なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

近江散歩(2)~三成の足跡を訪ねて (2015 6 6)

2015年06月15日 | 歴史
〈その1 石田三成の生家跡〉

 梅雨の晴れ間をぬって再び近江の地へ。北陸自動車道長浜ICを降り10分ほどで石田三成の生家跡。のどかな田園風景に囲まれた住宅街のなか、穏やかな顔付の三成公の銅像が迎えてくれた。


 住所は長浜市石田町、町名がそうであっても町あげての観光施設とはほど遠い。生家があったされる場所には、石田会館という地元の集会場が建てられていて、内部にわずかながらの資料室が三成の影を伝えているだけだ。
 その昔石田家は土着の豪族であったらしく、三成の父や祖父は領主浅井家に武士として仕えていたと云われている。地元ではその身分は高く、資料によると約70m四方の屋敷があったと推定されている。
 石田会館の正面入口

 木下さんというご老人に会った。この会館を管理されている方で、面倒見の良い気さくな自治会長さんといった風で、三成やこの会館の成り立ちなど懇切丁寧に語ってくれた。
 木下さんと私の長男

 会館の建つ前のこの場所は、どこにでもある普通の田畑だったと云う。400年以上前とはいえ、19万5千石の石田三成の生家なのだから、屋敷跡の土塁や基礎の痕跡くらいは残っていそうなものだが、まるで大規模造成でもしたかのように田畑が広がっていただけらしい。でもただひとつ、屋敷内にあったとされる「治部池」という小さな古池が会館右奥にある。これだけが唯一の痕跡だと云う。今は小奇麗に手入れされているが、田畑だった当時はきっとあぜ道の脇にある小さな水だまりだったに違いない。
 

 三成は関ケ原で大敗し、伊吹山山中で捕えられ、家康の命で即刻京都六条河原で首をはねられた。その後の徳川方の残党狩りは厳しく、特に首謀だった三成の出身地の石田村では、彼の痕跡はことごとく破壊されたという。石田姓の村民は姓を変え、またこの地を去って行った者もいるに違いない。そして時が経つにつれ、次第次第に三成の存在の影は薄れていく。そして江戸末期まで毎年「宗門改め」という宣誓制度があり、「石田残党これなく候」と村民全員に署名捺印させていたというからその怨念は深い。だから石田家にまつわる伝承の多くは抹殺されてしまったと云う。

 会館のすぐ近くにある八幡神社に行ってみた。石田家の氏神と伝えれているこの神社は、狭い敷地ながらも数本の大木で囲まれ数百年の面影を残している。


 社殿裏にはひっそりと塚があり、石田家代々の墓石の残骸が祀られている。石田屋敷と共に徹底的に叩き割られた墓石は、当時の村人が丁寧に拾い集め、神社境内に隠すように埋めたという。そして昭和16年ときの滋賀県知事は、三成を郷土の英雄であり誇りであると提言する。大きな一枚岩で蓋をするように埋められた塚の発掘が始まり、次々と石の塊が出てきて、中には「永禄○年」と読み取れる墓石もある。
 村民は肩身の狭い生活をしながらも、長年にわたり三成のこと石田家のことを忘れず、この塚をずっと守り続け、昭和の時代になってようやく陽の目を見たことになる。


 

 三成公の命日に当たる11月第一週の日曜は、毎年この会館で盛大に供養祭が催されている。全国各地から歴男歴女、あるいは石田家子孫と称する人たちが集まり、数百人の規模で賑わうらしい。仁政を施した石田三成、村人から慕われた彼の偉業はもっと報われて欲しいものだ。


〈その2 大原観音寺〉

 秀吉は、信長のもとで初めて大名として取り立てられ、近江長浜城主となる。領内視察を兼ねた鷹狩りは、単なるレクレーションではなく、優秀な人材を発掘する意味合いもあった。
 三成と秀吉が出合ったとされる大原観音寺に行ってみた。石田村からは車で10分の距離、短いトンネルを抜け左折した所にあった。寺門前の駐車場からは間近に伊吹山が見え、あたりはのんびりとした農村風景が広がっている。


 寺門をくぐると本堂までは一直線の参道。今は常駐する住職もなく寂れた古刹となっている。長い階段を登り始めると、何百年も時間が止まっているかのような静寂に包まれる。両側には苔むした石垣が繫なり、見上げた視界は深い緑が覆い隠し、出合う人もいない。
 

 天台宗のこの寺の創建は、1260年というから鎌倉時代中期。重要文化財にもなっている本堂は、江戸中期に再建され今日に至っている。訪れる人も少ないのだろうか、静けさに包囲された本堂は手入れも行き届かず、時代からとり残されたように佇んでいる。


 三成こと佐吉少年は、学問修業のためこの寺で小僧として過ごしていた。そこへ鷹狩りの帰りにやってきた秀吉と出会う。三成15歳、秀吉39歳の親子ほどの年齢差。有名な逸話「三献の茶」で知られるように、佐吉の機転の利いた茶の出し方に秀吉が賞賛。すぐに近習として召し抱えられ、以後佐吉は天下人秀吉の参謀となって活躍していくことになる。
 その茶の水を汲んだと云われる古井戸が寺の脇にある。何の変哲もない窪みにしか見えないが、時代を大きく変えていく二人の人生を想像すると、当時はこんこんと清水が湧いていたに違いない。



〈その3 彦根城〉

 長浜市から南下し車で30分、滋賀県第二の町彦根市に入った。井伊家35万石の城下町は人口約11万、国宝彦根城の華麗な天主閣はすぐ見えてきた。金亀山(標高136m)という低山の緑から、すっくと頭を突き出した天主は町のどこからも確認できるようだ。
 近づくにつれ城郭は思ったより壮大な規模。中堀と内堀で守られた城郭は、当時最強のお城であったらしい。縄張りは敵をおびき寄せては仕留めるという理念のもと、城内に侵入させない近世城郭の作り方と、仮に侵入させても徹底抗戦しようという戦国期の山城の理論が息づいている。

 京橋口からお堀の橋を渡ると広い枡形虎口。徳川期特有の隙間のない切込接(きりこみはぎ)の石垣が、行く手を阻むように積まれている。右手に彦根東高校のグランドを見ながら、内堀沿いに歩くと表門橋。売場でチケットを買うといよいよ城内見学に入る。
 表門山道はいきなりのきつい登り。石段は薄暗いほどの木々で包まれ新緑のトンネルとなっている。登りきると両サイドは高い石垣の壁、その上には廊下橋が渡されている。


確かに侵入した敵は攻めにくい。入ってきた表門、そしてもう一つの大手門から攻め上がった敵は、いづれにしろこの橋の下で出会う。空堀の深い底にいるようなこの空間は、守る側からすれば敵は絶好の餌食だ。石垣上の両方の櫓から矢や鉄砲の雨を降らせば、これほど効率の良い守備方法はない。それでも敵が橋を渡ろうとするなら、橋を落としてしまえば本丸へのルートは閉ざされてしまう。


 その落とし橋を渡り、天秤櫓をくぐり、そして枡形虎口の太鼓門櫓を登りきるといよいよ本丸広場。撮影用のヒコニャンが観光客の人気を集めている。


 見上げた天主はさほど大きく感じない。井伊家35万石としては五重天主がふさわしいのだろうが、着工時は18万石だったため三層の大津城が移築されたという。
 そもそもこの彦根城はモザイクのようなお城。建設資材は周辺にあった古城や古寺から運ばれ、特に三成の居城だった佐和山城は徹底的に解体され運びさられた。
 そしてこの築城は幕命だけあって、家康にとっての最重要拠点だった。戦国期や織豊期に作られた城が点在する湖東地区、これらの諸城を一括集中させ、大阪の豊臣勢力を封じ込める狙いがあった。事実、大阪の陣(1614~15)のあった年は工事が中断され、20年近い歳月を要して元和8年(1622)に竣工している。
 
 

 壁のような急階段を上り、最上階からの展望を楽しむ。午後の陽光でキラキラ輝く湖面が眩しい。無粋な金網の貼られた窓からは、井伊35万石の彦根市が一望できる。東側はビルが細々と密集した中心部、北側には牛の背のように横たわる丘陵と湖岸、西側には軍艦のように湖面にぽつんと浮かぶ多景島。この地は中山道や北国街道が交差し、かつては琵琶湖を挟んでの陸海上交通の拠点だった。家康が戦略上重要視していたことがよく分かる。だから彦根城は、姫路城や名古屋城のような権威を誇る「見せる城」ではなく、実践的な性格の強い「戦う城」と云えるのだろう。


 また表門まで下り彦根城博物館に入ってみた。いきなり井伊家の赤塗りの鎧が数体、戦国武将の力強さと美意識に圧倒される。
 

 この井伊家の象徴赤備(あかぞなえ)は、司馬先生によると武田軍団に由来するという。

『家康は武田信玄を畏怖しつつ、その軍法を羨望していた。武田家が勝頼の代でほろんだとき、家康は織田信長のゆるしをえて武田家のめぼしい将士を大量に吸収した。しかもそのほとんどを直政の家来にした。武田家は、赤備といわれた。そろって赤い具足をつけ、指物、鞍から馬の鞭まで赤塗りを使ったが、直政自身みずからの具足を赤にしただけでなく、部隊全員の具足その他を赤くし、「井伊の赤備」とよばれるようになった。(略)つまりは、井伊家が信玄流の相続者といえる』 〈街道をゆく24・近江散歩〉

 そして彦根藩井伊家というと有名なのが、13代藩主の掃部頭(かもんのかみ)直弼だ。彼にはなぜか強権的で独善的なイメージが伴う。松陰ら攘夷論者への弾圧(安政の大獄)と水戸浪士らに襲撃された非業の最期(桜田門外の変)が、そのイメージを作り上げているのだろうか。
 彼が世に出る前、自らの住まいを「埋木舎(うもれぎのや)」と呼んだ屋敷が城下にある。継承序列から遠く離れた侘しい生活を送っていたが、文武諸芸の習得には心意気があり、特に長野主膳から国学を学び取り、物事の本質的な理解力をここで習得している。
 大老職に大昇進後、攘夷論で沸騰する国内世論を押し切り、ふたつの日米条約を朝廷の無許可で調印。しかしその意義は日本の近代化を押し進める原動力となったはずだ。彼はソ連邦を解放したゴルバチョフにも似た改革開放型の政治家だ。知れば知るほど彼の実体と実像はイメージと異なる。ここでも三成同様、薩長の作った明治新政府が彼のイメージを曲解させたのではないだろうか。勝者と敗者の論理の狭間で、46歳の男盛りで散った井伊直弼は、開国の父としてもっと評価されるべきだろう。


〈その4 佐和山城址〉

 今回のメイン、石田三成の居城「佐和山城址」。なにも残されていないと本に書かれていたが、登ってみると見事なほど城の痕跡を示すものはほとんどない。彦根市の北東にある佐和山頂上(232m)に築城され、19万5千石の大名となった三成が本格的な改修工事を行った。東からの大阪京都防衛の重要拠点として、全山が要塞化されていたという。幾重にも張り巡らせていた石垣の頂には五重の天主がそびえ、天気の悪い日は屋根の鯱(しゃちほこ)が雲で見えないほど、その高さを誇っていたという。
 古図の縄張りを見ると、山頂の本丸を起点に、東に二の丸三の丸、北に西の丸、南に太鼓丸があり、頂上から派生した尾根上に各種の櫓が建っている。城の背面となる西側は当時琵琶湖に接していて、傾斜を示す等高線が黒くなるほど厳しい崖になっている。


 城へは龍潭寺(りょうたんじ)という寺から登った。手入れの行き届いた境内は多くの大木に囲まれ、林床の苔の絨毯が悠久の歴史を伝えている。
 

 古い墓場を過ぎると山道の傾斜はきつくなり、ひと汗かいたところで尾根に出る。発掘中の塩硝櫓跡を過ぎ西の丸の曲輪を越えると頂上だ。時間にして30分、ちょっとした里山ハイキングだ。

 本丸のあった広い頂上はたくさんの雑木で囲まれ、そのため東側だけ視界がさえぎられ、それに対し大きく開けた西側は大海のような琵琶湖が広がっている。沖合には松原という小さな島があり、三成時代には陸から百橋という三段階に分かれた橋が架けられていた。島には米蔵倉庫と小さな港があったというから、その景観は絵のように明媚だったに違いない。
 

 そして北東方向には雲のかかった伊吹山がよく見え、南西方向には先ほどの彦根城が低く見えている。鎌倉初期から古い歴史をもつ佐和山城、東西南北に睨みをきかす立地条件を充分に満たしていると云える。
  

 秀吉の時代、五奉行筆頭の三成が入城したのは天正19年(1591)4月、正式な城主となったのは4年後の文禄4年。早々彼は領民に対し掟書(おきてがき)の発布と城の大改修を実施。その特徴は明確な農民保護と無理のない人夫徴用だった。年貢制度など領民の立場にたった三成の施政は、民に慕われる仁政であったと云われている。

 そして3年後の1598年8月に秀吉が死去。政権の補佐役前田利家も相次いで病死し、権力の均衡は徐々に不安定となる。日を追って家康の天下取りの野心は露骨になり、いよいよ慶長5年(1600)6月の関ケ原をむかえることになる。小早川秀秋らの寝返りで三成は大敗し伊吹山山中に逃げ込む。その間、この佐和山城は家康側の総攻撃で天主が落城炎上。豊臣系の美しさを誇った豪華絢爛な姿は、わずか3~4年で消滅してしまったことになる。

 その後、徳川四天王のひとり井伊直政が入城するが、合戦の鉄砲傷の悪化でまもなく死去。生前から直政には新城計画があり、その意を継承した家臣たちが慶長8年(1603)に彦根城築城に着手。豊臣家や西国の諸大名(特に長州や薩摩)に睨みをきかすためもあり幕命で開始された。
 この時の大規模工事がこの佐和山城を徹底的に解体した。焼け残った櫓はもとより、山頂まで積み上げられていた石垣はすべて彦根城に運ばれ、新城の建設資材となってしまった。信長の安土城にしろ光秀の丹波亀山城にしろ、今でも石垣は立派に残っている。だがこの佐和山だけは「三成憎し」の家康の怨念がこもっていたのか、見事なほど何もない。ただ唯一、本丸東側に石垣隅部と思われる石材が2個あるだけだ。


 佐和山は徳川時代300年近く立入禁止になっていたという。今は一本の登山道が整備され容易に頂上に立てるが、その時代は草木の繁殖で荒れ放題だったに違いない。
 「国破れて山河在り」のごとく、義を貫き家康と戦った三成の痕跡は、生家石田村同様、徳川政権が完全に封印し歴史の闇に葬られてしまった。そして東照大権現として神に祀り上げられた家康に対し、悪の烙印を押された三成は故意に人物像が歪められた。後世の三成の評判はすこぶる悪い。幕末の著名な歴史家頼山陽でさえ巷説を信じ、「日本外史」で三成悪人説を唱えている。
 「勝者が善、敗者が悪」という構図は、徳川政権が作り上げた曲説とも云える。その国民感情が今も心層深く生き続け、第二次大戦後の自虐史観を形成しているようでならない。もし三成が現代に生きたなら、優秀で潔白な国家官僚として、その才能と頭脳を充分に発揮したに違いない。

  








 




 

 


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-06-28 14:32:17
ローンさま、待ってました!
大作、ジックリと読ませていただきました。隊長
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あり~! (なかちゃん)
2015-06-28 16:18:02
隊長、早々にあり~!
待ってましたと云われれば、
今後の励みになります。
音楽以上に精進します。
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