なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

出雲散歩(2)~出雲神話を訪ねてパート2 (2016 11 12)

2016年11月26日 | 歴史&観光

『国譲り』の舞台となった稲佐の浜


〈その1 須佐神社〉

 山陰道の終点・出雲ICを下り、山あいの県道を30分ほど走ると須佐神社はあった。十数台は置けそうな駐車場から小さな橋を渡り鳥居をくぐる。小さな境内だがスサノヲを祀る社だけあって由緒正しい佇まいを見せている。


 入ってすぐ右側には「須佐の七不思議」のひとつ「塩の井」の泉がある。この泉は出雲大社近くにある稲佐の浜と繋がっていて、わずかな塩味を感じると云う。実際に口に含んでみた。でも舌のどの部分でころがしても塩分は感じられない。あらためて神社と浜の標高差を考えると、重力と圧力を無視した力学に立たなければならないだろう。


 参拝を済ませ拝殿奥の本殿を見上げる。いかにも出雲らしい大社造りの立派な社殿だ。屋根は切妻栩葺き(きりづまとちぶき)で、造営は天文23年(1554)の戦国時代だ。二十歳の信長が清洲城に拠点を構える前年に当る。
 そして本殿裏には更に古い樹齢1200年の大杉が聳えている。幹回り6mの老木は、もちろんタテのワンショットでは入りきらない。頭上の枝葉は天空のほとんどを覆い、神社の杜をいっそう暗くしている。徳川期の加賀藩が船の帆柱に使いたいと願い出たが、見事に拒否されている。計算するとその当時ですでに樹齢800~900年の大杉。しかし逆に考えれば、ご神木を伐採しなかったからこそ、加賀百万石は幕末まで栄華を極めたのかもしれない。


 この神社の祭神はアマテラスの弟・須佐之男命(スサノヲノミコト)。古事記によると、彼は亡き母・イザナミ会いたさに「出雲の国の肥の河のほとり、名は鳥髪」という所に降り立った。上流に遡って行くと、老夫婦と一人の娘が泣いていた。スサノヲがそのわけを尋ねると、「私たちの娘はもともと8人いたが、八岐遠呂地(ヤマタノオロチ)が年ごとにやってきて喰ってしまった。今またそやつが来る時が近づいている。だから泣いているのです」と言う。

 「肥の河」とは現在の斐伊川(ひいかわ)のこと。中国山地の船通山を源流とする153キロもある一級河川だ。古来より度々洪水が起きていて暴れ川だったようだ。そして住民を苦しめた川の流れは、徳川期の大規模な河岸工事で大きく進路が変えられた。以前は西流して日本海に注いでいたが、その後は大きくカーブするように、東方向の宍道湖に流れこんでいる。

 ヤマタノオロチとはまさにこの斐伊川のことだ。「体ひとつに八つの頭と八つの尾」とは、山あいの谷筋から集まった支流が一つの本流となり、河口付近では蛇の尾のごとく荒れ狂う姿を表現したものだ。ヲロチは水の神を象徴する自然神で、泣いていた老夫婦は娘を生贄に差し出すことで、水の神を崇め川の恩恵を受けてきた。

 スサノヲはその娘を貰い受けることを条件に、暴れ川のヲロチを退治する。最後にヲロチの尾の先を断ち割ってみると「ツムガリの太刀」が出てくる。これが天皇家の三種の神器のひとつ「草薙の太刀」だ。この太刀はのち伊勢神宮に祀られたが、ヤマトタケルによって尾張の熱田神宮に運ばれ祀られることになる。
 この太刀が比喩することは鉄器文化の萌芽だ。古代より斐伊川上流には砂鉄の産地が多い。ヲロチをずたずたに切り刻んで退治したため「肥河血に変りて流れき」とあり、製鉄によって川の水が真っ赤になったことを表現しているのだろう。

ヤマタノオロチに立ち向かうスサノヲ(島根県立古代出雲歴史博物館所蔵)

 またスサノヲは穀物の種を持っていたので農耕の神様でもある。荒れ狂う斐伊川を制御し、出雲の稲作文化を推し進めた。その結果、スサノヲは約束通り娘のクシナダヒメを娶り、宮を建てるにふさわしい「須賀」という地にたどり着いた。そこが現在の須佐神社で、「須賀」と「須佐」はスサノヲとの語呂合わせらしい。
 いずれにせよ、スサノヲは天上の高天原から乱暴者として追放されたが、出雲に降り立ったのちは英雄に変身したようだ。


〈その2 旧大社駅〉

 今回の予定にはなかった旧大社駅。出雲大社に近づく道路沿いから、突然、蒸気機関車が目に飛び込んできた。看板に従って右折してみると、純木造の駅舎の建つ広場に出た。脳内はたちまち神話モードから鉄チャンモードに切り替わった。


 威風堂々とした建ち姿はかつての賑わいを連想させる。今は静かに佇む旧駅舎は大正13年に改築されたもので、国の重要文化財にも指定されている。平成2年に廃線となった大社線は、明治・大正・昭和の一世紀にわたり大社参拝の窓口として多くの乗客を運び続けた。ピーク時の昭和28年の遷宮祭には12万9千人の参拝客を運んだという。
 中央の待合室に入ると、そこは昭和の匂いがたちこめている。高い天井は格子状に木が組まれ、駅員室や改札口を仕切る窓枠は黒光りしている。天井からは灯篭のようなシャンデリアが幾つも吊るされ、各所にこだわりのある職人技が施されている。
 でも「昔の駅はこうだった」と思う。私の小さい頃の駅舎は、これほど重厚な造作ではなかったとしても、改札口の手すりや待合室のベンチはこんな風だった。触ってみると遠い記憶のぬくもりが蘇ってくる。


 プラットホームに出てみた。ホームは2面3線あり、線路が廃線当時のまま残されているのが嬉しい。掃除もよく行き届いている。線路は両方向で断ち切れているとはいえ、今にも蒸気を吐きながら列車が入ってきそうな雰囲気だ。北方向の途切れた線路の向こうには大社の白い鳥居が見え、門前町の玄関としてベストな位置関係にある。


 そして対面の島式プラットホームには老体のD51が横たわっている。逸る心を押さえながらも走って線路を渡り、近づくにつれ、いやが応でも鉄チャンモードは頂点に達した。
 くたびれた面構えだ。野ざらしのD51形774号機関車は原型を留めているものの、全身にやけどを負ったように赤サビが回っている。象徴的な漆黒の色彩は薄れ、なすがままの風雨で憐れなほどの表面をむき出している。かつての力強い威圧感は遠のき、まるで酷使した牛馬の屍のようだ。
 「せめて屋根だけでも付けてあげればいいものを、、、かつては大活躍した機関車ではないか!」その惨めな姿に疑問と不満が湧いてくる。京都の鉄道博物館のように「動かせろ」とは言わない。せめて外見だけでも本来の勇壮な姿で保存して欲しいものだ。よく整備された駅舎とは対照的に、死に体のD51 があまりに可哀そうでならない。




〈その3 出雲大社〉

 メインストリートの神門通りに入ると、道路の両側には土産物屋が建ち並び、観光客もぐっと多くなる。全国から毎年250万人の参拝者があり、特に縁結びの神様だけあって若い女の子のグループが目立つ。
 正面の鳥居をくぐり、広い石畳の参道をゆるやかに下る。枝ぶりのよい松並木が続き、三つ目の鳥居から本殿のある境内となる。


 今年大社は8年の歳月をかけ「平成の大遷宮」を完了したばかり。その真新しさを求めてか、境内は拝殿をはじめどの摂社も末社も長蛇の列。おみくじひとつ求めようにも御守所前は黒山の人だかりだ。天気に恵まれた週末なんて本当に来るもんじゃない。


 祭神の大国主命大神(オオクニヌシノオオカミ)は、一般に因幡の白兎を助けたことで知られているが、その生涯は波乱と苦難に満ちている。
 古事記には詳細に書かれていて、まず彼には「オオナムジ」などの五つの別名があり、元々別の神々が最終的に「オオクニヌシ」の名で出雲統合を計ったと考えられている。そしてスサノヲの7代目の子孫に当たり、5人の女性と結婚したと云われる。その一人の正妻「スサリビメ」はスサノヲの娘なのだが、どうにも年代が合わない。スサノヲの7代目の子孫がどうやってスサノヲの娘を嫁にできるのか?古事記をどう読んでも分からない。神話の世界なのだから仕方ないが、スサノヲとスサリビメの住む「根の堅洲(かたす)国」は、不老長寿の世界だったらしい。これは天皇家が出雲の支配者オオクニヌシとの血縁関係を強調することによって、なんらかの意図を示そうとしたに違いない。オオクニヌシは天皇家とは縁もゆかりもない豪族どうしだったはずだ。

 最終的にオオクニヌシは天皇家のヤマト政権に出雲の地を譲ってしまうのだが、実際には「譲った」のではなく「奪われた」のが史実だろう。そこには血で血を洗う戦さが何十年も続き、戦国時代のように多数の戦死者が出たことだろう。しかし古事記は「国譲り」という甘い言葉のオブラートに包み込み、神話の世界として封じ込めている。これは「天も地も支配するのは正統な天皇家であり、平和裏のうちに政権移行がなされた」といったねらいがどうしても垣間見えてくる。

 そんなオオクニヌシを祀る出雲大社には三つの謎がある。
①本殿は南を向いているが、オオクニヌシの御神座だけは西を向いている。
②結界を表わすしめ縄は、一般の神社とは逆に縒(よ)られている。
③通常の参拝は「二拍手」なのに「四拍手」なっている。(大社は二礼、四拍手、一礼)
これらの謎を明確に解き明かした研究者は現在でもいないらしい。


 オオクニヌシが苦難のすえ統一した出雲王朝を、力づくで略奪した天皇家のヤマト政権。これらの三つの謎はオオクニヌシの怨恨がそうさせているのか?いや、そんな単純なことではなく、そもそもヤマト政権が、なぜ超高層の大神殿まで建ててオオクニヌシに気遣ねばならないのだろうか?戦国時代ならば落城させ領地を奪ってしまえばお仕舞だ。前支配者の功績など逆に抹殺してきた。おそらく両者には「泣いて馬謖を斬る」といった無視できない恩義関係があったのだろうと、私は推測する。ともかく古事記に書かれた国譲り神話は謎だらけだ。


〈その4 古代出雲歴史博物館〉

 古代出雲を知る上でこれほど遺物や資料の揃った博物館に感動した。何といっても平成20年に大社境内から出土した巨大柱は、世紀の大発見だった。その宇豆(うづ)柱と呼ばれる老木が、正面入ってすぐのロビー中央に展示されている。太さ1.3mもある太木を、3本組み合わせた直径3mにもなる巨大柱だ。放射性炭素年代測定の結果、鎌倉初期に伐採された杉だと分かっている。こんな太い三本柱に支えられた神殿は、一体どれほどの規模の建物だったのだろうか?


 その巨大神殿が次の間にあった。10分の1の模型とはいえ高さ5mもある。神殿自体は過去に何度も建て替えられていて、そのたびに遷宮がなされている。平安時代の『口遊(くちずさみ)』という書に「雲太、和二、京三」とあり、当時の建物で最も大きいのが雲太の出雲大社、二番目の和二が東大寺大仏殿、三番目の京三が平安京大極殿だったと記されている。二番目の大仏殿の高さが46mあり、大社本殿が16丈(約48m)あったことが、巨大柱の発見で裏付けされる結果となった。
 とにかく木造りの48mの大神殿は壮大なものであっただろう。それに上がっていく階段は、天国と地上を結ぶ長大な架け橋だったに違いない。古代出雲人の高度な建築技術に息を呑むばかりだ。



 そして次の間にある400本近い銅剣の展示は圧巻だ。あっ!と思わず声がでた。今回の出雲散歩はこれが見たくて来たのかもしれない。
 ガラス越しに整然と並べられた銅剣は、薄暗い部屋のなかで金の延べ棒のように光り輝いている。一本一本丹念に磨き上げられ、素材が銅だとは思われないほどの光沢と鋭利を見せつけている。角度によってゴールドやシルバーに、あるいは淡いグリーンに見えたりする。部屋全体が高価なコレクションルームのようで、その数の多さに瞬きさえ惜しくなる。画像では到底伝えられない超豪華な宝物が目を十分堪能させてくれる。日本刀の美とはまた違った銅剣は、光り輝くことで美を主張しているような気がした。



 これらの銅剣群は、近年発掘された荒神谷(こうじんだに)遺跡と加茂岩倉遺跡から出土したもので、考古学会の常識を覆すものだった。
 『出雲抹殺の謎』(関裕二著/PHP文庫)によると、「青銅器文化は北部九州と畿内の二大勢力が中心で、出雲には独自の青銅器文化などあろうはずがない」というのが従来の定説だったらしい。ところが発掘された銅剣は、荒神谷(1984年発掘)が358本、加茂岩倉(1996年発掘)が39本で、その数の多さは考古学会の大発見というものだった。それまで日本全国で発見された総数が300本あまりで、一カ所の遺跡だけでそれを上回る数量の発見だった。また同時に発掘された銅矛や銅鐸も夥しい数で、考古学会のみならず史学会の常識まで覆す結果となった。
 古事記の三分の一を占める出雲神話は、近年までこれといった考古学上の発見がなかったため、ヤマト政権以前の幻想として捉えられていた。しかしこれらのぼう大な数量の発見で、出雲神話は何らかの史実をもとに創作された可能性が高くなった、というわけだ。



 古事記は和銅5年(712)、日本書紀は養老4年(720)に編纂されている。ヤマト政権の卑弥呼が女王になったのは弥生後期の188年。オオクニヌシの国譲りはそれ以前の神話だから、記紀は500年以上前の伝承がもとになっている。現在から500年以上前となると戦国時代。記紀の時代から出雲神話を見るのと、現代から戦国時代を見るのとは、史料の量と質に違いがあるだろうし、また歴史的評価も異なるだろう。しかし今でも日中戦争や太平洋戦争の評価は各国によって捉え方が違う。そうなるのはきっとなんらかの史実の改ざんや隠匿、そして抹殺があるからだろう。ときの権力者が政権の正統性を主張するのはどの時代でも共通している。信長を討った光秀や家康を敵にまわした三成が、なんとなく悪者のイメージに捉えられているのはそのためだ。

 古代出雲には大神殿を造る高度な建築技術や、銅剣が代表する青銅器文化が花開いた。そこに政権の正統性を主張するヤマト政権が現れ、オオクニヌシの出雲王朝を占領した。そして天の御舎(あめのみあらか)つまり出雲大社を造営し、オオクニヌシはそこに籠もり鎮まり祭神となった。それはおそらく天皇家に殺され葬られた事を意味するのであろう。ここから出雲の悲劇は始まったのだ。


〈その5 稲佐の浜〉
『遣わされたタケミカヅチの神は出雲の国の伊耶佐(いざさ)の小浜に降り到ると、その身に佩(は)いた十掬(とつか)の剣を抜き放ち、切っ先を上に向けると揺らめく波の穂がしらに柄頭(つかがしら)を刺し立てての、その尖った剣の先にあぐらをかいて座り、オオクニヌシに向こうて呼びかけたのじゃった。
「アマテラスの大御神とタカギの神との仰せにより、問いに遣わせなさったものである。なんじが己れのものとしている葦原の中つ国は、わが御子の統(す)べ治めなさる国であるぞとのお言葉である。そこで尋ねるが、なんじの心はいかがか」』 (口語訳『古事記』三浦佑之著/文藝春秋)



 大社から西へ車で5分、夏には海水浴場になる稲佐の浜に降り立った。まだ夕暮れとは言い難い高さの陽が、海の上を照らしている。弓のように張り出した砂浜が遠くまで見え、よせる海辺の白波を押しかえしている。今が干潮なのか、満潮なのか分からない。遠浅の海岸には間違いなさそうだ。
 遠い波打ちぎわにはポツンとひとつの岩の塊が見え、その周辺を数十人の観光客がたむろしている。岩も人も陽を背にしているため、黒いシルエットとなって海の光景に写りこんでいる。
 浜に降り岩の近くまで行ったみた。砂浜は大勢の人で踏み鳴らされ、普通の地面のように締まり歩きやすい。波は意外なほど静かに寄せては返している。岩の上部には小さな鳥居が置かれ、それをバックに若い女の子たちが思い思いにシャッターを切っている。


 この浜こそアマテラスの3人目の使者・タケミカヅチが、オオクニヌシに「イエスか、ノーか?」を迫った場所だ。尖った剣の先にあぐらをかいたタケミカヅチは、まさに空中浮揚のできる霊能者のようだ。こういう表現が至る所に散りばめられている古事記は実に面白い。アマテラスの至上命令を受けた刀剣の神・タケミカヅチは、それだけ意を決して事に挑んだのであろう。
 最終的にオオクニヌシは二人の息子の承諾も得、「葦原の中つ国」である我が領地出雲を明け渡すことになる。ただし、ひとつの条件を付けた。それがひときわ天高く聳える杵築大社(きづきたいしゃ)、つまり出雲大社の造営だ。そしてそこでいつまでも火を焚き続け、その火で神に供えるご馳走を作り捧げることで、永遠の服従を誓わされた。
大国主神 (オホクニヌシノカミ)

 この国譲りは、出雲に支配者層と被支配者層の二重構造の社会を生む結果となった。それはまるで関ケ原以降の土佐藩のようなものではなかっただろうか?勝者である「上士」の山内家の下に、敗者である「郷士」の長宗我部家の遺臣団があったように、きびしい身分社会が形成されたに違いない。「郷士」は身を隠すように生き、「上士」の政治には永久に参加できなかった。
 当初、出雲の占領政治の司令官はアマテラスの次男・アメノホヒだ。天皇家は後年、国造(こくぞう)という地方長官制を各地に創設し、出雲ではアメノホヒの子孫が代々受け継ぐことになった。国造は大社の宮司職で、オオクニヌシの代行者として出雲民族を慰撫する祭主だ。そしてその家系は連綿と続き、現在の千家氏と北島氏がそれに当たる。だから出雲の国造という神職は、なろうと思ってもなれない神代から継承された血統家系なのだ。
 出雲では今でもアマテラスの天孫系とオオクニヌシの出雲系の精神世界が息づいている。ただ土佐藩と出雲と大きく違うのは、前者は今では一種の庶民気質に過ぎないが、後者は二つの神聖家系という血筋の重さだ。
 
 司馬先生は、この出雲の精神世界をこう評している。
『血統を信仰する日本的シャーマニズムに温存され、「第二次出雲王朝」は、二十世紀のこんにちまで生存をつづけてきた。この事実は、卑小な政治的議論の場に引き移さるべきものではなく、ただそれだけの保存の事実だけを抽出することによって、十分、世界文明史に特記されてもよい。いわば、芸術的価値をさえもっているではないか。』 (『歴史の中の日本~生きている出雲王国』中央文庫)

 旧暦の10月を神無月(かみなづき)という。しかし出雲では逆に神在月(かみありづき)という。年に一度、全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲大社に集うために、この稲佐の浜から上陸するそうだ。旧暦の10月10日には「神迎(かみむかえ)の神事」で賑わうらしい。


〈その6 日御碕神社〉

 稲佐の浜を後にして日御碕を目指す。漁村を過ぎると海岸線は急に崛起し、道路は岸壁にはりつくようにつづら折りになる。曲がりくねること10分、左下に赤い建物が見えると信号を右折し、大きくカーブした突当たりに鳥居があった。


 鳥居をくぐり正面の桜門前に立つと、出雲の神社らしからぬその朱の色の派手さとけばけばしさに、そしてその違和感に驚かされる。

 現在あるこの門と社殿は、徳川3代将軍家光が10年の歳月をかけ建立、建築様式は近世盛んに取り入れられた権現造りだ。だからこの色と華やかさは徳川の威光と繁栄を表現しているのかもしれない。出雲をこよなく愛したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲でさえ、この派手さを愚痴っている。

『私は、杵築大社の厳粛にして簡素なものを、ここでも見られるものと期待していた。しかし、天照大神を祀った日沈宮は、初めはこれが本当に神道の社かと疑いたくなるようなきらびやかなものであった。正直いって、ここには純粋な神道は存在しない。これらの社殿は、かの名高い両部神道の時代に属するものである。それらは、古代の信仰が仏教に浸透されて、同化し、外来宗教の壮大な儀式や派手な装飾的美術などを取り入れた時期に当る建造物なのである。』 (新編『日本の面影Ⅱ』角川ソフィア文庫)



 社は上の本社と下の本社を総称して日御碕大社と云われ、祭神は上がスサノヲ、下がアマテラスになっている。この下の本社は「日没の宮(ひしずみのみや)」と云われ、平安中期の948年若き村上天皇の勅命で、伊勢神宮が日ノ本の「昼」を日御碕大社が「夜」を守ることを意味している。これは古事記の世界観が基調となっている。ヤマト政権から見て太陽の昇る伊勢に対して、陽の沈む出雲が暗黒の黄泉の世界と繋がっていると、考えられたからだ。暗黒の夜を守る社だからこそ、豪華絢爛に、けばけばしい色調を取り入れているのかもしれない。その確かな理由は分からない。
 いずれにせよ、今まで見てきた出雲の社とは対照的な社殿造りは、太古の神々を祭祀するというよりは、徳川の権威を主張しているようでならない、と私は思った。

 
〈その7 日御碕灯台〉

 この灯台に来たのはこれで二度目。30年前のうっすらとした記憶の中では、これほど観光ずれしてなかったように思う。広い駐車場から下りる歩道は、土産物屋や飲食店が隙間なく軒を並べ、名物のイカ焼きの匂いが辺り一面に漂っている。
 海岸沿いの遊歩道に出ると、瀬戸内海では見られない荒々しい絶景が広がっている。遥か彼方の水平線が空と海を分け、眼下には白い波頭が激しく岩の上で散っている。
 しかし高い断崖絶壁の上に立つと、なぜかここから先には日本の国土がないという寂寥感に襲われる。以前もそんなもの淋しさの中で海を見たような気がする。


 厳密にはこの沖合いには隠岐の島々が浮かんでいるのだが、日本海の強い風をうけ、岩礁を激しく洗う波を見ていると、なぜか最果ての孤立感を感じてしまう。桂浜から見る太平洋は、海の向こうに夢と希望を抱くのに、この日本海の向こうにはなぜか挫折と終焉を感じるのは私だけだろうか?
 かつて日本列島は「表と裏」と表現された。また「日出づる海」と「日沈む海」の相違が陽と陰のイメージとなって、脳内に刷り込まれているのかもしれない。ましてや時刻は午後4時、夕陽がまもなく水平線と接しようとしている。頭上の青さは目を落とすに従って赤みを増し、そのグラデーションが一日の終わりを告げている。聴こえてくるのは足下の波音だけ。岩の上でくつろぐ観光客は、やわらかい夕陽の光景に溶け込んでいる。
 そして西の方角には、ウミネコの繁殖地で有名な経島(ふみしま)が見える。日御碕神社の祖形のひとつ百枝槐社(ももえのえにすやしろ)があった場所で、その鳥居らしいものが小さく見えている。かつては神職以外の上陸は許されず、まさに聖なる島だった。


 日御碕一帯は海岸段丘と呼ばれる地形で、20~30mある断崖の上には平坦地が広がっている。その浅い表土にはクロマツが生い茂り、冬の日本海の風は想像以上に厳しいのか、多くは風下の方向に折れ曲がっている。
 また構成している岩石が面白い。流紋岩の溶岩が「柱状節理」という柱状の割れ目を作り、その切口が5角形あるいは6角形になっている。節理面はもろく、指の力でぽろぽろと崩れていく。そのもろい岩石が荒波を受け、特異な断崖の景観を作りだしている。
 頭はどうやらブラタモリの世界にスイッチしたようだ。


 灯台の真下に立ってみた。足許から見上げる灯台は、純白のウエディングドレスを着た、スレンダーでソフィスティケートな女性に見える。
 明治36年に初点灯し、高さ44mを誇るこの塔は、外壁は石造りで内壁はレンガ造りの二重構造になっている。白い壁面がドレスの柄模様に見えるのはそのためだ。


 白くスリムな灯台と沈みゆく夕陽、この光景はやはり最果ての地を連想させる。崖の向こうには広々とした海しかなく、その縁を守る一柱の灯台はどこか寂寞と孤独に満ちている。そしてこのマイナーなイメージは、小説やTVドラマに数多く描かれている。
 例えば、西村京太郎の『鳥取・出雲殺人ルート』(光文社文庫)では重要参考人が沖合いで溺死体となって浮かび、謎の女はこの灯台から疾走する。事件解明に挑む十津川警部はさらに迷走する。また、サスペンスドラマの帝王・船越英一郎扮する刑事は、犯人をこの断崖の上まで追いつめる。観念した犯人はすべてを自供し、突如背後の日本海に身を投げてしまう。船越刑事があっ!と叫んで2時間ドラマは完結する。暗い日本海、岬の燈台、断崖絶壁の3点セットは、どうしても溺死体や自殺といった負のイメージが付きまとう。
 何故だろう?諸悪の根源は、やはり、松本清張氏か!
 場所こそ違うが、能登・東尋坊の自殺事件から始まった『ゼロの焦点』、ラストシーンも半島沖の悲劇で終わっている。


〈その8 猪目洞窟〉

 記紀成立20年後に編纂された『出雲風土記』(733年成立)にはこう書かれている。
『磯から西の方向に窟戸(いわやど)がある。高さ・広さはそれぞれ6尺ばかりである。窟の中に穴がある。人は入ることができない。奥行きの深さは不明である。夢でこの磯の窟のあたりに行くと、必ず死ぬ。だから土地の人は古より今にいたるまで、黄泉の坂・黄泉の穴と名付けている。』

 洞窟の夢を見ただけで必ず死ぬとは、実におどろおどろしい。宝くじの正夢は見たいが、こんな悪夢は見たくない。
 日御碕から東へ30分、左手に夕暮れの日本海を見ながら、海岸沿いの細い県道を行く。道は曲がりくねり、場所によって対抗すらできない。小さな入江の手前に猪目(いのめ)洞窟の小さな看板が目に入った。今日の最終スポット、古代人が黄泉の入口と考えた洞窟だ。


 時刻はまもなく5時、あたりはうす暗い。おまけに穴の入口は東に向き、西日のあたらない山影になっている。通り過ぎる車さえない、超マニアックなスポットだ。
 勇気を出して洞窟の入口に下りてみる。そこは漁師の船や船具の保管場所になっていて、地面は傾斜をしながら波際まで続いている。入口には小さな祠が置かれ、穴奥はすぐ行き止まりになっているようだ。人気のない暗さが薄気味悪い。


 風土記には洞窟の高さ・広さがそれぞれ6尺(約180㎝)と書かれているが、そんなことはない。海側にぱっくり開いた入口は縦横30mはあろうか?洞窟という奥深い入口ではなく、断崖が荒波に浸食された岩の割れ目だ。頭上の岩盤は高く、左右の間口も漁船を陸揚げするほど広い。その割れ目の奥が洞穴ということになる。
 風土記に書かれた大きさから云うと、ここから西へ2キロほど行った「垂水の磯の窟」と比定する説もあるが、実際この猪目から古代人の人骨が出土したのだから仕方ない。立看の説明によると、昭和23年に船上げ場の拡張工事をした際、弥生から古墳時代にかけての人骨と副葬品などが埋まっていたという。


 では前回訪問した黄泉の入口「黄泉比良坂(よもつひらさか)」との位置関係はどうなっているのだろう?古事記の世界観は天上、地上そして地下の三層構造になっている。それぞれは「高天の原(たかまのはら)」「葦原の中つ国」そして「黄泉の国」と呼ばれていて、地上と地下を繋ぐ入口が黄泉比良坂だ。どうやら黄泉へ行く入口は猪目を含めて複数あるようだ。

 死者を洞窟に葬ることを洞窟葬という。それは死者が穴奥から黄泉の地下世界へ入っていくのではなく、穴の前に広がる海のかなたへ向かう、沖縄などにみられる他界観とつながっているらしい。つまり古代人の死生観は、地上と地下の上下方向だけではなく、水平方向にも黄泉の世界が位置づけられている。
 この猪目洞窟の前には、今でこそ県道の橋が架けられ視界がさえぎられているが、太古においては海と入江が広く見渡せたことだろう。死者の搬送は陸路ではもちろん不可能だが、村で死者が出るたびに船に乗せ、洞穴奥深くに埋葬したに違いない。やがては日本海の荒波が海のかなたへと運んでいったのかもしれない。そしてまた命は、海の力によって再生していったのであろう。
 そう考えると、現代人よりも古代人の死生観のほうが、はるかにロマンに満ちている。