司馬先生は『坂の上の雲』を書き終えたとき、「私は寒村の駅長に過ぎず、つぎつぎに通りすぎてゆく列車たちを送ったり、車掌から物をうけとったり、列車の番号と通過時刻を書類に書き込んだりする役目にすぎなかった」と語っている。また『龍馬がゆく』とこの作品だけは、数万人以上とつき合った感があるとも告白している。
確かに登場人物は多い。三国志並みの多くの人間が次々と現れては去っていく。彼らを通過する列車にたとえ、ひとり残された駅長の心情がひしひしと伝わってくる。それは高く苦しい山の頂きにやっと立てた達成感というよりも、どうしても立たなければならないという天命からの開放感かもしれない。
この作品は昭和43年4月からサンケイ新聞夕刊に5年半連載されたが、資料集めとその読み込みで、4年以上の準備期間が必要なほど濃厚な作品だ。先生の40代の10年間は、ほぼこの作品に費やされたと云ってもいいだろう。土佐の一脱藩浪士にすぎなかった龍馬を世に広めたように、この作品は国家、国民のために壮絶な戦いに挑んだ秋山兄弟と、病床から俳句や短歌に新しい命を吹き込んだ正岡子規の姿を見事に描ききっている。
〈その1 坂の上の雲ミュージアム〉
「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の秋山真之の電文は今も有名だ。
ロシアバルチック艦隊を発見し、日本連合艦隊出動の意を本国に伝えた打電だが、単に天気と海上の様子を伝えたものではない。晴れて視界良好であれば砲撃の命中率が上がり、撃滅の可能性大であることを表現している。そして敵味方の艦が波で動揺すれば、砲術能力の高い日本側に有利なことも示唆している。
新緑の松山城を見上げるような立地のミュージアムは、日本を代表する安藤忠雄氏の設計だ。建物は西側の壁面がガラス張りになっていて、平面状では三角形の形をしている。その三角形の辺を周遊しながら階を上がっていく構造はやはり斬新だ。陽光の採り方も面白い。
常設展示と合わせて「明治・秋山真之」の企画展をやっている。
真之は明治元年の生まれで、兄の好古とは10歳の歳の差だ。当初はひとつ年上の正岡子規とともに文学を目指したが、兄の強い勧めで海軍兵学校に入っている。その後米英留学を経験し、日露戦争では東郷平八郎司令長官のもとで、作戦参謀主任として大活躍している。
天才鬼才と云われた真之の戦術は、日本海海戦で見事に開花している。俗に「東郷ターン」と云われる「T字戦法」や「七段構え」の攻撃戦法は、すべて真之が考案したものだ。
真之の戦法の特徴は、敵を全滅させる殺敵主義ではなく、極力殺戮することのない屈敵主義だと司馬先生は説明する。それは敵の戦意がなくなるまでは攻撃するが、命まではとらないということなのだろう。
まずは「T字戦法」という敵前大会頭。
平成21年から足かけ3年かけて放映されたNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」。渡哲也演じる東郷司令長官が、右手を上げ左に振り下ろすシーンが印象的だ。双方の艦隊が東西から接近し、距離8千mを切った所で東郷艦隊は取り舵(左方向)一杯をとった。
旗艦三笠は巨大な船体を右に傾けながら白波をきって突き進む。後続の戦艦も次々と取り舵をとり、バルチック艦隊の進路を阻むような陣形になる。「T字」というよりも「イ字」が正確かもしれない。しかしこの戦法は敵艦隊に横腹を見せることになり、敵のバ艦隊には絶好のチャンスだ。東郷艦隊が会頭している15分間は、静止目標を撃つようにたやすい。
バ艦隊は即刻砲撃を開始した。三笠や後続する戦艦にはおびただしい砲弾が命中したが、作戦に影響するほどの被害はなかった。東郷艦隊は会頭を終えるとただちに反撃に出た。目標は2列でやってくる先頭の二艦だ。東郷艦隊主力12隻の砲撃はその2隻に集中した。このときが日露海戦最大のクライマックスだ。
この集中攻撃の戦法は、戦国時代以前に書かれた能島流水軍の兵法書から生まれた。「沈めなくとも、舵取りを射よ」というくだりがヒントになったという。
双方の砲撃は硝煙濛々として、天空を暗くし、その轟音は戦闘海域の沖ノ島西方から博多湾まで響き渡ったと云う。
NHK制作の「坂の上の雲」はよくできたドラマだ。豪華キャストに加え、CGとは思われないほどのリアルさで海戦シーンを映像化している。
激闘の海戦はわずか30分で終わった。日本艦隊の快勝だった。勝因は東郷艦隊の正確な射撃能力と「下瀬火薬」という新火薬を使った砲弾だった。これは着弾すると3千度の熱を発して大爆発を起こす。そのため甲板は可燃性のものがなくても灼熱の炎に包まれる。戦艦を沈めるといった貫通力は持ってないが、太平洋戦争末期の空襲に使った焼夷弾みたいなものだろう。
ともかくロジェストウィンスキー司令長官率いるバルチック艦隊は、燃えるに任せ、艦列は乱れに乱れた。
そしてもう一つの「七段構え」という全滅作戦。
真之は海戦となる海域を七段に区分し、昼間は主力艦隊が全力をあげて攻撃し、夜間は駆逐艦や水雷艇で魚雷攻撃する戦法だ。東郷艦隊に出されている司令はバルチック艦隊の全滅だ。一隻たりともウラジオストックに入港させてはならない。
昼夜を問わない追跡と攻撃で、バ艦隊のほとんどは撃沈されたり航行不能になったり、あるいは投降して屈服したりしている。総数50隻の大船団・バルチック艦隊のうち、傾きながらもなんとかウラジオストックに逃げ込んだのは、わずか2隻の小さな巡洋艦だけだった。
様々な事態を想定し、綿密で合理的な作戦計画で挑んだ日本海海戦。その計画案すべてが真之の頭脳から編み出され、その実行部隊が東郷平八郎率いる日本連合艦隊だったのだ。
ミュージアムに展示されている真之の数々の文書は実に細かく丁寧だ。また子規とともに文学を目指していただけに文章は完結明瞭だ。
「本日天気清朗ナレドモ波高シ」はどこか俳句や短歌のような調子がある。晴れ渡った初夏の海上で、決戦に挑む乗組員の士気の高まりや心の高揚。そんな晴々とした明治の若い戦士の躍動感が伝わってくるようだ。
〈その2 秋山兄弟生誕地〉
路面電車の走る大通りからロープウェイ街にはいる。路面はレンガ色のタイルで舗装され、両側には小綺麗なショップが建ち並び、雰囲気のいいアベニューだ。二つ目の角を右に曲がり、100m程行った所に生誕地はあった。
左側の建物は常盤会の柔道場。常磐会というのは、明治16年に旧藩主久松家の資金で創設された青少年育英団体だ。大正末には好古が会長を務めたこともある。
建物前には好古と真之の銅像が凛とした姿で建っている。
実際の生家は昭和20年の空襲で焼失し、今ある家屋は平成になって再建されたものだ。昭和初期に撮影された古写真をもとに、秋山家子孫の記憶を辿りながら、原形に近い形で復元されたらしい。
兄の好古は安政6年(1859)の生まれで、秋山家はわずか10石取りの貧しい下級武士の家だった。当初は教職についたが、すぐ陸軍士官学校に入学した。卒業後は参謀将校になり、5年間の仏留学を経験している。好古が軍人の道を進んだのは、授業料がなく、公費で生活ができ、いち早く独立できることが最大の理由だった。
好古は「日本騎兵隊の父」と呼ばれる人物。フランスで騎兵のノウハウを学び、日本陸軍に本格的な奇兵隊を創設した。奇兵隊は偵察、斥候や味方の援護が本来の役割だ。しかし当時最強と云われたコサック騎兵と真正面から戦えば勝ち目はないと、好古自身痛感していた。そのため秋山支隊は、歩兵連隊と砲兵、工兵の各一個中隊を組み入れ満州を北進した。
日本最大の危機とされた「黒溝台の戦い」では、秋山支隊は手薄な最左翼でよく持ちこたえた。そのとき絶大な効果を発揮したのが機関銃だ。この火力が日本騎兵の弱点を補填したわけだが、好古のこの発想は本来の騎兵の戦い方でないにもかかわらず、「勝てなくても負けない」という徹底した合理主義だと、司馬先生は指摘する。
日露戦争は奉天(今の瀋陽)の会戦で一応の終結をみる。その後は外交による講和になるのだが、満州の一連の戦いで、日本軍は5万人以上、ロシア軍は9万人以上の死傷者を出している。勝ったとはいえ辛勝だったのは間違いない。
そして好古は生涯通じて真摯な教育者だった。大正13年(1924)、陸軍大将という輝かしい地位で退職してからは、とっとと故郷の松山に戻り、私立北豫中学の校長として後進の育成に力を注いだ。それは当時明治の人たちを驚かし、入学者の希望が殺到したという。
福沢諭吉を心から尊敬していたことからも分かるように、子供たちは皆慶応で学ばせ軍人にはしていない。彼が軍人になったのは生活のためであり、なった以上は敵を倒すだけが職務という完結明瞭な人生だった。
大酒飲みで喫煙家、戦闘の最中でも酒の入った水筒を高々とあおり、取り乱すことなく正確に隊を指揮した。明治の豪放磊落な英雄そのままの姿だった。昭和5年、好古は72年の生涯を閉じている。
生家の間取りは到ってシンプルだ。平屋の真四角な建物内は、四つの疊の間があって、他には入口土間と小さな台所しかない。陸軍大将まで昇りつめ、中学校校長となった職歴にしては質素な生活のようだった。
「人間は貧乏がええよ。人間は苦労せんと出来上がらんのじゃ。苦しみを楽しみにする心掛けが大切じゃ」と生徒たちに教えていたように、好古は身をもって実行していたのだろう。彼は酒さえあれば、住居などは寝食さえできればよかったのかもしれない。
〈その3 子規記念博物館〉
路面電車の走る街は何となく活気と風情がある。道路の上を複雑に交差する架線や道を分ける鉄路は、昭和の面影と賑わいを連想させる。
私の住む善通寺にも路面電車は走っていたが、小学5年生のときに廃線となった。チンチンと鳴らしながら走る電車の光景は、私にとって遠くて懐かしい記憶の映像なのだ。
そんな路面電車の終点・道後温泉駅の手前を右折した所に博物館はあった。
正岡子規というと、私は若くして亡くなった俳人、漱石の親友、そして野球を広めた文化人程度の知識しか持ち合わせていなかった。先生の『坂の上の雲』は、病と闘いながらも俳句、短歌などを近代文化として確立していった、子規の壮絶な生涯を見事に描いている。
子規は叔父の友人を頼りに上京し、その後帝国大学に入るが、22歳のとき初めて肺結核で喀血する。それでも元気なうちは新聞社勤務に精を出し、従軍記者として支那にまで渡っている。帰国途中で大量の喀血があり、療養のため一時松山に帰郷している。
ちょうどその時、帝大からの親友だった漱石が松山中学に赴任していて、押しかけるように漱石の借家にもぐりこんだ。その借家が愚陀仏庵(ぐだぶつあん)だ。子規が名付けた庵号で、愚陀仏とは漱石の別号だ。
博物館の3階にはその住居の部屋が復元されている。
子規が1階に入り、漱石が2階に上がった。子規が階下に住むことで、句をする大勢の門下生が毎日来るようになった。漱石はそんな騒しい状態に閉口しながらも、子規の影響を強く受け、本格的に俳句を創るようになった。漱石は一句ひねった。
『愚陀仏は主人の名なり冬籠(ふゆごもり)』
長い同居期間ではなかったが、子規も漱石も28歳の青春だった。
そして上京途中、子規を襲ったのが脊椎カリエスの症状だ。結核菌が脊椎を犯すもので、子規は亡くなるまでこの病気と闘うことになる。しかし途中、痛みに堪えながらも大阪や奈良を見物している。このときひねった句が有名だ。
『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』
子規は東京の根岸に帰ると本格的に療養生活に入った。妹お律の献身的な介護を受けながら、彼の寝る六畳一間の部屋は、いつしか子規庵と呼ばれるようになった。小庭に面した南向きの部屋からは様々な季節の草木が見え、その小さな自然を通して、亡くなる7年間の闘病性格が子規の本格的な文学活動になっていく。
彼は俳句や短歌を創りながらその歴史や系譜を整理した。俳句論や短歌論を書き、古今集より万葉集を、芭蕉より蕪村を大きく評価した。
「俳句は詠みあげられたとき決定的に情景が出て来ねばならず、つまり絵画的でなければならず、さらにいうならば写生でなければならぬ」と子規は言う。つまりは「俳句は写生である」ということを最も主張した。
一方、散文においても日本語の主語、目的語、述語の基本形を創ったとも云われている。
司馬先生は次のように説明する。「短歌は平安・鎌倉で絶頂期を迎え、俳句は芭蕉・蕪村の時代に絶頂期を迎え、日本語文章は最も遅れ、昭和30年代後半に完成した」。さらに「子規や漱石が文章日本語の基礎を創りあげて、その共通化に70~80年を要した」と。
子規が亡くなったのは、明治35年9月19日午前1時頃だった。母のお八重と妹のお律、そして師弟の高浜虚子に看取られての最期だった。
その夜は十七夜の月が出ていて、夜とは思われないような明るさだった。虚子はこのとき思わず即興で口ずさんだ。
『子規逝くや十七夜の月明に』
〈その4 三津浜港とターナー島〉
江戸時代、城下町松山の外港として栄えた三津浜。その歴史は古い。663年の飛鳥時代、中大兄皇子(後の天智天皇)が、百済救済のため朝鮮出兵した白村江の戦い。そのとき同行した宮廷歌人・額田女王(ぬかたのおおきみ)が、出陣の心情をこう詠った。
『熱田津(にきたづ)に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は桙(こ)ぎ出でな』
この熱田津は三津浜だとする説が有力だ。
今は数社のフェリーが発着する、無味乾燥なコンクリート岸壁のどこにでもある埠頭だ。秋山兄弟そして子規や漱石の明治時代は、砂浜の続く海岸で、簡素な桟橋があるだけだった。沖合いの定期船に乗船や下船するには、浜から小さな伝馬船が往来した。
ミュージアムにはその頃の古写真が展示されている。沖合いに浮かぶ島影だけが、当時と変わらない風景を見せている。
県道19号線を北上し高浜を目指す。並走するのは伊予鉄高浜線。明治21年に四国初の鉄道として開業した伊予鉄道、当初は三津駅までだったが、同25年に延長され高浜駅が終着駅になった。高浜へ向かう海岸線は、小さなコブのように海に突き出していて、そのコブの沖合い150mにターナー島があるらしい。
道は迷いに迷った。まず県道から海岸線に入る道が分からない。それらしき道を進んでも、海岸側に民家が建ち並びターナー島が一向に見えない。とうとう高浜駅まで行ってしまい、また引き返しては海岸に出る道を探した。
スピードを落とし慎重に探すと、細長いスレート吹きの工場らしき横に小径があった。案内看板は一枚もない。徒歩で細い道を入ると小さな祠があり、その向こうに小さなターナー島が見えている。まるで暖簾の掛かっていないうどん屋を探すようだった。
『「あの松を見給え、幹が真直ぐで、上が傘の様に開いてターナーの畫にありさうだね」と赤シャツが野だに云ふと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。』 小説『坊ちゃん』より
坊ちゃんは赤シャツと野だいこに誘われて釣りにやって来た。伝馬船をチャーターして、船上からこの島を見たようだ。でも島と云っても岩礁にしか見えない。
ターナー島の正式名は四十島、なぜ四十なのか分からない。ネットで画像検索すると、漱石らが見たころの四十島の古写真が出てきた。いつ頃の撮影かは分からない。確かに松の上部は傘のように開いている。1977年、ターナー島の松はマツクイムシで全滅したらしい。その後地元有志の手で、植林が進められ現在の姿に復帰したようだ。
漱石や子規はここへ何度も遊びに来ているようだ。祠横には子規の句碑もある。
正岡子規に見習い、写生気分で一句ひねってみた。
『島洗ふ波間の船で釣り三昧』