なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

讃岐散歩~生駒親正の城を訪ねて (2016 2 11)

2016年02月12日 | 歴史

 四国平定を完了した秀吉は、天正15年(1587)に生駒親正を讃岐一国の大名として任命。入封した親正は引田城、聖通寺城と本拠を替え、天正19年(1591)には、日本三大水城のひとつ高松城を完成させた。


〈その1 引田城跡〉



 引田港すぐ北に小さくもりあがった城山、城跡への登り口はすぐ見つかった。遊歩道の書かれた案内看板を見て急な坂道を上る。
 

 5分も上れば視界は一気に開け、眼下には冬の引田港が見渡せる。朝の陽光で照らされた海面はキラキラ光り、小さな漁港は穏やかな冬の表情を見せている。


 尾根伝いにゆるい坂を数分行くと、わずかに残る石垣群。本丸跡の石垣らしい。隅部の石が積年の風化にかろうじて抵抗しているかのようだ。朽ちかけた野面積がいにしえの古城へと誘ってくれる。

 

 分岐点の「引田灯台」を指す標識に従い、南の郭へと進む。平坦な遊歩道沿いに三等三角点があり、ここが標高82メートル。
 その先の木々の途切れた展望所からも素晴らしい景色が広がる。阿波と讃岐を分ける山々が海岸線まで流れ落ち、手前には青々とした播磨灘が横たわっている。
 

 そこから遊歩道は急な下り坂、降り立った鞍部には今にも枯れそうな「化粧池」。また上り坂になり、引田灯台に出る。木々に囲まれた小さな灯台は、城山の東端に位置しているようだ。灯台の裏側には広大な播磨灘が視界をうめ尽くし、東の海面にはうっすらと淡路島の稜線。手前にはぽつんと小さな岩礁がふたつ、そして一艘の漁船が波をきって進んでいる。見下ろすと灯台の足下はほぼ垂直に切れ落ち、荒い波が岩場を白く洗っている。
 

 今度は灯台を背に西に進むと、広く造成された平坦地に出る。この東の郭は低い樹木に囲まれ、今は何もない草地にしか見えない。しかしかつては木々がなく、高い櫓が建っていたことを想像すると、きっと瀬戸を航行する船はすべて俯瞰できたに違いない。半島のように突き出た城山は、波の音さえ聞こえて来そうな自然の要害だ。
 広い平坦地は西へと行くほど、何枚もの曲輪となって低くなっている。その先に北の郭があり、ここも丁寧にならされた平坦地になっているが、今はアケビの林になっている。西奥に一段高い場所に崩れかけた石垣群が見えるが、シートが被され遺跡保護の工事がなされているようだ。

 さらに数分南に進むと、最初の分岐点に戻った。城山の尾根部分を周遊したようだ。この山は馬蹄のようにU字型になっていて、口を東南方向に開けている。途中下った谷がその口で、周遊した高い尾根道は急峻な崖で囲まれている。

 海に突き出た城山に築かれた引田城、古くは天智朝(662~71)の築城説があるが判然としない。戦国期には寒川氏、三好氏、そして長宗我部元親らの攻防戦があり、城主はめまぐるしく変わっている。そして秀吉による四国・九州平定が完了した天正10年(1587)8月、いよいよ秀吉の家臣・生駒親正が17万6千石の領主となって、この引田城に入城する。


〈その2 聖通寺城跡〉

 讃岐支配の本拠地としての引田城は、あまりに東讃に偏りすぎていた。そのため親正はわずかの期間のうちに、中讃にあるこの聖通寺城(別名 宇多津城)に本拠を移した。
 聖通寺山(標高122m)にあるこの古城は、応仁年間(1467~68)に細川家の臣下・奈良氏が築城した。その後、天正12年(1582)に四国制覇を目指す長宗我部元親の攻略で、名門奈良氏は滅亡する。しかし、秀吉の四国征伐によって元親が土佐一国の国主に落とされると、次々と仙石秀久や尾藤知宣(とものぶ)らが国主となった。彼らは猛勇と云えど、九州出兵の無謀な戦いが問われ讃岐を没収されてしまう。そして新たに讃岐の地に入封したのが生駒親正だった。
 
 そんな歴史のある古城に、麓にある聖通寺(観音霊場31番)から車で上ってみた。この山の尾根筋は北・中・南峰と南北に長い。各峰は頂部が平坦になっていて、中峰が本丸、北・南峰に出丸があり、それぞれが空堀で囲まれていたと云う。
 この山は文政年間(1818~30)、高松・松平藩に塩田開墾されるまでは海に突き出た半島になっていて、東・北・西は海に面し、南で陸地と繋がっていた。引田城のように陸繋島の地形を生かし、防御には最高に堅固な城郭だったと云われる。

 まず北峰に立ってみた。ここは桜の名所で過去何度も来たことがある。結婚式場のチャペルからの展望は、何度見ても素晴らしい。北へと延びた大工業地帯と瀬戸大橋、その向こうに点在する島々と青い海。
 北峰はそんな風光明媚な景観を生かし、昭和30年代から観光開発がなされ、かつての城跡の遺構は消滅してしまった。わずかに最高点にある古墳だけが往時を偲ばせる。


 北峰からダラダラ下る車道を南に行くと、狭い尾根筋の上に県指定天然記念物の「ゆるぎ岩」がある。重さ10トンもある岩が絶妙なバランスで安定していて、片手で軽々と数センチ持ち上がる。何故こんな尾根の上にあって、何故こんな状態になったのか、不思議でたまらない。


 さらに南に進むと広い平坦地がある。その一角に展望台があり、東方面の坂出市街が一望できる。足下は垂直に近い崖になっていて、物見櫓でも建っていたのだろうか?明らかに人の手が加えられた数個の石が点在している。


 本丸のあった中峰は展望台の反対側に位置する。30メートル四方くらいの平地で、鉄塔越しの西方面の眺めがよく、宇多津、丸亀へと続く市街地が海沿いに広がっている。ここにも石垣の一部と思われる巨石が散々していて、やっと城跡の面影に浸ることができた。よく観察すると、斜面には土塁や小さな階段状の平坦地があり、中峰周辺には遺構がよく残っている。


 南峰は周囲を高木が覆い展望はきかない。何もない草地だが社殿でもあったのだろうか?南斜面にコンクリートの基礎だけが残っている。その向こうは南へと下っていく山道が延びていて、かつての大手道だったに違いない。


 引田城そしてこの聖通寺城へと居城を移した親正。ここも手狭だと思ったのか、那珂郡の亀山さらに山田郡の由良山に築城を考えたが、結局、郷東郡箆原郷(のはらごう)に白羽の矢をたてた。現在の高松城である。

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生駒親正公(高松市錦町・弘憲寺所蔵)

 生駒親正(1526~1603)という戦国武将、信長より8歳年上だ。信長の美濃攻めの際に臣下となった時はすでに40歳。嫡男一正は10歳を過ぎ、生まれた美濃土田ではそれなりの勢力をもった豪族だったに違いない。
 斎藤氏を打ち破り美濃を手中に入れた信長は、居城を小牧山城から稲葉山城(岐阜城)に移す。まもなく親正は信長から秀吉の与力になるよう命じられ、石山本願寺攻めや長篠の戦いなど数多くの戦さに参加する。

 天正10年の本能寺の変後は、秀吉の正式な家臣となり、秀吉による天下統一までのほとんどの戦さに参加している。その間数々の武功をあげ、着々と知行をふやしていった。姫路時代(1578)には僅か1000石の知行だったが、戦さのたびに加増され、ついには播磨赤穂6万石の城持ち大名になり、最終的には一挙に讃岐17万石の領主となった。このとき親正は61歳、大昇進だが遅咲きの戦国大名と云えるだろう。秀吉晩年の頃は、堀尾吉晴、中村一氏とともに三中老の一人となり、豊臣政権の中核をなしていた。

 そして秀吉死後の天下分け目の関ケ原。親正は考えに考えぬいたあげく西軍側の立場をとり、嫡男一正(1555~1610)には東軍側として参戦させた。どちらが敗れても生駒氏の本領安堵ができるよう考慮した点は、敵味方に分かれた真田父子に似ている。豊臣恩顧の大名として貢献してきた親正にとって、西軍に付かざるを得なかったが、増大する家康の権力もおろそかにできない。おそらく苦渋の選択だったに違いない。
 戦後彼は剃髪して高野山に入ったが、東軍として参陣した一正の武功により、讃岐国の所領は安堵された。その後まもなく親正は讃岐に戻り、関ケ原から3年後の慶長8年、高松城で77歳の生涯を閉じている。


〈その3 高松城〉

 高松城(別名 玉藻城)、正直言って感動した。地元にいながらじっくりと見学したことがない。切込接(きりこみはぎ)の巨石で囲まれた桝形虎口の旭門、海水を引き込んだ幅広のお濠、それを囲う各時代の石垣群、そして中央にそびえる天守台。本丸は一本の木橋だけで繋がれていて、まるで庭の池に浮かぶ孤島のようだ。城内は手入れが行き届き、高い天守台と高層ビルが織りなす新旧のコラボが素晴らしい。


 親正が築城を開始したのは天正16年(1588)、3年の歳月で完成させている。「玉藻浦」と呼ばれたこの地は、かつては海辺の寒村だったらしい。砂地の軟弱な地盤に堅固な城郭を築くには、特殊な知識と技術が必要だっただろう。縄張り(設計)は藤堂高虎、黒田如水、細川忠興など諸説あり、確定はしていない。資料からは黒田説が有力らしいが、毛利一門の小早川隆景説もあるらしい。
 生駒時代に描かれた絵図でみる総構えは、天守のある本丸を内堀と外堀が囲み、その外側に東舟入と西舟入の堀があり、天守は三重の水堀で囲まれている。そしてさらに外側には商人町、職人町、寺町などが取り巻いている。この街割りプランは、寛永年間(1624~44)に徐々に形成されていった。現在の磨屋町、大工町、鍛冶屋町、紺屋町などの地名は、この時期にほぼ確定したようだ。
生駒時代讃岐高松城屋敷割図

 大手門は南側にあり、桜の馬場から三ノ丸に入り、次に二ノ丸を通り、最後には「らんかん橋」を渡り本丸に到着する。反時計回りに「の」ノ字型に侵入するこのルートは、見事な防御の縄張りというほかない。北側の高い石垣のむこうはすぐ海になっていて、高松城は「後ろ堅固」の典型的な水城になっている。

 城中央の天守台に立ってみた。三方向をビル群に囲まれた城郭は意外と広い。海水を引き入れた青いお濠、それを囲う直線の石垣、そして各曲輪を覆う木々の緑、この広いエリアだけが江戸時代の情緒と風情をとどめている。



 天守は明治17年に老朽化のため解体されたが、数少ない写真が存在したためその姿は明らかになっている。ただし生駒時代のものではなく、松平時代の寛文9年(1669)に上棟されたものだ。小倉城をモデルにしたと云われる天守は四重構造で、上の階(四重目)が下の階(三重目)より一回り大きい南蛮造りだった。例えて言うなら、最上階が人の首のように載っていると考えれば分かりやすい。
明治15年撮影/ケンブリッジ大学図書館所蔵

 やはり天守のない天守台は、列車が去った無人駅のようにもの寂しい。内部構造が正確に判っていない事情もあるが、行政も市民も天守復元に向けて早く動いてもらいたいものだ。前回見学した大洲城のように、当時の技術や工法にこだわった木組み構造で再建されれば、なお一層よい。ただ大きいだけの県立ミュージアムの建設費用があるなら、一級の観光資源にもなる高松城天守をぜひ復元して欲しいものだ。

 高松空襲は城郭のほとんどの建造物と所蔵文化財を灰塵にした。ひと続きの月見櫓・水手御門・渡櫓は現存する数少ない重要文化財。三重三階の月見櫓は北側にあって、海からの防備のために造られた。現在の海側はフェリーターミナルや国道30号線で埋め立てられてしまったが、当時はこの水手御門が海側の大手門だった。満潮時にはきっと御門の前まで船を横付けできたに違いない。船の出入りの監視とともに、お殿様の参勤交代にも使われたと云う。


 親正は高松城を完成させると、数年後の慶長2年(1597)に西讃の押さえとなる丸亀城も改修している。(当ブログ『丸亀散歩』参照) 
 そして徳川時代に入ると家康立案による一国一城令(1615)によって、引田城、聖通寺城そして丸亀城などは廃城となってしまう。生駒氏はこの高松城を拠点に、讃岐国全域を統治することになる。


〈その4 生駒騒動〉

 生駒時代は四代・54年間続き、高松と丸亀の城下町の基礎を形造った。そして河川改修や新田開発がさかんに行われた時代でもあった。築城技術がため池築造に平和利用され、ため池王国と云われる讃岐の特色はこの時代に出来上がった。特に満濃池の復旧工事は、藤堂高虎の家臣・西嶋八兵衛が行っている。
 しかし寛永17年(1640)、4代高俊のときに「生駒騒動」というお家騒動をきっかけに、生駒家は改易処分となってしまう。17万3千石の所領を没収された後は、生活扶助料として僅か1万石の矢島藩(秋田県由利本庄市)に移されてしまう。ちなみに現在高松市と矢島町は、友好親善都市として400年ぶりの友好を深めているらしい。
 
 このお家騒動はどの解説本を読んでも経過が複雑で、霧のかかる山容のように大筋が判然としない。異説も多々あり、なお一層難解を極めている。

 
 元和7年(1621)、3代正俊が若く急死したため、その子高俊はわずか3歳(異説では11歳とも)で領主となった。そのため幕府は藤堂高虎を執政として藩政にあたらせた。それは3代正俊の正室が高虎の娘であり、高俊は高虎の外孫の関係にあったからだ。
 江戸と国元の二元政治は当然対立を生むきっかけとなった。江戸家老の前野助左衛門と石崎若狭、国元で権威を振るう老臣・生駒将監(しょうげん)とその子帯刀(たてわき)。両者の権力闘争は年月を追うごとに過激になり、とうとう藤堂家では押さえきれなくなり、幕府の知られることとなった。
 その結果、寛永17年(1640)大老・酒井忠勝の評定は、領主高俊は改易、前野派16名は切腹・死罪、帯刀派3名は松江藩預かり、という処分内容になった。主従共々厳しい処分となったが、ここで注目したいのが高俊の改易だ。裁定が下ったときは22、3歳の若者だったとは云え、家中の仕置きが無作法(主従の礼儀が守られていない)という理由で、全領地を召し上げられている。
 これには寛永12年(1635)の武家諸法度の改定があった。幕府の志向する秩序観は、戦国期の技量重視から伝統的家筋を尊重する方針へと転換した。それによって主従の関係をおろそかにする者は、主人であれば改易、従者であれば死罪に処するという原則が貫かれたことを意味している。だから高俊は主従の礼秩序を乱した張本人として秋田の寒村に送られたことになる。おまけに彼には、美少年を集めて男色に耽り、昼夜舞をさせたという逸話(生駒踊り)まで残り、藩政を顧みず、家中の監督不行き届けが生駒家を滅亡に導いたとも云われている。

 この主従を重んじる武家諸法度、もう一度この現代にぜひ復活させてもらいたいものだ。「父権」などとうの昔に死語となった今、金銭的要求のときだけ、お父様と持ちあげる妻や子らの姿勢を改めるためにも、改定「武家諸法度」は有効なのではないだろうか。

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 高松市錦町にある弘憲寺(高野山真言宗)、ここに親正夫妻の墓がある。嫡男一正が父のために菩提として建立した寺だ。本堂裏に建つ二つの五輪塔は、右が親正、左が夫人のものだ。長年の風化で文字こそ読めないが、讃岐国の祖にふさわしい重厚な供養塔になっている。


 天正15年(1587)親正は讃岐に入り、高松城築城(1588)と丸亀城改築(1597)を軸に、円滑な領国経営のために、強い勢力を持つ地元の武士を取り立てていった。それと並行して慶長2年(1597)から同7年(1602)にかけては、讃岐全域の検地を実施し、年貢徴収による農民支配を確立していった。
 しかし、ここで注目したいのが嫡男一正だ。あらためて年齢を時系列で追ってみると、本能寺の変のときは28歳、関ケ原の戦いのときは45歳で、東軍として活躍した福島正則、黒田長政、井伊直政らよりはるかに年上だ。父・親正がクローズアップされるなか、一正は天正永禄時代の立派な戦国武将なのだ。資料の少ない彼の実体は、秀吉を影で支えた実弟秀長のような存在ではなかったただろうか?生駒父子が讃岐に入封したとき、親正はすでに還暦を過ぎ、32歳だった一正は男盛りの2代目領主だった。そのため領国支配の実質的な運営は、おそらく一正に一任されていたに違いない。
 そして、関ケ原で東軍に付くという決断も、時勢を読んだ一正自身の先見性にあったのではないだろうか?その決断に少なからず影響したと思われるのが、1歳年下の藤堂高虎の存在だ。豊臣政権下では、一正は父・親正の家臣として、高虎は秀頼の臣下として数々の戦さを経験している。その間、二人はどこかで同じ釜の飯を食べ友誼を深めたに違いない。その結果、同じ四国内の領主としての誼(よしみ)もあり、それぞれの息子と娘は婚姻し、生駒家と藤堂家の関係は揺るぎないものとなった。
 残念ながら、生駒家はお家騒動で改易になってしまうが、讃岐に仁政を施した2代目一正の功績は大きい。次世代の高松松平藩や丸亀山崎・京極藩は、彼の作り上げた財産の上に成り立っていると云っても過言ではない。父の親正同様、一正の生涯も掘り下げてみる価値がありそうだ。

 

 

 



 





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2 コメント

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Unknown (イトーチャン)
2016-03-07 09:46:21
今回も長かった~。それに、いつもは数冊の歴史本の写真が登場したら、“ラスト近し!”のはずなのに、今回は本の写真の後も、長かった~。けど大変勉強になりました。高松城が日本三大水城の1つだったとは?高松市民にとっては、お城、というより、栗林公園より身近で訪ねやすい公園、って印象の方が強いように思います。
「阿波と讃岐を分ける山々が海岸線まで流れ落ち…」、うまいな~。情景が目に浮かぶようです。「父の親正同様、一正の生涯も掘り下げてみる価値がありそうだ」。まだ、さらに、掘り下げるのですね?!
今回のブログを拝見して、故郷の歴史にうといまま歳を重ね、申し訳なく思いました。これからも、今日につながる過去からの道を、“非歴女”の私にも分かりやすくご紹介くださいね。楽しみにしています。
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長いけどまだまだ続きます (なか)
2016-03-08 19:47:46
イトーチャン、初カキコあり~!
いつもはメールだけのコメントでしたが、リクエストに応えていただきありがとう。
ブログはFACE BOOKと違い、コメントはほとんどありません。(いや、コメントしづらい当方の責任かもしれませんが、、、
今後も戦国大名やお城巡りの話は続きます。一大名を調べていると、次々と実績やら逸話に接するにつれ、まるで天に延びる大木の枝を辿るようです。
そしてその一本の支枝の先に、現在に残された一場面を垣間見るような気がします。それは朽ちた城の石垣や城下町の街割りなどです。
次は大阪城を狙っています。今年のNHK大河は、きっと真っ赤に燃え盛る大阪城がラストシーンになるはずです。
また楽しみにしててくださいね。
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