なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

尾張・美濃散歩(2)~信長の諸城(2019 4 27)

2019年05月22日 | 歴史

 

 山麓から望む岐阜城

 桶狭間の戦いで鮮烈なデビューを果たした信長は尾張をほぼ平定。1562年には三河の松平元康(後の徳川家康)と軍事同盟を結び、東方からの威嚇をなくした信長は、本格的に美濃侵攻に乗り出すことになる。

 そして翌年にはより美濃に近い小牧山に築城し、拠点を清洲から小牧山城に移した。

 信長の城造りはこの小牧山城から始まり、岐阜城そして安土城で完成をみる。最初入城した清須城は、屋敷が並立的に建てられた既存の館城(やかたじろ)だったが、この小牧山城以降は、権威と権力を核にした求心的な城になっていく。家臣団を城下に住まわせ、同時に尾張の首都機能をもち合わせた城下町も発展させていくことになる。

 

〈その1 小牧山城〉

 名古屋市内から頭上に高速道路を見ながら国道41号線を北上。右手に低い丘にある天守が見えると、ナビは城郭の北側にある駐車場を案内した。

 大木の生い茂った新緑の城内に入り、山麓の遊歩道を時計周りに歩く。まず眼にするのは、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの際に造られた横堀と土塁だ。信長の死後、秀吉と信雄・家康連合軍の戦いで、拠点となったこの城の防衛力を高めるために、家康が中腹から山麓にかけて改修したものだ。

 そしてその向こうには大型の屋敷跡が広がっている。周囲は堀と土塁で囲まれ、独立した防衛性の高い建物跡になっている。城郭考古学者の千田嘉博さんは、使用者を特定する具体的遺物は出土していないが、山麓にあった信長館であったと推定している。

 

 

 城正面の南側に回り込むと、山麓から山腹まで大手道が真直ぐ上に延びている。信長の城でしか見られない一直線の階段道だ。そして右手に見える深い空堀と土塁が防衛力の高さを主張している。

 

 天下布武の集大成として築城された安土城では、この発想がさらに進化し、幅広い石段の大手道として完成する。大手道を登り切った後は、つづら折りに天守へ向かう道になるのだが、その構造は安土城の原型を見るようだ。

 安土城の大手道(2014 7 20撮影)

 頂上に建つ天守は、昭和43年に建設された鉄筋構造の歴史館だ。

 4階の展望室からの眺めは素晴らしい。山や丘でさえぎられるものは一切なく、延々と平地の続く濃尾平野が広がっている。信長がこの山に築城し、その後家康が戦さの拠点にしたのがよく分かる。好天に恵まれた視野は数キロどころか、十数キロは見渡せる一望千里の眺望になっている。

名古屋中心部のビル群が見える南方向 

 小牧山城の特徴は主郭中心部に築いた石垣だ。以前の居城・清須城には一切石垣はなく、この小牧山は信長が尾張で初めて採用した総石垣造りの城なのだ。

 小牧市教育委員会による発掘は平成10年から始まり、徐々に信長時代の城郭造りの実体が分かってきた。主郭を囲む石垣は、永禄6年から10年 (1563~67)の短期間で造られ、上下2段構造になっている。上段の高さは3~4m、下段は2m程度で、上段は下段から2mほどセットバックして築かれている。石垣と云うと徳川時代の20mを越える石垣をイメージするが、この高さの石垣は当時の技術の限界だったのかもしれない。

 そして石垣は「穴太(あのう)積み」と云われる、横方向に目地が通る自然石で積み上げられている。石と石のすき間には間詰石(まづめいし)が詰められ、石垣の背後には排水のための栗石層(ぐりいしそう)があり、本格的な構造の石垣だった。

 

 信長がこの小牧山城に在城したのはわずか4年。以前は美濃攻めのための簡易的な砦と考えられていたが、発掘が進むにつれ、城郭の南側には広大な城下町が広がっていたことが分かったきた。町には排水などに最新の技術が取り入れられ、近世城下町造りの基礎にもなっている。

 信長の城は単なる戦闘のための施設ではなく、政治機能を持った権力の象徴であり、城下町は「楽市楽座」の自由経済で潤う交易の場だったのだ。

 これ以降、信長の城は岐阜城、安土城とさらに進化していく。

 

〈その2 犬山城〉

 国道41号線をさらに北上。小牧市を抜けてしまうと左右には田畑が広がり、建物が密集していた市街地の風景とは一変する。大都会の名古屋中心部から遠く離れ、大河の木曽川を渡ればもう岐阜県だ。

 その悠々と流れる木曽川南岸にある、高さ40mの丘の上に建つのが犬山城だ。天守は昭和10年国宝に指定され、現存する国宝4城のひとつだ。その中でも最も古いとされているが、天守創建年代は天正期(1573~92)とも慶長期(1600~01)とも云われていて、正確な年代は判明していないようだ。

 天文6年(1537)、築城したのは濃尾国境の木曽川畔の丘に注目した織田信康(信長の叔父)。天守本丸は丘の最も高い北側にあって、その背後は断崖絶壁になっている。大河の木曽川が天然の要害になっていて、兵法では理想的な「後堅固(うしろけんご)の城」と呼ぶらしい。

 木曽川対岸(北岸)から見る犬山城 

 信康が美濃攻めの戦さで戦死すると、嫡男の信清(信長の従兄弟)が城主となった。当初は信長に協力的だったが、戦さにかり出された弟を討死させられた腹いせなのか、こともあろうに美濃の斉藤龍興と組んで信長に反旗を翻した。

 永禄8年(1565)8月、信長は対岸の伊木山に攻城用の城を築いた。「背後からは攻められない」という城方の安心感を逆利用して、攻略したのが信長の発想だった。兵法の原則は、相手の安心の裏をかくものだ。敗走した信清は武田信玄のもとに逃れ、犬山鉄斎と称して蟄居の身になったと云う。

 望楼型天守から望む木曽川の流れが優美だ。丘の北側を東から西へと悠然と流れる青い水面は、初夏のような陽射しをうけて、より一層その青さを増している。

 

 上流の東方向(右)、そして下流の西方向(左)には信長が造った攻城用の城のあった伊木山。

 これ以降信長の美濃侵攻はさらに本格化し、「墨俣の一夜城」で知られる前線基地を秀吉に造らせ、稲葉山城(後の岐阜城)を攻略することになる。

 

〈その3 岐阜城〉

 永禄10年(1567)8月1日未明、信長は美濃の稲葉山城を攻略するために、1万2千の兵を率いて小牧山城を出陣した。ふりかえれば、信長の美濃侵攻は開始してから10年にもなり、何度もはね返されては撤退する惨憺たる歴史だった。

 しかしこの時期から木下藤吉郎という卑賎上がりの家来が登場し、信長は純軍事的攻撃だけではなく、「調落」という新戦略思想を藤吉郎から採用し実戦した。そのため敵地に入っても抵抗する勢力はなく、そのうえ織田軍の行軍に参加する地侍までいたほどだ。

 とはいっても稲葉山城は難攻不落の山城だ。信長は城下の建物をすべて焼き払い、裸城にしてもなお落ちない。そこで調落家の藤吉郎は7人の決死隊をつくり、急峻な崖で守られた城郭へと登って行った。二ノ丸内にある兵糧蔵に火を放ち、その騒ぎの中で城門のかんぬきを内側から外した。瓢箪が結びつけられた竹竿の合図で、どっと本隊が乱入して二ノ丸は占拠された。

 慌てふためいた城主・斎藤龍興は、降伏開城し伊勢の長島へと逃げ去った。ついに信長は美濃攻略という悲願を達成し、居城を小牧山城から稲葉山城に移し、上洛という新たなステージへと進んで行く。

 

 山上へは金華山ロープウェイが通じているが、猿こと木下藤吉郎の気分になって徒歩で登ってみた。

 

 「月に2度は登山をしているのだから、標高329mなんてたいしたことない」と思ったのが甘かった。登山道は何本もあるが、一番最短距離の「馬の背登山道」は、四つん這いになりながらの岩登りだ。そんな急登が30分は続き、おまけに登山靴ではないため足許がこの上なく心もとない。深夜、道なき道をワラジで登坂した藤吉郎の小隊、改めてその決死の行動と成功に拍手を送りたい。

 こんな岩登りが30分は続く

 稲葉山は金華山とも云う。全山がチャート(赤紫の非常に硬い岩)という岩でできていて、城郭は切り立った崖の上にある。狭い山上の尾根は細長く整地され、その一番高所の北端に天守が聳えている。現在の天守は信長時代のものを模して昭和31年に再建されたものだ。見上げると白亜の壁が青空のもとで一段と映えている。

 天守からの展望はまさに眺望絶佳。眼下には長良川が大蛇のように這い、北の遠くの空には飛騨の山々が連なり、南には見渡す限りの濃尾平野が広がっている。風光明媚とはきっとこんな景色を云うのだろうか。

 この城は鎌倉時代以来の歴史をもつ山城だが、本格的な城郭整備は蝮(まむし)と云われた斎藤道三によってなされた。その後、城を攻略した信長は「井ノ口」という地名を「岐阜」と改め、稲葉山城も岐阜城と称するようになった。「岐阜」は中国の故事からとられたもので、武の都「岐山」と文の都「曲阜」を合わせた造語だ。そして『天下布武』の印判がこの頃から使い始められ、信長の天下統一への意気込みはいよいよ本格化していく。

 信長がこの城を居城とした8年間(1567~75)は、まさに生き馬の目を抜くような勢いだった。足利義昭を奉じて上洛し(1568)、比叡山延暦寺を焼き討ちにし(1571)、浅井・朝倉氏を滅ぼし(1573)、そして数々の一向一揆を鎮圧した。この間いったい何千、いや何万の人々を殺戮していったのだろう。

 信長の短気にして気まぐれ、残忍にして傲慢な性格はどんどん増長していく。着々と進む天下統一の裏で行われたジェノサイドや粛清は、ヒットラーに匹敵するほどの常軌を逸した行為だ。特に朝倉義景と浅井久政・長政を討ち取ったとき、彼らの頭蓋骨に漆と金箔をほどこし、酒杯として祝ったというから、残酷・残虐というより猟奇的な異常さがある。

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 岐阜城のある金華山とその山麓一帯は、日本遺産第1号として認定されている。城跡だけでなく、信長公居館跡や数々の神社・仏閣が点在するエリアが、長良川左岸沿いに広がっている。

 岐阜公園内のロープウェイ乗場の奥には、一筋の谷川を挟んで、何段にも分かれた大小の平坦地がある。信長が大改修した屋敷跡で、昭和59年から始められた発掘で多くのことが分かってきた。地形自体は斎藤氏三代の頃に造成されたが、遺構のほとんどは信長の時代のものだ。

 

  発掘地区は大小の幾つもののエリアに分かれている。沢の左岸中央の一番広い平坦地には、中心となった大きな館跡(C地区)。その奥には小さな平坦地が沢沿いに3段あり、茶室などがあったとされる小さな建物跡(B地区)。沢の右岸には巨大な岩盤を背にした庭園跡(A地区)。そしてこれらのエリアにあった建物群は、単独で建っていたのではなく、橋や廊下によって繋がれた迷宮のような構造になっていたらしい。そして一番の発見は金箔瓦だ。今までは始めて使用されたのは安土城と考えられていたが、中心となっていたC地区の館跡から出土した。

 この岐阜城は京都の公家・山科言継(ときつぐ) 、堺の茶人・津田宗久、そしてイエズス会宣教師のルイス・フロイスなどたくさんの有力者が訪れ、信長の厚い接待を受けている。冷酷で残忍な性格の持ち主だったが、一方で自身に得のある人物だと判断すれば徹底的に歓待する行為は、信長の合理的な損得感情の表れだろう。

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  小牧山城、岐阜城、そして安土城。信長ほど築城にこだわりと進化をもたらした戦国武将はいないだろう。尾張平定後の小牧山、美濃を手中に入れた岐阜、そして天下統一の総仕上げとしての安土。

 小牧山城では初めて石垣を採用し、岐阜城の山麓には庭や茶室のある瓦屋根の館を建てた。城は中世までは単なる防衛と戦さのための施設だったが、信長は領土拡大と共に、技術的にも造形的にも進化させ、権威・権力の象徴的な存在へと押し上げた。そして城下では楽市楽座の自由な流通経済を推進し、関所の撤廃やインフラ整備にも力を注いだ。信長が近世の城下町の基礎を造ったといっても過言ではない。

 桶狭間の合戦で突如として歴史の表舞台に踊り出て、本能寺で瞬く間に消えていった信長。残忍で傲慢な性格ではあったが、彼が考えに考え、実現させていった功績は数多くある。彼に対する評価は人それぞれだが、新しもの好きで、自由奔放なアイデアマンだったことは間違いない。

 

 

 

 

 

 


尾張・美濃散歩(1)~信長と桶狭間(2019 4 26)

2019年05月07日 | 歴史

『人間五十年 化転(けてん)のうちにくらぶれば 夢幻のごとくなり 
ひとたび生(しょう)を受け 滅せぬ者のあるべしや』

                          謡曲『敦盛』
 
 天文3年(1534)に生を受け、天正10年(1582)に本能寺で自害した信長。口癖のように唄いかつ舞った敦盛のごとく、その人生は戦さの絶えない波乱万丈の50年だった。
 戦国時代の革命児と云ってしまえば早いが、彼の残した政治上の改革や自由経済への移行などの業績は大きい。
 また一方で性格的に見た場合、色々な欠点を持ち合わせていたのも事実だ。合理的で実証的な性分をプラス面とすれば、傲慢や残虐性、そして猜疑心の強さなどのマイナス面は常軌を逸している。
 そんな信長に従う家臣団は常に戦々恐々としていただろう。もしタイムスリップできるなら、本能寺を決断した光秀に会い、信長のどんな言葉や行為が許せなかったのかぜひ聞いてみたい。
 脳科学者の中野信子さんは、あくまでも個人的な見解としながらも、「革命家・独裁者の勝ち組サイコパス」は信長がその典型だとしている。秩序の破壊者であり、神仏を恐れない行動が多くの武将をとりこにした魅力的な存在だと指摘している。
 でも魅力的な革命児は若い時分から完成していたわけではない。父信秀が急死し18歳で家督を継いだ信長は、一族の謀反や裏切りの連続で苦難に満ちた若者だった。
 そんな若き信長の住んだ数々の城跡などを訪ねてみた。


〈その1 清須城〉


 清須は清洲とも書く。現代では清洲町にあるから清洲城だが、中世の資料では清須城だ。五条川の流れるこの地域は、1610年に家康が名古屋城を築城するまでは、尾張の政治・経済の中心地だったようだ。
 織田一族が骨肉相争う戦さのさ中、信長は弘治元年(1555)に入城。当時の清須城には天守はなく、五条川西岸に大型の四角い館のある館城だった。城郭考古学者の千田嘉博さんによると、最近の発掘で分かったことは大型の館の南側と北側にも館があって、きわめて防御性の高い館城だったことを指摘している。
 
 この城は何度も歴史上に登場していて、信長の死後は織田家の体制を話し合った清須会議(1582)があり、結果次男の信雄(のぶかつ)が城主となった。そのときに城の大改修が行われ、初めて西岸の本丸北端に天守が建てられた。そして関ケ原当時は福島正則の居城となり、東軍の前線基地にもなっている。その後家康の世になると、人口6万の城下町は丸ごと名古屋に移され廃城となった(清須越し)。

 画像の天守は平成元年に建てられた資料館だ。そして当時と一番異なる点は、本丸のあった五条川西岸ではなく東岸に建てられていることだ。かつて東岸には守護代の大型の館が建ち並んでいて、川を挟んで清須城の惣構えは形成されていた。
 両岸をつなぐ赤い橋が印象的だ。かつて本丸のあった西岸は古城跡公園が広がっていて、ツツジが咲き新緑の青さが目に眩しい。

 公園内には一般のイメージよりずっと若い信長像が建っている。傍らには一歳年下の正室・帰蝶こと濃姫。マムシと云われた斎藤道山の娘で、明智光秀とは従兄妹同志でもあった。うつけ者と呼ばれた信長のよき理解者だったが、没年等の資料は極めて少ない。本能寺では薙刀で応戦し見事に果てたというのは小説の世界のようだが、道山のDNAを受け継いだ気丈で潔い性格であったなら、その戦死説を一番に指示したいところだ。
  
 それにしてもちょっと残念なのが、一帯に響き渡る列車の騒音だ。かつての城郭の敷地を南北に二分するかのように、東海道本線と新幹線が走っている。鉄道ファンにはたまらない光景だが、1分おきにやって来る列車には閉口する。

天守最上階からの眺め
 

 永禄3年(1560)5月19日未明、信長は三たび「敦盛」を舞い終わると、迫りくる今川義元の大軍を迎え撃つためにここ尾張・清須城を出陣した。
 家臣団の中には籠城や降伏の声もあったが、考えに考えぬいた信長は誰よりも早く馬上の人となり、熱田への街道を駆け出して行った。


〈その2 熱田神宮〉

 清須から熱田までは15キロ弱。名古屋南部に位置する熱田神宮は、豊かな森に囲まれた大都会のオアシスだ。新緑の季節にも重なりあって、境内は手足が青く染まるような緑の大樹海が広がっている。信長の頃は海岸線がすぐ南側に迫り、伊勢湾に面した熱田湊は、津島湊とともに東西を結ぶ海運と物流の中心地であったらしい。
 
 正門(南門)から真直ぐ北に延びる参道、そして突当たり奥の本宮社。社殿は伊勢神宮とほぼ同様の神明造りだ。ご祭神は熱田大神で、草薙剣をご神体とする天照大神だ。

 参道の両側にはクス、ケヤキ、カシなどの広葉樹の森が広がっていて、市街地なのに境内は森閑としている。参道左手には弘法大師が植えたと云われる樹齢千年の大楠が、威風堂々とした立ち姿を見せている。

 信長が熱田明神に着いたのは午前8時頃で、追いついてきた織田の兵力は僅か2百騎。これに対して今川軍は2万5千の大軍だ。兵力は誰の目にも信長軍に勝ち目はない。信長は熱田さんに戦勝祈願をして、戦況の新たな情報を待った。
 そしてさらに前線に近い善照寺砦まで来ると、織田軍本隊はようやく3千の兵力に増えた。織田側の丸根砦と鷲津砦が落とされた事を確認した信長は、精鋭2千の兵を引き連れて桶狭間山へと進軍して行った。
 本宮社殿の手前に「信長塀」がある。今川義元の首を見事に討ち取った信長が、その謝意をこめて奉納した塀だ。神仏を一切信じなかった信長だが、この戦さだけは神風の吹いた奇跡的な大勝利だったのだろう。



 〈その3 桶狭間の戦い〉

 今川義元(1519~60)は、劣勢の織田軍に討ち取られたために強い戦国武将のイメージはない。しかし実際は本国の駿河・遠江(とおとうみ)に加え、三河と尾張の一部にも領土を広げた百万石の大大名だ。義元は武田信玄や北条氏康と互角に戦った強豪の武将なのだ。
 東方の和平工作に成功し、尾張を政情不安と見た義元は、永禄3年5月12日に2万5千の兵を率い上洛を開始する。大軍の今川軍から見れば、弱小の織田軍などは象が蟻を踏み潰すようなものだろう。
 
 熱田神宮から国道1号線で南東方向に約12km、並走する名鉄本線を左に見ながら桶狭間の地区に入る。あたりは学校や病院のある住宅街だ。丘陵地帯だと分かっていたが、密集した建物が全くなければ、小さな丘があちこちに点在する風景になっているだろう。それに丘を上り下りする道路はかなりの傾斜だ。
 
 事前の調べで合戦の古戦場跡は2ヵ所ある。一つ目の桶狭間古戦場公園は国道から南へ1km弱入った所にある。子供たちが遊ぶ小さな公園で、並んだ二人の銅像がなんとも平和的だ。
 
 
 もう一つは国指定史跡・桶狭間古戦場伝説地だ。名鉄・中央競馬場前駅の交差点を南に入ったすぐの所にある。季節がら赤いツツジの色合いが、古拙な公園に鮮やかな印象を与えている。
 
  
 
 この合戦は従来の説では、信長軍が東に大きく迂回したルートで奇襲をかけたと考えられていた。しかし近年の研究では、標高65mの桶狭間山に今川本隊の陣があり、信長隊はそれに向かって正面から攻め上がったとする説が主流になっている。史料的価値が最も高い『信長公記』を読むと、確かに正面攻撃説には違和感がない。
 
 住宅街の中の細く急な坂道を上がると、桶狭間山らしき高所がある。
 
 左の画像はその高所から今川本陣のあった西方向の様子。右の画像はまだ真新しい本陣跡の碑。
 
 2万5千の兵力を持つ今川軍は、2万を丸根と鷲津砦攻撃に向かわせ、5千を義元本隊とした。その5千の兵は正午頃二つの砦が陥落した事を知ると、酒宴まで開いて戦勝祝いをしていたという。もう信長軍は攻めて来ないと甘くみたのだろう。
 そんな時信長側に大きく味方したのが、突然の大木を倒すほどの暴風雨だった。今川本隊に近づく信長隊は視界不良のため今川側からは見えない。おまけに滝のような雨に打たれた今川軍は、四散しながら木の影や野小屋などに走り込んだ。当然、酒の入ったずぶ濡れの今川隊は戦さのできる状態ではなかった。
 
 午後2時頃天がやや明るくなったとき、信長は槍をとり「すわ、かかれ、かかれ!」の大号令をかけた。信長の2千の精鋭部隊は、右往左往する5千の今川本隊に襲いかかった。今川側は戦うどころではなく、軍組織そのものが総崩れとなった。義元を警護する3百の旗本の兵でさえ、大将をかまうゆとりはなかった。
 そんな混乱の中、最初義元に向かって槍を入れたのが服部小平太。続いて太刀を打ちこんだのが毛利新助。新助は組んでもみ合いになったが、やがて義元の刺し首をあげた。首だけになった口中には、新助の人差し指が入っていたと云う。
 
 古戦場が2ヵ所あるのは、どちらかが正しいというわけではないだろう。織田軍の急襲を受けた今川軍は、一方では進軍してきた東方向へ逃げ戻り、また一方では西方向にある大高城目指して走ったのだろう。織田軍はそんな今川軍を追っては切込み、桶狭間山を中心に広範囲で戦闘が繰り広げられたに違いない。
 戦死者は今川軍2500人、織田軍830人の合戦だった。
 僅か1時間の戦いは織田軍の見事な大勝利で終わった。そして首をとった信長は風のように戦場を去り、日没後には清須城に戻っている。まさに敬愛する斎藤道山の戦術思想「大波がよせるごとく寄せ、大波が退くがごとく退く」だった。
 
 この戦さの様子は、司馬先生の『国盗り物語』を参考に書いている。先生は後述談として、この合戦シーンを書くにあたって、現地には一度も行かず2万5千分の1の地形図を見ながら書いたという。丘がどう見え、川や谷がどう走り、そして両軍の人馬がどう動いたのか?先生の目にはリアルなバーチャル映像として見えていたのだろう。あらためて先生のイマジネーションには感服する。
 そして先生が強調する教訓は「信長は桶狭間の成功におぼれなかった」ということだ。普通人であれば、ひとつの成功例を何度でも試そうとするのだが、これ以降、信長は少人数での攻撃は一切行なっていない。