なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

備中散歩 (1)~備中松山城・高松城を訪ねて(2015 7 20)

2015年08月07日 | 歴史
〈その1 備中松山城〉

 岡山自動車道賀陽ICを降り、R484を西進。高梁市街へと下るループに差しかかると、高梁川沿いに拓けた盆地が見えてくる。四方を山々で囲まれた高梁市は人口3万5千、JR伯備線とR180が並行して川沿いを走っている。北へ行けば中国山地を縦断し伯耆の国、南へ下れば瀬戸の水島灘、高梁市はそんな南北を結ぶ重要な中継地点だ。それにしても高梁川は、かなりの上流のはずなのに川幅は広い。豊かな水量が盆地の景観を潤している。


 登山口のある高梁高校を目指す。高梁川支流沿いの狭い道に入ると数台置けそうな駐車場があった。整備された支流の川底を見ながら城へと登る遊歩道に入る。


 梅雨明け間近のこの季節、登山道は深い森の中とは言え、数分で汗がにじんでくる。あたりはモミやツガの入り乱れる雑木の海、多くの猿も生息する山らしい。
 30分一汗かくと明るい鞴(ふいご)峠に出た。車道はここまで登って来ていて、一般観光客はここから徒歩で城郭を目指すことになる。麓とシャトルバスで結んでいるようだ。

 そして峠から15分ほどで大手門櫓跡。そこから見上げた幾段もの石垣の壁、息を呑むほどに圧倒された。急峻な崖に構築された石垣は、天然の岩盤の上に積み上げられていて、当時の石工職人の気合いと意気込みを感じる。自然と人工の見事なコラボ、身震いするほど美しい。よく見ると排水のためだろうか?天然の岩肌には縦溝が深く切り込まれている。石垣の積み方は戦国期から徳川初期にかけて進化していったが、最大の敵は雨水であったらしい。崩れにくくするための排水機能は欠かすことができない。
 そして曲輪の塁線は幾つにも屈曲し、いわゆる「屏風折れ」という防備構造になっていて、その複雑な造りが堅牢な美しさを見せつけている。敵軍がどの場所から取り付いても、上からの矢や鉄砲の餌食になるのは間違いない。



 三の丸、厩輪(うまやぐるわ)を過ぎ、城内最大の曲輪二の丸に出る。そこには門前の石段や礎石が残っていて、解放的な休憩広場になっている。高梁市街が一望でき見晴らしが素晴らしい。


 更に石段を上り入場料を払い、南御門をくぐると本丸広場。ちょっと小振りな天守は二層二階、白壁と黒板のコントラストが印象的。


 天守に接続された多門櫓が入口になっていて、内部はいたって簡素。1・2階とも城の歴史や補修工事が書かれたパネルが展示されているだけで、望楼もなく薄暗い。籠城戦を想定してか、部屋中央には大きな囲炉裏があり、また「装束の間」という隔離された小さな部屋がある。攻城され最後の自刀の部屋だと説明されている。


 重要文化財に指定されている備中松山城、この現存する天守、そして二重櫓や三の平櫓は、天和元年(1681)の江戸中期に整備されたもので、近世城郭としては比較的新しい。この天守は、臥牛山(がぎゅうやま)という文字通り牛の背のような険しい台形状の南端に位置し、そもそも山全体の歴史は古い。北から大松山、天神丸、小松山、前山という四山で構成されていて、当初大松山頂上に本丸が置かれたのは鎌倉中期。その後時代と共に城郭は南へと拡張され、現在天守のある小松山や前山へと拡がっていく。だから中世のままの縄張りの上に、近世式の建物が建てられているため、山岳の自然と城郭の人工美が美しく調和している。
 天守を支える石垣群は本当に美しい。夏の陽光を浴びた新緑に囲まれ、あたりは平和と静寂が満ちている。天守の東側を回り込むと二重櫓が屹立していて、二つの天守が親子のように寄り添っている。岩山の上に打込接(うちこみはぎ)の石が積み上げられ、白い漆喰壁が青い空に映えている。


 さらに北に進むと森は一層深くなり、山道はアップダウンを繰り返す。あたりは手足まで緑に染まるような新緑で、人影はまるでない。結局この日出合ったのは、カメラを持ったお城マニアらしき男性二人だけだった。
 天守から20分ほどで天神の丸に着いた。臥牛山の山頂(標高486m)になり、江戸時代には社殿があったが今は石段と基礎しかない。



 さらに5分、中世の備中松山城の中心だった大松山に到着した。かつての城の存在を示すものは古井戸だけで、「大松山城址」の碑がポツンと建っている。碑と案内板がなければどこにでもある里山の林、ここまでが備中松山城の全域になるらしい。



 大松山の歴史は古く城主の交代はめまぐるしい。さらに調べてみると、特に戦国期は備前の宇喜多、安芸の毛利、山陰の尼子による領国獲得のための三つ巴戦が、この大松山城を巻き込んでいく。関ケ原後は江戸幕府直轄領となり、小松山の天守等の修築と共に城下町の整備も進む。そして領主板倉勝静(かつきよ)を最後に明治維新を迎える。ちなみに勝静は幕末、老中に昇進し将軍家茂や慶喜をよく補佐し、最後の戊辰戦争では、榎本武揚らと函館五稜郭で新政府軍と徹底抗戦した人物だ。

 大松山からは早々に引き揚げる。気持ちの良いマイナスイオンの中なのに、誰もいない城跡の森はなんとなくうら寂しい。古井戸を覗いた瞬間から何となく霊気を感じる。何百年も前とはいえ攻城戦で討死した者もたくさんいただろう。そんな事が脳裏をかすめると、誰かが亡霊のように背後に立っているような気がしてならない。一瞬身体の芯に悪寒が走った。
 少し引き返えして分岐した山道を下ると、石垣で囲まれた貯水池があった。これも500年以上前からあるのだろうか?ちょっとしたプールほどの大きさで、もし落武者の首でも浮いていたなら、もう一目散に逃げるしかない。標高の高い松山城、この水は籠城戦できっと役立ったことだろう。
 さらに下ると番所跡、このあたりから急な下り坂になり、臥牛山の北端まで来ているようだ。


 さらに下には「大松山つり橋」という緑色の橋が架かっている。周回する遊歩道コースのためのものだろうが、作りと規模がちょっと立派過ぎる。覗き込むと、谷底は緑の海で覆われていてかなり高い。


 一口に備中松山城と云っても城域はかなり広い。広義には臥牛山全体を指し、狭義には小松山の天守群を指すのだろう。初めて大松山に本丸が置かれたのは仁治元年(1240)、そして元弘年間(1331~33)に南峰の小松山まで城域は拡げられている。室町期、戦国期、そして江戸期になっても有力大名がいなかったため、幕府直轄領とは言え城主の交代は頻繁になされている。ただ天下泰平の江戸時代の城郭は町のシンボル的存在になり、実際の政治や生活の機能は城下の根小屋(ねこや)と呼ばれる屋敷に置かれるようになった。考えてみれば標高430mの天守への登城は、非効率この上ない。
 備中松山城の階段状の石垣は、強靭な鎧のような美しさと共に、そんな長い歴史を伝えていた。


〈その2 備中高松城〉

 高梁市を後にして高梁川沿いの国道180号線を南下する。にぎやかな総社市内を抜け、1時間ほどで備中高松に着いた。
 のどかな田園風景に囲まれた城址公園、見頃の過ぎた蓮の花が優しく迎えてくれた。広々とした蓮池に浮かぶように見える備中高松城址、近所の親子連れなどが遊ぶ憩いの場所になっている。



 二重の太鼓橋を渡り本丸広場に入ると、すぐ目につくのが城主清水宗治の辞世の句碑。城兵の命と引き換えに切腹の道を選んだ宗治、今も戦国の美談として伝えられている。


 信長の命で中国地方攻略を任された秀吉は、三木城と鳥取城の兵糧攻めに続き、この備中高松城を水攻めで落城させた。湿地帯に囲まれたこの平城は正攻法による攻略が難しく、城と結ぶ道も一本しかなく、人馬を容易に寄せつけなかった。
 資料によると、この城は掘った土砂で土塁を積み上げただけの平城で、石垣や天守はなく、質素な櫓と板塀しかなかったらしい。

 ここで登場するのが軍師黒田官兵衛。城を守っている湿地帯を逆手にとって発案したのが有名な「水攻め」。巨大な堤防を築き、城の南部を流れる足守川の上流をせき止め、一挙に城周辺を湖にしてしまうという奇策だ。戦国期「水攻め」の戦法は国内で3カ所あったが、成功したのはこの備中高松城だけだ。その堤防の大きさは高さ7m、幅の底部は24m、上部は10m、そして総延長は約3kmに及んだという。工事期間は12日、周辺の百姓にお金や米を引き換えに土を運ばせたという。梅雨時とも重なり、豊富な水量で城は水浸しとなり大成功をおさめたと、伝記「太閤記」には書かれているらしい。
 ここで以前からの大きな疑問、堤防の規模と工事期間だ。底部24m、高さ7mもある堤を本当に僅か12日間で3kmも築けるのか?計算すると1日に250mの長さの築堤工事は、周辺の農民を総動員したとしたとしても、にわかに信じるわけにはいかない。

                 堤防東端の跡の一部が残っている蛙ケ鼻



 公園内にある資料館に入ってみると細長い写真パネルがある。1985年6月に発生した大洪水の写真だ。城跡周辺が水に浸かり、島のようになった城址公園の姿。このことからこの地域は、大規模な堤防がなくても元来浸水する地形だと分かる。
 さっそく中年の女性館員に聞いてみた。彼女は笑いながら「堤防の高さは2mくらいで、長さは300mくらいですよ」と明言する。なんと堤の高さは3分の1、長さは10分の1だ。それなら12日間の工期でも現実味は帯びてくる。最近の研究ではこれが有力説だと云う。
 続いて「水攻めは本当に官兵衛の案?」と聴くと、「誰でも気づくんじゃない!」とあまりにそっけない。やはり現地に来てみなければ分からない。天下人秀吉を褒め称える伝記物やドラマチックに描いた小説を真に受けるわけにはいかない、とあらためて反省した。


 そして水攻めの真っ最中、本能寺の変による信長の死が秀吉の陣にもたらされる。早くここを切り上げて報復のために光秀を討たなければならない。秀吉はとにかく和睦を急いだ。交渉の間を取り持つのが毛利の外交僧安国寺恵瓊。大河でも小説でも一番ドラマチックな場面だ。信長の死は伏せられたまま官兵衛の交渉力で、城兵の助命を条件に宗治は切腹し和睦は成立した。
 大河『軍師官兵衛』では、腹を割った説得材料として、官兵衛は信長の死を恵瓊に告白していたが、これもよく考えるとおかしい。大きな背景を失った秀吉軍の弱点を、対峙する毛利軍に打ち明けるなど考えられない。中国地方の有力大名の毛利連合軍、それを知れば和睦どころか隙を見て攻撃に転じるに違いない。それが戦国時代の常識だ。毛利輝元、吉川元春、小早川隆景そして城主清水宗治を早急に説得するカードは、あくまでも信長本隊の近々の到着であり、今なら好条件で国境画定できるという交渉内容であったはずだ。信長の死が毛利軍にもたらされたのは、秀吉軍がすべて撤退した後であったのは事実であろう。官兵衛に友情を感じた小早川隆景が、秀吉軍を激励して見送るシーンは、ドラマをより感動的にするための甘い演出でしかない。
 
 司馬先生は小説『播磨灘物語』の中でこう書いている。
 「官兵衛は秀吉の承諾を得、ひそかに本能寺の一件を恵瓊に告げたという伝承がある。この伝承は主として毛利方に伝えられた。恵瓊が羽柴方の決定的な弱味をうちあけられたにもかかわらず毛利方に不利な講和の仕方をやったというのがその伝承で、これによって恵瓊はいよいよ佞僧(ねいそう)に仕立てあげられたが、しかし秀吉・官兵衛が恵瓊に洩らしたという事実はない。ともかく、官兵衛と恵瓊は講和をいそぐということで、意見が一致した。」

 憐れでならないのが城主・清水宗治。毛利家の忠実な領主だった彼は、信長の死を知らされず、6月4日午前湖に浮かべた舟上で切腹した。城兵の助命と毛利家の永続を願い、一振り舞ったあと美しく散っていった。

 『浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して』 宗治の辞世の句

 蓮池の上を夏の生暖かい風が吹いている。彼も梅雨時のこの重い空気を感じていたのだろうか?敗者にはそれぞれ美しく儚い文学がある。高松の苔となった彼の心境を、今はあれこれと想像するしかない。