● “ 司馬遼太郎の好む人物像 ”
[2020-08-22 00:25:11 | 王ヽのミ毎]
作家・司馬遼太郎も代表作『竜馬がゆく』の中で、
> 幕末の史劇は、清河八郎が幕をあけ、坂本竜馬が閉じた、といわれる。
司馬遼太郎が坂本龍馬を小説にするまでは、維新史における龍馬の位置付けは必ずしも高いものではなかったと聞いています
大阪の新聞屋に勤め、反体制の気風の強い司馬は、龍馬のよーに「藩」の後ろ盾もなく、独力で自らの道を切り拓いてゆく傑物に心情を寄せる傾向があるよーに思います
私が云いたいのは、実は龍馬のことではなく、司馬遼太郎がもう一人書かずにはいられなかった 草莽の人・清河八郎 のことです
【清河神社⛩の鳥居脇に鎮座まします、清河八郎の討論なさる座像。『易経』から採った家紋が異彩を放っている。
鶴岡市出身の彫刻家・小林誠義 が制作したものである。
清河八郎が紀行文『西遊草』をモノし(九州遊説も敢行している)、吉田松陰は『東北遊日記』をモノする。幕末の志士は日本全国を行脚して、民情をよく知っていたものである。お二方は同い年で、1830年(天保元年)の寅年🐯生まれ。
銅像の台座にある「回天倡始・清河八郎先生」は、地元の偉才・大川周明の筆蹟。大川から感化されて、頭山満翁も清河を志士の魁として尊敬なさっていた。
[※ 画像は、地元庄内の人気ブログ「Rico's Room2」より]】
【ちょっと、俳優・中井貴一に似ているような気がする。俳優(わざをぎ)として凄まじい憑依型の演技をなさる中井貴一は、私のお気に入りの役者である。時代劇もすこぶる上手い。】
【母を連れて伊勢参り、の親孝行日記。母上が後日読み返せるよーにと、八郎には珍しく和文で綴ってある。あの時代に親子で伊勢〜大坂〜京都〜四国〜厳島神社⛩あたりまで、日本一周ぐるり旅みたいにマメに歩いている。旅先で遭遇したいちいちにわたって細かく文句つけている処は、庄内人らしい ♪】
近年、坂本龍馬の北辰一刀流薙刀の免許状が見つかり、真偽を照らすのに清河八郎の北辰一刀流免許皆伝状が参考にされたと聞きます
月刊誌『秘伝』に、“「男薙刀」最強説 ” とゆー特集が組まれたことがあったが、弁慶の「なぎなた」が戦場武器として主役であった時代もあったのである
千葉定吉(周作の実弟)師匠から鍛え込まれた龍馬はかなりの遣い手だったと思います
清河八郎はマメな男で、玄武館(北辰一刀流道場)に通ってくる門弟の氏名を逐一メモしていましたが、その中に坂本龍馬の名もある
山岡鉄舟も北辰一刀流だし、武田惣角が秘技「八寸の延金」を遣ってからくも一本取った、突きの天才・下江秀太郎もそーである
清河八郎は、当初学問一辺倒だったが、旅の空で絡まれた経験から身を守る「武」も修める必要を感じて、遅ればせながらハタチ頃から玄武館で学び始めた
クソ真面目に通い詰めて、一年で初目録を取っている、筋がよかったのだろー、その後九年かけて免許皆伝(自分の道場に北辰一刀流の看板を掲げてもよい資格)まで辿り着く
彼は、幕府の密偵の首をはねて5メートル位跳ばした逸話が残っているが、江戸では一廉(ひとかど)の剣客で通っていた
剣と学問をどちらも教える私塾を開いている
当時の志士たちは、松陰先生にしても龍馬にしても清河八郎にしても、各地を旅して歩き見聞がいたって広く、世事にも通暁していた
清河は、蝦夷地から九州遊説まで驚くべき行動範囲である
造り酒屋の息子だった彼は、五百石くらいの土地に酒米をつくる豪農(荘内藩の郷士)だった父からの仕送りで全てまかなった
実家の銘酒は飛ぶように売れたから、裕福な御曹司だったのである、このへんは南方熊楠とも似通った境遇にある
詐欺的な策を弄して上洛して、天皇陛下から勅状まで賜った頃、彼の指揮下に行動を起こせる同志が 500人位は数えられたと云う
ちょっとした五〜十万石くらいの大名並みの機動力を有していたわけである
坂本龍馬は、土佐藩の後ろ盾がないとはいえ、フリーメーソンリーのグラバー卿から手厚い援助をうけていた武器商人だったのに対し……
清河八郎は、荘内藩の後ろ盾は勿論なく、父の仕送りのみで一大勢力と目されるまで、志士たちをまとめ上げたのである
陛下から賜った勅状はつかわず仕舞いで、確たる動きも見せないまま未遂のままに、暗殺されてしまう
この逡巡・躊躇いには、幼き日のトラウマが色濃く影響を及ぼしていると思われる
荘内藩の米を預かっている庄屋格の斎藤家(清河の実家)に、飢饉のとき地元の村の衆が強奪に入ったことがある
現場で隠れていた幼き八郎は、そこで目にした事や耳にした事をペラペラ喋り、結果的に知り合いの村人十五人程を死罪に追い込んだ過去があった
調子に乗って、行動を起こすとまた数多くの人々の命を奪うことになるのではないかとの危惧があったよーに思えてならない
司馬遼太郎は、清河八郎をやはり書いた、タイトルが『奇妙なり八郎』である
トラック一台分、隅から隅まで調べ尽くす司馬が、最終的にどーしても納得がゆかなかった模様である
清河八郎が育った「庄内」とゆー特殊な地方についても、司馬は調べ尽くすことが出来なかったよーだ
>「…他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている。
庄内は東北だったろうか、と考え込んでしまう。
庄内は文化や経済の上で重要な、江戸期の日本海交易のために、上方文化の浸透度が高かった。
その上、有力な譜代藩であるため、江戸文化を精密に受けている。
更にその上、東北特有の封建身分制の意識も強い。
いわば、上方、江戸、東北の三つの潮目になる、というめずらしい場所だけに人智の面だけでも際立っている。
庄内へゆくことを考えていたが、自分の不勉強におびえて果たせずにいる。………」
[※ シリーズ『街道をゆく』29巻・東北編冒頭で「庄内」を書きたいがどーしても書けないので長文の言い訳を述べて、秋田から書いた]
そんな司馬が描いた短編『奇妙なり八郎』だが……
柴田錬三郎の長編『清河八郎』や藤沢周平の長編『回天の門』と比べても、わからない人をわからないなりに描いた正直な筆致は、思いの外、出色の出来だと私なんかは思う
[※ 柴田錬三郎は本名斎藤錬三郎、つまり清河八郎(本名・齋藤元司)の子孫に婿入りした。また藤沢周平の恩師は『清河八郎記念館』の館長をしていた。両名ともに情実の絡む執筆であったわけである]
清河の優しさに触れている処や、刺客佐々木只三郎(会津の神道精武流において武田惣角と同門)との位比べなんか読むと、司馬はかなりに八郎が好きなよーだと私は観た、眼差しがあたたかいのである
坂本龍馬以上に、高く買っていたのではないかと私は思う
しかし、よく分からぬ処があって、『竜馬がゆく(1963〜66年新聞連載)』のよーな大長編をモノすることが出来なかったのではないかと推察する
うちの地方(山形県庄内)には、『清河八郎記念館』がある
酒田市には、西郷さんを祀る『荘内南洲神社』もある
西郷さんの語録『南洲翁遺訓』を、荘内藩が発行して全国に配ったとゆー経緯もあり、本場鹿児島でも庄内の名は知られている
大川周明(酒田市出身)の称える「回天倡始・清河八郎」よりも、維新の立役者・西郷さんを讃える方が世間からはウケがいいかも知れない
が、私は鹿児島の俳優 迫田孝也さん(大河ドラマ『西郷どん』で江藤新平役及び鹿児島弁指導)が、鹿児島の世に知られていない先人を熱心に演じたり、故郷鹿児島のことを自らの生き方を踏まえて熱烈に推してくる気概にえらく心打たれた
庄内人としては、西郷さんのご鴻恩に報いる気持ちは勿論だが、郷土の偉大な先人・清河八郎の生き方を同時代の西郷さんと並べて、検証(顕彰も含む)するのが先ではないかと最近思っている
迫田さんのよーな偽らざる情熱をもって、郷土の偉人(地元の先覚)に倣う姿勢をもたなければ嘘だと思う
まー、「〇〇未遂」の人傑・清河八郎にも、「〇〇完遂」した人以上に凄絶な物語があり、潔い志しがあったことを強く感じている
泥舟・鉄舟や田中河内介・平野国臣や真木和泉などと渡り合った八郎である(この名乗りは、官位を贈るからと懐柔されたとき、「われは鎮西八郎にして可なり」と応じた源為朝に由来するのだろーか?)
八郎の遺した文書は膨大な分量にのぼるが、私塾を開くほどの学才で、通常は漢文筆記で易学にも詳しく(家紋を易の卦から取っている)、難解な文章が多く、国文の大学院クラスでないと読みこなせないとか仄聞する(よって残念ながら未解読のものが多量にある)
学問にも剣にも、よくあの風雲急を告げる時代にあれだけ修めたものだと感嘆する
まー振り返ってみれば……
維新の頃も、いまとは比べものにならないほど、
【ニューノーマル】が求められた時代であった
●“ 孝養を尽くす ”
[2018-07-16 23:07:23 | 王ゝのミ毎]
かの藤田東湖も、火事場の母御を助けようとなさって、あの時代に是が非でも必要とされたかけがえのない命を落とされた
わが郷土の偉人・清河八郎(幕末の志士、「回天倡始」の魁)にも、母御に孝行せんとてお伊勢参りに連れて行った道中(実際には四国や厳島神社まで足を伸ばしている大旅行記である)を詳しく描いた
『西遊草』なる紀行文が遺っている
八郎は十代の頃より、日記も漢文で記すほどによく出来たが……
この紀行文は、後々母が読んで振り返って懐かしめるように、初めて和文で書き留めている
母は駕籠に乗せて、みずからは徒歩で、従者を一人連れて、169日間に及ぶ大旅行記となっている
伊雑宮は当時、磯部大神宮と呼ばれてたのですね
外宮・内宮・朝熊山まで詣でておられました
「忠孝」は儒学の柱でありますが、明治以前の武家社会では極端なまでに推し進められました
「主君のために」とゆー忠義が、すんなりと「天子さま(主上)のために」へと移行した武士は、山岡鉄舟はじめ極少数ではあったが…… 「おかみ」なる者のためにと滅私奉公する過程で、自分のイヤな自我がどんどん消えていって、大きな一つの存在の内に自分の個性が溶け込んでゆく
心境がすすむと、大自然と同位となる(G.アダムスキー)までに至って、現世の動きが観えてくる、武士道における「忠孝」とは自分を二の次にして顧みない「観音行」でもあるだろう。
思い遣る力こそ「観音力」の正体であり、子を思う母心は途轍もない洞察を時に発揮するよーに、親を思い遣る「孝」と主君を思い遣る「忠」とは、それに徹したときに思いも寄らぬ視野を獲得する(現代のサラリーマンにも通底する事だと思う)
それは、我が薄くなり大いなる一つの存在に溶け込んでゆくからなのですね
神通力(超能力)とは、なんのことはない、他者を知ることではなく、大いなる一つである自分を知ることによって道引かれる自然な力なのでありましょー
また親孝行にも、霊的な厳然たる功徳があることを見逃しては生けません
両親とは、直近のご先祖さまに他ならないからです、家系を芋づる式に遡ってゆけば初代のご先祖から人類のご先祖さま、そして神へと家系の霊線が繋がります
日本の伝統仏教は、その消息を、「上に神棚、下は仏壇」の配置に露わしました(檀家寺の開山堂には、「歴代天皇の位牌」もともに祀られている)
ーかつて、司馬遼太郎原作の映画『暗殺』で、
丹波哲郎 が清河八郎を、そしてその妻・お蓮さんを 岩下志麻さん が演じて下さったようです
> 「…… やはり清河八郎という人間が、野心と情熱にあふれたエネルギッシュな人間じゃないですか。佐幕派を裏切り、結局は勤皇方につく。
そういうエキセントリックな清河八郎に惹かれたことはあります。
で、その人を愛し抜く女ということで、とても好きな役になりました。
清河八郎を愛し、守る。あれだけの拷問を受けても、絶対に口を割らない。その辺のお蓮さんの一途な愛に惹かれましたね」
[※ 春日太一『美しく、狂おしく 〜岩下志麻の女優道』より]
‥‥ 「駆けずのお志麻」さんからこう言ってもらえて、非業の死を遂げたお蓮さんも少しは浮かばれるといふものです
この映画🎦のビデオは、清河八郎記念館でお持ちだそうなので、いつの日か、見せて頂きたいものだ
いったいにうちの荘内(庄内)とゆー地は、複雑多岐な土地柄で……
出身者を並べてみると、高山樗牛(文学者)・石原莞爾(軍人)・大川周明(思想家)、丸谷才一・渡部昇一・藤沢周平・土門拳・佐高信・成田三樹夫 といった布陣で……
なかなか一筋縄ではいかない曲者ぞろい
まー「非凡」を好む土地柄ではありますね 🎯
_ . _ . _ . _ . _ . _ 玉の海草