『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

《玉断》 庄内人らしく〜 回天の魁、 ド不敵なニート 「清河八郎」

2022-04-14 03:05:07 | 藤澤周平

●  “ 司馬遼太郎の好む人物像

[2020-08-22 00:25:11 | 王ヽのミ毎]

 

作家・司馬遼太郎も代表作『竜馬がゆく』の中で、

幕末の史劇は、清河八郎が幕をあけ、坂本竜馬が閉じた、といわれる。

司馬遼太郎が坂本龍馬を小説にするまでは、維新史における龍馬の位置付けは必ずしも高いものではなかったと聞いています

大阪の新聞屋に勤め、反体制の気風の強い司馬は、龍馬のよーに「藩」の後ろ盾もなく、独力で自らの道を切り拓いてゆく傑物に心情を寄せる傾向があるよーに思います

私が云いたいのは、実は龍馬のことではなく、司馬遼太郎がもう一人書かずにはいられなかった 草莽の人・清河八郎 のことです

 

【清河神社⛩の鳥居脇に鎮座まします、清河八郎の討論なさる座像。『易経』から採った家紋が異彩を放っている。

鶴岡市出身の彫刻家・小林誠義 が制作したものである。

清河八郎が紀行文『西遊草』をモノし(九州遊説も敢行している)、吉田松陰は『東北遊日記』をモノする。幕末の志士は日本全国を行脚して、民情をよく知っていたものである。お二方は同い年で、1830年(天保元年)の寅年🐯生まれ。

銅像の台座にある「回天倡始・清河八郎先生」は、地元の偉才・大川周明の筆蹟。大川から感化されて、頭山満翁も清河を志士の魁として尊敬なさっていた。

[※ 画像は、地元庄内の人気ブログ「Rico's Room2」より]】

 

【ちょっと、俳優・中井貴一に似ているような気がする。俳優(わざをぎ)として凄まじい憑依型の演技をなさる中井貴一は、私のお気に入りの役者である。時代劇もすこぶる上手い。】

 

 

【母を連れて伊勢参り、の親孝行日記。母上が後日読み返せるよーにと、八郎には珍しく和文で綴ってある。あの時代に親子で伊勢〜大坂〜京都〜四国〜厳島神社⛩あたりまで、日本一周ぐるり旅みたいにマメに歩いている。旅先で遭遇したいちいちにわたって細かく文句つけている処は、庄内人らしい ♪】

 

近年、坂本龍馬の北辰一刀流薙刀の免許状が見つかり、真偽を照らすのに清河八郎の北辰一刀流免許皆伝状が参考にされたと聞きます

月刊誌『秘伝』に、「男薙刀」最強説とゆー特集が組まれたことがあったが、弁慶の「なぎなた」が戦場武器として主役であった時代もあったのである

千葉定吉(周作の実弟)師匠から鍛え込まれた龍馬はかなりの遣い手だったと思います

清河八郎はマメな男で、玄武館(北辰一刀流道場)に通ってくる門弟の氏名を逐一メモしていましたが、その中に坂本龍馬の名もある

山岡鉄舟も北辰一刀流だし、武田惣角が秘技「八寸の延金」を遣ってからくも一本取った、突きの天才・下江秀太郎もそーである

清河八郎は、当初学問一辺倒だったが、旅の空で絡まれた経験から身を守る「武」も修める必要を感じて、遅ればせながらハタチ頃から玄武館で学び始めた

クソ真面目に通い詰めて、一年で初目録を取っている、筋がよかったのだろー、その後九年かけて免許皆伝(自分の道場に北辰一刀流の看板を掲げてもよい資格)まで辿り着く

彼は、幕府の密偵の首をはねて5メートル位跳ばした逸話が残っているが、江戸では一廉(ひとかど)の剣客で通っていた

剣と学問をどちらも教える私塾を開いている

当時の志士たちは、松陰先生にしても龍馬にしても清河八郎にしても、各地を旅して歩き見聞がいたって広く、世事にも通暁していた

清河は、蝦夷地から九州遊説まで驚くべき行動範囲である

造り酒屋の息子だった彼は、五百石くらいの土地に酒米をつくる豪農(荘内藩の郷士)だった父からの仕送りで全てまかなった

実家の銘酒は飛ぶように売れたから、裕福な御曹司だったのである、このへんは南方熊楠とも似通った境遇にある

詐欺的な策を弄して上洛して、天皇陛下から勅状まで賜った頃、彼の指揮下に行動を起こせる同志が 500人位は数えられたと云う

ちょっとした五〜十万石くらいの大名並みの機動力を有していたわけである

坂本龍馬は、土佐藩の後ろ盾がないとはいえ、フリーメーソンリーのグラバー卿から手厚い援助をうけていた武器商人だったのに対し……

清河八郎は、荘内藩の後ろ盾は勿論なく、父の仕送りのみで一大勢力と目されるまで、志士たちをまとめ上げたのである

陛下から賜った勅状はつかわず仕舞いで、確たる動きも見せないまま未遂のままに、暗殺されてしまう

この逡巡・躊躇いには、幼き日のトラウマが色濃く影響を及ぼしていると思われる

荘内藩の米を預かっている庄屋格の斎藤家(清河の実家)に、飢饉のとき地元の村の衆が強奪に入ったことがある

現場で隠れていた幼き八郎は、そこで目にした事や耳にした事をペラペラ喋り、結果的に知り合いの村人十五人程を死罪に追い込んだ過去があった

調子に乗って、行動を起こすとまた数多くの人々の命を奪うことになるのではないかとの危惧があったよーに思えてならない

司馬遼太郎は、清河八郎をやはり書いた、タイトルが『奇妙なり八郎』である

トラック一台分、隅から隅まで調べ尽くす司馬が、最終的にどーしても納得がゆかなかった模様である

清河八郎が育った「庄内」とゆー特殊な地方についても、司馬は調べ尽くすことが出来なかったよーだ

>「…他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている。
庄内は東北だったろうか、と考え込んでしまう
庄内は文化や経済の上で重要な、江戸期の日本海交易のために、上方文化の浸透度が高かった。
その上、有力な譜代藩であるため、江戸文化を精密に受けている。
更にその上、東北特有の封建身分制の意識も強い。
いわば、上方、江戸、東北の三つの潮目になる、というめずらしい場所だけに人智の面だけでも際立っている。
庄内へゆくことを考えていたが、自分の不勉強におびえて果たせずにいる。………」

[ シリーズ『街道をゆく』29巻・東北編冒頭で「庄内」を書きたいがどーしても書けないので長文の言い訳を述べて、秋田から書いた]

 

そんな司馬が描いた短編『奇妙なり八郎』だが……

柴田錬三郎の長編『清河八郎』や藤沢周平の長編『回天の門』と比べても、わからない人をわからないなりに描いた正直な筆致は、思いの外、出色の出来だと私なんかは思う

[ 柴田錬三郎は本名斎藤錬三郎、つまり清河八郎(本名・齋藤元司)の子孫に婿入りした。また藤沢周平の恩師は『清河八郎記念館』の館長をしていた。両名ともに情実の絡む執筆であったわけである]

清河の優しさに触れている処や、刺客佐々木只三郎(会津の神道精武流において武田惣角と同門)との位比べなんか読むと、司馬はかなりに八郎が好きなよーだと私は観た、眼差しがあたたかいのである

坂本龍馬以上に、高く買っていたのではないかと私は思う

しかし、よく分からぬ処があって、『竜馬がゆく(196366年新聞連載)』のよーな大長編をモノすることが出来なかったのではないかと推察する

 

うちの地方(山形県庄内)には、『清河八郎記念館』がある

酒田市には、西郷さんを祀る『荘内南洲神社』もある

西郷さんの語録『南洲翁遺訓』を、荘内藩が発行して全国に配ったとゆー経緯もあり、本場鹿児島でも庄内の名は知られている

大川周明(酒田市出身)の称える「回天倡始・清河八郎」よりも、維新の立役者・西郷さんを讃える方が世間からはウケがいいかも知れない

が、私は鹿児島の俳優 迫田孝也さん(大河ドラマ『西郷どん』で江藤新平役及び鹿児島弁指導)が、鹿児島の世に知られていない先人を熱心に演じたり、故郷鹿児島のことを自らの生き方を踏まえて熱烈に推してくる気概にえらく心打たれた

庄内人としては、西郷さんのご鴻恩に報いる気持ちは勿論だが、郷土の偉大な先人・清河八郎の生き方を同時代の西郷さんと並べて、検証(顕彰も含む)するのが先ではないかと最近思っている

迫田さんのよーな偽らざる情熱をもって、郷土の偉人(地元の先覚)に倣う姿勢をもたなければ嘘だと思う

まー、「〇〇未遂」の人傑・清河八郎にも、「〇〇完遂」した人以上に凄絶な物語があり、潔い志しがあったことを強く感じている

泥舟・鉄舟や田中河内介・平野国臣や真木和泉などと渡り合った八郎である(この名乗りは、官位を贈るからと懐柔されたとき、「われは鎮西八郎にして可なり」と応じた源為朝に由来するのだろーか?)

八郎の遺した文書は膨大な分量にのぼるが、私塾を開くほどの学才で、通常は漢文筆記で易学にも詳しく(家紋を易の卦から取っている)、難解な文章が多く、国文の大学院クラスでないと読みこなせないとか仄聞する(よって残念ながら未解読のものが多量にある)

学問にも剣にも、よくあの風雲急を告げる時代にあれだけ修めたものだと感嘆する

まー振り返ってみれば……

維新の頃も、いまとは比べものにならないほど、

【ニューノーマル】が求められた時代であった

 

●“ 孝養を尽くす ”
[2018-07-16 23:07:23 | 王ゝのミ毎]

かの藤田東湖も、火事場の母御を助けようとなさって、あの時代に是が非でも必要とされたかけがえのない命を落とされた
わが郷土の偉人・清河八郎(幕末の志士、「回天倡始」の魁)にも、母御に孝行せんとてお伊勢参りに連れて行った道中(実際には四国や厳島神社まで足を伸ばしている大旅行記である)を詳しく描いた
『西遊草』なる紀行文が遺っている
八郎は十代の頃より、日記も漢文で記すほどによく出来たが……
この紀行文は、後々母が読んで振り返って懐かしめるように、初めて和文で書き留めている
母は駕籠に乗せて、みずからは徒歩で、従者を一人連れて、169日間に及ぶ大旅行記となっている
伊雑宮は当時、磯部大神宮と呼ばれてたのですね
外宮・内宮・朝熊山まで詣でておられました


「忠孝」は儒学の柱でありますが、明治以前の武家社会では極端なまでに推し進められました

「主君のために」とゆー忠義が、すんなりと「天子さま(主上)のために」へと移行した武士は、山岡鉄舟はじめ極少数ではあったが…… 「おかみ」なる者のためにと滅私奉公する過程で、自分のイヤな自我がどんどん消えていって、大きな一つの存在の内に自分の個性が溶け込んでゆく

心境がすすむと、大自然と同位となる(G.アダムスキー)までに至って、現世の動きが観えてくる、武士道における「忠孝」とは自分を二の次にして顧みない「観音行」でもあるだろう。
思い遣る力こそ「観音力」の正体であり、子を思う母心は途轍もない洞察を時に発揮するよーに、親を思い遣る「孝」と主君を思い遣る「忠」とは、それに徹したときに思いも寄らぬ視野を獲得する(現代のサラリーマンにも通底する事だと思う)
それは、我が薄くなり大いなる一つの存在に溶け込んでゆくからなのですね
神通力(超能力)とは、なんのことはない、他者を知ることではなく、大いなる一つである自分を知ることによって道引かれる自然な力なのでありましょー
また親孝行にも、霊的な厳然たる功徳があることを見逃しては生けません

両親とは、直近のご先祖さまに他ならないからです、家系を芋づる式に遡ってゆけば初代のご先祖から人類のご先祖さま、そして神へと家系の霊線が繋がります

日本の伝統仏教は、その消息を、「上に神棚、下は仏壇」の配置に露わしました(檀家寺の開山堂には、「歴代天皇の位牌」もともに祀られている)

ーかつて、司馬遼太郎原作の映画『暗殺』で、

 

丹波哲郎 が清河八郎を、そしてその妻・お蓮さんを 岩下志麻さん が演じて下さったようです


> 「…… やはり清河八郎という人間が、野心と情熱にあふれたエネルギッシュな人間じゃないですか。佐幕派を裏切り、結局は勤皇方につく。
そういうエキセントリックな清河八郎に惹かれたことはあります。
で、その人を愛し抜く女ということで、とても好きな役になりました。
清河八郎を愛し、守る。あれだけの拷問を受けても、絶対に口を割らない。その辺のお蓮さんの一途な愛に惹かれましたね」
[※ 春日太一『美しく、狂おしく 〜岩下志麻の女優道』より]


‥‥ 「駆けずのお志麻」さんからこう言ってもらえて、非業の死を遂げたお蓮さんも少しは浮かばれるといふものです

この映画🎦のビデオは、清河八郎記念館でお持ちだそうなので、いつの日か、見せて頂きたいものだ


いったいにうちの荘内(庄内)とゆー地は、複雑多岐な土地柄で……
出身者を並べてみると、高山樗牛(文学者)・石原莞爾(軍人)・大川周明(思想家)、丸谷才一・渡部昇一・藤沢周平・土門拳・佐高信・成田三樹夫 といった布陣で……
なかなか一筋縄ではいかない曲者ぞろい
まー「非凡」を好む土地柄ではありますね 🎯

           _ . _ . _ . _ . _ . _   玉の海草


 庄内人の愛する映画〜  『たそがれ清兵衛』

2021-10-16 23:32:52 | 藤澤周平

 

__日本全国が黄昏れている時、わたしたち庄内人がこよなく愛する映画『たそがれ清兵衛』を、実に久方ぶりに拝見した

海坂藩の物見櫓(ものみやぐら)から見える、冠雪をいただいた蒼い御山こそ、月山(出羽三山の主峰)である

牛が寝そべっている姿に見えることから「臥牛山」とも呼ばれるが、映画の山容はまさにこの臥牛に見える角度から撮られていたのは嬉しかった

月山って、山形県のほぼ中央にあって、県都山形市からも眺められる、いわば山形県を代表する御山なんです

月山は、ジョージ・オーウェルなんですよ『1984』、

あと十数メートル高ければ、2000メートル級の山になれるのになんとも謙虚な佇まいである

向かいの鳥海山(30km位の距離)と月山とで、2000m級の山に挟まれた平野が、藤沢周平の描く海坂藩のある庄内平野です

映画『たそがれ清兵衛』は、その城下町たる鶴岡市を実によく濃やかに描いているのです

清兵衛の下の娘のイト、あの娘の遣う庄内弁が真田広之の訥々とした庄内弁とともに絶品なんですな

「めじょけね、おら」(可哀そうに思うわ、私は)

完璧なイントネーションに、完璧な使用場面と表情、この一言で、イトが愛されて育てられたこと、慈しみ深い女の子であることが如実に知られるのです

【画像=映画『たそがれ清兵衛』より、下の娘のイトちゃん「めじょけね、おら」】

 

使用人のナオタの茫洋たる存在感も傑作だったし、今回初めて気がついて身につまされたのが、我が子も分からないほど惚けた母上のユーモラスな可愛らしさである

戸田(富田)流小太刀の遣い手・清兵衛は、労咳で妻を亡くし、二人の娘と母親と使用人を、50石の安い家禄で養っている苦労人なのであった

昔は、とんと分からなかった「たそがれ殿」と職場であだ名される皮肉も、本家とのしがらみも……

認知症の母と暮らす今になって、ようやくしみじみと胸に迫ってくる(藤沢周平も、実生活において最初の妻に先立たれて井口清兵衛と同じ境遇におかれたことがある)

この映画の舞台となっている、現在の鶴岡市は、われら庄内人が全国に誇る、民度のバカ高い地方都市の雄である

わたしは、鳥海山文化圏つまり荒ぶる湊町・酒田市のはずれに住いするが、風雅な文化都市である鶴岡市に対する畏敬の念はいや勝る一方である

映画『たそがれ清兵衛』で方言指導してらした、故・山崎誠助先生は、先輩のご尊父で親しく話しさせて頂いたことがあるが……

『水戸黄門』の東野英治郎や『おしん』の長岡輝子などと昵懇で、暗黒舞踏の麿・赤兒なども鶴岡で合宿させたり、劇団『麦の会』を主宰なされ、鶴岡の高度な文化度の礎となっておられた御仁でありました

鶴岡と酒田は、言って見れば京都と大阪みたいな相補関係にあって、鶴ヶ岡城(旧・大宝寺城)に亀ヶ崎城(旧・東禅寺城)と、「鶴と亀がすべった後ろの正面だ〜れ?」の土地柄なのです

 

映画では、清兵衛は明治維新の戊辰戦争に従軍して鉄砲傷で亡くなっています

幕末の幕府軍最強を謳われた庄内藩……

徳川四天王の酒井家の治世が長かったし、日本一の土地持ちと云われた豪商・本間家からの莫大な財政援助もあり、戊辰戦争の折の装備は最新式の銃を備えて、まさに連戦連勝、勝ったまま降伏した誇り高き庄内藩でありました

[ 鶴岡の古老は今でも、「庄内は負けて降伏したわけじゃありませんからのう」と物静かに言い放つ]

連戦した秋田県の平沢(現・仁賀保町辺り)……

この幕府軍最強の庄内藩と、新政府軍最強の佐賀藩支藩の武雄領兵(ご親兵として明治天皇の警護にあたっていた精鋭部隊)とが、雄物川を挟んで一か月程一進一退の攻防を繰り返したのだから面白い

おたがい、アームストロング砲なり、エンフィールド銃スナイドル銃スペンサー銃の最新兵器での銃撃戦……

武雄領兵は、さすがに寒さに参ったらしいが、東北の片田舎で最新装備の精強な軍隊同士が、死力を尽くして激闘したのは、戊辰戦争のクライマックスだったのかも知れない

 

ーそんな、庄内の矜持と隣り合せの悲運を予兆してあまりある『たそがれ清兵衛』でありました

なにか、観終わった感慨が、『鬼龍院花子の生涯』に似通っているのが妙なのだが……

日傘を傾けた夏目雅子に、人力車で墓参りする岸・惠子、襷掛けで子ども達と戯れる宮・沢りえも素的だ

この歳になって、ようやく昭和の大女優の比類なき美しさに気づいた私だった

武士道にしろ、男の生き様(人生哲学)を後世に正確に語り継ぎ伝承する(生活上で体現する)のは、その娘たる女性たちであった

つまり、ひとかどの武士たる父を畏敬する娘が、肌身に浸みこませた「武士道」を、父上の孫たる愛息に日夜・衣食住・行住坐臥しつけて薫習させる(馴染ませる)のである

「文明とは女性の協力である」(イナガキタルホ)

最後の一押しするのは、どーしても女性でなければならないよーな気がする

         _________玉の海草


 つけもつけたり 「寒梅忌」 〜 藤沢周平の 「庄内」

2021-10-16 23:21:25 | 藤澤周平

__藤沢周平がお亡くなりになって、早や20年、1月26日の命日近辺で営まれる 「寒梅忌」 も一区切りつけて、おしまいとなった

雪国にしては温かい庄内地方でも、「大寒」のこの時期は水道管が凍ることも間々ある、庄内空港の滑走路も危ないわけで、よくこの時節の「寒梅忌」に毎年多数の読者が集ったものだと感心する(それだけ、全国にファンが多いことを物語るものだ)

中田喜直『雪の降る街を』は、藤沢周平の故郷・鶴岡の城下町に降りしきる雪をみながら作曲された

冬の東北、寒風吹き荒ぶ日本海がわは、それはとにかく暗いどころか冥界の「溟い」なのです

 

> しかし上野で汽車に乗りこむと、そういうこととはべつに、どこか浮き浮きするような気分が私をとらえはじめていた。それが何のためか、私にはわかっていた。

私は郷里の初冬の風景が好きなのである。暗鬱な雲が垂れこめ、空は時どきそこから霙(みぞれ)やあられを降らせる。

そして、裂けるとしか言いようがない雲の隙間から、ほんの僅かの間 日が射し、黒い野や灰色の海を照らし出す。そういう日日の反覆のあとに、ある夜静かに休みなく雪が降りつづけ、朝になると世界が白くなっているのである。

初冬に至って、私が生まれ育った土地は、他の土地と紛れるところのない、まさにその土地であるしかない相貌をあらわすのである。

私がこの季節を好むのは、多分そのためである。

[※ 藤沢周平 エッセイ『初冬の鶴岡』(1977年)より]

 

‥‥ ほんと、この時期の最上川の水面が鈍色に映える雪景色といったら、陰鬱の極みでかえって大自然の神威をさえ感じる (藤沢周平の鶴岡では「赤川」である、最近「赤川花火大会」が全国的に注目されて嬉しい)

この何ともいえない「ドンヨリ」を、真下慶治とゆー洋画家は生涯描きつづけて、根源から差し込む光明をよく活写したものだ

【画像=真下慶治の画く「冬の最上川」「雪の最上川」、村山市大淀の最上川そばに『最上川美術館(真下慶治記念美術館)』がある】

 

地吹雪がふきすさぶ、大寒の庄内平野を流れる最上川……   なにものをも埋没させる風情の灰色のうねりが庄内そのものにも見える

 

ーで、その藤沢が、小学校時代の恩師が「清河八郎記念館」の館長でいらした縁で、ご自分とはまったくタイプが違うにもかかわらず、庄内人の典型を体現していた清川八郎(生地の地名が「清川」、大河最上川に擬して「清河」とも記した)の生涯を長編で描いた、『回天の門』である

ほかにも、柴田錬三郎の奥方が清川八郎のご子孫なもんだから、シバレンにしてはつまらない歴史小説めいた『清河八郎』を書いている

つまり、この大流行作家のお二人は、情実で「清川八郎」を描いたのであり、思いっきり自分の思いを書けない大人の事情があった事は、返す返すも残念である

だから、地元のファンとしては、司馬遼太郎の中編『奇妙なり八郎』のほうが、ずっと感情移入ができた

[※  「奇妙なり八郎」は、老中板倉勝静による清河評らしいですが、司馬はご自分の素直な感想もこめて、この秀逸なタイトルを撰んだものと思います]

 

天皇陛下からの勅状を賜った後の逡巡なぞ、「奇妙」の最たるものですが、藤沢周平『回天の門』に詳しくあるよーに、

幼児期のトラウマ(調子にのって悪ノリすると多数の犠牲者を生んだ過去=幼い八郎の証言で15人の村人が処刑されている)が、自分を亡き者にさせる方向に働いたのはあり得ると思う

司馬遼太郎は、シリーズ『街道をゆく』29巻秋田篇冒頭で、何故「庄内」を書きたくても書けないのか縷々と述べている

>「…他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている。
庄内は東北だったろうか、と考え込んでしまう。
庄内は文化や経済の上で重要な、江戸期の日本海交易のために、上方文化の浸透度が高かった。
その上、有力な譜代藩であるため、江戸文化を精密に受けている。
更にその上、東北特有の封建身分制の意識も強い。
いわば、上方、江戸、東北の三つの潮目になる、というめずらしい場所だけに人智の面だけでも際立っている
庄内へゆくことを考えていたが、自分の不勉強におびえて果たせずにいる。………」

 

‥‥ 清河八郎の「分からなさ」も強く念頭にあったことと思う(他に、大西郷との親しすぎる交流、荘内藩独特の「徂徠学」、藩校「致道館」の伝統を継ぐ文化人、軍人、国士等)

[※  荘内日報社『郷土の先人・先覚』シリーズ-参照]

http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/

 

「奇妙なり」の原因が分からないから、庄内を書かない司馬は正直なおとこである、わたしは司馬遼太郎の忍者モノとかは大好きである ♪

反権力のジャーナリストだった司馬は、坂本龍馬や清河八郎のよーな無位無冠がすきなおひとである

ただ、二人とも商家の出であることは注目されてよい

武器商人でフリーメーソンの援助をうけた龍馬に対して、八郎は造り酒屋の莫大な売上を親に仕送りしてもらって、まったく独自に活動したとゆー違いは歴然としてある

 

まず甘やかされたとゆーか、自由奔放に勉強させてもらった八郎であった

どのくらいの勉学ぶりかとゆーと、八郎は少年時代から日記をつけているが、「旦起私乗(たんきしじょう)と己でタイトルをつけ、18〜20歳まで「天地人」の三巻をすべて漢文で綴っている

江戸に出てから、剣と学問の両方を教える私塾を何度となく開いた八郎だったが、『西遊草』のよーな全国行脚紀行文(母上を伊勢参りに連れ出した顛末)もふくめ、膨大な著作をものしている

いまだ未解読の論文は多数のこっているが、東大の大学院レベルの学識がないと読み込めないほどだ(『清河八郎記念館』の廣田館長談)とか…… 八郎は「易経」から家紋をつくっている

 

そんな八郎を、藤沢周平は「ド不敵」と捉えている

> 昌義(八郎の祖父)は、不敵という土地の言葉を思い出していた。自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。

その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。

しかし半面自己を恃む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった。

むろん村人の中でも、勇気ある者はうやまわれ、臆病な人間はどっこけとして侮られる。しかし不敵の勇気は、底にいかなる権威、権力をも愚弄してかかる反抗心を含むために、ひとに憚られるのである。

羽州荘内藩。そこは一年の三分の一が風雪に閉ざされる土地である。その空の下で、百姓はつねに頭の上がらない暮らしを強いられる。風土と身分と、この二重の桎梏にしばられる忍従の暮らしを、くるりと裏返したところに隠されているのが、不敵と言われる性格だった。

不敵は百姓が居直った姿だとも言える。

どこの村にも一人か二人は不敵な人間がいて、彼らの多くは人びとにおそれ憚られていた。耐えしのび、抗うべからずという村の禁忌を、不敵な連中はやすやすと破り、村人の小心さをせせら笑ったりするからであった。

[※ 藤沢周平『回天の門』「遊蕩児」より]

 

‥‥ 藤沢は、ド不敵の例として、清河八郎のほかに、石原莞爾将軍(鶴岡出身)や大川周明博士(酒田出身)も挙げておられた

いずれも功罪相半ばする規格外の偉材である、幸か不幸か、それが庄内人の特徴といえよーか

 

古代朝鮮(現在の朝鮮民族とは別モノ)の高句麗が大陸に建国した「渤海国」から日本海沿いの庄内地方へ、西暦700年代に1000人規模の移住があった

これによって生じた大規模な混血が、いまの庄内に深く影響しているよーに思えてならない

だって、隣りの秋田人とも内陸の山形人とも余りにも違った土地柄なのだから、それ相応の原因があるのだろー

 

その、誇り高き庄内文化の粋が、徳川四天王酒井家の城下町である鶴岡市にある

『庄内論語』なるものがある、読んでみると教科書で習った読み下し文とおおいに異なる

「あれえ?」なんて、ぶつぶつ呟いていたら、隣りの老貴婦人が深切に教えてくれた、曰く「庄内は、徂徠学ですからのう ♪」

そーなのだ、幕府の官学は朱子学なのだが、彦根藩の井伊家と庄内藩の酒井家とは幕府に願って、古い辞句を尊重して直接読解する、荻生徂徠の「徂徠学」を藩の学問に採用していた(歴代の解釈ではなく、自分独自の見解が求められる)

だから、いきおい取り組み方にも独自の見識があったし、自信も誇りも持っていた

庄内藩では、明治維新の折には大恩ある西郷さんを偲んで、対面して直接聞き取った西郷さんの教えを『南洲翁遺訓』としてまとめた

全国にそれを配布したのは、明治帝から賊軍の将としての待遇を大赦された明治22年のことであった

『南洲翁遺訓』は、西郷さんの哲学をうかがうに最適のテキストであるが、

西郷さんの真実の姿を引き出したのは、他ならぬ荘内藩士の真剣な質問だったのである

「徂徠学」で鍛えられた教養は、大賢西郷翁を前にしてもいささかもたじろぐことはなかった、対等の立場で追求している処は庄内人の不敵さをあらわしている

その真摯な姿勢と徹底した実践とは、いたく西郷さんの意にかなったものとみゆる、農本主義の西郷さんは庄内の殖産事業を温かく見守り応援してくだすった(庄内で新しく出来た茶の銘柄まで命名されている)

 

清川八郎の九州遊説が成果あって、京都に有馬新七(西郷さんの幼馴染)らが結集して、寺田屋にて薩摩藩士同士で斬り合いせざるを得なかったわけだから、西郷さんは清川には良い印象を抱いてはおるまい

しかし、明治以降上京する庄内人の胸裏には、郷土の偉人・清川八郎や郷土の恩人・西郷南洲(西郷さんの本名は「隆永」であり「隆盛」ではないことを知る庄内では、南洲翁とお呼びしている)のお姿があった

とくに鶴岡在住の荘内藩士の子孫は、西郷南洲翁の肖像画を客間に飾っている家庭も少なくなかった(そーした家庭での西郷さんの呼び方は、薩摩に同じく「西郷先生」である)

そんなにまで庄内人に浸透している大西郷信仰から、なぜか酒田の地に、昭和52年に「荘内南洲神社」が建立された

本家の南洲神社に次いで、本邦二つ目の南洲神社が、この庄内の地に建てられたのである

 

上記の庄内独特の薫陶は、藤沢周平にも漏れなく伝承されている

わたしは、藤沢周平の生前、彼の著作は一切読まなかった、私は柴錬の熟読読者であったから

 

しかし、NHKドラマ『蝉しぐれ』を観てから、やっと藤沢周平に読書縁が出来た

『蝉しぐれ』に出てくる秘剣・村雨が、「空鈍流」だと知ったからでもある

「空鈍(くうどん)」とは、幻の剣術「無住心剣流」の二代目小田切一雲の号である(ただし「無住心剣」には秘剣とかはないので、ひとつの冒険であったのだろう)

無住心剣術については、失伝しているので、老練の時代小説家でもなかなか書く人がいなくて…… 

わずかに、南條範夫戸部新十郎の短編、あるいは池波正太郎『剣客商売』では無住心剣術の分派の「雲弘流」、あとは鳥羽亮の名作『三鬼の剣』くらいのもので…… 

最近でこそ、甲野善紀『剣の精神誌』で心法としての無住心剣を深く掘り下げてくれたお蔭で世間に知られるよーになったが、『蝉しぐれ』の当時は、そんな幻の剣術に挑戦するような無謀な剣豪作家はおられなかった(何せ、ほとんど参考になる資料がないのである、無住心剣には剣の型がなく、「剣を上げて下げる」だけであり、極めて修得のむずかしい、無拍子の難剣なのである)

藤沢周平にもまた、ド不敵といえる覚悟で『蝉しぐれ』を執筆したのである(『隠し剣』シリーズは、時代考証も甘いと聞く、剣術の術技も荒唐無稽なものもある、単に物を知らない無謀な作家だったのかも知れない♪)

 

>「‥‥ 私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。

物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだん消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終ることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する。

[※  藤沢周平『周平独言』より]

‥‥ この、老子的な諦観は市井に生きる者の行きつく先としては上等だと思う、江戸っ子の愛した本物の江戸っ子・高橋泥舟が、だれにも知られずひっそりと此の世を去った消息を思い出す

いまは亡き半藤一利さんは、幕末三舟と並び称されながらも、慶喜公の側近を退かれたあとは、ドクロの絵を描きながら風流に散った泥舟の死に触れるとホッとすると仰っていた

ひっそりと亡くなるのは、仕合せだと…… 

藤沢周平の愛した生地は、昔日の姿をもはや留めてはいない、しかし流石の鶴岡なのだ、藤沢周平のよーないいお顔はまだ遺っておられる

        _________玉の海草