なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

丸亀散歩~丸亀城を訪ねて(2015 11 21)

2015年11月25日 | 歴史
 

 毎日のように見ている丸亀城、雨の降る夜は出るらしい。時のお殿様が石垣を作った際、通りがかった豆腐売りの少年を捕えて人柱にしたらしい。そのため雨夜の城中ではトーフー、トーフーと少年の泣き声が響き渡ったらしい。こんな人柱伝説は丸亀城だけではない。丸岡城のお静伝説、松江城の小鶴伝説、そして大洲城のおひじ伝説など、お城に限らず橋や堤防工事でも全国にはたくさんの云い伝えが残っている。人柱によって建造物を霊的な守護で堅牢にする意図があったとはいえ、残忍な風習というしかない。

 そしてもう一つの哀れで残酷な伝説、石工・羽坂重三郎(はざかじゅうざぶろう)伝説だ。石垣作りの棟梁に命じられた重三郎は、丸い小豆でも積むことのできる名人だったらしい。石垣の完成間近のある日、お殿様が巡視した際「さすが名人の築いた石垣じゃ。この石垣を越えるものは鳥以外にあるまい」と重三郎を褒めたたえた。気をよくした彼は「お望みとあれば、この重三に尺余の鉄棒を一本お貸しください」と云うと、まるで猿のようにあっという間に高い石垣の上まで登ってしまった。そして数日後、重三郎に悲劇が襲った。井戸の深さを測るよう命じられた彼が、暗く深い底に下りたとき、大きな石が頭上めがけて落ちてきた。「もしもこやつが敵にまわったら、お城が一大事」というお殿様の猜疑心が、こんな悲劇を生んだらしい。

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 こんなふたつの悲劇を胸中にお城を登ってみた。丸亀城は南側の搦手(からめて)門跡から登るに限る。観光客など人が少ない上に、門跡などの石垣群が複雑に入り組んでいて、木々の色彩との調和が素晴らしい。北側の大手門から登る見返り坂は、車も通行できる無粋な舗装がなされ、かつては石段であったはずの風情がかき消されてしまっている。一方、搦手(裏)口は遊歩道から一歩登り始めると、豊かな自然と堅牢な石垣のコラボが、いにしえの時代へと誘ってくれる。


 門跡を入ってすぐ、遊歩道を右に100mほど行った所に野面積(のづらづみ)の石垣が残っている。丸亀城の石垣のほとんどは打込接(うちこみはぎ)の石が使われているが、自然石だけを積み上げた野面積はお城の歴史を如実に物語っている。石垣作りの初期工法で、石を削らず原型のまま積み上げられたものだ。おそらく築城を開始した生駒時代のものだろう。

              野面積の石垣の上には二層の打込接の石垣

 丸亀城の歴史はおおざっぱに云って、生駒時代(四代53年間)、山崎時代(三代16年間)、そして明治まで続いた京極時代(七代211年間)の三つに大別できる。しかし平城としての歴史はもっと古く、応仁年間(1467~68)に地場の領主細川氏の家臣が、宇多津・聖通寺城の砦として築いたのが始まりらしい。
 
 本格的な築城にかかったのが秀吉の家来生駒親正で、天正15年(1587)に17万3千石の大名として讃岐に入封。さっそく親正は高松に本城の玉藻城を築くと、慶長2年(1597)に支城として丸亀城を大改修している。それは西讃の要害として築かれ、同時に城下町の基礎もある程度整備されたが、商工業の発達は充分とは云えなかった。当時の大手門は南側にあり、現在北側にある大手門は、約70年後の京極時代になって移されている。だから当時は南からの威嚇が重要視され、軍事的性格が第一だったようだ。
 
 しかし大阪の陣直後の元和元年(1615)、幕府による一国一城令が発布されると、丸亀城はいったん廃城となってしまう。そのとき城に携わる多くの領民は高松へ移り住み始め、現在では丸亀町界隈となって一番の賑わいを見せている。ほかに瓦職人の住んでいた平山地区の瓦町、武器庫のあった兵庫町(江戸中期以降は富屋町)など共通する町名が残っているのはこのためだ。

 そして生駒騒動(1640)で生駒家が讃岐を追われると、翌年肥後国から山崎家治が5万3千石の丸亀城主として入封する。このとき初めて独立した丸亀藩として立藩され、家治は廃城となった丸亀城を再興し居城とした。彼は築城名人として知られ、現在ある美しい勾配の石垣のほとんどを完成させている。しかし山崎家は三代の藩主が幼少で病死したため、わずか16年で断絶している。

 ここで以前からの疑問のひとつが解けた。一般に云われる「5万石の京極藩」、外様小藩にしては城郭が立派すぎることだ。城の歴史を考えると、生駒時代に現在の縄張りが確定し、山崎時代に四層の広大な石垣が完成し、その後京極家に引き継がれている。城郭の規模と石高のアンバランスは、この経緯を知るとよく分かる。まずは大きなお城ありきなのだ。


 堅牢な石垣を左右に見ながら石段を上る。周囲は閑静で秋の澄んだ空気に包まれ、陽で照らされた木々の緑がすがすがしい。


 二段目の石垣でいったん遊歩道を離れ、お城の西側へと回り込む。
 人柱伝説はどのあたりなのだろうか?云い伝えでは西南隅の石垣とあるだけで、四層になっている石垣のどの段なのか分からない。あえて立看板の表示などなく、悲しい伝説としてパンフレットに書かれているだけだ。
 二段目のこの西南隅の石垣の下なのだろうか?石積みの隙間を貫くように出た古い木の根が残っている。豆腐売りの少年の怨霊が、太い木となって堅固な石垣をも突き通してしまったのだろうか?!


 そしてもう一段上の西南隅には古い空井戸がある。三の丸井戸で深さ31間(約59m)もあり、山崎時代に掘られたものらしい。攻城された際の抜け穴伝説があり、一度は底に下り徹底調査してみたいものだ。


 ここでひとつの発見があった。隅を南から西に回り込んだ所に石垣の継ぎ目があった。いったんは完成した天守曲輪の石垣、増床のために南側へ数メートル増幅されている。算木積みという隅部の細長い石が見え、今は石垣の筋目となって残っている。おそらく天守曲輪は山崎時代に完成はしたものの、改修を引き継いだ京極時代に増床されたに違いない。なんの下調べもなく、自分のこの眼で発見することは実に楽しい。


 再び遊歩道に戻り二の丸に出る。ここまで上がって来ると素晴らしい展望が広がる。特に東側は雄姿讃岐富士を中心になだらかな平野が眼下に広がり、その向こうには讃岐特有の丸く優しい稜線の山々が並んでいる。


 そして二の丸広場は桜の名所。花見時期にはたくさんの人で賑わう場所だ。今は葉を落としてしまった桜林の中に、ぽつんとまた古井戸がある。


 これが石工名人・羽坂重三郎が殺害された井戸。深さは36間(約65m)もあり丸亀城最高所にある井戸だ。天守のある頂上の標高が66mだから、一段下がった二の丸との差を差し引いても、優に平地の下を流れる水脈まで届いている。
 重三郎は仕事仲間から「裸重三(はだかじゅうざ)」と呼ばれ、暑い日も寒い日も褌一枚であとは素っ裸、毎日毎日石を削り、石を運び、黙々と石を積み上げていたと云う。彼の石垣は山裾から4層に積み上げられ高さは約56m、累計すれば日本一高い石垣だ。城の防衛上、秘密保持のためとは言え、恩を仇でかえすように殺された重三郎、あまりに哀れで残酷過ぎる物語だ。
 暗い穴を覗いてみると、豆腐売りの少年と共に、二人の怒りの嗚咽が聞こえてきそうだ。


 晴れわたった秋空の下、天守の白い壁が一段と映えている。入城者数9万人突破の記念イベントがあるのか、たくさんの人で賑わっている。


 ここで以前からのもうひとつの疑問、立派な石垣の城郭なのに天守があまりに小さいことだ。高知城、松山城、そして今は現存しない徳島城にしても、本曲輪に見合った規模の天守が建てられている。丸亀城の石垣総高は約56mで日本一と云われているのに、三層三階の天守は日本一小さい建物になっている。

 天守ができたのは万治3年(1660)、山崎家に代わり新しく入封した京極高和のとき。当時は大阪の陣からすでに半世紀近く、天下はすっかり泰平の世の中になり、幕藩体制もしっかり確立されていた。新たな築城は国を乱すとして、城郭の造営改築は厳しく禁止され、破損修理も届出許可制になっていた。

 ではなぜこんな厳しい「武家諸法度」のもとで天守を建てることができたのか?
それは京極家と徳川家の関係にあった。京極初代藩主高和の祖母はお初(浅井長政の二女)で、二代将軍秀忠の正室お江はお初の妹になる。京極家は外様大名とは云え、将軍家とはこんな血縁関係から幕府からの特別な計らいがあったのだろう。
 一方、京極家としては幕府に対する配慮もあり、他藩とのバランスを考えると、徳川初期の築城ラッシュ時のような大規模な天守は作れない。できる限り小規模な建造物にしたいと考えるのは当然だっただろう。

 丸亀城天守は妻側(南北面)が平側(東西面)より長い。一般的な天守はその反対の妻側より平側が長いか、あるいは同じ長さになっている。日本一高い石垣の上に、平側の短い天守をあげるとあまり目立たない。そこで考えられたのが、小規模ながらも海側(北面)の正面方向から威風堂々と見せるテクニックだ。妻側を長くするだけでなく、北面だけ入母屋の屋根や大窓そして唐破風などをこらすことによって、安定感のある象徴としての天守に仕立て上げた。

          妻側の北面                     平側の西面

 そして忘れてはならないのが、天守完成の10年後(1670)、南側にあった大手門をを北側に移していることだ。この変更は海側から意識した天守作りと連動している。城下町の中心を北側に設定し、海上交通の利便性を考慮した町づくりは、すでに山崎時代から進められていた。現在ある通町や富屋町の中心部は、古地図では新町と記載されていて、ある程度の商工業の発達はあったようだ。その構想を継承した初代高和は、より城下を発展させるために、旧領播州竜野から商人を呼び寄せたり、塩飽諸島から漁民を移住させるなど尽力をつくしている。
現在の城下町

 入城料200円を払って天守に上ってみた。三重三層の天守は国の重要文化財に指定されているが、内部は狭間や武者窓が開いているほかは何の装飾的工夫もなされていない。日本一小さな天守だけあって、三階展望楼は東西三間、南北二間の十畳間の狭さだ。北側から見た堂々とした外観とは対照的な内部空間、城下町のシンボルとしての天守構造はこれで充分なのかもしれない。


 丸亀城は生駒、山崎時代には南側に大手門があり、京極時代に北側に移された。それと合わせて天守も北側からの見栄えを意識した作りとなった。例えると南を向いた人間が、頭部だけを180度北側に向けたと想像すると分かりやすいかもしれない。そのため背中に当たる北面には20mを越える石垣の壁が続き、南面は登城のための石段と複雑な石垣群が現存している。やはり丸亀城は搦手門から登るのが面白い。
 
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 最後に、図書館で調べてみると名工・羽坂重三郎のお墓があった。JR丸亀駅からわずか南西に200m、寿覚院という浄土宗のお寺にある。寺の西側が広い墓地になっていて、見つけ出すのにちょっと手間取った。やっと見つけた墓石は石垣用に加工された細長い石、きっと石垣の隅部に使われる石だろう。
 重三郎の生没年はまったく分からない。ましてや顔形や性格など知る由もない。殺害されたのは生駒時代とも山崎時代とも伝えられている。しかしこの寿覚院という寺は、山崎家治が山崎家の菩提寺として建立しているため、彼の悲劇的な死はおそらく家治の手によるものだろう。オブジェのような墓石を見ていると、彼が無言の自己主張をしているようでならない。
 4百年を経ても、今なお美しい曲線を見せている丸亀城の石垣、これからも何百年何千年とその姿を継承していくに違いない。羽坂重三郎という石工名人は、もっと注目され評価されるべきだろう。