五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

「オン・パ・ニ・ペ・メ・フン」の由来

2005-05-21 23:19:39 | 法話みたいなもの
今日は「玄奘さんのお仕事」をお休みして、チベット仏教徒が唱える「オン・パ・ニ・ペ・メ・フン」の由来と意味についてお話しいたします。

■ダライ・ラマ猊下が御帰りになって、早一月になります。チャイナの地では「反日無罪」の暴動騒ぎが起こりまして、貧乏な不平漢族がちょっとした憂さ晴らしをしましたが、二重三重に不利な立場に追い込まれている少数民族の中には、あの暴動がもっと大規模になるのを息を潜めて見詰めていた人々が沢山いたことでしょう。そうした人々の中に多くのチベット人が含まれているのは当然なのですが、日本にはそういう気分がぜんぜん伝わって来ません。多くの人々が詰め掛けたダライ・ラマ猊下の説法会でも、可哀想なくらいに遠回しの表現を駆使して一般論化した御話しか聞かれなかったようです。

■大日本帝国に対する勝利を祝う60周年イベントが目白押しのチャイナですが、同じ60年間を強制的に共有させられている少数民族の中には、まったく別の感想を持っている人々がいるのです。最近のNHK制作になる『新・シルクロード』と80年代放送の旧作併映放送を観ても、かつての西域の人々が嬉しそうに暮らしている風景ばかりで、作為的なものを感じてしまいます。ダライ・ラマ猊下が戻れないチベットのラサに戒厳令を布いた胡錦濤さんが大出世した今の共産党政権は、インドの亡命政府に対して絶対に譲歩はしません。本当ならば、絶望の淵に沈んでしまうはずの状況で、来日したダライ・ラマ猊下は微笑を絶やさず、迷いの多い日本人のために有り難い法話をして下さったわけです。

■チベット人達の多くは今でも文盲です。世界に冠たるチベット大蔵経という人類の遺産も読めないのです。御経も論書もぜんぜん読めないチベット人の信仰を支えているのが、「オンマニパドメーフン」の六字大明呪です。石に刻んで奉納したり、どこの寺院にも設置されている大きなマニ車を回したり、個人用の小さなマニ車を飽きもせずにクルクル回していたりします。マニ車の中には六字大明呪が印刷された紙が入れてあるので、一回転で一度読んだ功徳が得られるのですが、これは九十九折(つづらおり)になっている御経を、アコーディオンか天津アマ簾(すだれ)のようにバラバラと開いたり閉じたりして読んだことにする日本の伝統と同じ理屈です。ただ、チベット人はのべつ幕無しにクルクルとマニ車を回していますから、信仰心の強さは圧倒的です。個人用でも、とても片手では持ち上げられないような大きな物を杖のような長い棒の上に付けて、家の中でグルングルンと回し続ける人もいます。お茶を飲んだり、客人と談笑してる間もグルングルンです。寝る時以外はグルングルンしているようです。

■今回は、この六字大明呪について少し書いてみたいと思います。この真言は間違いなく観音様に関連するものなのですが、その関係がちょっと複雑なのです。チベット人ならば、観音様の化身としてダライ・ラマ猊下を拝み、誰かさんが禁止しても写真を何処かに隠し持って、この六字大明呪を口ずさんだり、マニ車をグルグル回したりしているので、誰でも知っているわけですが、あちこちの御寺に観音様の像を置いている日本では、この六字大明呪を知っている人はとても少ないのは何故でしょう?答えは、日本は漢語に翻訳された仏教経典を導入したのに対して、チベットはインドの表音文字の全てに対応する文字体系を作り出し、密教の真言をそのまま写し取ることが出来たからでした。更に、インドの言葉の文法理論を研究して、それを使ってチベット語の文法構造を解明してしまった偉業も忘れてはなりません。この二つの業績を有ったので、経文の意味を性格に翻訳することも、真言をインドと同じ音で唱えることも可能となったのでした。

■さて、問題の「オンマニパドメーフン」ですが、『大乗荘厳宝王経』という御経では「唵麼抳鉢訥銘吽」という漢字の並びになっています。音写ですから、別の漢字を当てても構わないのですが、外来語の雰囲気を保つ工夫はされています。この真言を与えられているのが准提(じゅんてい)観音なのですが、七倶胝仏母や尊那仏母などの名前も使われるちょっと微妙な御立場の観音様です。前に書いた『観音様の話』の中でも紹介しましたが、日本の真言宗では、「六観音」の一つとして立派な観音様の扱いをしているのですが、天台宗の「六観音」には入っていないです。チャイナの宋の時代に密教が少し盛り返して、「六字大明陀羅尼は、准提の有り難い真言だ」と断言したお坊様がいらっしゃいまして、仕舞いには「准提真言は真言の母で、神呪の王である」とまで主張されて、観音様とは別の扱いをして「仏母」の中に入れていました。同じ頃の日本では、真言宗の定海や元海などのお坊様が、「准提は観音様である」と主張して、今でも真言宗の「六観音」の中に含まれているのです。

■面白い事に、日本よりも早い時期にインド密教をせっせと導入していたチベットでも、「准提」は観音様の代表的な変化(へんげ)として定着しています。どうやら8世紀頃のインドで密教が最終的な形を取ろうとしている段階で、観音信仰が多くのバリエーションを展開したらしく、観自在菩薩が様々姿で衆生を救済すると説かれるようになります。その代表として「六字世自在」が熱心な信仰を集めたようです。「世自在」が観音様のことを意味していることは『観音様の話』をお読みの方には御理解頂けると思いますが、仏画(タンカ)に描かれている「六字世自在(観音)」は腕が四本有りまして、一対は胸の所で印を結んでいます。残りの二本の腕は、右手に数珠を持ち、左手には蓮華を持っている御姿で描かれることになっています。蓮華のイメージが強いのか、「蓮華手菩薩」と呼ぶ場合もあるようですが、「四臂(しひ)観音」と呼ばれることが多いようです。

■もしかすると、チベットにも「准提」は観音か仏母かの判別が難しいという説が入ったのかも知れません。「四臂観音」の脇にはマニダラ(宝珠を持つ者)と六字が女神化した美しい「六字大明妃」が描かれているのです。観音様の変化した「不空羂索観音」や「千手観音」、「獅子吼(ししく)観音」などもチベット人の信仰を受けていますが、何と言っても「四臂観音」の人気は絶大です。「オン・マ・ニ・パド・メ・フーム」の六つの音を唱えれば、その功徳は抜群です。

■「生死輪廻」の苦から脱して、知恵・解脱・救済が得られ、宗教的な快楽の本源となる力が得られると信じられています。仏教の目指す全ての目的が達成されるのですから、チベット人が熱心に唱えて、暇さえあればマニ車をグルグルやっているのも分かりますね。
因みに『大乗荘厳宝王経』の第三巻に、「唵麼抳鉢訥銘吽」の功徳が説明されているので、紹介しておきましょう。


「この呪があるところには、無量の諸仏菩薩天龍八部が集まり、これを誦持すれば諸波羅密の功徳を得て、七代に渡って解脱を得ることが出来る。この呪は観世音菩薩微妙の本心で、書写・誦持すれば、八万の法蔵を所持し非常に勝れた宝で仏像を造ったに等しい。もし人がこの六字大明呪を得るならば、貪瞋痴(とんじんち)の病を離れることが出来、その人が体で触れたり見たりする一切の有情は、速やかに菩薩の位を得ることが出来る。」
というわけで、言う事無しの有り難い真言なのです。


■チベット仏教を信仰するモンゴル族が元朝を建てると、敦煌の莫高窟の下に六字真言の石碑が建ったり、先祖供養の儀式に誦されたりして大流行したそうで、劣勢に廻った道教勢力も早速この真言を取り入れて愛用するくらいでした。別に元寇で酷い目に遭ったのが原因ではないでしょうが、日本にはこの流行は伝わらず、真言密教自体も余り世俗の人々の中には広がらなかったので、ほとんどの日本人がチベット仏教を通してこの真言を知るような事情になったのでした。

長々と書いてしまいましたが、どうしてチベット人が熱心に「オン・マ・ニ・ぺ・メ・フン」と唱えているのか、その理由はお分かり頂けたと思います。チベットが、漢字文化と絶縁してインド文化を選んだ時に、日本仏教とチベット仏教は別の発展の道を進んだのですなあ。最後に「唵麼抳鉢訥銘吽」の意味を書き添えましょう。「オーム、宝珠と蓮華よ、幸いなれ」という意味です。

■また、ダライ・ラマ猊下が御元気な姿で来日される事をお祈りいたしましょうね。今度は、「自由に発言しても良い」身分でビザを発給できる日本であって欲しいですなあ。合掌

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