なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

出雲散歩(1)~出雲神話を訪ねてパート1(2016 10 15)

2016年10月28日 | 歴史


〈その1 加賀の潜戸(かかのくけど)〉

 JR松江駅からR21号線を北上、島根半島を縦断すると30分ほどで日本海に出た。海の色は瀬戸内よりも藍の濃さが増し、海岸線は複雑に入り込み、沖合いには小さな島が点々と浮かんでいる。そんな一角にある加賀(かか)の漁港は、右手の人差し指と親指を開いたような入江になっている。東には洞窟のある岬が張り出し、西には江戸期に北前船の寄港地だった桂島がある。
 波静かな港から小さなクルーズ船に乗った。今年の夏は相次ぐ台風と秋雨前線で長雨が続き、ようやくこの季節になって小春日和をむかえたようだ。観光船は20人も乗れば満席で、いち早く舳先の席を陣取った。支給されたオレンジ色のライフジャケットが目に眩しい。出航すると船は時計回りに入江を進み、左手に続く石垣の岸壁が江戸の泊まりの風情を残している。


 この潜戸観光は大洞窟を船で潜る「新潜戸」と、上陸して幼子を鎮魂する「旧潜戸」に分かれている。
 まずは断崖の亀裂のように見える旧潜戸に上陸。「仏潜戸」「古潜戸」とも呼ばれ、幼少のうち亡くなった子供の魂を弔った洞穴だ。そこに通じる素掘りのトンネル内は薄暗く、数メートルおきに安置された地蔵様がわずかに闇を照らしている。長さ100mを超えるトンネルを、まるで深井戸の底から見上げたような、小さく丸い出口を目指して歩く。まさに霊界へと続くトンネルだ。
 


 トンネルを抜けると、そこは夥しい数の小石と小地蔵が置かれた賽の磧(さいのかわら)。積み上げられた石は小さな塔となって林立していて、それらを分け入るように小径が穴の奥まで延びている。なんだか荒れ果てた墓場のようで、ちょっとうす気味悪い。

『父恋し、母恋し、恋し、恋しと泣く声は、この世の声とは変り、悲しさ骨身を通すなり』

と、パンフレットには書かれていている。ひとつひとつの小石が幼い命だと想うと、せつない無常観に襲われる。ふと京都の化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)を思い出した。そこにも無数の無縁仏が語りかけてくるような重々しい霊気が漂っていた。
 静かな波音とともに、幼い沈黙の嘆きが聞こえてきそうだ。今でも幼子を喪った親たちが祈りに訪れるらしい。


 船は「新潜戸」へと向かう。途中見上げる岬の断崖は、断層や亀裂が入り乱れ変化に富んでいる。このあたりは角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)という岩層からなっていて、それらを長年の荒波が「海食崖」と「海食洞穴」を造り上げている。国の天然記念物にも指定されているようだ。


 新潜戸の大洞窟は入口が東西と北に三つあって、クルーズ船は一番小さな西の入口からゆっくりと入って行く。


 穴の幅は3mくらいだろうか?船幅いっぱいの入口は今にも船縁を擦りそうだ。船長の操船の見せ所だ。この船観光が3月から11月までの運行期間となっているのがよく分かる。冬の日本海の荒波の中ではこんな芸当は到底見せられない。「髪の毛三本動かすほどの風が吹けば、加賀への船は出せない」と云われているほど、冬の北風は航行の敵だ。また潮の干満や流れ、そして波のうねりもあるだろう。毎日8便の慣れた運航とはいえ、舵を操る者の緊張の瞬間だ。事実ミステリーの巨匠・松本清張氏は、天候不順のため途中で引き返すハメに合っている。

 クルーズ船はうす暗い洞窟内をゆるゆると進んで行く。大洞窟の内部は東西に約200メートル、天井の高さは約40メートル。入ってすぐ左上には、闇に浮かぶように白木の鳥居が見え、その土台は佐太大神(さだのおおかみ)の誕生岩と呼ばれている。佐太大神は古事記には出てこないが『出雲風土記』には書かれていて、出雲大神、熊野大神と並ぶほどの有力は神だったらしい。佐太大神は猿田彦命(さるたひこのみこと)とも呼ばれ、今はこの加賀から西南10キロにある佐太神社に、アマテラスやスサノオとともに祀られている。古事記からは読み取れない地元出雲の信仰勢力を知る思いだ。


 ゆっくりと進む洞窟内は神秘と荘厳に満ちている。うす暗い空間といえど、北側の入口から差し込む陽光が明り取りとなって、T字型に交差したあたりの海面はキラキラ光っている。その反射光を受けた岩肌には、独特な岩層の縞が映し出されている。白く、黒く、また淡い緑にも見える縞模様は、シュールな壁画を見ているようだ。
 また交差した天井部分は高いドーム状になっていて、まるで大仏殿の底にいるような威圧感に圧倒される。闇と光と縞模様が幻想空間を創り出し、そこに漂う空気は塩の霊気となって体内に浸み込んでくる。息を呑むほどに誰も感動の声すらあげない。異次元空間の包囲が言葉さえ奪ってしまった。
 
 出雲をこよなく愛したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲も絶賛。新編『日本の面影』(角川ソフィア文庫)の中で、洞窟の光景と宿泊した漁村の明るい子供たちの表情を、生き生きと描いている。



〈その2 揖夜神社と黄泉つ平坂〉

 古事記によると、イザナキとともに国生みをした妹のイザナミは、火の神・カグツチを生んだことで、陰部を焼かれ命を落としてしまう。イザナキは大いに悲しんだ挙句、カグツチの首を切り落とす。そして彼は黄泉の国へと旅立ったイザナミを諦めきれず、一心不乱に彼女の後を追っていく。黄泉の国と地上世界との境界線が黄泉つ平坂(よもつひらさか)だ。古事記には「出雲の国の伊賦夜坂(いふやさか)」と書かれ、出雲風土記には「意宇郡条の伊布夜の社」とある。現在の東出雲町揖屋にある揖夜(いや)神社は、黄泉との境界に建つ社殿だ。


 神社は国道9号線と平行して走る旧街道沿いにあり、周囲には閑静な住宅街が広がっている。鳥居をくぐり石段を上ると意外と奥行きが広い。面白いのは、社殿の正面が入口の鳥居の方向(北方向)ではなく、西方向に向いていることだ。遥か西の方角には出雲大社があるが、その確かな理由は分からない。


 大社造りの本殿は小振りながら立派で、大きなしめ縄が出雲らしい風格をそえている。拝殿中央には三種の神器だろうか?ひとつの大きな丸鏡が鎮座している。この社の御祭神はイザナミ、やはり女性と鏡は切っても切り離せない関係にあるのだろう。
 黄泉の国へ旅立ったイザナミは、どんな顔立ちでどんな性格だったのだろうか?そんな素朴な疑問を持ちながらも、誰もいない周囲の静けさは、不思議なくらい心に安らぎを与えてくれる。

 イザナミを追ってきたイザナキは、黄泉の国に建つ殿の戸を開けてこう云った。
「いとしいわが妹よ、われとお前とで作った国は、いまだ作り終えていない。さあ、帰ろうではないか」
すると、イザナミは、
「、、、しばらく黄泉の国を領(うしは)く神とむずかしい話し合いをいたします。そのあいだ、どうかわたくしを見ないでくださいませ」と云った。
 しかし、イザナキがいくら待っても彼女は現れない。業を煮やした彼は、禁を犯して暗い殿の中に入ってしまった。そこで見たものは腐乱死体となったイザナミの変わり果てた姿。身体中にウジ虫が湧いていて、恐ろしくなった彼は一目散に逃げ出す。
姿を見られたイザナミは、
「われに恥をかかせおって」と云うと、すぐさま黄泉醜女(よもつしこめ)に彼を追わせ、1500もの黄泉の軍人(いくさびと)も加えて追跡させた。
 イザナキはいろいろな抵抗をしながらも、命かながら黄泉つ平坂まで辿り着いた。そしてそこに生えていた桃の実を三つ投げると、化け物たちは逃げ帰った。
 しかし最後にはイザナミ自身が追いかけてきた。そこでイザナキは千人がかりで大岩を動かし、平坂の道を封鎖して、最後の事戸(ことど)を言い渡した。
 夫婦関係を破棄すると宣言した彼は、その後筑紫の日向に降り立ち、禊(みそぎ)をすることになる。そのとき左目を洗うと生まれ出てきたのがアマテラスだ。(ちなみに右目からツクヨミ、鼻からスサノヲが生まれている。)

※この物語りの流れは、口語訳『古事記』(三浦佑之 著/文藝春秋)を基にしています。



 黄泉つ平坂(よもつひらさか)は、揖夜神社から車で10分ほどの山中にある。山道の突き当たりに小さな駐車場があり、その上に千人で引いたという大岩が見える。葦原の中つ国(地上の世界)から黄泉の国(死者の世界)への入口となる2本の石柱が建てられていて、その奥に形の違った三つの大岩がある。
 背後は鬱蒼とした樹木で囲まれているが、正直、黄泉への入口だと主張する神秘性はない。心霊スポットのような謎めいた雰囲気かと想像していたが、拍子抜けだった。化け物たちを追いかえし、イザナミの死を宣言した結界の場所なのだから、せめて天を分けるほどの巨大な岩であって欲しかった。
 ともかくイザナミは黄泉津大神(よもつおおかみ)となって、黄泉の世界を支配する神となり、二度と地上の世界に戻ってくることはなかった。



〈その3 比婆山久米神社〉

 イザナミが眠る伝承地は出雲にはたくさんあり、そのひとつが比婆山(ひばやま)久米神社だ。安来市(やすぎし) から県道9号線を20分南下、伯太川沿いのほとりにひっそりと建っている。背後に標高320mの比婆山があって、山全体が御神陵になっている。訪れる人は少ないらしく、かなりマニアックな神社だ。橋を歩いて渡りながらのせせらぎが、耳に涼しい。


 石段を上がり拝殿に向かう。国生みの神・イザナミが眠る神社だけあって、安産と子授けにご利益があるようだ。質素な拝殿には真新しい上敷きが敷かれている。
 ここで話は脇にそれるが、敷かれている敷物は本イ草ではなくビニール製の上敷きだ。畳職人の私から見て、何故イ草のものにしなかったのだろう?と思う。ビニール製のものは青さこそ長期間保つものの、経年とともに汚れが目立ちまだら模様になってくる。それに反してイ草のものは全体が適度に飴色に変化していく。コストの面もあるだろうが、こういった神聖な場所だからこそ、イ草の持つ自然な色合いや清浄力を採用すべきではないだろうか!


 拝殿奥の本殿は、小規模ながら大屋根を被せた神明(しんめい)造り。出雲の神社はどんなに小さくても手抜きがなく、風格と重量感を兼ね備えている。そしてどこの境内でも掃除が行き届き、神の居ます場所として清浄が徹底している。
 


 この社殿のなかでイザナミが眠っているとか思うと、彼女が身近な存在となって迫ってくる。イザナキと国生みをする際、先に彼女の方から声をかけたり、あるいは禁を犯したイザナキを鬼の形相で追いかけたりと、少々気の強い男勝りの女性であったかもしれない。また「両の手を四たびも折り数えるほど」の四十神を生んだ子沢山の女性でもあった。
 そんな活発な彼女がもう二度と黄泉の国から帰って来られないと想うと、晩秋のような悲哀と寂寥が胸にせまってくる。この久米神社にはそんな淋しい空気が漂っている。時刻はもう4時、陽の光は黒い山影の向こうに移っている。

 帰途、安来市付近からよく見える伯耆大山。イザナキもイザナミも見たであろうその雄姿が、初秋の田畑の向こうに見えていた。