『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

◇◆ 風貌を刻む〜 童子形おじさん、 渡辺隆 (錦鯉)

__ M–1チャンピオンになった時も、まるで期待はしていなかったが、テレビに出るようになって、「錦鯉」としての冠番組も組まれて、観ているうちに…… 

 

その  純粋な精神性(=変態性)につよく惹かれたのは、「じゃない方」の 渡辺 隆 であった。

 

 

 

モデルを写真撮影するとかの企画では、AVビデオを撮影するかのように舐め回して、愉快な撮影風景に、その変態的な爛熟をいかんなく発揮してした ♪

意外に爆発力があるね、ツッコミ・スキルが高いのは当然か、芸歴の長さゆえか、落ち着いた捌き方に高い知性を感じたりする。

まったく予想もしていなかったスピンオフを、手慣れた口ぶりで無造作に出してくる、奥行きがあるんだよねえ。

 

 

その話術の妙に気付かされたのは、『あちこちオードリー』に出演された時だった。

このひと、話しがうまい、引き出しが豊富で、爛熟した数寄心を存分に感じさせた。

 

 

 

__ お笑いを語らせれば、マヂカルラブリーの野田との焚き火対談のように、けっこうしっかりとした理論家の一面も兼ね備えておられる。(事務所の先輩、バイきんぐ・小峠のブレインというか、ネタ作家的な実力をお持ちのようだ)

まったく普通の中堅サラリーマン的な安定した(社会常識から外れない)雰囲気

を醸し出しながら、ときおりチラリと覗かせる狂気の一瞥、そこにはタブーを侵すような豊饒さが仄見える。

 

【この、「普通さ」はとんでもない魅力を孕んでいる、ふと漏れ出る裏面の「狂気」に芸人たる本質を垣間見る】

 

 

【実になんでもなく渋い、堅実な風情。苦労人のもつ、凹凸を均したよーな落ち着いた隠者の雰囲気を纏っておられる】

 

 

 

【石原裕次郎張りのカッコ良さも、笑いの狭間にたしかに漂っている】

 

 

【スーツ姿が極まっているんだよね、取締役でも可笑しくない雰囲気と佇まいをお待ちである】

 

 

この一つ前の記事で、おほかみ(大神)に愛されし日ノ本の選択した、遺伝子🧬戦略とは「ネオテニー(幼形進化)」に他ならず、

そのホモソーシャルな男社会(南方熊楠は、それを「男色」とは截然と区別して「男風」として扱った)は、

女性嫌悪(ミソジニー)

同性愛嫌悪(ホモフォビア)

を共有する家父長制を基盤としていることは、上野千鶴子姐さんから教わった。

 

ネオテニーは、家父長制社会よりずっと深層にある。

そーした眼で、渡辺隆のネオテニー的なキャラクター(本人は無意識かも知れない)を観ると、実に愛さずにはいられない普遍的な人間性を感じて微笑ましくなる。

 

 

ー43歳独身(親と同居)、

痛風のいたみを覚悟して「モツ煮」を食べる覚悟、

無類のAV好きで熟女モノやNTR(寝取られ)モノを中心に3000枚のDVDを所蔵、

女芸人「やす子」に、廊下ですれ違いざまに放った自然な一言「やす子、キレイになったな ♪」で、その純な乙女心を鷲掴みにして、

キャバクラでは神客として降臨して、下心を表に出さずに、キャバ嬢に献身することに自分の愉楽をみつけて、単なるスケベおじさんと観音行者とを往復することで、周りに気を遣わせずに、自らの安息(リフレッシュ)を追求する中年オトコ…… 

現時点でのネオテニー進化形のいい貌として、渡辺隆大人(たいじん)を挙げておく。

 

 

__ そんな渡辺大人のもつ、幾通りものお顔を鑑賞できる動画をご紹介しておこう。

「みりちゃむ」への見事なまでのドM対応には、なにやら 金字塔的な偉業 を感じた。

【この動画には、正味衝撃を受けた。みりちゃむの、おのずからなる上品さも組合せの妙というべきではあるが、渡辺大人が心に懐く女性への揺らぎなき景仰の念が、なにやら尊さを帯び始める瞬間…… 】

 

 

渡辺大人は、Vtuberにも嵌っておられたなあ。(オードリーの若林から「まだ早い(公表するタイミングではないの意)」とアドバイスを受けていたが、なんとも引き出しの多いオトコだ)

柔軟心(道元)があって、受容力が高いのです。

道元といえば、「修証不二(修行と悟りは同じ)」と提唱するほどの修行好き。

 

霊的修行とは、即ち自己内完結させたSMの世界なんですよね。苦行をいやがる自分を駆り立てて、修行を強要するサディズム(sadism)…… 

そんなドSな自分を、ハイヤーセルフとして、じっと愉しみのうちに修行に埋没するマゾヒズム(masochism)。

人生の苦役に黙って堪えてきた苦労人は、

良く言えば「修行者」

悪くいえば「ドMの変態者」

とゆーことになろう。

 

そして渡辺隆の、お笑い芸人として稀有な処は、ドMの変態なのに、相棒のマサノリを叩いたり鋭く叱りつける、ドSのツッコミ担当をしている処なんです。

向上心とゆーのは、絶え間ない自己否定の上に成り立つものです

いわばドSの露われだからでしょう。弱い自分をイジメることで、強い自分になろうとする向上心です。(きのうの我に打ち勝つことで、きょうの成長を勝ち取るみたいな)

しかし、そうしたサイクルの最中に、どうしても強くなれない自分との葛藤があるのも真実、責められる自分に酔ってもいるのです。痛みや苦しみとは、アドラーによれば「救済」にみちびくものだからでもあります。

「苦しみは解放と救済に通じる」アドラー)

 

だから相棒のマサノリは、いわば渡辺隆自身なのです。ドMな自分を引っ叩いている図式になります。

マサノリが自然(=神)であり、渡辺は人間として、どうにもならない自然にちょつかいをかけて、怒り、なだめ、話しかけ、感謝して、最終的に帰依しているような塩梅になっている。

 

渡辺さんのドMが露われた神客ぶりを観ていると…… 

どこか宗教的な無償の愛というか、キリスト者のマリア信仰を思い出す。

ご自分の信念(たぶん江戸っ子的な心意気)を貫いているゆえに、平然と最下層になった自分をも受け容れる、そこには寸分の卑下もないのであろう。

いや、卑しい自分にも興奮しているのかしら?

相手を認め、自分を認め、この関係性全体を祝福する、それは宗教(信仰)ともいえる姿勢であろう。

 

小太りにならざるを得ない「中年」の悲哀を、ネオテニーで可愛らしくイヤミの無い方向にもってゆくとは、無意識の生き残り術なのであろうな。

このひと、凄みがある、世間的にはお世辞にも成功者の道を歩んできた人ではない、それについても言い訳はしないだろうしね……

M–1チャンピオンになって(相棒の長谷川雅紀のお蔭だと公言している)、やっと世間様から認められて、いま自分の進んでいる道に自然と湧き上がる確信をもっていらっしゃる気がする。

こーゆー人があらわれる、斜陽国・日本も案外隅におけないのかも知れない。

 

ニコラ・テスラとか、南方熊楠翁とか、世に抜きん出た変態性の天才が、殊の外大好きなのである。

偏向するとは、特化すること

特化してしまえば、それは固まってしまった「限定」に他ならず、普遍には通用しない。

だから、普通のできる渡辺さんの、変幻自在な生態(=変態)こそが、尊ばれる常在成長(=常若)なのである。

 

なんにでも変化できる柔らかな可塑性は貴重である。

変態とは、生き残りのギフテッド(gifted)だからであろう。

       _________玉の海草

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