なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

近江散歩(1)~安土城跡を訪ねて (2014 7 20)

2014年07月27日 | 歴史
〈その1 安土城跡〉
 
 高松から淡路を渡り名神をひたすら走り4時間半、琵琶湖東岸の町近江八幡市に着いた。のどかな田園風景のなかに城跡はある。安土山は杉や檜などでうっそうと茂り、見た目にはどこにでもある台地状の里山。
駐車場安土山前景
 中央入口の大手道から一歩足を進めると、新緑で包まれた山全体が鉄壁の城塞であったことが偲ばれる。野面積み(のづらづみ)と云われる自然石を積み上げた石垣があちらにもこちらにも。この野面積みは、当時の技術では高さ3mが限界とされていたが、この安土城跡では高い所で11mもある。穴太(あのう)衆と呼ばれた当時の石工職人がそれを可能にしたらしい。


 まっすぐ上に延びる大手道の石段を登る。
 
 左右には利家公、秀吉公、そして家康公の住居跡のあった曲輪(くるわ)があり、ひと汗かくと黒金門に着く。ここからはいよいよ天主を囲む本丸の領域に入る。ひときわ大きな石でできた石垣が、今も信長の権威を主張しているかのようだ。


 広い本丸跡も大木が生い茂り森閑とした佇まい。信長はここに内裏の清涼殿そっくりの建物を造り、天皇を招き入れる「御幸の間」を用意した。天皇招聘は実現しなかったが、自身の起居である天主の下に住まわせることで、天下布武を世の中に知らしめる狙いがあったようだ。

 そして天主閣のあった頂上へ。標高200m弱、深い森から抜け出したように視界は広がり、涼しい風が解放感と爽快感を運んでくれる。天主跡は背丈ほどの石垣に囲まれ、整然と並ぶ礎石しかない。


 天主は地下1階地上6階、高さ32mの絢爛豪華な城だったらしい(諸説あり)。築城にあたった棟梁は、信長が美濃から連れてきた岡部又右衛門とその息子又兵衛。山本兼一著「火天の城」によると、赤く塗られた八角堂の載った七重の天主閣で、最上階は瓦も柱も金箔で覆われ、絢爛さをさらに際立たせていたと云う。まさに天下を睥睨するその威容は、派手というよりも壮麗、秀麗を極めた、信長という天の主が降臨する高楼であったと云う。

 築城開始は天正6年(1576)、信長が実際居住したのは僅かに3年間、天正10年(1582)6月2日未明、光秀の謀反により信長はこの世を去る(49歳)。そしてこの城も同年6月15日に消失する。諸説あるが通説では、信長の次男信雄(のぶかつ)が明智勢残党を炙り出すために、火を放ったと云われている。

 頂上からの眺望は素晴らしい。晴天の下に拡がる琵琶湖の青さが眼にすがすがしい。湖面から吹き上げて来る初夏の風が、信長の没落など何もなかったように、無言で西から東へと流れている。
 天下統一間際の信長は、この景色を堪能しながら達成感と充実感を満喫していたに違いない。



〈その2 信長の館〉

 安土城跡の南、JR琵琶湖線をはさんで「信長の館」と「安土城考古博物館」が、広い敷地内に併設されている。
 信長の館は一歩中に入ると、朱塗りの大きな建物に圧倒される。安土城天主の最上部5,6階だけが復元されていて、見上げれば金色に輝く天主閣が威風堂々と建ちあがっている。思わず信長の威圧にひざまづいてしまいそうだ。


 天主閣を包む建物の天井はドーム状になっていて、最上階の廻縁(まわりえん)から内部が鑑賞できるよう、鉄筋の階段が取り付けられている。
 朱色の八角堂をひと回りした後階段を上る。上から威圧していた金色の軒端、壁、柱、そして大屋根が同じ目線の高さに迫る。さらに屋根を見上げれば、尾ひれを跳ね上げた金色の鯱(しゃちほこ)が据えられていて、まさに錦上添花。
 なんと絢爛華麗、金箔を10万枚を貼りつめた外壁は、この世のものとは思われない極上の龍宮を見せつけている。


 廻縁から内部を覗くと、その空間は贅を尽くした最高の職人技が詰まっている。天井は格子状にはめられた絵図、床は黒漆の檜板が黒光りし、壁は加納永徳の描いた障壁画。その他欄間、棚、飾り彫り物など、当時の最上の仕事が施されている。そして中央には繧繝縁(うんげんべり)で縁どられた太政畳が置かれ、それはきっと信長の降臨瞑想の座になっていたのだろう。


 作家山本兼一氏は小説「信長死すべし」の中で、信長の心象を淡々とこう書いている。

  『安土城天主上一重の座敷に、織田信長は静かにすわっている。
   四方にひらいた狭間戸(さまど)から、初夏の艶めいた夜気が薫っている。
   すでに真夜中の丑三をまわったころだ。天下は寝静まっている。
   闇空にまたたく星が、手づかみできそうなほどに近い。
   湖国をはるかに見下ろす山頂に、天主を築かせた。ここにいれば、天界の中心にすわって宇宙のすべてをみわたしているがごとき心もちになる。
   ただ一人、厚畳にあぐらをかいて瞑想していると、おのれの腹の底からふつふつと熱い情念が滾(たぎ)ってくる。
   天下を動かしているのは、つまるところ人の志であろう。
   なにごとかをなし遂げようとする強烈な心があれば、天下はいかようにも動かせるー。
   そんな思いが腹の底に沸騰している。
   -天下をいかに導くか。
   そのことを、しきりと考えている。(略)』


〈その3 長浜城〉

 安土から長浜へ8号線を一路北上。国道は彦根手前から大渋滞、50km弱の道のりを2時間近くかかってしまった。秀吉の「長浜城豊公園」に着いた時は、陽はもう夕方の日照に変化していた。静かな琵琶湖のほとりに位置する長浜城は、公園の緑に包囲され、ひときわ白い姿を際立たせ屹立している。
 平城なので数段の階段を上るだけで、その全貌が現れた。


 入場料400円を払うと中は市の運営する歴史博物館。それもそのはずこの城は、昭和58年に再興された鉄筋コンクリートの建造物で、エレベーターまで完備している。羊頭狗肉とまでは言わないが、外見と内部の大きな開きにはちょっと違和感を覚える。

 秀吉は天正元年(1573)に姉川の戦いの後、浅井長政を滅ぼし、その功績を信長にかわれ浅井氏の領土を与えられた。翌年にはこの長浜城の築城を開始し、天正3年には完成させ、本能寺の変のあった天正10年(1582)まで在城した。しかし秀吉は信長から中国の毛利攻めを命令されていたため、留守を預かるねねがほとんど城を仕切っていたようだ。
 その後城主は転々と変わるが、徳川幕府成立後の1615年に廃城となる。その資材の大半は彦根城築城に流用され、250年後の幕末には、その彦根城から大老井伊直弼が歴史に登場することになる。

 最上階の「望楼」からの展望は、琵琶湖に接しているだけに本当に素晴らしい。大海の如く、湖とは思われないほどの水を満々と湛え、湖面は視界の下半分を占拠している。高さがちょうどよい。足下まで迫る湖面の遥か向こう、対岸の比良山地がうっすらと、墨絵のように浮いている。その左に先ほどの安土山も陽炎のように霞み、信長の威光がここまで達しているような気さえする。


 秀吉の功績はなんといっても、城下町経営の基礎を築いたことにある。日本国中にある城下町は、この長浜の町を手本に作られたと云われる。信長提唱の楽市楽座を踏襲した街並みは、現在でもその面影が町内至る所に残されているらしい。でも今回はその町ブラの時間はなく、陽は夕暮れの様相を呈している。次回の「近江散歩」の楽しみにとっておくことにした。




〈その4 姉川古戦場〉

 小説を読んでいるとそのストーリーを時間の経過と共に体験するのだが、今回の行程はその経過を逆にさかのぼっている。次に向かうのは姉川の合戦跡、陽もだいぶ西に傾いてきた。急げ!
 姉川古戦場は長浜市内から北東方向に15分、想像していたより小さな川の東堤にある。まわりは一面青く伸びた稲が波のように騒ぎ、碑のある広場はゲートボール場に整備されている。トイレが一棟ぽつんとあるだけで、案内看板がなければ何処にでもある公園にしか見えない。看板には周遊コースも書かれているが、いざ堤に上がってみると草木が生い茂り、散歩の気分など湧いてこない。


 時はさかのぼり1570年7月30日、織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍はここ姉川で対峙した。合戦の起因と戦況は割愛するとして、両軍の戦いぶりはすさまじく、両軍の戦死者は2000人に及び失った重臣の数もおびただしい。
 戦いは浅井朝倉軍が破れたとはいえまだ余力は残っていて、比叡山や石山本願寺と手を結び戦略的に信長軍に対抗する。その結果ホロコーストとも云える比叡山焼き討ちが実行された。


 ここで悲運としかいいようのないのが信長の妹「お市の方」。政略結婚とはいえ浅井長政とは仲睦まじく比翼連理、三人の娘(茶々、初、江)も生まれる。長政の寝返りで兄妹が敵味方に分かれてこの戦いとなるが、彼女の悲運はさらに続く。清州会議(1582)後、柴田勝家の後妻となり、今度は賤ヶ岳の合戦(1583)で秀吉軍に敗れる。勝家は居城の北ノ庄城(福井市)に逃げ帰り、三人の娘は逃がしたもののお市の方とともに自刀。娘達がその後の歴史を面白くさせてくれるが、信長の妹に生まれたばかりに、お市の人生はなんと悲しく儚い運命であったことか、、。享年37歳の若さだった。

 壮絶な戦いで姉川は血で赤く染まったという。合戦場付近には「血原」「血川」という地名も残っていて激戦の様子を窺わせる。
 伊吹山を源流とする姉川、橋の欄干から見下ろすと、500年前の戦いなど忘れたかのように、やさしく静かに流れていた。
上流の東方向
下流の西方向











 

三嶺花紀行(2014 6 29)

2014年07月05日 | 登山
 今年2度めの三嶺、前回は2月ということもあって、雪の多さであえなく途中で撤退。トレースのない新雪の山道はやっぱりしんどい。
 梅雨の晴れ間、今回も名頃登山口から直登の尾根道に入った。数年前まで登山口は下部と上部の2か所あり、上部の登山口から入ると1時間半もあれば頂上に立てたのに、今では林道入車禁止となり、少なくても3時間は要することになった。

じゅん君、いぇ~い!

 今回の登山は、以前から知り合いの今治に店舗を置くアウトドアショップ「エルク」のツアーに参加させてもらい、総勢9人。一歩森に入るとそこは新緑のマイナスイオンのシャワー、ブナやダケカンバの自然林のなかを、すがすがしい空気を胸にいっぱい吸い込みながら登ります。


 パーティはご婦人が半分以上、さっそく世間話が花開き、友人知人、身内のこと、近所の事、そして今開催中のワールドカップまで話は尽きない。口より足を動かせよ、と思いながら隊はゆっくり進む。案の定、中間地点のダケモミの丘まで2時間近くかかってしまった。

 一本立てて(休憩すること)いると、常連のY女史がいない。でも誰も心配する風でもなく、いつものキジウチらしいとの事。彼女は山に入ると必ずと云っていいほど、条件反射のようにキジをウチに消えるらしい。
 
 「キジウチ」は登山用語で用を足すこと。猟師がヤブの中で身を潜めキジを狙い鉄砲を構えた姿からきた言葉。恰好から云えば「大」の方になるが、実際はオオキジ(大)、コキジ(小)に区別される。また「お花摘み」とも云われ、女性の場合に使われるらしい。だから正確には、Y女史は「お花摘みに行った」と云わなければならない。
 他にこういう言葉のバリエーションは豊富で、キジ場(トイレ)、カラキジ(オナラ)、キジガミ(ティッシュペーパー)等がある。そしてミズキジになるとその状態を表し、キジメシなんてなるともう品格の圏外の言葉になる。

ダケモミの丘を過ぎると傾斜はいよいよ厳しくなる。陽光で緑の映える木々の下を黙々と登る。このあたりからご婦人方の会話は途切れ途切れになる。森林限界を過ぎ、つづら折りのガレ場に出ると、あともう一息で笹原の台地。
山小屋までもうひと息

 きつい階段を登り切ると、そこは笹で敷き詰められた雲上の別天地。赤い屋根と青い池の横を通り過ぎると頂上はもうそこに見えている。ふと足許を見ると、コメツツジの小さな白い花が咲き始めている。


 頂上からの展望は何度来ても素晴らしい。西には天狗塚まで延びる縦走路が見え、東では剣と次郎笈の雄姿がこちらを見ている。空は青く陽光も降り注いでいるのだが、そこはやはり梅雨の晴れ間、どんよりと黒い雲のかたまりが西から東へと動いて行く。湿度も高そうだ。遠方の山々はうっすらと霞み、その稜線は空の色と一体化してしまいそうだ。


 熱い珈琲を飲みながら展望を楽しんでいると、またY女史の姿がない。ふと西方向を見下ろすと、小さな後ろ姿が笹原に消えようとしている。

 オオキジなのか、コキジなのか詮索はやめるとして、この素晴らしい景観の中での野○ソは、きっと心ゆくまで解放感が味わえるのだろう。そしてそれは最高級有機質肥料となって、クマ笹の成長の助けにもなるのだろう。
 頂上からの展望は飽きることがない。その視界の一点にあるY女史のカラフルな帽子は、この雄大な俯瞰にひときわ花を添えている。

 登山ガイドブックは数多く出版されている。古くは深田久弥の「日本百名山」、昨今ではヤマケイを初めたくさんの本が、書店のコーナーに山積みされている。そんななか、一味違ったガイドブックを考えてみた。

  Y女史特選「山のキジ場ガイド」

 石鎚や剣、その他の山々で困ったときのキジ場案内、山道ごとにマーキングされた花摘みの場所を懇切丁寧に紹介。ここの樹林の木陰は身を隠しやすいとか、ここの岩陰は消音効果が高いとか、ここの沢はまたぎ易く流れも速いとか、ワンポイント添えることで、他とは違ったガイド本になるのではないだろうか。山ガールが闊歩する昨今、きっと重宝されるガイド本になると思うのだが、いかがだろうか。

 そんなことを考えながら下山開始。


 エルク隊はこれからもY女史を乗せて、花見ツアーならぬ、花摘みツアーを楽しく続けていくに違いない。