名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

∞ 音楽論 【堀江悟のヴァイオリン藝術】

2018年01月05日 | 日記
 優れたヴァイオリン奏者は、歴史上何十人も存在します。楽器そのものは、子供達にも演奏出来る親しみ易さ…そしてその音色の高雅な響きから…ギターと並んで人気のある弦楽器とも云えるでしょう。クラシックの世界には、サラサーテ、パガニーニ、クライスラーからギドン・クレーメルを経て現代にも名手が揃っており、楽曲自体…古典から現代音楽まで名曲の宝庫です。一般的には、欧米に天才が並んでいる様に信じられている。処が、ほんの偶然から東洋にも跳び抜けた天才がいる事を再認識しました。

 2016年の晩春。17年振りに祖国日本へ帰り小料理屋で酒を呑んでいると、或る高名なヴァイオリニストの名がふと耳に入りました。NHK交響楽団第二ヴァイオリン首席奏者の堀江氏が、近くのスナックに良くお見えになると云う。堀江悟と云えば、伝説の名プレーヤーである。かなり前に引退なさっている筈だ。もし可能であれば、藝術論でもお聴きしたいものと…ほのかに酔っていた所為もあり…ふと思い付いてしまったのです。見ず知らずの方に対して失礼に当たるのではないかとは思いながらも、回りの方々が気楽に勧めて呉れた背景もある。どうやら、ざっくばらんなお方らしい。お隣の方が、丁度その店へ行く処だから道案内して呉れると云うので…某スナックへ駆け付けました。が…見事に空振り。店のオーナーは携帯で呼ぼう…メールで誘えると気軽に云うが、流石に恐れ多い事と思い御辞退申し上げるのが当然です。まあ仕方がない…と諦めて、暫くその話題は忘れていました。その一ヶ月後に、偶然出逢ったジャズ演奏家から「堀江さんなら…行き付けの店はどこそこだ…」と聞きました。面白半分で行くと、そこもガセネタ。来た事も無いと云うのでがっくり。その後も同じ様な噂を聴き、計四度も振り回されてしまいました。やれやれ。

 夏も盛りになると、多摩川端を連日歩き回りながら丁度音楽家や画家が集まるという噂のある居酒屋に差し掛かり…ビールでも呑もうかと思い…何気なくのれんを潜りました。カウンターに四人の客。L字形の店なので、どなた様も気軽に話している。一息吐くと、一瞬推理作家の本能が芽生えてしまった。幾度も肩透かしを喰らった天才ヴァイオリニストを捜し出す一寸した遊び心です。この中に堀江氏がいるとすれば、簡単に当てられる筈だ。候補者は、店の主を除外して四人。先ず…右奥にいるのは、会社経営者だろう。中背でかなり逞しい。普段着ながら、身なりが整っている。眼光鋭く、眉が仁王様の様に吊り上がっていた。歌舞伎の仕手役が務まりそうな迫力である。が、繊細な藝術を極めた名ヴァイオリニストの柄ではない。真ん中のお二人もビジネス・マン風である。処が…真横で呑んでいる方は、高雅な気品溢れるネクタイ背広姿の紳士…。この中にN響の首席奏者が居るとすれば、この紳士以外には考えられない。やがて…本命の紳士が帰ってしまったので、そそくさと勘定を済ませ…何とはなしに仲良くなったマスターに問い掛けました。
「処で、この店に堀江さんと云う方が来ないかい」
 マスターの返事はつれない。
「堀江さんと云ってもねえ…。どんな人だい」
「NHK交響楽団の元首席奏者だよ」
 店の主人は、そっぽを向いてもじもじしている。すると、L字形のカウンターの右奥から陽気な声が響いた。
「それは、僕でーす」
 ぽかんとする間があった。大きな笑みを浮かべて手を上げているのは、一番奥で呑んでいた逞しいお方である。先ほど、候補者から一番初めに外した仁王様の様な紳士。その場にいらっしゃるとは思わなかったので、言葉に詰まってしまった。かなり間抜け面であったに違いない。
「え…、N響の堀江先生…ですか」
 又からかわれているのかも知れない。しかしながら、まるで少年の様に明るく朗らかな口調は、どこか常人と異なる。成る程…そう云われて見れば…と思い当たると、流石に困ってしまった。大変失礼な問い掛けであったからである。
「実は…」と、可笑しな云い訳をしてしまった様な記憶がある。御高名は若い頃から存知上げていた。最近良くお名前をお聞きした。何軒か尋ね歩いてもいる。などなど…、逆の立場であれば何のこっちゃと思われても仕方のない説明であったに違いない。良くよく鑑みれば…明確な目的も無く動機も曖昧ゆえ…警戒されても不思議ではないのだが、こちらが恐縮する程に親しみのこもった御対応に先ず感銘を受けた。その日は、名刺交換をしてさりげない世間話のみ。それから、何度か気軽にお逢いする事となりました。丁度ヴァイオリニストが登場する小説が二作品あったので、名演奏家の生の声をお聴きしたいと思っていた背景もあります。

 堀江悟の藝術論と…たぐいまれな音楽観を、言葉で表現出来るものではない。その点未熟な観点に過ぎないという点をお断りした上で、文学作家なりに感銘を受けたお言葉を記してみましょう。

(質問)クラシックは、リズム、メロディ、ハーモニーと云われますが…。
「音楽は、絵を描く様にアンサンブルで表現します。それぞれの要素を、ばらばらに捉える事はありません」
(質問)どなたの影響を受けられましたか。
「誰かの真似だけは、決してしませんでした」
(質問)音楽藝術の要は、何でしょうか。
「音そのものよりも、楽譜の背後にある想念を表現する様に務めます。しかしながら表に出るのは物理的な音なので、お聴きになる方々の感性次第と云えるでしょう」
(質問)好みの問題と云ってしまえば、全ての藝術の価値判断が狂います。音楽にも、絶対的な観点があるのではないでしょうか。
「その通りです。究極の音楽観は、演奏する者と優れた聴衆にしか分かりません」
(質問)どんな指揮者にも合わせるのですか。
「楽譜の表層にこだわる指揮者に合わせるのは疲れます」
(質問)優れた指揮者であれば、演奏も変わるのでしょうか。
「優れた楽団であれば変わります。下手な演奏家では、名指揮者も形なしです」
(質問)アシュケナージ氏の指揮で演奏なさった事がありますね。
「名演奏家が、名指揮者とは限りません。とは云え、彼は素晴らしい」
(質問)御親交のあった武満徹氏の曲は難しいのでは。
「武満さんの作品は、絵を描く様に演奏すれば決して難しくありません。曲自体に独特の深みがあるので、むしろ演奏しやすいと云えます」
(質問)今の若手にも、名演奏がありますか。
「感覚で演奏するのは駄目です。曲想の総体を見極めて演奏するのが、優れた演奏家と云えるでしょう」
(質問)弦の使い方は。
「斜めに弓を使うのは難しい。九十度で演奏すると深く正しい音が出ます。但し、これはごく基本的な考え方です」
(質問)ジャズにも、名ヴァイオリニストがいるかと思いますが。
「ステファン・グラッぺリ。唸りますね」
(質問)べートーヴェンは、ヴァイオリン協奏曲が僅か一曲しかありませんね。
「あれ以上の作品は、あり得ないからでしょう。第二楽章が跳び抜けて素晴らしい」
(質問)先生の演奏には、音のずれを出す技巧が見受けられますが。
「最近は流行らない様ですが、音に影が生じると深みが出ます」
(質問)それは、如何云う技巧なのでしょうか。
「多弦を使う時に…テンポやトーン、リズムや強弱のずれが出るのです。更に云えば、単弦でも影を付ける事は出来ます」
(質問)かなり難しい技法ですね。
「技法ではありません。そう意図して出すのではなく…曲想を煮詰めてゆくと、自然と影が生じるのです」
(質問)それは、感覚とは違うのでしょうか。
「全体的な音楽観、或いは楽曲の捉え方…創造力とも云えるでしょう」
(質問)共演なさった指揮者では、どなたが印象に残っていますか。
「バーンスタイン氏の指揮は、素晴らしかった」

 名門桐朋学園で学んだ高校生の頃から映画音楽の録音現場に参加し、その中には黒沢映画の名作「用心棒」(米国アカデミー賞音楽部門ノミネート)まである。世界的な名声を博し映画音楽の頂点を極めた佐藤勝指揮の天才集団ゆえ、プロ中のプロでなければ参加出来ない。実に呑気な物腰でありながら、話の核心になると…ぐさりと来る様な言葉が出る。その藝術観の深奥に、素人には掴み切れない奥深さがあるに違いない。思わず唸ってしまうと、軽快モードに戻して頂ける話術にも人物の大きさが窺われます。
「酒呑みですから、公演で海外に行っても…中華料理店を捜し…日本酒ばかり呑んでいました」
 演奏会の前日に深酒はしない。呑む時は…特にN響の仲間は…余り話をせず黙々と酒を愉しむとおっしゃる。毎日練習をしないと腕が落ちると云う点は、堀江氏程の境地であれば当然かと思いながらも、最高のレベルを保つ技量と修練は生半可なものではないだろう。
「演奏は、何よりも観客の皆様に…音楽の歓びを味わって頂く事が第一です」
 自分の世界にこだわる演奏家が多い中で、客観的に大極を観る境地にいるのだろう。観客に合わせる訳ではない。魔法の音に聴衆を引き摺り込むと云えば、多少当たっているかも知れません。

 一国を代表する様な一流の交響楽団には、一般人にうかがい知れない背景があります。第二ヴァイオリンの首席奏者は、その楽団で一番腕の良い奏者が選ばれるらしい。特に優れた楽団になれば成る程、その傾向があると聞いた憶えがあります。そこには、明確な理由がある。多様な副旋律の総体を捉える第二ヴァイオリンの首席奏者は、楽曲全体をとことん理解していないと務まらない。スペシャリストでありながら、指揮者以上にジェネラリストの才能が求められる所以である。誤解を恐れずに云えば、指揮者は第二ヴァイオリンの首席奏者に副旋律のチームを任せている。ヴァイオリンは特に重要なパートゆえ、第二ヴァイオリンの首席奏者は楽団の力量と個性を具現する代表者とも云える。N響という日本を代表する交響楽団に於いて、その重要な地位を長年に渡り務めるのは容易ならざる力量に相違ない。ソリストとして人気を得た演奏家は多々おり、視覚効果の生じる演奏会の舞台では過大評価される。が…録音で客観的に聴くと、故意の技巧が目立ち評価の落ちる演奏家が多い。第二ヴァイオリンのチームは、派手な注目を浴びる訳ではない。しかしながら、そう云う環境で名曲をバックアップし続けた名演奏家がソロを奏でると、これみよがしの技巧を大袈裟に見せようとする演奏家とは次元の異なる深みを醸し出す。が…、堀江先生は褒め言葉がお嫌いな様で、賛辞の言葉はするりと逃げられてしまう。
「私などは、藝術家ではなく芸能人ですよ」
 まさかね。気さくで諧謔に満ちた口調ゆえ、聴いているこちらがずっこけてしまう。堀江悟が藝術家で無いとすれば、ベートーヴェンも形なしだ。と思いながらも、その飄々とした語り口には古典落語の大御所に似た可笑しみがある。

 先生の御好意から、一枚のCDを頂いた。「S. Horie, Vioin」の横に後ろ向きの猫の漫画という洒脱な署名に…風格と可笑しみがある。このCDは、メゾソプラノ(尾高綾子)、ピアノ(宮本眞理子)、フルート(堀江伶子)、それにヴァイオリンという昭和音大の大ホールに於ける演奏会である。早速聴いて、腰を抜かす程の驚きがあった。僅か四人の演奏であるにもかかわらず、アンサンブルにこれ以上ない深みがある。こんな演奏は、未だ嘗て聴いた事がない。N響の音楽とは全く異なる。一体如何いう現象なのかと、何日もの間聴き続けながら、約百回ほど聴いた時にやっとその理由に想い当たった。これは、ジェネラリストの演奏ではないか。ピアノも、ソプラノも、フルートも、卓越している。が、その背後に指揮者がいる。その棒は、ドイツ音楽の深みと、古典絵画的な美学を大らかに表現している。フルトヴェングラーやクリュイタンスが聴いたら、にこりと微笑むに違いない。選曲も、カッチーニ、フォーレ、ベートーヴェン、尾高惇忠、ショーソン、グリーグと、異なる曲想のプロットが見事である。そして、クライスラーへと続く。ヴァイオリンのみの「レチタティーヴォとスケルツォ・カプリスOp.6」は、跳び抜けたソロの名演奏と云える。シングル・トーンから双弦、更に三弦の独奏と広がりながら爪弾きまで入る。強弱、奥行きが、テンポ・ルバートで奏でられる音の魔術に圧倒された。ヴァイオリンのみのソロ演奏でありながら、管弦楽か協奏曲、更に云えば交響曲にも似た深みがある。一体どうやって演奏するものか、想像を絶した技巧に違いない。その後、プログラムにある数曲を異なる名ヴァイオリストの歴史的な名演奏と聴き比べながら、或る発見があった。堀江悟の様な演奏は、オイストラフにも、メニューインにも、ギドン・クレーメルにも、ステファン・グラッぺリにも不可能だろう。ひと言で云えば、その遠大な音楽観が誰にも追随出来ない壮大な境地に至っている。それは、国柄にも人種にも関わりが無い。堀江悟独自の世界なのである。

 ひと月ほど経ってから、二枚目のCDを頂いた。永峰高志、横山俊朗、宮里親弘、三戸正秀など、N響の名手十二人が揃った弦楽合奏の録音である。これもN響を引退なさった後の実況録音で、「堀江悟とN響メンバーによる新春コンサート」とある。バッハ、チャイコフスキー、ヴィヴァルディと馴染み深い曲目ゆえ気軽に聴き始めたのだが、又もや腰を抜かす程圧倒されてしまった。これは…、弦楽の常識を超越している。まさに交響曲だ。ヴィヴァルディとは、これ程深い曲想だったかという感慨である。その後、毎日三回聴き続けた。普通なら飽きるものである。が、聴く度に驚嘆の奥行きが深くなってゆく。戦後のベルリン・フィルとも、ウィーン・フィルとも、パリ管弦楽団とも違う。日本的とも云えない。ほとばしる情熱、原曲を超えた世界観、そして演奏家全員から漲る音の群れが見事に巨大な藝術的感銘を醸し出している。

 ひと言で云えば、未知の世界を表現した本ものの演奏。確かなテンポ・ルバートの呼吸と強弱の波。ずれから生じる深みのある一つひとつの音が、全て明確に聴こえる。それらが、見事なアンサンブルを醸し出している。技巧の欠片も聴こえない。大きな音楽的想念が次元を超えた思想となり、この世の大極から無極無相なる宇宙へ広がってゆく。天界に大きく翼を広げた大鷲の如き印象である。クラシックの演奏家は再現藝術家と云われる。だが、少なくとも堀江悟とそのお仲間達だけは、創造藝術家に違いない。原曲の想念を超えてしまう故である。

 チームのアンサンブルにも深い感銘を受けた旨お話しすると、御本人のお答えはそっけない。
「年中一緒に演奏していましたからね。息が合うのは当然です」
 成る程…と、素直に引き下がる話題ではない様な気がする。何故ならば、ずれから生じる深みを醸し出す音楽観ゆえである。インテンポではない。テンポ・ルバートのチームワークには、ずれの息を合わせる難しさがある。尚且つ、そこには「音楽が思想表現可能や否や」という深遠な背景があるのではなかろうか。恐らく、現代の古典音楽界ではどんな楽団もこの域には達し得ない。技巧を超えた無為自然なばらつきが、曲想全体に深みを与えている。その分母には、楽曲の総体を捉えた感性があるのだろう。第二次大戦前後の欧州には、膨大な予算を掛けた交響楽団の名演奏が遺されている。が、そのどんな名演奏ともアンサンブルの精度と迫力が異なる。この音楽観は、N響の伝統とも違う。恐らくは、第二ヴァイオリンの首席奏者ならではの音楽観から生じた奇跡なのだろう。ヴァイオリニストでありながら指揮者の感性をお持ちである点が、卓越した藝術観の前提にあるのではなかろうか。

 藝術一般の奥義を現わす言葉として「よき細工は少し鈍き刀を使う」という名言があります。歴史に残る名指揮者は、強拍が露骨に出てしまう技巧…所謂「叩き」を使わない。強弱のリズムや曲想の高まりは、指揮者に拠って厳密に命令されるのではなく…演奏家一人ひとりが「ここぞと思う繊細かつ絶対的な音」を…無心の気迫に支えられた集中力で醸し出す。共演者同士の信頼感と同じ分母を共有する藝術観がなければ、魔法のアンサンブルは生じ得ない。低音楽器は通常遅れて響きます。機械の様に正確な指揮棒を振れば、どんな名曲も台無しです。優れた演奏家には、直観を超えた音楽観がある。超自然的な潜在力とも云える。それを引き出し、感動、感銘、驚愕、覚醒を生み出すのが、名指揮者の才能とも云えるでしょう。堀江悟氏は、その「鈍き名刀」を縦横に使う。尚且つ、その楽曲の中心で…比類のない…劇的なソロ・ヴァイオリンを奏でているのです。

 客演なさったコンサートで、生演奏を三曲聴く機会があった。ピアノとフルート、それにヴァイオリンの三重奏である。その演奏姿が印象的だった。リズムを刻まない。演奏技巧に強弱など観えない。時空を超えた天界を翔ぶ様に、体全体が大きな弧を描いている。アンサンブルの想念が、会場狭しとばかりに広がっている。奥様である堀江伶子女史のフルートも素晴らしい。水か空気の様に、音楽空間に溶け込んでいる。音楽と云うものは、仲々あんな風には融合しないものなのです。

 音楽を離れた堀江先生は、名人古今亭志ん生並みに大らかで愉しい。屈託のない冗談ばかりで、当方の拙いジョークにも大笑いなさる。論理屁理屈は好まない。肝腎要の音楽談義になると、するりとかわされる。しかしながら、冗句の中に奥深いエッセンスを象徴的に示される。人を煙に捲く受け答えばかりと誤解なさる方が多いかも知れません。が…それは、真の芸術家の粋な在り方とも云えるでしょう。神の領域に至った天才音楽家でありながら、決して偉ぶる事がないのです。
 
 堀江悟の藝術観を超えるヴァイオリンの名演奏家は、堀江悟御本人しかいないだろう。文学や絵画にも相通じる藝術思想に接した深い感銘がある。あの並み外れた精神力と漲る活力…それにも増して尽きる事の無い情熱があれば、改めて魔法の演奏を聴く機会もある事でしょう。
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