五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

「観音様」の話 その弐

2005-03-30 12:14:00 | 観音様のお話
■五胡十六国時代と呼ばれる動乱期に、中央アジアからやって来た鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が、『観音経』(『法華経』の『観世音菩薩普門品』)を翻訳した時に、この訳語が工夫されたようです。その後、孫悟空は連れずに一人でインドに向かった玄奘三蔵は帰国後に「観自在」と訳し直しました。何故でしょう?
「アヴァロキタ・スヴァラ」は「観察する・音声を」という意味だったので、「観世音菩薩」と鳩摩羅什が工夫して直訳と意訳の折衷語を作ったようです。「アヴァロキタ」に含まれる「ロカ」という音には「世間」という意味が有るのを手掛かりにしたのではないか、という説もあるようですが、世間の衆生が苦しむすべての声を聞き取る観音様の有り難さを説く経典の内容から工夫したと考えるべきでしょう。
それは406年の出来事ですが、それ以前の286年に鳩摩羅什に先んじて中央アジアからやって来た竺法護が「光世音」という訳語を残しております。そして、520年頃には菩提流支という僧も「観世自在」という訳語を作っているところを見ると、この頃にインドの地で観音様の名前が変わったと考えて良いでしょう。仏教経典は、常に新鮮なうちにシルクロードを通って運ばれていたのですね。
 比較的新しいサンスクリット原典にある「アバロキティシュバラ」の「アバロキタ」は「観」を意味し、「イーシュバラ」は「自在天」を意味するので、「観自在」が正しいと主張した玄奘三蔵は、新しくなったばかりの観音様の名前を採用したことになります。

■膨大な経典の新訳を完成させて東アジア地域の仏教史に多大な功績を残した玄奘にとっては、その大仕事のごく一部がこの訳語の改訂でもありました。
しかし、『観音経』に説かれている、この世に満ちる苦しみや悲しみの声を慈悲の心で看取する観音菩薩の役割を強調しようとして「観世音」と訳した鳩摩羅什も、思い付きで出鱈めな訳語を作ったのではありません。玄奘以前の漢訳仏典を「旧訳(くやく)」と呼び、玄奘の訳業を「新訳」と呼びます。この区別は決して消えませんが、日本では鳩摩羅什が訳した御経が、今でも愛用されています。と言うより「旧訳」と「新訳」が無節操に併用されていると言うべきでしょうか?
 玄奘がこの新訳語「観自在」を提出したのは、649年の5月27日だと考えられます。この直前に、唐の太宗が崩御して高宗が即位しています。因みに、チベットでは、吐蕃王国を統一したソンツェン・ガンポ王が没して、マンルン・マンツェン王が即位したのも、偶然ですが同じ年です。玄奘は、この日に『般若波羅密多心経』1巻を訳了しました。
光世音・観世音・観世自在などの旧訳が存在していたのに、玄奘三蔵は断固としてこれらを否定した理由は、サンスクリット原典を正確に翻訳するという理由だけではなかったのではないか?と考える理由が有ります。

■「観自在」という新訳語には、玄奘一流の政治的な配慮が有ったのです。玄奘は何としても「世」の一文字を削り取ってしまいたかったはずなのです。玄奘が命を懸けてインドに旅立った時、チャイナの地は隋という名の王朝に支配されておりました。鮮卑系の民族が南下して建てた王朝です。そして、玄奘が深い学識を身に付け、膨大な経典を持って帰国した時には、唐の時代になっていました。この王朝も短期間の内乱の末に鮮卑系の皇帝が交代して建てた王朝で、この一族は李姓を名乗っておました。
李は老子の姓とされていましたので、唐王朝は道教を信仰することで、土着性を強調したようです。その最も突出した政策が「破仏」でした。唐王朝は、後の歴代征服王朝とは違って、新しい外来思想である仏教に対して、否定的な政治姿勢を持ち続けました。安定期には消極的保護政策を取り、政権が不安定になると、仏教をスケープ・ゴートにして「破仏」騒動を起こしました。
玄奘は帰国して直ぐに、その危険を察知したはずです。西域とインドの旅は、玄奘に驚くべき政治センスと外交感覚を習得させていたのです。現に、二代目皇帝の座に着いた太宗は熱心に玄奘を還俗させようと苦心しています。玄奘が持ち帰った仏教文化などには価値を認めず、西域の情報と人脈だけが欲しかったのです。皇帝は、何とか仏教から足を洗わせて外交担当の官僚にしようとしましたが、玄奘は実に巧みに言を左右にして皇帝を煙に巻きながら、逆に翻訳と寺院建立の資金を引き出し、畢生(ひっせい)の大業を完成させたのです。その知能と体力、そして強靭な信仰心に加えて、しぶとい交渉力を持った不世出のお坊様だったのですなあ。

「その参」につづく。


最新の画像もっと見る