〈その1 青谷上寺地遺跡〉
米子自動車道湯原ICをおり、一般道で倉吉に出て、海岸沿いの9号線を東進。途切れ途切れながらも無料区間の山陰道はありがたい。
遺跡のある鳥取県青谷町は、三方から山のせまる海沿いの小さな町だ。しかし歴史は古く、平安時代の『延喜式』に登場し、因州和紙の製造地として記されている。江戸期には藩の御用紙とされ、宿場町としても栄えたらしい。
この青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が発見されたのは、平成10年の国道9号バイパスの建設工事によるものだった。そのため弥生集落の遺跡は、道路に平行するように発掘されている。
現場に立ってみると、住宅のせまる何カ所かの空き地に青いビニールシートが被せられ、まだまだ発掘は続いているようだ。
ここから発掘されたものは「地下の弥生博物館」といわれるだけあって、土器や石器や鉄器、木製品や骨角製品など多種多様だ。
JR青谷駅近くの遺跡展示館には、それらの発掘物が展示されている。
なかでも注目すべきものが、国内では初となった「弥生人の生の脳」。約1800年前の人の脳が発見されたことは、いろいろな好条件が重なったとはいえ、想像を絶するものだった。
ここから発掘された人骨は100体以上にのぼり、成人男性のみならず女子供を含め、まるで遺棄されたような状態で見つかったという。出雲の猪目洞窟のように埋葬されたものではなく、何かしらの戦闘で傷つき亡くなった人の骨だった。矢じりが打ちこまれたままの骨、鋭い刃物で斬りつけられた胸椎、深い切り傷を負った頭蓋骨など、凄まじい戦乱の映像が見えてくる。
そして発見された新鮮な脳の持ち主は、無造作に水路に転がっていたというから、間違いなく戦乱によって殺害されたのだろう。その脳のスライスは小さな容器に沈んでいるが、長い年月を飛び越えて、晴らすことのできない無念を主張しているかのようだ。
この遺跡は紀元前400年頃から紀元後250年頃までで、最盛期は2世紀頃と推定されている。前回訪れた妻木晩田遺跡とほぼ同時代で、山陰地方の弥生文化圏の中心となっていた。
そのため他地域との交易は広く、香川県五色台産のサヌカイトを素材とした石器、畿内で鋳造された銅鐸、そして中国から持ち込まれた鉄器や貸泉(かせん)などが出土している。
しかし2世紀後半、多様な物資の行きかうこの地域を、凄まじい動乱の嵐が襲う。『魏志倭人伝』にはこう書かれている。
『その国、本(もと)また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、攻伐すること暦年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。』
倭国大乱と卑弥呼登場の記述だ。時期は後漢の桓帝と霊帝の時世だから、147年から189年の頃になる。調査の結果、この殺傷痕のある大量の人骨の出土が、倭人伝に記された倭国大乱の史実を裏付けることとなった。
この青谷上寺地遺跡は、弥生時代後半の繁栄と動乱という明暗の歴史を伝えている。
〈その2 白兎神社〉
青谷からは峠越えの旧国道を東進。展望台のある魚見台からは、広々とした日本海と海岸線が見渡される。梅雨の晴れ間、遠景の輪郭はぼんやりとしている。
無料区間の山陰道は峠下で旧国道と合流し、両方から入ってくる車で交通量はぐっと多くなる。
鳥居の立つ小さな島が左に見えたかと思うと、まもなく白兎(はくと)神社。国道左側には道の駅と駐車場があり、小さな観光地となっているようだ。
誰もが知っている「稲羽の白兎」神話。古事記を細かく読むと、ウサギは皮を剥がれて泣いていても仕方のないことだ。
隠岐の島に住んでいたウサギは、海を渡りたいがために数比べと称し、ワニ(フカ、サメ類)をだました。島から海岸まで何万匹(?)ものワニを並ばせ、その上をぴょんぴょんと渡り、浜にあと一歩で下りるとき嬉しさのあまり、「私はお前たちをだましたのだ」とつい口をすべらしてしまった。
そのため一番浜近くにいたワニが怒りのあまり、ひと噛みでウサギの白い皮を剥いでしまった。どう考えても自業自得だ。
そしてそこを通りがかった八十(やそ)の神々に「前の海の海水を浴び、風通しのよい高台で伏せっているとよい」と言われ、その通りにしているとみるみるうちに塩が乾き、うす皮は裂けてしまった。ウサギはあまりの痛さで七転八倒。
そこにまた八十の神々に遅れて通りがかったのがオオナムヂ(後のオオクニヌシ)。泣き伏せっているウサギを可哀そうと思い、「真水で体をよく洗い、蒲(がま)の穂を敷きつめて、その上に横たわっていれば治るだろう」とアドバイスした。ウサギはその通りにすると、もと通りの白い毛でおおわれたという。
八十の神々は、火に油を注ぐような意地悪な集団だが、オオナムヂは医療に精通した心優しい人格者だったというわけだ。
その結果、稲葉に住むヤガミヒメは、オオナムヂの優しさに感動し彼に嫁ぐことを決心する。ウサギの詐欺まがいの行為は、どこかに吹っ飛んでしまい、出雲の支配者となるオオナムヂの知恵と美談が強調されているのが、「稲羽の白兎」神話だ。
鳥居をくぐり石段を上ると、すぐ右横に蒲の穂が植えてある。ガマは古来より止血剤として使われていたらしい。オオナムヂはメディカル・シャーマン(巫医)であったことによって、王になる資格を持っていたと、口語訳『古事記』の著者・三浦佑之氏は解説する。
ふたつ目の鳥居をくぐり参道を進むと、ウサギが塩を洗い流したという「御手洗池(みたらしいけ)」がある。この池は「不増不減の池」とも呼ばれ、どんな豪雨でもどんな干ばつでも水の増減がないそうだ。痛みで泣きはらしていたウサギも、きっと気持ちよく水浴びをしたに違いない。
社殿は想像以上に小さい。出雲の神社を数多く見てきた私にとって、期待はずれの感が拭えない。境内もいたって狭い。
それでも若いカップルの参拝者は絶えない。今は、若いオオクニヌシが美しいヤガミヒメと結ばれたことから、縁結びのスポットとして人気があるそうだ。
願い事が叶うという白兎起請文が300円で売られていたが、私にはいっさい要がない。賽銭とお参りだけに留め、とっとと先を急いだ。
〈その3 鳥取城跡〉
さらに9号線を東進。鳥取平野に入ると、左手にある鳥取空港への標識が何度も表示される。鳥取空港の愛称は「鳥取砂丘コナン空港」。山陰の空港名はこんなユニークなネーミングが多い。米子は「米子鬼太郎空港」、出雲は「出雲縁結び空港」で、アニメや土地柄を反映した名称になっている。
ならば高知に「高知龍馬空港」があるのだから、わが香川県も「高松讃岐うどん空港」とか、「高松弘法大師空港」の愛称を採用してみてはどうだろうか?そしてまた「徳島阿波踊り空港」や「松山坊ちゃん空港」も有りではないか?
鳥取城跡のある久松山(きゅうしょうざん)は平野のどこからも見え、扇を逆さにしたような端正な形をしている。
山の西側山麓に幾重にも積み上げられた石垣群は、かつての堅城の威容を偲ばしている。山頂にあった天守は元禄5年(1692)に落雷で消失し、以後再建されることはなかったが、因幡伯耆32万石の鳥取藩として栄華を極めたという。藩祖・池田光仲の祖父が家康ということもあって、外様でありながら建物に葵ノ御紋の瓦を葺くことが許され、徳川一門に準ずる厚遇を受けたようだ。
そして明治初期まであった建物群は、西南戦争終了後解体撤去され、一部の用地は尋常中学校となった。大正期には久松公園として整備され、一般市民に開放されている。
ガイダンスを初老のボランティアガイドさんにお願いした。北の御門跡から入城したが、この門は本来の正門ではないらしい。お濠の南方向ではさかんに工事が行われていて、平成32年には大手門となる太鼓橋が架けられると云う。明治初期の古写真をもとに、橋や中ノ御門の再整備が進めれているようだ。
米蔵のあった広い芝生広場から見上げる石垣群は、堅牢で重厚な鎧を纏っているようだ。積み方のほとんどは野面(のづら)積みで、石の調達はすべて背後の山から切り出されたという。野面積みは信長が始めた戦国初期の積み方だが、眼前の野面は関ケ原以後の徳川期に入って積まれたものらしい。打込接(うちこみはぎ)や切込接(きりこみはぎ)といった目地の整った進化した石垣は、城門付近にしかない。関ケ原以前はただ土を掻き上げただけの城郭だったようだ。
やはりガイドさんに聞いてみないと分からない。
鳥取西高のある三の丸の横を上ると、初めて目にする石垣がある。天球丸という曲輪の石垣には、丸い地球儀を半分埋め込んだような石積がある。雨による崩壊を防ぐために補強されたものらしい。簡単に登って行けそうなこの石垣は、平和な江戸期に造られたというから、せまる敵よりも降る雨を恐れたのだろう。
三階櫓の石垣には、「お左近(さご)の手水鉢」が埋め込まれている。関ケ原後、姫路城を築いた池田輝政の弟・長吉(ながよし)がこの城に入城した。さっそく長吉は城の本格的な改築に着手し、子の長幸にも工事は受け継がれていった。お左近は長幸の正室の女中で、美しく化粧し小袖に袴という姿で工事現場をまわり、日々人夫を励ましたという。そのため工事は大いにはかどり、無事完了したと伝わっている。手水鉢はお左近が寄進したものだ。
男を奮い立たせたお左近の晴れ姿は、殿様以上にやる気スイッチを入れたに違いない。
山麓にあった櫓群は山下ノ丸(さんげのまる)と呼ばれ、山頂にあった天守等を山上ノ丸(さんじょうのまる)という。その標高263mにある本丸跡に登ってみた。
赤い鳥居をくぐると、いきなり急な石段が続く。梅雨の晴れ間、予報では30度を超えているらしい。蒸し暑さのなか、ひたすら息を切らしながら登る。道はつづら折りになってはいるものの、どうやらほぼ急斜面の直登だ。楽に登れるとナメてかかったが、汗と荒息が止まらない。登山靴でなかったことも災いした。
江戸中期天守は落雷で消失し、その後再建されなかった理由がよく分かる。こんな急坂、毎日裃を着て登城するなんて大変だ。消失後、政務は山下ノ丸に移ったという。
赤い鳥居から20分で山上ノ丸に出た。涼しい風が吹き抜け、眼下に素晴らしい展望が広がる。
本丸中央には車井戸があり、3年の歳月をかけて掘られたという。というよりは、水が出るまで掘り続け、その時間が3年を要したということだろう。どれくらいの長さの縄で、水桶を汲み上げたのだろうか?
本丸から一段上がった天守跡からは、広い鳥取平野が一望できる。
南の中国山地を水源とした千代川は、平野を潤しつつ、北の日本海へと流れ出ている。その河口付近から東方向には、海と緑の陸地を縁どるように砂丘が続いている。西方向には湖山池が見え、その上空の雲の切れ間からは、陽光の筋が池を照らしている。そしてさらにその奥には、名峰・伯耆大山の山影が墨絵のようにうっすら見えている。
江戸時代、国内では12番目の石高を誇った鳥取藩、その32万石の池田藩の栄華と繁栄を見るようだ。
鳥取城といえば、「渇え殺し」と呼ばれる秀吉の兵糧攻め。久松山から東に1.5km、ほぼ同じ高さの山頂に秀吉の本陣があった。太閤ケ平(たいこうがなる)と呼ばれ、圧倒的な土木量においては日本最高傑作の陣城だった。今も大手虎口、土塁や空堀がよく保存され、久松山とは数本の遊歩道が整備されている。
天正9年(1581)7月、秀吉は2万の兵でこの鳥取城を100日に渡り包囲した。家臣には加藤清正や藤堂高虎、軍師黒田官兵衛など錚々たるメンバー。籠城した吉川陣営は約1400人、兵糧をすべて断たれた城内は、最期には餓死者の人肉まで食べるという生き地獄になった。司馬先生は『新史太閤記』のなかで、「古来、人肉を食った例は、残されている資料ではこの鳥取城内の場合しかない」と書いている。
ついに総大将の吉川経家(つねいえ)は、共に戦った家臣や城に避難していた民衆の命と引き換えに、自刃し開城となった。血を流さず戦った秀吉の見事な城攻めだった。これは「三木城の干(ほし)殺し」で学習した戦術で、このあと備中高松城の水攻め、小田原城の調略攻めへと磨きをかけていく。時間と手間ひまはかかるが、犠牲者を最小限に抑えた秀吉の攻城術は、まさに戦わずして勝つ孫氏の兵法だ。
そして城攻めの歴史そのものを変えた秀吉は、「城攻めの天才」と呼ばれるようになる。この鳥取城の「喝え殺し」は彼にとって大きな布石となった。
〈その4 まとめ〉
「スタバはないけど、日本一のスナバがある」とPRしていた鳥取県、そのコピーはすでに死語。鳥取駅南口の西方向にスターバックスはあった。駅自体も想像以上に大きく、新幹線の駅舎並みの規模だ。
おまけに駅構内にはたくさんのコーヒーショップが乱立している。それもそのはず、鳥取県人の珈琲の年間消費量は、京都市に続いて全国第2位。今や大手全国チェーンの店舗を含め、コーヒーの激戦区になっているらしい。
鳥取は確かに砂丘だけではない。発掘された遺跡群を考え合わすと、2千年以上の歴史をもっている。伝播した大陸文化は、北九州、出雲、そして因幡の地を拠点に、弥生時代を代表する文化圏を形成していた。
それは東アジアの地図を上下ひっくり返して眺めてみるとよく分かる。中国大陸や朝鮮半島から伝わる鉄器や青銅器、あるいは稲作技術などは、対馬や壱岐を経由して、まず日本海側の沿岸地域に上陸する。その当時は太平洋側が裏日本だった。これからも道路建設などに伴い、妻木晩田や青谷上寺地に匹敵するほどの、新たな発掘があるかもしれない。
鳥取県には名峰・大山があり、たくさんの温泉だってある。古事記に書かれた神話があり、秀吉の攻めたお城だってある。32万石の城下町を抱える鳥取は、コーヒー戦争以上に奥深い。
こんな新たなコピーはいかが?『スタバもスナバもあるけど、日本一のイナバがある』。