__インド人は、0(零・ゼロ)を発明し、数学には特異な才能を発揮し、秋葉原や大手家電量販店でパソコン専門担当員として活躍していたりする
まー、有象無象の「聖者」の数は世界的にみてもダントツに多い土地柄であろー
【画像= 世界初の仏像である「ガンダーラ美術」は、アーリア人(インド・ヨーロッパ語族)としての印度人の面影をよく伝えている、釈尊はヨーロッパ的な風貌をもつ超美男子であったと云われる】
インド旅行に行った者は、激しく衝撃をうける者が多いと聞くが……
「臭い」「汚い」「五月蝿い」とゆー声が代表的なものだ
「五月蝿い」については、とにかく車のクラクションがウルサイらしい
日本では、クラクションと云えば、「危ないっ!」って時の注意喚起や譲ってもらった御礼などに鳴らすことが多いと思うが……
インドでは、もーひっきりなしに鳴り響いている
これは何も、「邪魔だ、退け」とか「遅いぞ、早く行け」といったクレームではないんだそーだ
インド人は基本的に、他の車に近づいたらクラクションを鳴らす習性があるそーで……
バックミラーをほとんど視ないので、「後ろからオレが来てるぞ」とか「割り込ませてもらうぞ」とゆー意味合いのクラクションだそーです
始終鳴らし続ける、いわば「自己の存在を主張する」クラクションとの事
インドの道路は、基本的に「ルール無用」なので、それぞれ必死に運転しているし、非常識な運転の割りに事故が少ないそーです
そんな中で「存在の主張」を忘れない国民性……
数学の「ゼロ」についても、仏教の龍樹菩薩のゆー様にプラスあってマイナスあっての「ゼロ」なのであり、一時的に「何も無い」状態をあらわしている
仏教僧で「無」とか「空」であらわしている「空虚さ」みたいなものを……
インド人は「ゼロ」とゆー事象を立件して堂々と主張した
もっと端的な例をあげれば……
仏教は「無我」を究極とするが、ヒンドゥー教(旧・バラモン教)では「真我」である
あくまでも、存在するものとして受け止めている感じがする
なるほど、インドでは釈尊の仏教が根付かなかったわけである
コンピュータによるデジタル化に滅法強いインド人、上記の国民性が寄与しているのではあるまいか
『般若心経』みたいに「無い、無い」尽くしで、龍樹の「空(くう)」にいたる、仏教のアプローチ
かたや、「真理は〇〇である」とは言えないゆえに(真理・真我は「絶対主体」であり「対象」となることはないから)……
「〇〇ではない」し「〇〇でもない」と、否定的言語によって、その輪郭を仄めかすことしかできないとする、ヒンドゥー教のアドヴァイタ・ヴェーダーンタのアプローチ
つらつら想い浮かべてみると、釈尊在世の頃すでに古代バラモン教(ヒンドゥー教の前身)は存在していたわけだから、釈尊の初転法輪(初めての説法)は従来のインド宗教と違うものでなければならなかったはずである
仏道の「無我」、そしてヒンドゥーの「真我」
果して、意識の焦点のおきどころが異なるだけで、案外と同じ消息を伝えるものなのだろーか
くわしく、探ってみたい(続く)
_________玉の海草