なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

近江散歩(4)~浅井長政と小谷城跡ほか(2019 11 9~10)

2019年11月24日 | 歴史

 

 天正元年(1573)9月1日、織田軍の総攻撃を受けた浅井長政は、小谷城落城とともに自刃。享年29歳の若さだった。戦国一の美貌と云われた信長の妹・お市の方は、3人の娘を連れて難を逃れた。お市26歳、長女茶々は4歳、二女お初は3歳、そして三女お江は生まれたばかりだった。

 当初は信長による政略結婚だったが、長政とお市は仲睦まじく比翼連理の夫婦だった。落城寸前にはどんな言葉を掛け合ったのだろうか?愛する妻と子供を逃がし、最後まで勇敢な武将として戦った長政の姿は、美しくそして無念と云うしかない。

 

〈その1 小谷城跡〉

 浅井三代の居城・小谷城。長政の祖父・亮政(すけまさ)が築城し、北陸道と中山道の要所を押さえた戦国最強の山城だ。標高495mの頂上からU字型に派生した二つの尾根上に、棚田のように何段にも曲輪が造られている(特に左翼)。二つの尾根の間には深い清水谷が切れ込み、その最奥に長政やお市らが暮らした屋敷跡がある。

 山麓にある資料館横から追手道を登ってみた。 深い森の中の登山道は単調だが、ひと汗かいたところで西方向が開けた展望所に出た。

 眼前の虎御前山(とらごぜやま)は、信長が城攻めの拠点にした低山だ。尾根全体を山城に造り変え、秀吉が定番として入った。浅井側も援軍の朝倉軍が頂上の大嶽(おおずく)に着陣し、両軍は山の上と下で1年以上向かい合ったまま、小競り合いや調略が続いたという。

下山後、虎御前山にも登ってみたが、山城の遺構などは一切なく、おまけに木々に覆われ展望もない。

 

  展望所の上部からは、次々と大小の曲輪が階段状に続いている。本丸、中の丸、京極丸、山王丸など、それぞれに工夫を凝らした防御設備が確認できる。特に、本丸と中の丸の間に掘られた深さ9mの大堀切は見事だ。尾根を大きく掘削した事によって、背後からの本丸攻撃を遮断している。

 

 18あると云う曲輪を越えて行くと一度鞍部に下りる。そこは頂上の大嶽城跡へ上る道と、清水谷に下る三差路になっている。

 そして登り始めて2時間の頂上は、木々に囲まれてはいるが、西方向だけが伐採され、見事な展望が広がっている。北近江の平野の向こうに琵琶湖が満々と水を湛え、湖面には小さな竹生島がぽっかり浮かんでいる。

 

  また頂上直下の岩場からは南東方向が開け、二つの長い尾根の向こうに、一部山肌の欠けたちょっと憐れな伊吹山が顔を出している。

  下山は鞍部の三差路から清水谷に下りてみた。登山道は先の台風のせいか倒木などで荒れている。上り下りする登山者が少ないのか、すれ違う人もいない。

 「水の手口」と云う小さな沢がある。総攻撃の際、秀吉が尾根上の京極丸に攻め上がった場所で、深い森の中を急峻な小径が上部に延びている。秀吉軍は槍や鉄砲を持ち、甲冑姿で夜半攻撃したというから、戦国の武士はタフで強靭だ。事前の調略で京極丸には難なく突入できたが、1時間以上の重装備での登りには拍手を送りたい。

 

  下山道がなだらかになると、谷幅は広がり平坦地が多くなってくる。家臣の屋敷跡が所々に点在し、その中でもひときわ広いのが「御屋敷跡」だ。浅井三代とお市や子供達が暮らした場所で、今は杉の大木が林立し鬱蒼としている。

   

 長政とお市の婚儀の時期は、諸説あるが永禄11年(1568)の年初が有力だ。長政23歳、お市21歳だった。

浅井長政 お市の方

 この年信長は足利義昭を奉じて入京するのだが、北近江の浅井領や南近江の六角領をどうしても通らなければならない。そこで六角氏を敵対視していた浅井氏と与し、六角氏を追い出すことに成功した。その織田・浅井連合成立の切り札が妹のお市だった。

 入京後、信長は全国の大名に上洛要請したが、越前の朝倉義景だけが無視し続けた。そのため元亀元年(1570)4月、信長は突然朝倉侵攻を決行する。しかし朝倉氏と浅井氏は代々の同盟関係があり、信長の行動は浅井氏を裏切るものだった。おまけに信長は「朝倉氏とは事を構えぬ」という誓紙を、婚儀のときに長政に出していた。

 長政は考えに考えた挙句、織田を捨て朝倉側に付いた。敦賀平野にひしめく織田軍3万は、あっという間に北の朝倉軍と南の浅井軍に挟まれ、完全に退路を断たれた。長政の背信をすぐには信じようとしなかった信長だったが、かろうじて数人の家来とともに京へ逃げ帰り、長政への怨念だけが残った。

 そして同年6月いよいよ姉川の合戦だ。結果は織田・徳川連合軍が勝利したとは云え、浅井・朝倉連合軍は十分な余力をもって帰城することになる。その後、信長は比叡山を焼き討ちにし、足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼした。

 天正元年(1573)夏、信長はいよいよ家康の援軍を得て、とどめの総攻撃を開始した。一乗谷の朝倉義景と小谷城の浅井長政は、執拗な織田軍の攻撃によって、とうとう落城とともに自刃。長政の離反から3年の月日が流れていた。

 

 「長政はなぜ信長に反旗を翻したのか?」

 ひとつには信長の違約が理由とは云え、朝倉氏との並々ならぬ深い関係を反故にするわけにはいかなかった。浅井と朝倉は同盟関係というより、代々浅井が朝倉の保護を受ける立場だったようだ。合戦のたびに朝倉は浅井の援軍要請に応えてきたし、それ以上に北陸から京都への水陸運の要所だっただけに、経済的な交流が盛んだった。そんな朝倉氏に対して、恩を仇で返すような不義理は到底できなかった。

 もうひとつは長政の自尊心の強さだろう。お市を嫁にしたとは云え、信長の義弟としての関係は、いづれ同格ではなく家来に成り下がるのではないかと云う不安だ。

 「将来への不安」、9年後に本能寺の変を起こした光秀もこの「不安」からだった。これ以上信長の残忍で強権的なやり方を許す訳にはいかない。長政も光秀も天誅を下したのではないだろうか?ただ両者が違うのは、光秀は成功したが長政は滅んでいった。善悪や義理・不義理で生き延びられないのが戦国の世だ。

 

 

〈その2 長浜城〉

  

 木々が赤く染まり始めた豊公園。見上げる白い三層の天守は、青過ぎる空を背景に一段と映えている。

 現在の長浜城は昭和58年に再興された鉄筋コンクリート造りだ。外観は極力「秀吉の城」を再現したもので、二層の大屋根の上に望楼を載せた様式になっている。内部は歴史博物館になっていて、秀吉はもちろん浅井三代などの掛軸や書状が数多く展示されている。

 天正元年(1573)9月、浅井氏を滅ぼした信長は、北近江にあった39万石の浅井領のうち12万石を秀吉に与えた。浅井攻めの際、姉川の合戦や小谷城攻略の論功行賞だ。

 当初秀吉は小谷城に入ったが、翌年夏には今浜に築城を開始する。山上から湖岸に城を移したのは、琵琶湖の水運を重視した領国経営を目指したものだった。当時京都の人口は約20万人。北陸から入ってきた米などは、琵琶湖の船運で京に運ばれ、滅亡した浅井氏も大きな財源にしていた。

 

 初めて城持ち大名になった秀吉は、姓を「木下」から「羽柴」に替えることを許され、「羽柴藤吉郎秀吉」と名乗るようになった。織田家の重臣、柴田勝家と丹羽長秀の姓から一字ずつ取ったもので、先輩家臣の嫉妬を避けるねらいがあったらしい。なぜなら300万石あった織田領のうち、当時城持ち大名だったのは、南近江の坂本城主・明智光秀だけだった。 秀吉に与えられた北近江三郡は、柴田、林、佐久間、丹羽らの先輩を差し置いての大封だったのだ。

 秀吉は築城とともに町割りにも着手し、信長の一字をもらい「今浜」を「長浜」と改称した。このとき彼は働き盛りの38歳だった。

 5階の展望台からは素晴らしい景観が広がっている。特に西側の海のような琵琶湖は息を呑むほど美しい。どこまでも続く広い湖面は、午後の陽光できらきらと光り、まるで金色の絨毯を敷いたようだ。

 

 

 長浜城は天正5年(1577)頃に完成し、秀吉は5年後の本能寺の変まで在城した。

 その後城主は頻繁に入れ替わったが、1615年の家康の一国一城令により、領国経営は完成したばかりの彦根城に移り長浜城は廃城となった。石垣や櫓の部材はすべて彦根城に運ばれ、この地は約350年間、湖岸に拓けた荒れ地だったのかもしれない。

 明治15年(1882)に東海道線が長浜まで開通すると、長浜・大津間は琵琶湖を運行する連絡船で繋がれた。再び長浜は近代交通の要所になり、目覚ましい発展を遂げたようだ。

  

 

〈その3 竹生島〉

 琵琶湖北部に浮かぶ竹生島、長浜港からは30分のクルーズだ。船内アナウンスによると、琵琶湖には4つの島があって、唯一住人のいる最大の沖島に次いで、2番目に大きいのが竹生島だ。寺社の関係者や売店のスタッフは、毎日船で通っているらしい。

 市内のどこからでも見える伊吹山(1377m)。特に船上から望む姿は威風堂々としていて、まるで町を守るご神体そのものだ。

 島は琵琶湖八景のひとつになっていて、寺社の建物が明媚な景観を創り上げている。 船着場から一歩足を踏み出すと、古来から神の棲む島と云われているだけに、荘重な空気が漂っていて、身も心も浄化されるようだ。

 

 左手に数軒の売店を見て、500円の拝観料を払い、165段の祈りの石段を上る。正面には宝厳寺本堂があり、江ノ島・宮島と合わせて「日本三弁才天」の寺。また西国三十三所観音霊場の三十番札所にもなっていて、納経所の前は白装束の人たちでいっぱいだ。724年に行基が開眼した寺で、格式あふれる本堂内は荘厳そのものだ。

 本堂右上には眩しいほどに朱が真新しい三重塔。室町末期に建立されたが江戸期に落雷で消失。そして平成12年、350年ぶりに再建されたそうだ。

 

 再び本殿から半分ほど階段を下ると、国宝の唐門・観音堂がある。今回一番見たかった建物だが、修復工事のため外回り全体に養生シートがかけられ、建物全容が見えないのが残念だ。この建築物は大阪の陣(1615)の難から免れた、唯一の大阪城遺構だ。唐破風の門構えは、桃山時代を象徴するものになっている。

  そして御座船の骨組みを利用した船廊下をくぐり抜けると、同じく国宝の都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿がある。これも数少ない秀吉の遺構で、内部の天井や壁は絢爛豪華な絵巻物を見るようだ。

 考えると秀吉の城は、現代までほとんど残っていない。北近江の長浜城、京都の聚楽第や伏見城、そして大阪城に至っては石垣だけが地中深く眠っている。これほど遺構の少ない天下人もいないだろう。

 

 そして竹生島一番の絶景ポイントが、竜神拝所から見下ろす鳥居だ。かわらけ(素焼きの小皿)を投げ、鳥居の間を通ると願いが叶うらしい。最近パワースポットと 云われる願掛けの鳥居だ。

  奈良時代から信仰の島として古い歴史をもつ竹生島。戦国期には浅井氏が深く関わり、蓮華絵(れんげえ)と呼ばれる祭礼の頭役を長く勤めていた。その後浅井氏が滅び、長浜城主になった秀吉も手厚い庇護下におき、都久夫須麻神社(竹生島神社)本殿は、天皇を迎えるための神殿として寄進されている。

 そして信長も参詣した記録があり、司馬先生は『国盗り物語』のなかで、冷酷無慈悲な逸話を紹介している。

 天正9年(1581)3月、信長は突如竹生島参拝を思いつく。安土城から長浜城まで行き、秀吉が不在だったため、寧々に足の速い船を手配させ島へと渡った。安土から島までは水陸合わせて80キロ以上あり、留守を預かる女中たちはてっきり長浜で一泊するものと思い、城下へと遊びに出かけた。しかし信長はその日のうちに帰ってきた。怒り心頭の信長は、無断外出したすべての女中を斬罪に処したと云う。この翌年の6月2日未明、光秀の本能寺の変がおこり、信長は自害することになる。

 神の棲む神聖な竹生島。その神聖なパワーは、残忍な信長には味方しなかったようだ。

 

 

 



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