なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

出雲散歩(3)~美保関を訪ねて(2016 12 3)

2016年12月29日 | 歴史&観光

美保湾の夫婦岩、中央に伯耆大山


〈その1 美保神社〉

 朝10時、年に一度の諸手船(もろたぶね)神事が厳かに始まった。船庫を模した造りの拝殿には、多くの人が集まり、神職さんの祝詞が響きわたる。広い拝殿は柱だけで支えられ、壁のない空間は開放感に満ちている。見上げると天井もなく梁は剥きだしだ。


 ここ美保神社は島根半島の東突端・地蔵埼の手前にある。美保湾に面した小さな漁港は、南に向けて馬蹄形にへこみ、かつては北前船の寄港地として栄えた泊まりだ。背後には急峻な山がせまり、海岸沿いには狭い土地を争うように民家が林立している。
 神社は一本の道路を挟んで港に面していて、海上安全や大漁祈願、そして商売繁盛の守護神として信仰されている。また鳴り物好きの神様としても知られ、歌謡音曲(音楽)に用いる楽器も多く奉納されている。


 祭神はオオクニヌシの第一子・事代主(コトシロヌシ)とオオクニヌシの后・美穂津姫(ミホツヒメ)の二神だ。コトシロヌシは異腹のため、ミホツヒメとは義母子の関係になる。そのため本殿は二棟に分かれていて、右側がミホツヒメ、左側がコトシロヌシの社殿になっている。二殿は「装束の間」でつながれていて、「美保造り」と呼ばれる珍しい造りだ。ちなみに二つの本殿を前後に配置した造りを「八幡造り」と云う。こちらは八幡信仰の神社に多く見られるが、本殿を左右に配置した美保神社の造りはここだけのものらしい。


 古事記によると、タケミカヅチに国譲りを迫られたオオクニヌシは、二人の息子に意見を聞いている。そのひとりがコトシロヌシで、もうひとりがタケミナカタだ。コトシロヌシは従順でおとなしい性格だったらしく、あっさりと父の国譲りを受諾している。一方、タケミナカタは力勝負で抵抗するものの結果は惨敗。信濃の諏訪湖まで逃げ、結局降伏することになる。そのため彼は諏訪神社の祭神として祀られることになる。
 オオクニヌシが国譲りを迫られていたとき、コトシロヌシは美保の岬で「鳥遊び」や「魚取り」を楽しんでいた。タケミカヅチはアメノトリフネという神を美保に派遣するとともに、コトシロヌシを連れ戻し、改めて意向を尋ねたところ彼は快諾した。しかし、わずかながらの抵抗の態度は見せたようだ。
『すぐさま乗ってきた船を足で踏みつけてひっくり返しての、青柴垣(あおふしがき)に向こうて逆手(さかて)をポンとひとつ打ったかと思うと、みずから覆(かえ)した船の中に隠れてしもうたのじゃった。』(口語訳『古事記』)

 この美保神社には、大きな神事が年に二回ある。4月7日の青柴垣神事と12月3日の諸手船神事で、どちらも記紀に書かれた神話をもとにした祭事だ。前者は使者アメノトリフネが遣わされたことを因んだもので、後者はコトシロヌシが船の中に身を隠し、再び神となって甦る様子を再現したものだ。

 拝殿では神職さんの長い祝詞のあと、赤と白の装束をまとった巫女さんが、笛と太鼓に合わせ舞いをくりひろげる。右手に鈴、左手に榊を持って踊る姿は、厳粛にして愛らしい。歳は10代だろうか?いや20代だろうか?無表情な白化粧の奥から、かわいらしい精気がひしひしと伝わってくる。


 長時間の神事がどのような式次第ですすんでいるのか分からない。このあとの氏子さんたちによる、諸手船の漕ぎ出しというメインイベントには、まだかなり時間があるようだ。


〈その2 街並み探索〉

 神社前はきれいに掃き清められ、祭りの幟は風ではためき、屋台のたこやき屋が香ばしい匂いを漂わせている。港には飾りつけの終わった二艘の諸手船がつながれ、祭りは準備万端のようだ。


 鳥居横から「青石畳通り」にはいる。古い家並みと石畳は江戸期につくられたもので、かつての北前船の寄港地として賑わった通りだ。道幅は狭いが、所々に残る宿屋造りの民家が江戸の風情を伝えている。
 港に上陸した船頭たちは、まずは美保神社に参拝し、夜はこの通りで宿をとったのだろう。ここには廻船問屋、交易所、そして遊郭などがあって、危険で長い船旅から解放された海の男たちの闊歩する姿が目にうかぶようだ。



 通りにある小さな資料館で貮千両箱に目がとまった。松平藩が交易所に持ち込んだもので、現在の時価で約3億円。この箱が10箱あったというから30億円にもなる。当時の状況を表わした史料には、『出船入船千艘、港内は帆柱林立し船問屋は四十数軒を数え、取引高は五万両となり、船人達は柳眉細腰の美人に迎へられ絃歌は昼夜を別たず情緒綿綿、縞の財布が空となるを知らざるき』とあり、日本海の海運流通で美保関がいかに繁盛したかが分かる。
 空にならない財布など、一度は持ってみたいものだ。



 通りの中ほどには密教系の仏国寺がある。ここには平安期の出雲を代表する仏像「木造薬師如来像」が安置されている。他に四体の菩薩像もあり、いずれも国の重要文化財になっているらしい。
 それらの仏像を拝観料を払って見ようかとも思ったが、もっと面白い地蔵様があった。寺門入ってすぐ横には小さなお堂があり、「吉三地蔵」が鎮座している。


 案内板によると、吉三とは八百屋お七の恋人。その彼が元文2年(1737)にこの寺で亡くなっている。
 お七は吉三逢いたさに自宅に放火し、その罪のため鈴ヶ森で火刑になっている。それを知った吉三は、お七の冥福を祈るため出家し、江戸から西国の地を放浪。各地の寺にお七の遺品を奉納しながら、最後にはこの寺にたどり着いたと云う。さまようこと54年、当時としては70歳の天寿を全うしている。
 事件があったのは二人とも十代半ば、若さゆえの異常な純愛に溺れたのだろう。お七をうしなった吉三は、生涯彼女の面影を胸に秘め、半世紀以上、悔恨と自責の念に苛まれたに違いない。いっそのことお七のあとを追ってみようか、いやそんなことはできない。お七がそんなことを許してくれるはずがない。きっと「私の分まで生きて」と言ってるはずだ。しかしお七があまりに不憫でならない。では、この胸の痛みをどうはらせばいいのだ!吉三は心の奥にトゲが刺さったまま、あてもなく彷徨い歩いたことだろう。
 なんと儚くも美しい一生だろうか!ようやく70歳になった吉三を、薬師如来さまがきっと楽にさせてあげたに違いない。

 出雲をこよなく愛した小泉八雲ことラフカディオ・ハーン、この美保関には三回ほど訪れている。いずれもセツ夫人同伴で、「島屋」がよほど気に入ったのか、三回ともこの宿に宿泊している。神社とは反対の東のはずれにあり、その敷地跡には石碑が建っている。
 


 彼の著書・新編『日本の面影Ⅱ』によると、彼は松江から蒸気船で上陸している。漁村の風景、神社の印象、そして海の男たちの様子を詳細に記していて、明治初期の繁昌した美保関を鮮やかに描いている。
 ひとつの興味深いエピソードとして、「ニワトリを嫌ったコトシロヌシの地では、本当に鶏肉鶏卵を食べないのか?」という疑問だ。彼は意地悪と知りながら、宿の給仕の娘さんに「あのね、卵はありませんか?」とあえて質問している。その答えは「へえ、あひるの卵が少々ございます」。
 私もこの疑問をあえて神職さんにぶつけてみた。その答えは「今は生活が多様化してますから、そんなことはありませんね。ただ、神事に参加する氏子さんは期間中食べませんよ」。日本のどこかの村でウナギを食べない慣習があることを記憶しているが、現代の美保関では神事の儀礼のみに限定されているようだ。ともかくよかった。朝の卵かけごはんほど美味しいものはない。

 古い家並みの続く路地を、ハッピを着た子供たちが、祭りの歌を歌いながら行進していく。観光客も自由に参加できるらしい。どこの町の祭りも少子高齢化は進んでいるようだ。


 町の東のはずれに小さな客人社がある。数十段の石段を登った所にあり、コトシロヌシの父オオクニヌシを祀った社だ。小さな社殿の前では、見物客に見守られながら、厳かに奉納神事が行われている。神職さんの立ち振る舞いは真剣そのもの、町民総出の祭りは徐々に盛り上がりを見せている。



〈その3 五本松公園〉

 神社の背後にある山に登ってみた。遊歩道は稜線上に港を取り巻くようにつけられている。標高120m前後から眺める美保湾は絶景だ。海は小春日和の陽光で青さを増し、眼下には静かな漁港がはり出し、遠くには裾野を長く広げた大山が蜃気楼のようにかすんでいる。


 山頂公園には文字通り「関の五本松」がある。しかしあると云っても、今は原木の切り株しかない。かつては港を出入りする船の目標にされた5本のクロマツ。伊勢湾台風(1958)までは5本のうち4本までは現存していたが、その後の台風被害ですべて倒木したらしい。樹高は最大のもので25mもあり、樹齢はすべて350年以上の松だったらしい。
 無くなった最初の一本目には、江戸期の領主が神社参拝に際し、通行の妨げになるとして伐採したという説がある。そのため、それを嘆いた土地の人々が「関の五本松節」という歌まで作った。海の男たちにとって、五本松はなくてはならない目標であり、海を守る御神木であったのかもしれない。


 平和記念塔のそびえる頂上公園は、境港から美保湾の出口まで一望できる展望台になっている。そしてその広場から岬方向へ少し下った所に「御穂社」がある。地名の由来となった御穂須須美命(ミホススミ)を祀った社だが、なぜこんな山上にあるのだろう?
 出雲風土記によるとミホススミはオオクニヌシの娘なのだから、美保神社に祀られてよさそうなものだがそうではない。神社に祀られる女神はオオクニヌシの后・ミホツヒメだ。二人の名前もよく似ていて、ひょっとして同一人物なのかもしれない。記紀や風土記、神々の表記方法はそれぞれ違っていて、研究者の悩ましいところだ。
 それにしても「美保」や「美穂」、なんと可愛らしく響きのよい名前だろうか!
 


 遊歩道はアップダウンが多いが、気持ちの良い稜線歩きだ。岬との分岐点を右に下ると、また吉三の眠る仏国寺に下りてきた。
 乾いたノドに「しょうゆアイス」。ほんのりと甘い舌触りに、和のテイストがたまらない。



〈その4 諸手船神事〉

 午後3時前、メインイベントの神事が始まった。コトシロヌシが父のオオクニヌシから、国譲りの相談を受ける様子を儀礼化したものが諸手船(もろたぶね)神事だ。この祭りは一体どれくらい続いているのだろうか?神社の境内からは、4世紀頃と思われる奉納された勾玉(まがたま)などが出土している。おそらく、少なくとも1700年以上の歴史をもっているのだろう。

 拝殿には数人の神職さんと裃姿の氏子さんたちが着座している。また神官の祝詞と巫女さんの舞いがあり、いよいよ船の漕ぎ手をくじで決める儀式になった。一艘の乗り手は9名、二艘で18名の乗り手が選ばれる。神官が名前を読み上げるたびにどっと喚声が上がり、くじに当った氏子さんは一人ずつ拝殿を走り出て行く。拝殿内はまるでビンゴゲームでもしているような熱気と興奮に包まれている。神社前はたくさんの人であふれ、走り抜ける氏子さんたちに熱い声援が送られている。


 港の岸壁は見物客で溢れ、あちこちでカメラのレンズが光る。地元放送局も中継取材をしているようだ。
 そして二艘の諸手船が掛け声とともに勇壮に漕ぎ出す。岸壁からはどっと歓声があがる。「○○ちゃん~、△△ちゃん~」の声も聞こえ、友人や家族の者が乗っているのだろう。格式高い伝統行事とはいえ、あたり一面はアットホームな空気で包まれている。


 船は「くり抜き主材(おもき)造り」という特殊な構造だ。丸太船のように大木をくり抜き、外側に板が張り付けられていて、一般的な漁船とは大きく違っている。船腹は黒く塗られ、描かれた絵模様が格式を上げている。。
 両サイドに四人ずつの漕ぎ手、船尾には一人のかじ手。最初は勢いよく海に漕ぎ出したものの、すぐ疲れてしまうのか、船は何度も止まってしまう。そして気を取り直したかと思うと、また動き出す。おまけにかじ手の操る櫂(かい)は、船腹に荒縄で縛っただけのもので、操船は難しいようだ。競争する二艘の船は、港の東にある客人社を目指している。コトシロヌシが父のオオクニヌシの所へ帰る場面を再現しているのだろう。しかしまともに一直線には進まない。疲れと難しいかじ取りで船は迷走している。


 そして客人社前あたりで船の上から拝礼すると、また何度も休みながら、二艘の船は漕ぎ戻ってくる。漕ぎ疲れたのか、乗り手の顔には疲労が隠せない。最後は子供のように水をかけ合い、水上の神事は終了する。

 
 今日は本当に暖かくてよかったと思う。例年12月3日といえば、寒風吹きすさぶ日もあるだろう。ましてや厳しい日本海の荒海だ。そんな年は過酷で危険な神事になるのは間違いない。海の神に豊漁祈願するのも試練と鍛錬が必要だ。
 初めて見物した諸手船神事、厳かな中にもちょっとユーモラスな光景があって、古事記のファンタジーな一場面を見る思いがした。


〈その5 地蔵埼〉

 美保関から車でわずか5分、県道2号の突きあたりが地蔵埼。天気予報では必ず耳にする岬だ。広い駐車場からは白い美保関灯台が見える。
 これは山陰地方最古の石造り灯台で、フランス人技師の設計で明治31年に造られている。ただ施工は地元の石工・寺本常太郎の手によるもので、連綿と続いた石垣普請の技術が形をかえて生かされている。


 灯台の周囲は与謝野鉄幹・晶子の歌碑などが建つ公園になっている。朝鮮半島まで見渡せそうな群青の海原が広がり、漁を終えた漁船が猛スピードで帰港しようとしている。遠いエンジン音と白い船跡が慌ただしさを強調しているようだ。


 灯台北側の展望所には「美保関のかなたへ」という慰霊碑がある。昭和2年8月24日夜、「海の八甲田事件」と呼ばれる大日本帝国海軍による多重衝突事故が起こっている。この岬から北東32キロ付近で、夜間の無灯火演習中に起こった海難事故だ。
 多数の巡洋艦や駆逐艦の参加する演習は、おりしも近づく台風の影響で、強い風雨と高波の悪条件下で行われていた。時速52キロの全速で、おまけに無灯火での訓練は、起こるべくして起こった海難事故かもしれない。
 はじめに駆逐艦「蕨(わらび)」(850トン)に、巡洋艦「神通(じんつう)」(5595トン)が衝突し、蕨は沈没。その1分後には駆逐艦「葦(あし)」に、巡洋艦「那珂(なか)」が衝突して、葦が沈没した。帝国海軍史上最大の海難事故になった。犠牲者は119名、入念な捜索活動にもかかわらず収容された遺体は数体のみだった。現在でも130mの海底には多くの船兵が眠っているという。
船首が大破した神通

 しかし大日本帝国海軍はこの大事件を隠蔽し続けた。そして半世紀を経た1978年になって、蕨の五十嵐艦長のご子息が事故の詳細を調査し、それを一書に書き表した。それまでは事故の全容は分からず、いつしか事件そのものも忘れさられていたようだ。
 ワシントン条約(1921)で主力艦艇の保有を制限された帝国海軍は、戦力の劣勢を補うため猛訓練に励んだ。しかし悪天候の徹夜の無灯火演習は、やはり無謀だったかもしれない。こういう事件を知ると身を切られる思いがする。今日の日本があるのも、こうした犠牲者の上に成り立っている事を忘れてはならないだろう。

 
 岬の突端には雄大な日の出が拝めるという鳥居が建っている。鳥居中央から望める二つの岩礁は、遠い方を「沖の御前」と云い、近い方を「地の御前」と云う。ともにコトシロヌシの魚釣り場であったことから、この岬全体が美保神社の境内になっているらしい。そのため毎年5月5日には、これらの島から御神霊を迎える「神迎(かみむかえ)神事」が行われているようだ。


 出雲風土記には「国引き神話」という壮大な国土創世神話が書かれている。記紀には一切記述のない風土記独自のもので、出雲国の成り立ちを知るうえで重要な神話となっている。
 まず狭い国土を広くしようと考えたのが、ヤツカミズオミズヌ(八束水臣津野)という神様だ。海の向こうに余った土地を引き寄せて、出雲の国を広げようとした彼は、現在の島根半島を4回に分けて引き寄せている。半島を縦にほぼ4等分、西から東に向かって順番に行われている。引き寄せられた土地は、朝鮮半島や隠岐そして北陸地方のもので、国引き神話はそれらの地域との交流を証明するものだ。
 最後の4番目に引き寄せられた土地がこの「美穂の埼(みほのさき)」で、現在の能登半島先端の土地が引き寄せられたことになっている。これはオオクニヌシが「高志国(こしのくに)」(現在の北陸地方)のヌナカワヒメ(沼河比売)と結婚したことを裏付けている。そして二人の間に生まれた娘がミホススミ(御穂須須美)で、この地名の由来になっている。
 国引き神話は弥生時代からの両地域の交流を示すものだ。出雲の四隅突出型墳丘墓が北陸に伝播したり、反対に、出雲大社から出土した勾玉(まがたま)の材料が、新潟姫川産のヒスイだったりする。ヌナカワヒメの「沼」はヒスイを意味するらしい。またヒスイの採れた川を「姫川」と呼ぶのも、後年の人たちのアイデアではないだろうか?

 神代から近代まで様々な歴史が残る地蔵埼。そこから見渡す大海原は、どんな負の歴史ものみこんでしまう許容と神秘を秘めている。群青に染まる海の色や岩礁を洗う白い波、そして岬を蔽うなんでもない木々の形さえも、なぜか神々しく見えてくる。神々と自然の絶妙な調和、その調和をファンタジーな世界で語る古事記や風土記は、最高の古典文学かもしれない。