『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

《玉断》 「フェミニズム」ってのは、 時に、 男まで解放しちゃう

2022-10-13 01:09:03 | 女という夢

 

__ 日本では、インテリ女は嫌われる風潮があるようだ。誰が言ったのか、「頭のイイ女はほとんどの男から嫌われるが、賢い女はすべての男から愛される」とか言う諺めいたフレーズを何度となく読んだことがある。

今回とりあげる女性フェミニストたちは、すこぶる付きの頭脳をもった、いわば女傑であるが、フィジカルな強さとはまた違った種類の勁さであろう。ここまで頭が冴えていると、景仰したくなるが、彼女らの数はそう多くない。

※ フェミニズム = 女性解放思想

 

似而非インテリは、完膚なきまでに叩かれるのを私もみてきているから、中途半端なインテリもどきの屁理屈女子には、ネットでも時々遭遇するし、辟易もしているのだが…… ここに挙げた彼女たちほどの知性は、性別の垣根を越える。つまり、頭のよい男性に匹敵する、あるいはそれ以上の知性が感じられる。論理性や空間認識において、ハンディがある女性脳を持っていて尚、これだけの論考を構築したことに満腔の敬意を表するものである。

 

●「未熟な女性コメンテーター」

(女性解放)運動をする中で、大学を経た女性に接し、大学に行くことにより

男と同じ言葉や理論で思考・行動することで、男並みになろうとする方向に行ってしまいやすいこと、

結果として女としての言葉を取り戻すのにかえって苦労している……

[※  wiki「田中美津」より引用]

 

…… 1970年に日本で初めて女性解放街頭デモを挙行した、日本のウーマンリブのカリスマと言われた 田中美津女史 のご意見である。(彼女自身は、ご自分の意志で大学に行かなかった)

男女平等論者や女性解放運動の闘士は、何か男まさりの短髪でストイックな独身インテリ女性の印象がつよいが(市川房枝、土井たか子、上野千鶴子等)……

彼女みたいに、柔らかく地に足のついた現実的な運動を展開した女性オピニオン・リーダーが、この日本から輩出されたことが嬉しい。

くれぐれも、理屈でかためた、人生経験も未熟な独身インテリ女性に、全女性を代表させるかのように代弁させてはいけません。(テレビのコメンテーターに多い)

彼女たちは、頭は良くても、女の一生のうち半分も知らないのですから。

 

● 思想家・上野千鶴子

NHK『京都人の密かな愉しみ』シリーズにハマる余り、「ウエノ千鶴子よりオオハラ千鶴(いけずの京料理研究家)」などと、冗談めかして失言してしまいがちですが…… 

流石に、上野千鶴子女史でした。

『スカートの下の劇場』以来の読者だから、随分になるが、いつも何かしら新鮮なひとだ。

インテリ女性も彼女くらい突き抜けると、安心感がある。

なにかいおうとすれば、たちまち男の思想でしゃべることになる。(石牟礼道子)

 

…… 上野千鶴子『〈おんな〉の思想』からの引用だが、この本には彼女が甚大な影響を被った、フェミニズムの先覚たちを並べて論じている。

日本人では、森崎和江/石牟礼道子/田中美津/富岡多惠子/水田宗子 の五人。

いづれも素晴しい文体である。よくぞ男仕立ての思想(言葉)をここまで習得なさったものだ。

ちづこ女史から、この本に載っている抜粋とまとめを読んで、先覚の彼女らを読んだ気になるなよ、とキツく釘を刺されているが……

よくまとめられた、実に読みやすい文章だと感嘆した。(世の中で数少ない)頭の良い男の文章と並べてもまったく遜色がない。

男のものであった思想を自家薬籠中の物とした、稀有な女性であると思う。(先覚では水田宗子女史の文章が一番読みやすかった、イェール大学でアメリカ文学を専攻なすった彼女は英文学者にして詩人でもある、女性の文章でこれだけすんなり入ってくるのは稀有である)

 

★参考文献、抜粋

水田宗子(のりこ)『ヒロインからヒーローへ』1982.より

聖処女、母なるもの、あるいは永遠の娼婦像 それらの女性像は男性の夢の根源であると同時に、女性自身にとっての幻想でもあった

 

水田宗子『物語と反物語の風景』1993.より

II「女への逃走と女からの逃走ー 近代日本文学の男性像」

[※  この論考をもって、上野千鶴子は日本のフェミニズム批評の達成のひとつ】と最大限の評価をしている。

この著作は絶版になっているが、上野女史が編集委員のおひとりとなって編まれた『新編 日本のフェミニズム』全十二巻の内の、

『新編 日本のフェミニズム11 フェミニズム文学批評』(2009年)にも収録されている。> 批評とは迂遠な自己表現の回路で有る。(上野千鶴子)]

 

ーそれでは、水田宗子女史の水際だった名文に触れましょう♪

日本の近代文学には、女にこだわる男たちを主人公とした小説が圧倒的に多い。

恋愛に苦しむ男、妻との関係に悩む男、痴情に溺れる男、夢の女性を求める男、そういった女に悩む男の物語が、近代日本文学🗾のなかでも代表的なジャンルである〈私小説〉の世界を作っている。

 

封建制度下、そして明治憲法下では、

現実的に女性は立入禁止であった女不在の領域、すなわち政治、法律、経済といった〈公〉の世界での男のドラマを展開する形での小説は、大衆小説としては発展していくが、いわゆる純文学としての作品を生まなかった。

近代日本の文学小説は、〈公〉ではない〈私〉領域の、とりわけその〈内面〉を扱うところに、その最も純なることの根拠を置いて成立していったのである。

 日本の近代文学🇯🇵において、男をこの内面の発見へと導くのは〈女〉である。

そこでは、男は〈公〉の場=社会から離脱して、〈私〉の領域へと沈潜する

〈私〉の空間にいるのは女であり、〈女〉に誘導され、また〈女〉を求めて、男は〈私〉の領域へと没入していく。

…… 凄いと思いませんか、この条り。

日本独特のあの陰気な「純文学=私小説」のもつ構造と何故この類いの小説が日本に蔓延ったかを見事に解説し尽くしています。わたしの印象では、女を追い求めているだけのクズ男が、あたかも何らかの求道者のように描かれているのが不思議だった。女が出てこない哲学小説の如き佳作も、一定数存在するが、それらはけっして主流とならない。(石川淳『普賢』、稲垣足穂『彌勒』等)

 

> 「私小説家は一生かかって一つの長編を書いている。」(芥川龍之介)

 

私小説を書く上においてもっともむづかしいことはー私小説が他の小説と異つてむずかしいところは、自己をぶちまけ、自己を明らさまにすることの困難さである。自己をぶちまけさへすれば私小説が書けるとはいうものの、その、自己をぶちまけるといふことが、生易しいことではなく、なかなか大変なことなのである。(上林暁『私小説作法』より)

…… 私小説家の代表として、柴田錬三郎(流行大衆作家だったが、彼自身佐藤春夫の弟子で純文学を志していた)から「私小説であっても嘘である」と名指しで批判された上林暁を引用したが、

ほかの箇所でも「…… 私小説を書かうとして、良心的であればあるほど、一作一作に仮借なき苦行を重ねねばならないのである。」として、「剥皮の苦痛」とまで表現なさっている。あげくは「酒の力🍶を借りるよりほかなくて」と薬物(?)をつかってまで、内面への旅に真剣なのである。

しかし、それが個人のリアルに過ぎないのか、普遍的な探究なのかと言われると、首を傾げざるを得ない。まったく日本ならではの「求道的な」嗜好(志向?)といえよう。(ある一定数の読者を獲得したことは、意味があったのかどうか?)

まー、日本でしか通用しないとも言えそうである。

このユニークな小説形態を、近代日本🗾が置かれた社会構造から筋道たてて説明して、余すところのない水田論考は、まさに快刀乱麻を断つ一撃で、やはりイェール大学仕込みの本格の西洋論理(在米生活24年間)とは、かくも鮮やかに抉り出すものかはと感心すること頻りである。

おそるべき、鶴の一声であろう。なんたる明晰さであることか。深く日本人の情緒に潜り込まないと、ここまでの截然たる確言は生まれない。驚嘆すべき才能だと思った。とても及ばぬと…… 

 

男たちにとって、

国家公共の問題を考えること 

女を考えること とは

二律背反の関係にあった。

…… 日本人の男の「公私」、建前と本音(表と裏)は「仕事」と「女つきあい」なのですね。戦国時代の戦場から現代の営業最前線まで、男尊女卑の男社会で生き抜くということは、滅多に仕事のライバルとして女性に相見えることがないので、こうした生態をおびるということか。

男には戦士としての自覚があり、その戦場には女がいないという共通認識がある。男にとって女に向かい合うのは、戦っていない時なのであろう。

 

政治や国家公共のための活動、公の世界での仕事や生き方によって、自らの社会的価値や人格を確立しようとする男にたいして、女との関わりにおいて、あるいはそれを通して、私的領域に没頭し、自らの内面世界に沈潜していこうとする男が、近代日本文学の主人公として描かれてきたのである。

こういう男たちにとって、女は内面への道の誘導者 だった。

 

 

【オトコとオンナを天秤棒に乗せたイラストは、おなじみの構図だが、本質的にその捉え方は違う気がする。その点、上のイラストは「家父長制」の重心をよく描いているように思う。日本の「処女信仰」も家父長制に由来するものだと云うし、この、世界中で普及している「家庭システム」には隠された陰翳が内包されているようだ。】

 

男たちの私領域=女への逃走の経路には、二つの目立ったパターンがある。

ひとつは家庭への逃走であり、

  他は家庭からの逃走である。

家庭という保護領域の中にいる、妻という自分だけの女のもとへの逃走と、家庭という小社会にいる妻という世俗から逃れて、より純粋な女を求めての色街への逃走。

 しかし、この両方ともに、主人公は求める女をそれらの〈私〉領域に見つけることはできない。

なぜなら、彼らが求めるのは〈女〉というメタフォアによって示されるセクシュアリティであり、その〈女〉のセクシュアリティによって見えてくる、至福に満ちた自らの内面風景なのだからである。

[※ 私注:メタフォア=メタファー、隠喩。(例)「顔が曇った」< 天気の曇りと顔の陰鬱な表情との類似性から]

それどころか、彼らがそこに見出すのは、メタフォアとしての〈女〉ではなく、生身の女という性的な他者である。

したがって、彼らは女と自らの内面のどちらからも逃走しなければならない羽目になる。

〈女〉というメタフォアに自らの内面の救済を求める 近代日本文学🗾の男たちは、〈女〉との結びつきなしには内面が見えてこない が故にそれにこだわり、現実の女に失望し、苦しみ、そして女から逃走する。

 

《以下の箇条書きは、私的なまとめ》

■ 2つのパターン〜 女への、そして女からの逃走

・家庭と家族を守るためにあえて公共の場を捨てて帰ってきた〈闘う家長〉

・家長を放棄した〈色好みの男〉

 

> 問題は、この男にとっての〈私〉領域と考えられてきた家庭や家族、そして色街の、その二つともが、女にとっては 決して私的な領域ではなかったことにある

 

 女性が公的な構造の中心からはずされていた近代の日本社会で、男たちが女のいるところを私的な領域と考え、そこに私的な精神の空間があると夢想したことは、それ自体根拠がないことではなかった。

〈女〉によって救われようと希求して、家庭という自分の領域へ、あるいは家庭を逃れて、家庭から排除された女のセクシュアリティへという経路は、男たちに与えられた、いわば必然の筋書きであったからである。

 しかし、公の領域から私的な空間へ、〈女〉へと逃走してきた男たちが、彼らの夢想と期待にもかかわらず、女を愛するのでも幸せになるのでも、ましてや女によって救われるのでもなく、ひたすら女にこだわり、苦しまざるをえなくなるのは、その私的な空間に彼らが見つけたものが、〈女〉ではない、性的他者であるからにほかならない。

女のように見えるが、彼らが夢想したような〈女〉ではない性的他者がそこにいることを発見するからなのだ。

男たちは、〈女〉へ没入することによって純粋な〈私〉の領域へ、自己の内面の奥深くへと〈退行〉することを願望したのに、救済者でもなく、救済への誘導者でさえもない、不可解で不気味な他者をそこに見出したのだ。

 

〈公〉が女を排除すればするほど、その度合いの大きさに比例して〈私〉の世界と〈女〉は結びつき、政治や法律や経済の支配する社会や世間から遊離した、〈女〉と〈色〉の私的な空間が現れてくる。

男にとって、その女と色の私的空間が、内面世界への導入路であるばかりではなく、往々にして内面世界そのものであった。

日本の文学では、女のいない内面世界を、例えば宗教や芸術の世界に展開する主人公は、西欧文学に比べて大変少ないのである。

文学自体が社会の活動の中心からはずれた無用な営みと考えられた近代日本の社会構造の中で、〈私〉の空間に文学的表現の根拠を置く私小説が、文学の主流的なジャンルとなり、女にこだわる男たちが主人公になったのは不思議ではない。

 

男性作家が女性を理解せず、女性を正確に描いてこなかった、人間としての女性を描いてこなかった というのは、それ自体は正しい指摘だが、男性作家批判としては的を外している。

男性作家は現実の女に失望したから、夢の女を求めて内的な風景を描き出した のだろうからである。

 

〈女という夢〉を追ってはじめて、男は〈公〉からの脱出を企て得た。彼らの作品から見えてくるものは、男が作りあげた〈女というディスコース〉を通して鮮明になる男の内面風景であり、それが〈男というディスコース〉なのである。

[※  私注;言説(英:discourse, 仏:discours)とは、「書かれたり、言われたりした言語の意味」を指す用語です。原語であるフランス語では「ディスクール(discours)」といい、フーコーの権力論と強く関連づけられた用語となっています。]

 

 近代の女性作家たちの作品には、男が作りあげた〈女というディスコース〉の拒否と、それへのさまざまな反抗が描かれているが、男たちが自らの夢想した〈女〉を通してその内面を展開したのにたいして、女たちは男から離れることによって自らの内面を発見し、そこに入っていったのである。

女性作家の作品から見えてくる〈女というディスコース〉は、〈男というディスコース〉を女が修正したり、新たに作りだしたりするのではなく、男の内面との関わりを、とりわけ〈男というディスコース〉との格闘を、自らの内面から排除したところに成り立つのだ。

 近代の女性作家は、その意味からも、男をほとんど描いてこなかった近代の女性作家は、〈恋愛すること〉と〈書くこと〉に自己意識の根拠を置き、そこに自己表現と自己成就を託したのだが、

〈恋愛という制度〉の中では、〈恋愛〉は女性にとって男性の自我との闘争の場となり、〈私〉の領域とはなり得なかったのである。

(中略)[※ 田村俊子『木乃伊の口紅💄1913.参照]

女性作家は〈書くこと〉にのみ〈私〉の空間を見出し、そこに自らの内面風景を展開させようとしたのだが、

彼女たちにとって、〈書くこと〉への契機は男への失望であることが多かった。男を通して自らの内面に到ろうとするよりは、男から離れたとき、つまり恋愛が終わったとき、自らの内面が見え始めたのである。

 女の内面が男不在だというのではない。それどころか、男によって女の自我が封じ込められてきた制度の中では、女の内面は、まさに男によって、男との闘争によって形っくられてもいたのである。

ただ、それ故にこそ、女が自らの内面を見ることができるのは、男を通してではなく、男と離れたときなのである

男との距離が大きくなり、その内面に働きかける力が弱まるにつれて、自らの、女の内面が鮮明度を増して浮かび上がってきたのだった。

 女が自らの内面を見ていく過程が、男から離れようとする過程でもあることを、多くの女性作家が描いてきた。

女性は、理想の女を求める男性のようには理想の男を求めようとはせず、男から離れたところに自らの自立した内面を見出そうとすることに専心したのである。

…… この条りを読んで、わたしが女流文学を読まないのは、女(作家)の内面にある男が作品の中に出てこないからだったのだ。

出てこないどころか、女流作家は男の存在を必要としていなかったからなのだ。わたしは女性の内面に関する自分語りには一切興味がなかったことがよく分かった。(求道的な自己中心的レアリストであったから)

それにしても、よくぞいったり【女という夢】、男とはロマンチストだとはよく云われることだが、何の事はない、夢ばかり追いかける子どもだったとは、完膚なきまでにぶちのめされた気分だ。こんなに頭のいい女がいることに、わたしは戦慄を覚える ♪

[※  この条りについて、上野千鶴子の付したコメントが有る。

「理想の女を求める男性のようには理想の男を求めようとは」(水田1993:78頁)しない女性と男性とのあいだには、目もくらむようなジェンダー非対称性がある。

〈男というディスコース〉を反転しても〈女というディスコース〉にはけっしてならない 理由がここにある。]

…… やっぱり心の何処かで、男とゆーものを反転させると女になると云った思い込みがありそうだ。

男は「女という夢」を懐いて【理想の女】をもとめて彷徨うが、女には男に夢なぞ懐いておらず【理想の男】を追求するという志向が見られない。

染色体でみると、女性のX染色体が基本単位で、その人を男性にするY染色体なんぞは、単なる攪乱分子にしか見えない。

男は、特殊な異分子であり、それを反転させたとて、基盤たる女にはならないということかと思う。

 

精神と肉体を合体させる〈恋愛〉を通して自己成就を図るという恋愛幻想は、一夫一婦制の結婚を正当化し、制度化するための、〈恋愛という制度〉が定着した、西欧近代の産物である。

 

近代日本文学🗾の多くの男性主人公は、〈女〉の中に自らの近代自我、その男性的自我を溶解させたいと希求する。

近代の〈男〉というディスコースは、男の自我超越への希求による、〈女〉というメタフォアとなって、その中心を作りあげているのだ。

《__ 引用ここまで》

 

…… このへんなんか、原哲夫・武論尊による格闘哲学マンガ『北斗の拳』を彷彿とさせる。暴走する覇者ラオウは、自らの手で自らを止めることが出来ない。それ故に歯止めをかける強敵を希求していたのだ。それが弟のように可愛がったケンシロウだったのである。(本当はユリアであって欲しかったのかも知れない)水田女史の批評では、それが〈女〉というメタファーということになろうか。

 

 

【とてつもない名著のようですね。

> 抵抗文化の「敵の武器をとって闘う」というポストコロニアルな批評実践。

……  パレスチナ人🇵🇸のサイードが、仇である西洋人の武器(英語と論理)をとって、西洋人に対峙した魂の作品。「オリエンタリズム」のアナロジーを駆使して、西洋人に突きつけた明晰さに瞠目させられる。】

 

以下、上野千鶴子『〈おんな〉の思想』からの引用

サイード『オリエンタリズム』の章で……

[※エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』1978.]

オリエンタリズム‥‥ 西洋が東洋に与えた図式

 

「オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構築し威圧するための西洋の様式(スタイル)なのである」(サイード)

西洋が東洋に与えた「歴史的割り当て」、言い換えれば「指定席」には、美と官能だけがあり、それ以外のものは期待もされず許されもしなかった。

彼らは 東洋にエキゾチックな審美性を求めるが、知性も思想も求めない。せいぜい芸術と文学は存在を許されるが、科学や理論を東洋から学ぼうとは思わない。(上野千鶴子)

> 「オリエンタリズムそれ自体が、もっぱら男性的な領域であった。(中略)オリエンタリズムもまたみすからとみずからの主題とを性差別主義の色眼鏡を通して眺めたのだった。

このことは、旅行家および小説家の著作にとくにはっきりとあらわれている。

女性とは、通例男性的な権力幻想によってつくり出された生き物なのである。女性たちは限りない官能の魅力を発散し、多少なりとも愚かで、なにはさておき唯々諾々と従うものなのだ。」(サイード)

オリエントはジェンダー化される、すなわち女性として表象される。(上野千鶴子)

…… 絶対主体たる西洋(オキシデント)と、それに従属する東洋(オリエント)との消息が、そのまま男性と女性との消息でもあり……

つまり、男性主人たる西洋が、女性従者たる東洋を隷属させる(植民地化させる)ための、態のいい褒め言葉が「オリエンタリズムの賛美」である。

同じオリエント内でも、日本と半島のK国との消息でもあり、柳宗悦が李朝の陶器を持ち上げた「民藝運動」のベクトルも、オリエンタリズムの文脈で解釈できるとは、芯底驚かされた。

千利休がK国人との説もあり、井戸茶碗や高麗茶碗の風味を愛でたことは「民藝」の先駆けではあったろう。

しかし、敬愛する柳宗悦が何故にあんなにもK国に入り込んだのか理解が及ばなかった。

柳は、K国半島を「彼女」と呼んで愛玩した。

なるほど、K国やC国が何ゆえにこんなにも生理的な嫌悪を日本に向けるのか大日本帝国が内蔵していた『オリエンタリズム』をフェミニズムで読み解くと得心がゆくような気がした。

つらいことだが、観光立国・日本が成立する根拠もまた、この「オリエンタリズム」だよね、媚びを振って女性化するって事なんです。

判らなかったことが、芋づる式に有機的に繋がって……  このお盆は滅多に音連れない知的な興奮に浸ることができた。

 

さすがの「うえの・ちづこ」、ご馳走さまでした、堪能いたしました

彼女の御顔を拝見したのは、ここ三年くらいの事なのだが、リブや女性解放で騒ぐのはブばかりという偏見が横行していたものだから、

(田中美津女史に拠ると、初期のウーマン・リブ運動に集まってくるのは大卒の知的な美人が多かったそうです。女性解放運動に参加しているのは「ブスばかり」という風評が社会に浸透していて、かえって実際のブ○は来にくい状況にあったらしい)

こんなにイイ女だとは思いも寄らなかった。チベットの聖なるカイラス山へ、感動をもって参拝しているのも意外である。

【聖なるカイラス山、(wikiより)> 標高6656mの未踏峰。仏教(特にチベット仏教)、ボン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教で 聖地 とされる。】

 

知らぬはばかりなり

雪女を抱きながら4にゆくとゆーのは、ある意味で男のロマンです。地女に娶(めあわ)されて、家庭では妻子から馬鹿にされながら定年まで飼い慣らされるよりかは幸せなんじゃないでしょうか。

[※  この条りは、水田宗子女史の論文にピッタリ分析されていましたので紹介する

反世俗としての女のセクシュアリティは、男を堕落や破滅へ、あるいは死へとさえ導くかもしれない。

しかし、女のセクシュアリティによって世俗からの脱出を冀望(きぼう)する〈色好み〉にとって、女による破滅こそは至福である

泉鏡花から坂口安吾まで、世俗の対極まで出なければ見つけることができぬ美しく恐ろしい女のセクシュアリティに捕らえられ、食い尽くされたいという、男の山姥幻想 は、色好みのヒーローを貫いているのだ。]

…… いや〜、みごとに見抜かれていますね ♪ あたしは、鏡花や安吾が大好物なんですよ。東北人だからか雪女に惹かれますね。

雪深い冬山❄️で遭難すると、眠気に負けた者は即、死にます。

あの安らかな睡眠への誘惑が、雪女とのまぐわい=凍死への甘美ないざないとなって浪漫的に昇華されたものなのでしょう。

抱いて抱かれて、そのこと自体が直接死(=エロス)におもむく耽美性、偏愛しています。

「エロスとは、タブー(禁忌)への侵犯である」(ジョルジュ・バタイユ)

 

 

最近のボーイズは、付き合う前から絶望していますからね、誰から教わったのか賢いものです。

父をないがしろにして、洗濯物さえ分けて洗った娘たちは、いま絶望的な婚活に身を削らなければならないハメに陥っています。

フェミニズムが倖せをもたらすかどうかは別問題ですが、確実に「結婚制度💒」というものを破壊したとは言えるかも知れませんね。

           _________玉の海草