたものだろー。
 
 
> 源為義は青墓宿(岐阜県大垣市)を拠点とする傀儡子の長者大炊(おおい)の姉を妻として、乙若・亀若・天王・鶴若という四人の息子を得ていたのである。
巫女から発した遊女は賤視されていなかったとみえ、遊女腹の公卿や皇族の名が後世に伝えられている。
 
> この為義は…… (略)…… 江口の遊女との間にも、強弓の使い手として名高い鎮西八郎為朝を儲けていた。
 
> …… 建久元年(1190)十月、頼朝は青墓を訪れ、大炊の娘らを召し出して褒美をとらせたる。
 
> 源氏の棟梁たちのほかにも、傀儡子との交流で知られた人物がいた。
「ハイ、ドウドウ」と馬を御する傀儡子に特有の三度拍子に魅せられ、今様(いまよう=流行歌)に傾倒して、歌謡集『梁塵秘抄』を世に残した後白河法皇である。
 
> 長年にわたる歌謡三昧の逸話を、後白河が口述筆記させた『梁塵秘抄口伝集』によると、
彼は十歳の頃から今様を愛好し、昼夜を分かたず没頭、声を出しすぎて湯水を飲むのも苦痛なくらいに喉が腫れても、なんとか工夫して歌い続けたという。
 
> この一種異様な物好き
> この規格外の趣味人
 
> 後白河は洛中の男女や召使の者、江口や神崎の遊女、諸国の傀儡子女のなかで、今様の心得があるほとんどの人と付き合い、合唱してきたと豪語している。
この身分を越えた交際により、後白河は貴顕としては異例の世間知と人脈を得たのである。しかも、彼は青墓の老いた傀儡子女 乙前(おとまえ)を宮中へ招き、師弟の契りを結んで、ともに暮らすという離れ技までやってのけた。
趣味が高じた結果、後白河は傀儡子の「縁者」になったのである。
この後白河の奇行が、後に歴史を動かすことになる。
 
 
‥‥ かの崇徳院は後白河法皇の実兄であるとゆーことは、ともに妖女・待賢門院藤原璋子(たまこ)の息子たちである。「もののけ」と呼ばれた白河院の血筋なのであろーか?
後白河院は、うちのご先祖平重盛がお仕えした帝ではあるが、ストレスフルな主上でもあり、死に追いやったよーな印象もあり、複雑な心境である。
しかし、道々の輩を懐に入れる大器量は疑いよーもなく、親の鳥羽院や兄の崇徳院からはバカにされたが、風雅の道を極めた天子といってもよいのではあるまいか。
惜しいことだが、後白河院が夢中になった「今様」の節回しは現代に伝わっていない。
はたしてどんなリズムでどんなメロディーだったのであろーか、何か隠された「香道」のよーに奥秘の匂いがするのは私だけであろーか。
『吉原御免状』でも、御水尾帝のご落胤たる主人公は、諸手をあげて「無縁」「公界」の者たちの後ろ楯を得るのである。
非農工民たる「道々の輩」が、唯一天皇陛下には忠誠を尽くすのは、後白河院以来の伝統なのであろーか。
後白河院は、もともと皇太子候補ではなかったし、まったく期待されてはいなかった。
このへんは、八代将軍吉宗と似通った境遇を感じるが、「運」に恵まれた天子さまと云えるだろー。
 
現在TVアニメで『鬼滅の刃』〜遊郭編が放送されているが、吉原の描き方が一面的な感じは拭えない。若い女性作者だからよく知らないのか?
吉原遊廓は、「鬼」が隠れていられるほど広くはあるまい。治外法権で曲輪内の遊女たちが逃亡できないよーに閉鎖的であるはずである。
鬼滅の刃は大正ロマンの系譜を継ぐ作品といってもいいかも知れないが、昭和ロマンも分からず大正ロマンは語れまいよ。
明治維新で神社重視して名刹寺院をぶっ壊し、大正な終りの関東大震災で明治に残っていた江戸風情の建物が潰滅してしまった。十二階建ての浅草「凌雲閣」が崩れ落ちたのは象徴的な出来事だった。
そして太平洋戦争での空襲がトドメを刺した。海の民と山の民とは同族だから、都会が空襲で全滅するまでは、たぶん交流のよすがは細々と繋がっていただろーと思われる。
何故なら、大阪も東京も「水運の街」であるからだ。舟をつかった生活が根付いていたからである。
「海の民」が川沿いを伝って山間に入り込み「山の民」となったそーである。
長野の奥まった「安曇野」は、海の民「アズミ」の一族が山の民となった土地である。
そのへんの、歴史の地下水脈みたいな推進力を知りたい。
五木寛之『戒厳令の夜』や『風の王国』は、そーした表に出ない動きを活写したものかも知れない。描かれた人間たちが「生きている」実感があるんだよね。
 
永い伝統を守ってきた人たちには、なにか天地造化のちからみたいなものを帯びる気配がある。
最近、YouTubeで知られるよーになった、武田信玄公を護った陰の家系を継ぐ人物を見つけた。その一子相伝の技は「影武流合気体術」と名付けられた、徒手の戦場武術である。この宗家の「受け身」がふんわりと見事なまでに軽やかなのだ。
達人の佇まいは、こわいまでに静かである。
いまの世でも、おられるのだな、先祖のご遺志を継いで生きている者が。
            _________玉の海草
 
 
 
 

裏の日本〜 奇書 『日本のまつろわぬ民』 の抜き書き (1)

2022-01-19 11:04:22 | 歴史・郷土史

__わたしのご先祖も「刀鍛冶」で、「たたら製鉄」の出自を匂わす苗字である。「まつろわぬ(伏わぬ)人々」つまり大和朝廷に税をおさめない「道々の輩(ともがら)」の一族であったであろー。

行者、山伏、河原者、能楽師、忍者、鉱山師、鍛冶屋、鋳物師、木地師、巫女、遊女、傀儡子、渡世人など諸々の漂泊する異能民は、アウトサイダーとして「表の世界」に出張って来なかった

渡来人経由で伝わった製鉄技術は、特殊な製鉄集団を形成した。鉄器をつくりだす特殊な技術ゆえに、神さま扱いされたり、反対に邪慳にされたり、定住することなく(大量の木材が必要なため)、日本全国を巡り歩いた

砂鉄から鉄をつくるとき、山は崩すし、川は汚すし、まわりの樹林は燃料として伐採するしで……   土地の農民と仲良くしなければ成り立たない仕事だった。

そーした生活形態が、「大黒さま」としてよく表されている。大黒天が担いでいる袋はタタラ製鉄の鞴(ふいご=送風器)を象徴し、打出の小槌は鉄を叩く金槌を象徴し、大黒天が踏みしめている米俵は「鉄をつくる」とすぐ買い上げられ大金を手にすることを象徴している。打出の小槌でザクザク黄金が産みだされるとゆーわけなのである。たたらの民は「大黒さま」を信仰する。

【おなかに描かれた摩尼宝珠は、神道でウカノミタマ命(稲荷大神)が富の象徴として持ち、熊野大社の起請文(牛王宝印)にも描かれるよーになり、仏教の豊川稲荷(キツネの稲荷神を祀る神社ではなく、ジャッカルのダキニ天を祀る曹洞宗の寺である)や大黒天(マハーカーラ)にも付けられるよーになったのではあるまいか?)】

 

ヨーロッパにあるとき完成した形で現れたヴァイオリンのよーに、永く続いた青銅器の時代に突然「鉄」の製錬が始まって、謎の王国「ヒッタイト」(BC1600年頃)が鉄の武器をつかって無敵を誇り、古代エジプトのラムセスII世を撃破した。ヒッタイトが滅んでから門外不出だった製鉄技術はユーラシア大陸を東漸して「スキタイ」へと伝わり、戦闘を介して漢民族へと伝播する。かくの如く、鉄器をつくれる国は圧倒的な武力を発揮したのである

鉄器のうち、とくに武器と農具は、青銅器の耐久性と比べ画期的な性能だったから、まさに生活を根底から変えた。

 

ーこれからご紹介する本は、水澤龍樹『日本のまつろわぬ民〜 漂泊する産鉄民の残痕』(新人物往来社刊) である。エッセイ風だが情報量が多すぎて気軽にまとめられない「名著」である。それゆえ、抜き書きしてそれに対してコメントする形で、鉄の文化を担った先人の業績(歴史に隠れた貢献)を記しておきたい

 

それじゃあ、始めます。「‥‥ 」以下は私の文章です。

 

第1章「鬼の長者」より

> 鬼もまた魔物の一種、「毒をもって毒を制す」という諺のとおり、鬼瓦は家内へ侵入しようとする魔物を退散させる呪術なのである。

> 鬼をもって鬼を制す

 

‥‥ 大江山の鬼退治も、源頼光と四天王は「鬼」のサイドの人間である。体制内に取り込まれた鬼である。『仮面ライダー』もまた、改造人間同士で戦う構図であり、古くは渡来人系の異国人・坂上田村麻呂を、古代東北の独立を守っていた蝦夷のアテルイにぶつけるよーに、(大和朝廷にとっての)異端に対して別の異端を以てあたる構図である。

 

> …… 八岐大蛇とは剣を産む存在、すなわち鍛冶集団の象徴といえる。また、八つに分かれた長い蛇体は、鍛冶職人が砂鉄を採取する河川や複数の支流に通じている。八岐大蛇の神話は、斐伊川など出雲の河川で砂鉄を採り、蹈鞴(たたら)という伝統的な鞴(ふいご)で砂鉄を鉄や鋼(はがね)に変え、農具や工具・武器を作っていた鍛冶集団が、須佐之男命、すなわち大和の勢力に敗れ、服属した過程を物語っているといえるのである。

> 古代の鍛冶職人は、金や銀・銅や水銀などを採掘し、精錬する鉱山師(やまし)でもあった。

 

‥‥ 山を熟知している者たちのネットワークがあったとゆーことだろー。徳川幕府の金山奉行・大久保長安は能楽大蔵流の太夫であった。能役者や忍者や山伏は全国を行脚するから顔馴染なのであろー。観阿弥と服部半蔵と楠木正成が親戚なのは知られている。

> 古代の鍛冶職人は祭政一致の王であり、神官であった。国作りの基礎となる鉄製の武器や農工具を作る古代のハイテク技術が、神技や呪術とみなされ、崇敬の対象になっていたとしても何ら不思議はないのである。また、鍛冶の工程に祈禱や呪術が混入していた可能性も高い。

 

‥‥ 高温の火を熾して「鉄」をつくりだす異能は、農民からすれば十分神がかったものである。聖別されたと云えば良い印象があるが、要するに村八分で差別されたことと思う。蹈鞴製鉄の長(おさ)の呼称が「村下(むらげ)」とゆーのも気になる。どーみても敬称ではない。

 

> 鉄製の武具や農工具が作れるということは、独立した国が作れることと同義であった。

> 平安中期に編纂された『和名類聚抄』のなかに「於邇(おに)とは隠(おん)の音が訛ったもの。鬼物は隠れて、形を顕すことを望まない」との一節があるが、まさに至言である。鬼を「おに」と訓読みするのは平安時代からのことで、それまでは「もの」と読まれていた。

この「もの」は死霊や精・神霊を表している。たとえば『日本書紀』には、天皇の敵として葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)にひそむ「邪鬼(あしきもの)」や、「姦鬼(かだましきもの)」などの記述がある。漢字発祥の中国における鬼の意味も死霊であり、「おに」という概念は存在していなかったのである。

 

‥‥ 大神神社の大物主大神のよーに、「物」は畏霊を示す。「モノ」「コト」は日本古代のキーワードである。

> 朝廷の鍛冶司(かぬちのつかさ)

> 小林一茶が詠んだ「百福のはじまるふいご始めかな」

> 民族学者の谷川健一は著書『鍛冶屋の母』で、…… 

> 伊吹山の猛風「伊吹おろし」

> …… 伊福部(いふくべ)という姓の一族が、古代から伊吹山の周辺に住んでいたことを指摘しているのである。

この伊福部はもとより、福田・福沢・福井など「福」の字がつく姓は鞴を使って金属を吹き、精錬する鍛冶屋や鉱山師と関係している。それが証拠に、金属を溶かす炉の炎を象徴する火男(ひよつとこ)の相方は、いわずと知れたお多福(おかめ)である。

 

‥‥ 言わずと知れた、映画『ゴジラ』の作曲家・伊福部昭がその末裔である。名門である。

[※  wikiより引用ー伊福部家は因幡国の古代豪族伊福部氏を先祖とする[58]本籍地鳥取県岩美郡国府町(現在は鳥取市に編入)。明治前期まで代々宇倍神社の神職を務めたとされ、昭の代で67代目。]

 

> 伝統的な蹈鞴製鉄で名高い島根県の安来市に伝わる安来節に合わせ、火男の面をつけた人が滑稽な身ぶりで踊る「泥鰌すくい」は、鉄を作る大鍛冶による川砂鉄の採取の作業が原型になっていると思われる。

 

‥‥ この辺りに、現在唯一のタタラ場があったはず。日本刀の作刀に必要不可欠な「玉鋼(たまはがね)」は、現代科学の技術を以ってしても作ることが出来ず、極めて効率の悪い「たたら製鉄」に頼るほかないのである。

 

> 火男とお多福は祭の神楽に欠かせない福の神であり、古代国家の根幹である農具や工具・武具の原料となる鉄を生み、金・銀・銅などの財(たから)を生む「吹くの神」である。

> 酒呑童子が暮らす丹波大江山の屋敷が、門も塀も建物も全て鉄で作られた「鉄の御所」だという記述は、童子の生業が鍛冶や鉱山師だということを示している。

> たとえば『御伽草子』や謡曲『大江山』には、不可解な童子の言葉が残されている。頼光に騙されて毒酒を飲み、首を討たれる際に、童子が「鬼に横道(おうどう)なきものを」と訴えているのである。朝廷から派遣された正義の味方であるはずの頼光が嘘をつき、童子の方は「鬼は横道(卑劣な行為)をしないのに」と抗議しているのである。

 

‥‥ タタラ師ネットワーク特有の「仁義」があるよーである。裏世界の掟は、命に関わるものだけに厳しいものであろー。

 

> …… 酒呑や酒天・酒顛・朱点などの文字が当てられている奇妙な名について考えていただきたい。大酒呑みだから酒呑、もしくは親に捨てられた「捨て」が酒呑になまったという説もあるが、筆者は「朱点」に着目している。

朱は別名を丹(に・たん)、化学の世界では硫化水銀と呼ばれる顔料であり、赤土(辰砂・丹砂)として地表に露出している。水銀を扱う業者は、この赤土を釜で蒸留して水銀を得るのである。

松田寿男は全国を踏査し、水銀鉱の赤土が存在した場所にニュウと発音する地名があり、丹生都比売(にゆうづひめ)を祭る神社が存在していることを実証した。

 

‥‥ 出羽三山の湯殿山にも「丹生水上神社」がある。湯殿山の水銀鉱床の濃度が高いので「即身仏」が生まれたものらしい。即身仏ミイラは湯殿山にしか存在しない。弘法大師の晩年は、明らかに水銀中毒の症状が見られると思うが如何なものか? 高野山の水銀鉱床の濃度は日本一高いそーだ。水銀を体内に摂取すると死んでも身体が腐らないとか…… 

 

> 古代の水銀は金や銀に準じる稀少で高価な金属であり、塗料や白粉(おしろい)、金メッキの材料費、もしくは薬物として利用され、中国への主要な輸出品であった。

 

‥‥ 神社仏閣の朱色は、水銀をつかって出すと聞く。

 

 

第2章「河童と怨霊」より、この章は天満大自在天神・菅原道真公に関する裏の歴史を紐解いている

> 江戸時代の中期に 医師の寺島良安が編纂した百科事典『和漢三才図会』をひも解くと、その40巻「寓(猿)類・怪類」のなかに川太郎(がたろ)すなわち河童の記述がある。

 

‥‥ 河童伝説とタタラ場は一致する。

 

> 道真が配流先の筑紫で詠んだとされ、水難よけの呪いとして世に伝わっているという奇妙な和歌が、収録されているのである。

いにしえの約束せしを忘るなよ 川立ち男氏(うじ)は菅原

「昔、約束したことを忘れるなよ。川立ち男の氏は菅原であるぞ」

「川立ち男」は河童の別称

 

‥‥ 菅公とタタラ産鉄民との間で交わされた密約を想像させる。

 

> 『妖怪談義』(柳田國男著)

冬がくると河童は山へ入って山童(やまわろ)になるとの話

> 河童の「童」すなわち童子とは、…… (略)……  成長しても大人として認知されなき牛飼童や寺院の大童など、特種な階層の男子をさしている。

河童とは…… 川の童子、いっぽう山童は山の童子

 

‥‥ 能楽の金春禅竹『明宿集』のなかで、宿神は「翁」であると示唆している。古来、翁と童子は「死」に近い故をもってか神的な存在とみなされている。能の「三番叟」は翁舞で、一座の長者が担う最も大切な舞である。伊勢白山道も童子形の神が一番怖いと云っていた。純粋さは容易に残酷さにも成るからかも知れない。

 

> 季節労働者

> 鍛冶屋である河童は春夏秋の3シーズンを河原ですごして砂どり、すなわち川砂鉄の採取にいそしむ。そして、冬は山へ入り、山肌を掘り崩して渓流へ流し込む「鉄穴流し(かんながし)」の手法で山砂鉄を採取し、蹈鞴吹きにより鉄を生産していた。

山から流出する土砂により、下流の稲を痛めつけないため、昔の鍛冶屋は農民と契約し、稲の収穫が終わってから作業を開始していたのである。

> たしかに、菅原氏の前身である土師(はじ)氏が任されていた墳墓の構築と、鍛冶や鉱業の間には何の関係もないようにみえる。だが、巨大な墳墓を構築する工具を得るためには、鍛冶の知識と技術が不可欠である。

また、墳墓に並べる埴輪を焼くための窯には、炉を作る技術が関与している。さらに埴輪作りは、溶けた金属を流し込む鋳型の製作にもつながっている。以上の理由により、土師氏の本体は鍛冶屋であったに相違ないのである。

> …… 河童が人と相撲をとる話は日本全国に散在している。

> 道真の祖先である能見宿禰

 

‥‥ 週刊少年チャンピオン連載の格闘哲学マンガ『刃牙道』の主役は現在、二代目野見宿禰である。「バーリ・トゥード(何でもあり)」の仕合のなかで、古代相撲のポテンシャルを模索している意欲作である ♪

 

> 能見宿禰を祭神とする相撲神社

> 相撲神社を摂社としている穴師坐兵主神社(あなしにますひようず)

> 「兵主部(ひようすべ)」は河童の別称

> 垂仁天皇32年秋7月6日、能見宿禰は殉死者の代わりとして、墳墓へ埴輪を立てることを奏上する。その意見を天皇は認め、土師臣の姓を彼に下賜した。

> 仏教が渡来した後の大化2年(646)に薄葬令が発せられ、仕事の量は否応もなく減少した。

 

‥‥ せっかく天皇直々のお声がかりで埴輪作りに精を出していたのに、リストラされたよーなものである。陰陽道でも死の穢れを忌むよーになって、踏んだり蹴ったりの有様であった。

 

> そこで土師氏は先祖代々の生業を捨て、学問で生きる文官へと転進…… 

> …… 天応元年(781)、桓武天皇の家庭教師を務めていた土師宿禰古人(ふるひと)ほか15名が、居住地(奈良市)の地名にちなんだ菅原朝臣(あそみ)への改姓を許される。

以後、古人の息子の清公(きよきみ)は遣唐使の一員として入唐、帰国後に文章博士となった。また、孫の是善(これよし)は文章博士や大学頭を歴任し、菅原氏にとって初めての公卿である参議に昇る。

そして、曾孫の道真が4代続いた学者官僚の地位を土台とし、藤原氏の勢力拡張を憂えた宇多天皇に重用されて、目覚しい栄進を遂げることになる。

 

‥‥ 道真公は、西暦903年に太宰府でお亡くなりになる。京都に御霊(ごりょう)神社があるよーに、非業の死・無念の死を遂げた高位の人々は歴代幾たりもおられたはずである。

 

> …… なぜ、道真の霊ばかりが特別な扱いを受けてきたのだろう。一説に、分祀社が1万2000社を超えるという圧倒的な道真の神威は、どのように形成されていだたのだろう。

> …… 同年(天慶2年・939年)12月、上野国府(群馬県前橋市)で一人の歩き巫女が神がかり、「我が八幡大菩薩の位を、息子である平将門に授ける。その位記は菅原道真の霊魂が記す」と将門に宣託した。このことにより、将門は意を強くして「新皇」を僭称することになる。

武家の守護神である八幡神とともに、道真の怨霊が将門の謀反を支持したのである。

> 北野天満宮の由緒書『北野天神縁起』の絵巻

> …… 巻6、延喜3年の項では、道真の怨霊の化身である雷神が内裏の清涼殿の上空に出現し、四方八方に雷を落として、宮中の人々を追い散らす様子が描かれてある。

問題は、その雷神が赤肌のいかつい裸体に下帯一本、怒髪天を衝き、額に二本の角を生やした赤鬼として描かれていることである。

> なぜ、雷神が鬼なのであろうか。平安時代に編纂された『日本霊異記』や『今昔物語』に登場する雷神は人間の子供の姿であり、荒ぶる鬼の面影は微塵もないのである。

> …… この『北野天神縁起』の絵巻を作った絵師は、道真の本性が鬼であること、かつて大和王権に対抗していた出雲王朝の鍛冶・鉱山師の末裔であることを、読者に向かって暗示しているのである。

> …… 道真の怨霊の神格化に奔走した人々、すなわち道真の逸話を諸国に広めた演出者たちは、出雲系の人々であった。

> 京都の西市(にしのいち)に近い右京七条二坊(下京区)に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ・綾子・奇子)に道真の霊が憑依し、「右近の馬場がある北野の地に社殿を建てて、私を祭りなさい」との託宣があったという。

 

‥‥ 他にも、大宰府の竈門山(かまどやま)の山麓や、近江比良宮(比良山)の山岳修験〜神官の神氏は三輪氏と同族、道真公の子守役をしたとされる伊勢神宮の度会春彦(=白太夫)率いる白衣の神人たちが天神の布教活動として諸国を遍歴した模様である。

 

> とにもかくにも、道真の霊は北野の地に鎮まり、御利益のある天神に昇華された。その宗教的パフォーマンスを最終的に演出した者は、多治比文子でも神氏の父子でもない。

王権に害をなす怨霊を掌中に収め、自身と子孫の繁栄の道具として利用した、途方もない大役者がいたのである。

その名は摂政関白藤原忠平、怨霊に取り殺されたという時平の弟である。兄とは違い、忠平は道真と親しかったとされている。少なくとも、彼は道真の左遷に関与していなかった。

怨霊や雷神の噂が世に広まり、災厄が重なるなかで、忠平は文子や神父子のスポンサーとなり、北野天満宮の創建を援けた

 

‥‥ さすがに藤原氏は転んでも只では起きないね、この後の子孫が道長卿で、ちょうど千年まえに「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」などと詠んで、後世の人びとの顰蹙を買ったわけである。いまでも、「歌会始め」や「香道」や伊勢神宮の神官の顔ぶれなどに藤原氏の勢力を見ることが出来る。

 

あまりに重厚な「裏事情」で、第ニ章までしか辿れなかった。(続く)

          _________玉の海草