〈その1 西浅草のJPC〉
地下鉄浅草駅から階段を上がるとすぐ雷門の前に出た。すごい人出に圧倒される。
ちょうどこの日は浅草三社祭、雷門通りは歩行者天国となって黒山の人だかり。群集
の頭上ではあちこちで神輿が舞っている。
ふと東の空を見上げると、真っ青な空の中に東京スカイツリーがそびえ立っている。
ここ浅草でのターゲットは六区でも浅草寺でもない。以前タモリ倶楽部で紹介のあった
ジャパンパーカッションセンター(JPC)だ。
通りに溢れる群集の中を泳ぐように進み、やっとのことで国際通りを渡り、小さな路
地をちょっと入った所にJPCはあった。入口は赤く塗られたデザインで一際目を引く。
5階建てのビルは、フロアごとに打楽器のジャンル別になっている。迷わずブラジル
打楽器の3Fボタンを押すと、そこはパーカッションの海。店内はあまり広くないが、
床から天井まで所狭しと並べられている。
すぐブラジリアンコーナーを見つけると、目当てのクイーカとパンデイロの品定めに
入る。特にパンデイロは品揃えが豊富で、一通り叩いてみたがなかなか決められない。
店員の男性がプロのパーカッショニストらしく、サンバのリズムを見事に叩いてくれた。
彼の奨めでパンデイロは軽量で本革のものをゲット、D万G千なり。もうひとつのク
イーカは、現品に売約済みの札が付いていて、おいそれと音を出すわけにいかない。ク
ーカは10インチと8インチの2種類があり、扱い易い8インチを取り寄せ購入、C万A千なり。
合計F万E千(送料込み)のお買い上げ。
我がサンバ・ボサノバユニット「マンデス」に新たなサウンドが生まれれば、この出費
もそう痛くはないだろう。
クイーカとパンデイロ
〈その2 東京スカイツリー〉
浅草からタクシーで押上へと走る。午後3時の予約に遅れてはなんにもならない。予約
なしでは5,6時間待ちらしい。とにかく急げ!
ソラマチには5分前に到着。タワー足下の東武橋から見上げるスカイツリーは、高いと
いうよりもでっかいの一言。青い天空に突き上げる白い鉄の巨塔は、現代のテクノロジー
を集約しているかのようだ。
入口付近はエレベーターを待つ人で溢れている。幾重にもロープで囲まれた群集のトップ
はくたびれ顔。入場予約を入れておいた私達は待たされることなくエレベーターの中へ。
「ひぇ~!」と、どこかで女性の声、350mの展望デッキまで十数秒で上がるのだから、
耳もおかしくなる。
天望回廊へ上がるエレベーターの天井はガラス張り
降りたエレベーターの外はもちろん360度の展望。どこまでも続く東京の街は、まるで集積
回路の基盤のように広がり、所々に高層ビル群が砂漠のオアシスのように島を作っている。
ビル群は大きく分けて3つ、南西方向に六本木、新宿、そして池袋。そのビル群の向こうに
富士の雄姿を期待したのだが、残念ながら霞で判然としない。
緑は意外と少ない。タワー直下を東西に分ける、青い隅田川がせめてものアクセント。川には
由緒ある吾妻橋他いくつもの橋が架けられている。この流れと橋が多くの歴史や文化、そして
文学を生んだのは間違いない。
スカイツリーの高さは634m。昔、関東が「武蔵の国」と呼ばれたことに由来し、
「ムサシ」の語呂合わせでこの高さになったそうだ。ギネスでも世界一高いタワー
として認定されている。
そして高さも高いが入場料も高い。上段の450mの天望回廊まで上がると一人3,600円
(日時指定予約)、5人家族だから締めて18,000円なり。我が家は全員真っ当な社会人、
それなのに誰ひとりとして自分の財布を開けようとしない。
父親の前時代的な権威など、とうの昔に消滅しているはずなのに、こういう時だけ父
親の義務が浮上してくる。そんな父親の地位など一日も早く返上したい。
でもスカイツリーからの俯瞰は、一生に一度は体験しておくべきだろう。次回来れる
なら、街が夕闇に包まれる時間帯、ぼんやり白く染まった富士を背景に、夜の点灯で街
が輝き始めるころ、「ひとり」で来てみるのも一考だ。
〈その3 荷風先生の偏奇館〉
地下鉄南北線「六本木一丁目駅」を降りると、泉ガーデンタワーという高層ビルの1F
フロアに出た。このビルに勤める会社員は、雨に濡れることなく出勤できるようだ。ビル
前の中庭は、数本のケヤキとベンチで公園のように整備されていて、直結するカフェのオ
ープンテラスとしても利用されてるようだ。月曜のお昼前、めっきり人影は少ない。
私が最も尊敬してやまない作家永井荷風、彼のゆかりの家「偏奇館(へんきかん)」が
あったのはまさにここ。住居跡を証明する石碑があるらしい。下調べのブログには、’ビ
ル前の植え込みの中’とだけ書かれていて、巨大ビルの足下はあまりに広く、何処にある
のか見当さえつかない。ビルのどの側にあるのかも分からず、おまけに地下鉄から上がっ
て来たものだから方角さえ判然としない。思いきってビルの管理人に聞いたが、分からな
いと言う。かなりマニアックなスポットのようだ。
六本木一丁目にある泉ガーデンタワー
六本木という土地は戦前まで麻布市兵衛町という名称で、元々丘あり谷ありの丘陵地帯。
高低差だらけの地形はたくさんの坂を作り出している。その一区画にある泉ガーデンタワー
は谷底から建っていて、地図上では通りに面していても、数十段の階段を下りた所にエント
ランスがある。
荷風先生の日記文学「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう」(大正8年11月8日)
にはこう記している。
『麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。此のあたりの地勢
高低常なく、阻害の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。(略)』
石碑は探しに探しまくった。階段を上ったり下ったり、恰も看板のないうどん屋を探す
が如き。ひと口に植え込みと云っても、それは崖の傾斜を利用した棚田のように何段にも
なっている。
そして右往左往するうちについに発見、一番上の通りに面した歩道横に小さな黒い石の
プレート。荷風先生が26年間住んだ家「偏奇館」は、確かにここに建っていた。
先生はここから足しげく隅田川東の玉ノ井に通い続け、晩年の名作「濹東綺譚(ぼくと
うきだん)」を書き上げた。そして数々の作品を残したこの住居は、東京大空襲で跡形も
なく全焼する。
断腸亭日乗(昭和20年3月9日)にはこう記している。
『天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、(略)』
先生は家も家財も大事な書籍もほとんど失ったが、日誌及び草稿だけは持ち出している。
大正から昭和まで42年間、生き生きと当時の風情や風俗を伝えてくれる「断腸亭日乗」が
今日あるのは、先生の罹災への備えが功を奏したのだ。
そして昭和23年1月12日、玉ノ井にも出かけ、瓦礫と化した街を見てこう書いている。
『温暖小春の天気を思はしむ。午後玉ノ井の焼跡を歩む。震災後二十年間繁華脂粉の
巷今や荒草瓦礫の地となる。濹東綺譚執筆の当時を思へば都て夢の如し。(略)』
東京空襲で全焼した偏奇館
今の六本木は、六本木ヒルズや東京ミッドタウンに象徴されるように、オシャレで
洗練された街になっている。地形さえ変えてしまう大規模開発で、昔の面影は跡形も
なく消えてしまった。荷風先生が伝えてくれる明治、大正、昭和の変遷を想うと、ま
さに夢のようである。一枚の小さな石碑だけでは、あまりに淋しすぎる。恰も出棺の
あとの心中の如し。私にとって作家永井荷風は、世間から忘れ去られては困る作家なのだ。
〈その4 靖国神社〉
今回で二度目の靖国神社、地下鉄東西線九段下から上がると、道は一直線に西に延びる。
左手に武道館を見ながら歩道を進む。社内は初夏を思わせる陽気で、月曜日とあって人影は
まばら。石畳中央に立つ大村益次郎の銅像も、心なしか平和な微笑みで迎えてくれているよ
うだ。
当初靖国神社は東京招魂社と云い、幕末の国事殉難者と戊辰戦争の戦死者を追悼した
のが最初。長州藩士大村益次郎の提唱で作られ、勝った側の長州、薩摩、土佐等の殉難
者が祀られた事から始まる。上野や会津での戦い、そして函館戦争等で負けた側の、つ
まりは幕府側の戦死者は祀られていない。どちらも明日の日本を思い戦ったのだから、
平等に祀られていいように思うのだが、やはり歴史は勝った側から作られている。個人
的には小栗上野介や中島三郎助、そして土方歳三だって日本国の将来を憂慮し戦ったの
ではないだろうか、と思う。
社殿に続く石畳の両脇には、新緑の桜が大きく青々と茂り、人の少ない神社内をより
一層森閑とさせている。心落ち着く静かな参拝となり、英霊に手を合わす。確か前回は
8月14日という日のため、警備の警官がやたらと多く、物々しい警戒のなかの参拝だった
ことを覚えている。
先の大戦で何万という命が失われたのは、本当に悲しい歴史。そのほとんどが20代の
若者達だ。国威発動により戦地で殉死した彼らの尊厳と誇りは、今の我々日本国民が永
遠に弔わなければならないのは当然の事と思う。
そして参拝後の遊就館、エントランスでは実物のゼロ戦が迎えてくれる。
零式艦上戦闘機五二型
館内は戦争の歴史を多くの資料と共に伝えてくれる。その中で一番涙を誘うのが、壁
一面に貼られた戦死者や殉職者のモノクロ写真。5センチ四方くらいの軍服姿のポート
レイトが、私達の心に奥深く突き刺さって来る。一体写真は何万枚くらいあるのだろう。
そのほとんどが20代と思われる若者ばかり。そのなかに意外にも竜馬も発見。
館内中央の吹き抜けの展示場には、ゼロ戦や戦車、大砲など数々の武器が展示されて
いる。館内は撮影禁止のため、そのリアルな画像は載せられない。(下画像2点はウィ
キペディアから引用)
特に殺人的兵器、人間魚雷「回天」と艦船爆撃用ロケット機「桜花」は、終戦直前の
軍部の狂気的発想を見事に伝えてくれる。特攻機ゼロ戦でさえ、鹿児島知覧から離陸後、
エンジントラブル等で喜界島に不時着し一命をとりとめる可能性はあるが、この回天と
桜花だけはそうはいかない。いったん出撃すれば生還率ゼロだ。
人間魚雷回天
ロケット機桜花
百田尚樹著「永遠のゼロ」は、洋上に不時着し生還したパイロットが、ストーリーの
大きなキーワードになっている。しかしこの回天と桜花だけは「永遠のゼロ」ではなく
「完全なゼロ」だ。戦争とはなんと非人道的な残虐性と狂気を生むのだろうか。
昨今、政治家の靖国参拝をなんだかんだと某国が非難しているが、私はひとりの日本
人として、純粋な心の墓参りだと、思っています。
〈その5 ローン中山2世誕生〉
品川から京急で約40分、都心から横浜を過ぎ、金沢文庫という駅に降り立った。今回
の上京のメインターゲット、次男が一戸建て住宅を新築した町だ。私も在学中の数年、
東京で暮らしていたが、こんな所まで来たのは初めてだ。
金沢文庫という町は、金沢八景の名所で沖合には八景島があり、風光明媚な海の観光
スポットがある。また横浜市立大と関東学院大の二大学があって、学生の街といっても
過言ではない。駅の東側の小さな繁華街には、学生相手の安い居酒屋が数軒目を引く。
都心から遠く離れて三浦半島の付根まで来ると、さすがに人の喧騒も軽減し、人口と大
きな駅との不均衡感が拭えない。
次男は昨年結婚したばかりの29歳。勤める会社でそこそこの実績を上げ待遇も良くな
り、賃貸アパートから一戸建てへと思い切ったらしい。お嫁さんの実家に近いことから、
この町を終の棲家に決めたらしい。なんと総額F千万、次男は少なくとも35年間は四国に
帰って来られない。
今回の分刻みの一泊旅行、親としての私は、子育てからやっと解放された充実感と、
新築までして自立した息子への誇り、その一方で、もう帰っては来ないという侘しさを
ちょっぴり味わう旅となりました。
地下鉄浅草駅から階段を上がるとすぐ雷門の前に出た。すごい人出に圧倒される。
ちょうどこの日は浅草三社祭、雷門通りは歩行者天国となって黒山の人だかり。群集
の頭上ではあちこちで神輿が舞っている。
ふと東の空を見上げると、真っ青な空の中に東京スカイツリーがそびえ立っている。
ここ浅草でのターゲットは六区でも浅草寺でもない。以前タモリ倶楽部で紹介のあった
ジャパンパーカッションセンター(JPC)だ。
通りに溢れる群集の中を泳ぐように進み、やっとのことで国際通りを渡り、小さな路
地をちょっと入った所にJPCはあった。入口は赤く塗られたデザインで一際目を引く。
5階建てのビルは、フロアごとに打楽器のジャンル別になっている。迷わずブラジル
打楽器の3Fボタンを押すと、そこはパーカッションの海。店内はあまり広くないが、
床から天井まで所狭しと並べられている。
すぐブラジリアンコーナーを見つけると、目当てのクイーカとパンデイロの品定めに
入る。特にパンデイロは品揃えが豊富で、一通り叩いてみたがなかなか決められない。
店員の男性がプロのパーカッショニストらしく、サンバのリズムを見事に叩いてくれた。
彼の奨めでパンデイロは軽量で本革のものをゲット、D万G千なり。もうひとつのク
イーカは、現品に売約済みの札が付いていて、おいそれと音を出すわけにいかない。ク
ーカは10インチと8インチの2種類があり、扱い易い8インチを取り寄せ購入、C万A千なり。
合計F万E千(送料込み)のお買い上げ。
我がサンバ・ボサノバユニット「マンデス」に新たなサウンドが生まれれば、この出費
もそう痛くはないだろう。
クイーカとパンデイロ
〈その2 東京スカイツリー〉
浅草からタクシーで押上へと走る。午後3時の予約に遅れてはなんにもならない。予約
なしでは5,6時間待ちらしい。とにかく急げ!
ソラマチには5分前に到着。タワー足下の東武橋から見上げるスカイツリーは、高いと
いうよりもでっかいの一言。青い天空に突き上げる白い鉄の巨塔は、現代のテクノロジー
を集約しているかのようだ。
入口付近はエレベーターを待つ人で溢れている。幾重にもロープで囲まれた群集のトップ
はくたびれ顔。入場予約を入れておいた私達は待たされることなくエレベーターの中へ。
「ひぇ~!」と、どこかで女性の声、350mの展望デッキまで十数秒で上がるのだから、
耳もおかしくなる。
天望回廊へ上がるエレベーターの天井はガラス張り
降りたエレベーターの外はもちろん360度の展望。どこまでも続く東京の街は、まるで集積
回路の基盤のように広がり、所々に高層ビル群が砂漠のオアシスのように島を作っている。
ビル群は大きく分けて3つ、南西方向に六本木、新宿、そして池袋。そのビル群の向こうに
富士の雄姿を期待したのだが、残念ながら霞で判然としない。
緑は意外と少ない。タワー直下を東西に分ける、青い隅田川がせめてものアクセント。川には
由緒ある吾妻橋他いくつもの橋が架けられている。この流れと橋が多くの歴史や文化、そして
文学を生んだのは間違いない。
スカイツリーの高さは634m。昔、関東が「武蔵の国」と呼ばれたことに由来し、
「ムサシ」の語呂合わせでこの高さになったそうだ。ギネスでも世界一高いタワー
として認定されている。
そして高さも高いが入場料も高い。上段の450mの天望回廊まで上がると一人3,600円
(日時指定予約)、5人家族だから締めて18,000円なり。我が家は全員真っ当な社会人、
それなのに誰ひとりとして自分の財布を開けようとしない。
父親の前時代的な権威など、とうの昔に消滅しているはずなのに、こういう時だけ父
親の義務が浮上してくる。そんな父親の地位など一日も早く返上したい。
でもスカイツリーからの俯瞰は、一生に一度は体験しておくべきだろう。次回来れる
なら、街が夕闇に包まれる時間帯、ぼんやり白く染まった富士を背景に、夜の点灯で街
が輝き始めるころ、「ひとり」で来てみるのも一考だ。
〈その3 荷風先生の偏奇館〉
地下鉄南北線「六本木一丁目駅」を降りると、泉ガーデンタワーという高層ビルの1F
フロアに出た。このビルに勤める会社員は、雨に濡れることなく出勤できるようだ。ビル
前の中庭は、数本のケヤキとベンチで公園のように整備されていて、直結するカフェのオ
ープンテラスとしても利用されてるようだ。月曜のお昼前、めっきり人影は少ない。
私が最も尊敬してやまない作家永井荷風、彼のゆかりの家「偏奇館(へんきかん)」が
あったのはまさにここ。住居跡を証明する石碑があるらしい。下調べのブログには、’ビ
ル前の植え込みの中’とだけ書かれていて、巨大ビルの足下はあまりに広く、何処にある
のか見当さえつかない。ビルのどの側にあるのかも分からず、おまけに地下鉄から上がっ
て来たものだから方角さえ判然としない。思いきってビルの管理人に聞いたが、分からな
いと言う。かなりマニアックなスポットのようだ。
六本木一丁目にある泉ガーデンタワー
六本木という土地は戦前まで麻布市兵衛町という名称で、元々丘あり谷ありの丘陵地帯。
高低差だらけの地形はたくさんの坂を作り出している。その一区画にある泉ガーデンタワー
は谷底から建っていて、地図上では通りに面していても、数十段の階段を下りた所にエント
ランスがある。
荷風先生の日記文学「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう」(大正8年11月8日)
にはこう記している。
『麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。此のあたりの地勢
高低常なく、阻害の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。(略)』
石碑は探しに探しまくった。階段を上ったり下ったり、恰も看板のないうどん屋を探す
が如き。ひと口に植え込みと云っても、それは崖の傾斜を利用した棚田のように何段にも
なっている。
そして右往左往するうちについに発見、一番上の通りに面した歩道横に小さな黒い石の
プレート。荷風先生が26年間住んだ家「偏奇館」は、確かにここに建っていた。
先生はここから足しげく隅田川東の玉ノ井に通い続け、晩年の名作「濹東綺譚(ぼくと
うきだん)」を書き上げた。そして数々の作品を残したこの住居は、東京大空襲で跡形も
なく全焼する。
断腸亭日乗(昭和20年3月9日)にはこう記している。
『天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、(略)』
先生は家も家財も大事な書籍もほとんど失ったが、日誌及び草稿だけは持ち出している。
大正から昭和まで42年間、生き生きと当時の風情や風俗を伝えてくれる「断腸亭日乗」が
今日あるのは、先生の罹災への備えが功を奏したのだ。
そして昭和23年1月12日、玉ノ井にも出かけ、瓦礫と化した街を見てこう書いている。
『温暖小春の天気を思はしむ。午後玉ノ井の焼跡を歩む。震災後二十年間繁華脂粉の
巷今や荒草瓦礫の地となる。濹東綺譚執筆の当時を思へば都て夢の如し。(略)』
東京空襲で全焼した偏奇館
今の六本木は、六本木ヒルズや東京ミッドタウンに象徴されるように、オシャレで
洗練された街になっている。地形さえ変えてしまう大規模開発で、昔の面影は跡形も
なく消えてしまった。荷風先生が伝えてくれる明治、大正、昭和の変遷を想うと、ま
さに夢のようである。一枚の小さな石碑だけでは、あまりに淋しすぎる。恰も出棺の
あとの心中の如し。私にとって作家永井荷風は、世間から忘れ去られては困る作家なのだ。
〈その4 靖国神社〉
今回で二度目の靖国神社、地下鉄東西線九段下から上がると、道は一直線に西に延びる。
左手に武道館を見ながら歩道を進む。社内は初夏を思わせる陽気で、月曜日とあって人影は
まばら。石畳中央に立つ大村益次郎の銅像も、心なしか平和な微笑みで迎えてくれているよ
うだ。
当初靖国神社は東京招魂社と云い、幕末の国事殉難者と戊辰戦争の戦死者を追悼した
のが最初。長州藩士大村益次郎の提唱で作られ、勝った側の長州、薩摩、土佐等の殉難
者が祀られた事から始まる。上野や会津での戦い、そして函館戦争等で負けた側の、つ
まりは幕府側の戦死者は祀られていない。どちらも明日の日本を思い戦ったのだから、
平等に祀られていいように思うのだが、やはり歴史は勝った側から作られている。個人
的には小栗上野介や中島三郎助、そして土方歳三だって日本国の将来を憂慮し戦ったの
ではないだろうか、と思う。
社殿に続く石畳の両脇には、新緑の桜が大きく青々と茂り、人の少ない神社内をより
一層森閑とさせている。心落ち着く静かな参拝となり、英霊に手を合わす。確か前回は
8月14日という日のため、警備の警官がやたらと多く、物々しい警戒のなかの参拝だった
ことを覚えている。
先の大戦で何万という命が失われたのは、本当に悲しい歴史。そのほとんどが20代の
若者達だ。国威発動により戦地で殉死した彼らの尊厳と誇りは、今の我々日本国民が永
遠に弔わなければならないのは当然の事と思う。
そして参拝後の遊就館、エントランスでは実物のゼロ戦が迎えてくれる。
零式艦上戦闘機五二型
館内は戦争の歴史を多くの資料と共に伝えてくれる。その中で一番涙を誘うのが、壁
一面に貼られた戦死者や殉職者のモノクロ写真。5センチ四方くらいの軍服姿のポート
レイトが、私達の心に奥深く突き刺さって来る。一体写真は何万枚くらいあるのだろう。
そのほとんどが20代と思われる若者ばかり。そのなかに意外にも竜馬も発見。
館内中央の吹き抜けの展示場には、ゼロ戦や戦車、大砲など数々の武器が展示されて
いる。館内は撮影禁止のため、そのリアルな画像は載せられない。(下画像2点はウィ
キペディアから引用)
特に殺人的兵器、人間魚雷「回天」と艦船爆撃用ロケット機「桜花」は、終戦直前の
軍部の狂気的発想を見事に伝えてくれる。特攻機ゼロ戦でさえ、鹿児島知覧から離陸後、
エンジントラブル等で喜界島に不時着し一命をとりとめる可能性はあるが、この回天と
桜花だけはそうはいかない。いったん出撃すれば生還率ゼロだ。
人間魚雷回天
ロケット機桜花
百田尚樹著「永遠のゼロ」は、洋上に不時着し生還したパイロットが、ストーリーの
大きなキーワードになっている。しかしこの回天と桜花だけは「永遠のゼロ」ではなく
「完全なゼロ」だ。戦争とはなんと非人道的な残虐性と狂気を生むのだろうか。
昨今、政治家の靖国参拝をなんだかんだと某国が非難しているが、私はひとりの日本
人として、純粋な心の墓参りだと、思っています。
〈その5 ローン中山2世誕生〉
品川から京急で約40分、都心から横浜を過ぎ、金沢文庫という駅に降り立った。今回
の上京のメインターゲット、次男が一戸建て住宅を新築した町だ。私も在学中の数年、
東京で暮らしていたが、こんな所まで来たのは初めてだ。
金沢文庫という町は、金沢八景の名所で沖合には八景島があり、風光明媚な海の観光
スポットがある。また横浜市立大と関東学院大の二大学があって、学生の街といっても
過言ではない。駅の東側の小さな繁華街には、学生相手の安い居酒屋が数軒目を引く。
都心から遠く離れて三浦半島の付根まで来ると、さすがに人の喧騒も軽減し、人口と大
きな駅との不均衡感が拭えない。
次男は昨年結婚したばかりの29歳。勤める会社でそこそこの実績を上げ待遇も良くな
り、賃貸アパートから一戸建てへと思い切ったらしい。お嫁さんの実家に近いことから、
この町を終の棲家に決めたらしい。なんと総額F千万、次男は少なくとも35年間は四国に
帰って来られない。
今回の分刻みの一泊旅行、親としての私は、子育てからやっと解放された充実感と、
新築までして自立した息子への誇り、その一方で、もう帰っては来ないという侘しさを
ちょっぴり味わう旅となりました。