ブーゲンビリアのきちきち日記

神奈川の米軍基地のある街から毎日更新。猫と花と沖縄が好き。基地と原発はいらない。

沖縄で見た 沖縄から見た

2010年11月12日 07時57分08秒 | 沖縄
おはようございます。アクセスに感謝いたします。
5年前に書いた原稿を、読み返してみました。
初心忘るべからず、ですね。

3カ所に投稿した原稿を、少し省略して直し、以下転載します。


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沖縄で見た 沖縄から見た

2005年12月、長年の夢がかなって、はじめて沖縄戦跡基地めぐりに行ってきた。3泊4日の短い間に、かなり忙しくまわった。日本生活協同組合連合会の平和学習の旅で、全国から180人、COOP神奈川からは20人の参加だった。費用は生協のカンパでだしてくれるので17500円。(翌年にはこの平和学習の旅はなくなってしまい、最後の旅となった。)
 
12月6日お昼頃、那覇空港に着くと、冬の服装が似合わない。オーバーやセーターをリュックに詰めて夏らしいシャツになると、到着を待っていてくれた現地の人に「寒くないですか。」と心配された。沖縄では3日前から寒くなってしまったという。この時期にこんなに寒いことはなかったと言っていた。気候変動が始まっているようだ。地球温暖化の影響で、あらゆる産業に影響を及ぼすことになりそうだ。米軍再編などより、最優先課題は環境問題だと思う。「自然」には米軍も勝てないだろう。
 
午後からは、ひめゆり学徒隊の生存者、宮城喜久子さんの体験談と、ひめゆり平和祈念資料館のできたいきさつや、運営などを聞いた。知っているつもりで実は知られざる、知らせまいとする動き、などを知ることができた。いっさいの公的支援を受けずに運営している気迫と、平和への思いの深さは、並大抵のものではなかった。
 
12月7日、朝8時、ホテルのレストランの窓から、泊港の海の上をみると虹がふたつも出ていた。風が強く長袖が必要だ。海辺のホームレスのおじさんのネコたちが寒そうだった。海のそばの対馬丸記念館、ガマ見学(潮平権現洞)平和の礎、県立平和祈念資料館見学のち、市民の目から見た沖縄戦の話を聞く。ひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館見学、魂魄の塔で献花。コープあっぷるタウンでおみやげを買って、ホテルに帰ったのは夜7時近かった。寒さのせいで、道が渋滞していると平和ガイドの横田さんが言っていたが、本土とは渋滞の距離がちがう。寒くもない。
 
対馬丸は学童疎開のための船のはずだったが、救命具は綿や藁だった。かえって海水を吸い沈んでしまう。最初から子供はじゃまだったのではないか。食糧難から口減らしに出されたのではないか。わたしはそう思った。ガマにしても全員が助かったガマと、日本軍によって全員殺されたガマとある。潮平の洞窟は日本軍が来なかったので、長老の判断で助かった。今では権現洞といわれ祀られていた。

ガマの暗闇はおそろしい。それは沖縄でみた暗闇であり、同時に基地のある街の共通の「暗闇」だと思った。沖縄から自分が住んでいる基地の街、相模原の「暗闇」が見えた。それはなにによる闇なのか、よく考えなければならない。一言で言えない闇のような気がする。米軍基地の存在を許している内なるなにか、人間の心の闇、だろうか。
 
12月8日 前田高地、沖縄国際大学、佐喜真美術館、池原牧場、安保の見える丘・道の駅かでな、象のオリ、チビチリガマと朝から暗くなるまでバスで移動。サトウキビ畑とジャガイモ、サツマイモ、野菜の畑が乾いた赤い土につくられていた。日差しが強く、海から風が吹いていた。サトウキビ畑は背が高く、怖いと思ったのは女性の感覚だろうか。

沖縄国際大学では去年8月、米軍ヘリが墜落した。あれから1年以上がたち、黒こげの木1本残して跡形もなく片付けられていた。(学長が残せといったそうだ)黒こげの木は死んでいても、横から新しい緑が生き生きとのびてきていた。ずっしりと重い、153ページの資料をいただいた。琉球新報と沖縄タイムスの当時の1週間分の新聞記事を大学でまとめたものであるが、せつなくてまだ読めない。日本本土で、これだけの報道がされただろうか。大学の人の説明を聞きながら、わたしは屈辱に耐える力を学んだ。屋上から普天間基地がすぐ近くに見えた。当時、朝日新聞を購読していたわたしは、その記事に不満を抱き、長年の購読をやめたのだった。直ちに行動しなければならないと思った。新聞のない朝は時間を有効に使えて、かえってよかったと思っている。

池原牧場に行って、詳しい話を聞いている最中に米軍機が2機、すぐそばをものすごい爆音で飛んだ。何回も何回も飛んだ。ついにわたしは泣いてしまった。今思い出しても、くやしくてたまらない。屈辱に耐えるだけでいいのか、植民地でいいのか、他に生きていく方法はないのか、問われているのは沖縄ではなく、日本政府であり、私たちではないのか。牧場の牛はやせていた。闘い獲った軍用地の中の牧場なのだ。
 
12月9日 金武町伊芸地区、都市型訓練施設の反対運動をしている女性の話を聞く。朝4時にゲート前に立ち、交代で見張りをし、ただの主婦が命を守り、生活を守るために闘っている。どこが都市なのか、山を爆撃し、赤土をむき出しにし、イラクの都市を想定していると言うことだが、どこがイラクか。馬鹿で稚拙な米軍を相手にしなければならない情けなさ。沖縄言葉で、わじわじする。486日の毎日の闘いに、想像を絶するつらさ、困難があったと思う。闘う女性の凛とした美しさは、是非とも見習いたい。もっと話を聞きたいと思いながらも時間の都合で、辺野古へと急いだ。
 
辺野古の海でヘリ基地反対協議会代表、大西照雄さんから話を聞き、質問したかったけれど時間がなく、本を買ってすませた。ビデオも買ったので是非、ビデオ上映会ができないだろうか。相模原でやろうと思っている。「見直し」によって単管やぐらは撤去されていたが、次に出されてきた代案のほうが人家に近く、大変なことになるそうだ。半日は座り込みたかったけれど、帰りの飛行機の都合で残念だった。また行くことになりそうな気がしている。沖縄平和ネットワークの横田真利子さんに、辺野古に行く前に、バスの中で言われた言葉が印象に残っている。
「がんばっている人に、がんばってくださいと言わないでください。それは距離を感じる言葉です。」
まさにその通りだと思う。わたしはテントの中でおじいと握手した。
「神奈川県の相模原市から来ました。これからもがんばります。」
と言うと、おじいはすごい強い力でわたしの手を握った。その無言の思いを忘れるわけにはいかない。

2005 12 23 天皇誕生日によせて


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このとき辺野古のテントで出会ったおじいとは、
金城さんではなかったか。
そして翌年2006年6月、NHKの生番組に出る話が来たとき、
即決で、喜んで引き受けた。気合いが入っていたのだ。
楽屋で金城さんと再会し、そして遺言のように託された思いと資料を
大切に預かっている。




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