なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

槍ヶ岳 (2014 9 24~26)

2014年09月28日 | 登山
〈その1 夜明け〉




〈その2 頂上から〉

槍ヶ岳山荘
三角の山影
南方向の穂高連峰
中央最奥に富士山の雄姿
どや顔の私


〈その3 検証アルプス一万尺〉

 『アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを さぁ 踊りましょ』で始まるこの曲、29番まであるとは知らなかった。原曲は「ヤンキードゥードゥル」というアメリカ民謡、詩は作者不明、とにかくここで強調しておきたいのは「小槍の上でアルペン踊り」は絶対やめた方がよいということである。
画像はWikipediaより

 写真のように小槍は、山頂の北側で突き出した岩の突起。誰もが簡単に登れる岩ではない。ロッククライミングの技術を持った上級者しか立つことはできない。ましてや狭い場所でアルペン踊りなどできるわけがなく、例えできたとしてもきっと楽しいものではなく、ちょっと間違えば滑落につながり、まず命はない。

 一万尺は約3030m(1尺は30.3cm)、槍ヶ岳頂上は標高3180mだから、小槍あたりはちょうど一万尺前後の標高だ。アルペン踊りの場所が槍頂上ではなく小槍の上で、というのはこの数字の裏付けで納得はいくものの、なぜ踊らなければならないのかの疑問は残る。ましてや「アルペン踊り」とは一体どんな踊りなのだろうか?これに答えてくれるサイトは見つからなかった。

小槍の大きさが分かりづらいが、頂上へ向かうオレンジ色の登山者と比較すると分かりやすい

 29番まである歌詞を丹念に読んでいくと、確かに登山経験豊富な者が作詞したことが分かる。京大山岳部の学生の作詞が定説になっているようだが、まず間違いないだろう。No16チンネの頭、No17剣のテラス、No22穂高のルンゼ、No23西穂のジャンダルム等、槍穂高に関わる地形がふんだんに出てくる。そして面白いのがNo25~27の「キジ撃ち」「花摘み」の隠語。槍ヶ岳の尾根が高瀬川と梓川の分水嶺であることを知っていなければ、「小キジ」が泣き別れするはずがない。結局、山男の恋は成立しなかったという見事なオチで結ばれている。


〈その4 槍ヶ岳山荘から〉

山荘へ下る

山荘から見上げる

下方に殺生ヒュッテ


〈その5 下山〉











〈その6 さあ!みんなで歌おうアルプス1万尺〉 ※Wikipediaから抜粋

1.アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを さぁ 踊りましょ
2.昨日見た夢 でっかいちいさい夢だよ のみがリュックしょって 富士登山
3.岩魚釣る子に 山路を聞けば 雲のかなたを 竿で指す
4.お花畑で 昼寝をすれば 蝶々が飛んできて キスをする
5.雪渓光るよ 雷鳥いずこに エーデルヴァイス そこかしこ
6.一万尺に テントを張れば 星のランプに 手が届く
7.キャンプサイトに カッコウ鳴いて 霧の中から 朝が来る
8.染めてやりたや あの娘の袖を お花畑の 花模様
9.蝶々でさえも 二匹でいるのに なぜに僕だけ 一人ぽち
10.トントン拍子に 話が進み キスする時に 目が覚めた
11.山のこだまは 帰ってくるけど 僕のラブレター 返ってこない
12.キャンプファイヤーで センチになって 可愛いあのこの 夢を見る
13.お花畑で 昼寝をすれば 可愛いあのこの 夢を見る
14.夢で見るよじャ ほれよが浅い ほんとに好きなら 眠られぬ
15.雲より高い この頂で お山の大将 俺一人
16.チンネの頭に ザイルをかけて パイプ吹かせば 胸が湧く
17.剣のテラスに ハンマー振れば ハーケン歌うよ 青空に
18.山は荒れても 心の中は いつも天国 夢がある
19.槍や穂高は かくれて見えぬ 見えぬあたりが 槍穂高
20.命捧げて 恋するものに 何故に冷たい 岩の肌
21.ザイル担いで 穂高の山へ 明日は男の 度胸試し
22.穂高のルンゼに ザイルを捌いて ヨーデル唄えば 雲が湧く
23.西穂に登れば 奥穂が招く まねくその手が ジャンダルム
24.槍はムコ殿 穂高はヨメご 中でリンキの 焼が岳
25.槍と穂高を 番兵において お花畑で 花を摘む
26.槍と穂高を 番兵に立てて 鹿島めがけて キジを撃つ
27.槍の頭で 小キジを撃てば 高瀬と梓と 泣き別れ
28.名残つきない 大正池 またも見返す 穂高岳
29.まめで逢いましょ また来年も 山で桜の 咲く頃に

※「キジを撃つ」「花を摘む」は登山仲間における隠語で、それぞれ野糞をすること、女性が用を足すことである。 また「小キジを撃つ」は小用を足すことであり、槍ヶ岳の尾根が高瀬川・梓川の分水嶺であることを歌っている










京都散歩(1)~光秀の足跡を訪ねてパート1 (2014 8 31)

2014年09月19日 | 歴史
<その1 亀山城>

 京都の西約20kmにある亀岡の町、ここに明智光秀の第二の居城亀山城がある。丹波平定の際この地を信長から与えられ、築城を開始したのが天正6年(1578)。本能寺の変が同10年だから、光秀がこの地を治めたのは僅か4年ということになる。変後の城主はめまぐるしく変わり、徳川の世になると藤堂高虎が普請の中心となって、1610年に近世城郭として完成させた。
 そして明治に入ると五層の天主閣は解体される。さらに大正8年(1919)には新興宗教「大本教教団」が本城を買収。大日本帝国は拡大する教団に警戒を強め二度にわたる弾圧、政府による城の破壊は昭和11年(1936)まで続き、戦後は同教団によって修復されて今日に至っている。

 司馬先生は『街道をゆく四』の中でこう書き出している。
「丹波亀岡の城は、その歴史的印象としては闇夜にうちあげられた大輪の花火を見るように華麗ではかない。初代城主が明智光秀であるというだけでなく、光秀が死んでから三百五十余年後に、もう一度むほん人を出しているのである。(略)」

 そんな教団施設「亀山城跡」に遠慮しながら入ってみた。関係者以外立入禁止と表示されているが、そう厳格な入場規制はなされていないようだ。広大な駐車場奥には教団の本館が威容を放っていて、右奥に見える城跡の森はかなり広いようだ。


 石垣が残る松林の中に入る。城内はよく整備されていて掃除も行き届いているようだ。ただ誰にも会うこともなく、砂利石を踏む音だけが響きわたり、あたりは朝の静寂で満ちている。歩いているのは私一人だけ、なんとない心細さの中で、光秀への熱い執着だけが足を動かしている。
 本丸跡の石垣まで辿り着いた。平山城だけあって石垣はそう高くなく4~5m位だろうか?戦国時代特有の自然石の平積みで、苔むした石の堆積は500年の歴史を今も語っているようだ。周囲は桜やカエデの木立ちに囲まれ、花見や紅葉の時期はさぞ気持ちの良い散歩コースになっているのだろう。


 本丸跡まで上がってみようと数段の石段を上がると、そこは立入禁止。教団の神聖な場所らしく、一歩足を踏み入れるとセンサーがはたらき、警告のアナウンスが沈黙を破る。正直びっくりした。そのためワンショットだけカメラに収めると振り返りもせず、私は逃げるように退散した。光秀への思慕の想いが一瞬のうちに、警告音ひとつでかき消されてしまった。なんとなく部外者の自分が惨めでならないような気がした。


 それにしても亀岡市民は気の毒だ。由緒ある光秀の居城は一宗教団体の管理下にある。市民の憩いの場として、自由に出入りのできる城址公園として利用できないものなのだろうか?ましてや一級の観光資源なのだから。
      城跡内にある案内図

 光秀は天正10年(1582)6月1日の夕刻、この城から本能寺に出陣している。兵は1万3千、京の西の入口「老ノ坂峠」を目指した。この時ほとんどの兵が、天下をくつがえす大変事になろうとは思ってもみなかったであろう。


<その2 本能寺>

 亀山城から老ノ坂峠まで約7km。峠は国道9号線のトンネルを抜けたあたりで交通量も多い。旧道に入り峠の道標を探せばいいのだがそんな時間はない。        

 峠を下り沓掛まで来るとやたらとラブホが多い(京都の隠れた名所か?)。そして桂川を渡り、いよいよ「敵は本能寺にあり」。

 車を御池通地下駐車場に入れる。エスカレーターを上がると通りの北側は京都市役所で、寺町商店街に入るとすぐ本能寺はあった。


 現在あるこの本能寺は、信長が自刃した本来の本能寺ではない。変後の天正19年(1591)に秀吉の命によって移築されたものだ。今は狭い伽藍と本堂だけだが、江戸末期までは広大な敷地だったらしい。

 
 併設する資料館ではちょうど信長展をやっていた。織田家の鎧兜をはじめ、刀剣、各種書状、古地図等、信長にまつわる貴重な資料が展示されている。特に目を引いたのが、信長の側近森蘭丸の背負刀だ。刀剣の長さは通常2尺3寸前後(約70㎝)だが、蘭丸のものは3尺4寸6分(約105㎝)もある。白銀に光る地金(ぢがね)は僅かに反り(そり)を見せ、刀剣のもつ美しさにより鋭さを加えている。写真撮影ができないのが本当に残念だ。

 資料館では初老の男性館員と長い時間話をする機会を得た。話題のポイントはやはりここ本能寺の変の真相だ。「光秀は何故信長を撃ったのか?」「撃たれた信長の亡骸は何故発見できなかったのか?」「撃った黒幕がいるのなら誰なのか?」と話は尽きない。彼の話で面白かったのが、光秀は山崎の戦いで敗れ、坂本へ逃げ帰る途中、落武者狩りに会い自刃したとされているが、実は南光坊天海と名を改め、家康の側近として生きのびたという説である。家康を祀る日光東照宮の近くには「明智平」という場所がある。その命名は天海だと云われ「明智光秀を忘れるな!」の訓示が隠されているという。
 彼は強調する。家康は当初から本能寺の変に深く関わり、信長を撃った光秀に対して感謝の意を表そうとしていたと。そして家康はすべての真相を知っているに違いないとも。東照宮は入るとすぐ「見ざる聞かざる言わざる」の猿の木彫に目が留まる。徳川が最終的に天下を取り太平の世を築けたのも、この3匹の猿が家康の姿勢を表現しているのだと云う。「歴史は勝者側から作られている」、改めてこの言葉を噛みしめた。


<その3 本能寺の変現場>

 天正10年(1582)の本能寺の変は、現在ある場所から徒歩30分の距離。折りからの驟雨、烏丸通りを西に横切り、七つ目の小川通りを南下した。館員に教えられた蛸薬師通りまで来ると、「本能寺址」の石碑が道の片隅にひっそり建っていた。現在、旧本能寺は堀川高校と養護老人ホームの敷地になっていて、当たり前のことだが500年前の襲撃事件など面影さえない。



 旧本能寺は、中世後期には法華経の霊場として繁栄を極め、広大な敷地に大伽藍が造営されていたらしい。特に早くから種子島との付き合いが古く、鉄砲、火薬の入手が容易いことから戦国大名との関係が深い。信長はこの本能寺を城塞のように改築し上洛中の宿舎としていた。塀を高くし外堀を設け、堅固な門構えであったという。

 そしてこの碑から200ⅿほど離れた「南蛮寺跡」にも行ってみた。こちらの碑はもっと小さく、会社ビルの右横に身を潜めるように建っていて、気をつけて探さないと見落してしまいそうだ。


 南蛮寺は、天正4年(1576)イエズス会のオルガンティーノの指揮で建てられた。当時の教会堂としては最大級の規模を誇っていたが、天正15年(1587)秀吉のバテレン追放令で破壊された。わずか11年間の布教の場であったが、その影響力は計り知れず、京への西洋文明文化の入口となっていた。信長はその利用価値を認め、あえて南蛮寺を本能寺の近くに建てさせたという説もある。
 
 作家加藤廣氏の『信長の棺』は面白い仮説をたてた歴史ミステリー小説だ。信長暗殺は秀吉黒幕説。信長は万が一のための逃走ルートとして、この本能寺と南蛮寺を地下道でつないでいた。襲撃された信長はこの地下トンネルに逃げ込んだのはいいだが、秘密ルートを察知していた秀吉の工作によって途中壁で塞がれていた。そのため信長は前にも行けず、火災のため後にも引けず窒息死してしまう。この壁の存在を事前に知った阿弥陀寺住職清玉は、すきを見て南蛮寺側から壁を壊し、信長の屍を運び去った。そのため光秀軍の執拗な探索にもかかわらず、信長の死体は発見されなかった。黒幕の秀吉側も死体の行方を清玉に迫ったが、結局阿弥陀寺内の地中深く埋葬され、発見されることはなかった。すべてが闇から闇へのミッションインポッシブルのミステリー小説だ。

 本能寺と南蛮寺のそれぞれの碑は200メートルほど離れている。今は住宅と雑居ビルの立ち並ぶ蛸薬師通り、その下を当時の土木技術は長いトンネルを掘ることが可能なのだろうか?信長の屍の行方をめぐり、面白い謎解きストーリーになっている。




<その4 阿弥陀寺>

 信長と嫡男信忠の墓があるのがここ阿弥陀寺。御所の北、小さなお寺の建ち並ぶ一角に寺はあった。この寺の創建者清玉は生前の信長と親しく、騒然とする焼跡現場から密かに遺体を持ち出しこの寺に葬ったと云う。
 
信長を葬ったとされる墓

 光秀は6月2日早朝本能寺を襲い、引き続き信忠のいた二条御所も襲撃した。そして夕方には京を発ち、居城の坂本城に向かっている。信長の遺体発見には、大多数の臣下が何日も捜索にあたり、厳重な警備のもと、ひとかけらの灰もふるいにかけられた。清玉は他の亡骸に紛れ込ませて運んだという説もあるが、そんなこと可能なのか?
 館員はこの説をシニカルに話す。「こういう話ができあがったのは、清玉から数代後の徳川時代中期の住職が古文書に勝手に書いたこと。疑わしいことこの上ない」と一刀両断。

 また旧本能寺には武器、弾薬の地下蔵があったらしい。死を覚悟した信長は「是非に及ばず」と謎の言葉を発した後、その地下蔵に入り一瞬のうちに爆死。そのため遺体は跡形もなく飛散したのだと云う。この話は京に住む人の定説らしく、やはり京都に足を運んでみなければ知り得ない話だ。
 しかし、しかしだ。数々の古文書には本能寺の消失の様子は書かれているが、「爆発の大音響と共に炎上した」と書かれた古文書は確認できていない。謎は深まる一方だ。


〈その5 総括〉

 なぜ光秀は本能寺の変を引き起こしたのだろうか?その動機は何だったのだろうか?そしてなぜ信長の遺骸は発見できなかったのだろうか?その答えは今だもってない。歴史学者や小説家があれこれと推測するだけで定説はない。歴史科学の観点からのウラが取れていない。つまり信頼できる歴史的資料には残されていないからだ。

 光秀の信長暗殺計画の動機は諸説ある。
 ①天下人になりたいという野望説
 ②怨恨や将来を悲観した心理推測説
 ③足利義昭や朝廷、そして秀吉や家康の黒幕説
 ④急な信長の四国出兵説 等
 どれもそれなりの整合性はあっても、残る歴史的資料から可能性を推測したに過ぎない。光秀自身、暗殺の動機をなんにも語っていないからだ。

 明智光秀

 天正10年(1582)本能寺ノ変のとき光秀は55歳(67歳説も)。当時人生50年と云われていたのだから、既に彼は老人の年齢域。同年域となった私が推測するには、信長の切った張ったの極道のような闘争欲には、もうついて行けなかったのではないだろうか?(またついて行きたくなかったのではないだろうか?)と、正直思う。私が支持したいのは、②の将来悲観説だ。
 彼の人生は終盤に向かい、体力気力の衰えは隠せない。当時の光秀は懸案の丹波平定に成功し、居城を坂本と亀山に持つ34万石の堂々とした戦国大名。数々の功績を上げ、秀吉と共に信長の重臣として確固たる地位を築いていた。家族も妻を病で失くしたとはいえ、4人いたとされる娘達もそれなりの安定した生活を送っていた。
 この安定と平穏を突如奪おうとしたのが、信長の四国出兵令。元来、信長と長宗我部元親とは良好な関係にあった。元親の嫡男信親の「信」は信長から与えられたほどだ。また元親の妻は光秀の重臣斎藤利三の妹でもあり、その姻戚関係をもとに同盟条約を結んでいたようなものだ。信長のこの問答無用の命令は、あいだを取り持つ光秀の面目を丸つぶしにし、おまけにライバル秀吉の中国平定にも参陣するよう命じられる。
 そんな我慢ならないときに好機は訪れた。信長が百人にも満たない配下を連れ上洛するという。無防備で裸同然の状態だ。そして北陸の柴田勝家、関東の滝川一益、中国の羽柴秀吉らは、各方面で敵と対峙する戦況で、迂闊にも反転して上洛など到底できない情勢だった。彼にとって二重三重の好機が訪れたわけで、人生最後の偉業として決断決行に踏みきったのではないだろうか?このまま信長の極悪非道なやり方を許してはならぬ、朝廷の存在をも揺るがしかねない天下取りを阻止せねばならぬ、など複合的な大義名分のもとにクーデターは実行されたのではないだろうか?

 正直、人の心の奥までは判らない。ただ人生は右か左かの決断を迫られたとき、どちらかに傾き始めるともう二度とは元に戻せない。まるで韓国セウォル号がゆっくりと傾いていくように、復元力を失った精神状態は、他の選択を寄せ付けない情況だったのではないだろうか?なぜなら光秀の暗殺計画はあまりに杜撰だ。二度と来ない好機だったとはいえ、味方となるはずだった細川父子や筒井順慶、そして幾内の有力大名への根回しが後手後手になっていて、結果往来この上ない。決断から決行まで十分な時間がなかったとは言え、その楽観的見通しは朝廷からの「錦の御旗」の大義も得らえず、一人相撲で終わっている。冷静で合理的な性格の光秀にしてはあまりに片手落ちだ。司馬先生もノイローゼ状態だったのではないかと云っているように、信長への恐怖心や自身の将来を悲観した心理状態が、発作的に行動を引き起こしたかもしれない。

 光秀に関する小説や評論を読み、今回の亀岡から京都をたどったプチ観光は充実したものになった。もし光秀が信長を撃たなかったなら、信長の野心は拡大を続け、後の歴史も大きく変わっていただろう。また光秀もここまで重要な歴史的人物になりえなかっただろう。歴史にイフはないが、一武将の決断が信長の殺戮と強奪をくい止めたのは間違いない。明智光秀の十二日間の天下、憐れという他ない。