朝鮮について知りたい

朝鮮について知りたいこと、書いていきます。

親日派は生きている

2014年05月16日 | 帝国主義・植民地
鄭雲鉉氏の著書、「親日派は生きている(初版2011)」から、一文を記し紹介したい。

민족을 배반하고 일신의 영달만을 꾀했던 친일파 가운데 자신의 죄과를 참회하고 사죄를 구한 자는 겨우 손에 꼽을 정도다. 반면 그들 가운데 대다수는 자신의 친일 행적을 미화하거나 변명하였으며, 더러는 독립유공자로 둔갑해 훈장을 받기조차 했다. 특히 그들의 후예(후손 및 후학)들 가운데 더러는 공공연히 친일 전력자의 이름을 딴 상을 제정하거나 기념사업회를 만들어 이들의 친일 경력을 세탁하고 심지어 미화 작업에도 나서고 있다. 민족정기가 제대로 선 나라에서는 있을수 없는 일들이 오늘날 대한민국에서는 버젓이 자행되고 있다. 그야말로 파렴치가 극에 달한 형국이다.

(訳)民族を裏切り、一身の栄達のみを図った親日派の中で、自身の罪過を懺悔し謝罪したものは、きわめて少ないといえる。反面、彼(女)らの大多数は自身の親日行為を美化したり、弁明し、中には独立有功者として化け、勲章をもらうまでに至る。特にその後裔(後孫、後学)らの幾人かは公然と親日戦歴者の名をつけた賞を制定したり、記念事業会をつくり、彼らの親日経歴を洗濯し、究極的には美化作業に取り掛かるにまで至っている。民族の精気がまともにある国ではありえない事象が、今日の大韓民国では堂々と強行されているのである。まさに、破廉恥極まりないとしか言いようがない。

             *   *   *

 この本は、わが民族のすべての歴史ではないが、今日の分断と民族反目の状況を作り出した、いくつかの重大な問題を歴史的に紐解き明らかにしている点で、名著であり、必読をお勧めする。
 もちろん、「親日」なのか、「反日」なのかと極端に問い、それによる分割を進めようとするものでは決してない。(そして、これこそが植民地支配者たちの常とう手段である)

 しかし、今日の我々を取り巻く状況というものは、きわめて暴力的であり、それによる「転向」ともいえる事態が「無自覚なまま」行われ、被害者たちの分裂が促進されているという点で、大変難しい状況だということはできると思われる。

 高校無償化問題、補助金削減の問題といった生活・教育レベルでの差別制度から、「法の厳格適用」という名のもと、「犯罪者」として強制捜査を受ける同胞たちの現状、共和国に対する「制裁」という名の「戦時法」。そして、この「戦時法」延長に関する閣議決定は今年度の4月には「なかった」。昨年度にこの法案の効力期間は1年から2年間に延長され、それは自公民のみならず、社民や共産党などすべての「進歩政党」らまで含み、「全会一致」で採択されたからである。
 この状況で、日本の植民地主義と抗うことを決意するには相当の覚悟が必要であり、その「決意」は暴力的状況を甘受するといった「宣言」に他ならない。しかしながら、暴力を受けて、いつまでも耐え忍べるほど人間は強くない。この状況で、自身の気持ちが揺らぎ、闘争から一歩引いたり、ひいては、暴力者たちに「すり寄る」ことで、一定の安泰を図るものも珍しくはないと思われる。問題はこのように暴力によって分断された、被抑圧者同士がお互いに、反目しあい、団結を妨げられることによって、被害者への暴力が一層加速化してしまう状況にたいして、「無力」になることであろう。

 我々が何をめざし、何のために、「今を生きるのか」。そういう問題を紐解く一端でもこの本から学ぶことは多いと思われる。
 そして、その作業は「自身の反省」、「共犯者」となりつつあった自己に対する確認作業となるであろう。
 最後に、私は、「南が悪」で「共和国は正義」、ということを単純図式に収めて言いたいわけではない。植民地とは何であったし、今我々はどこにいるのかを、「民衆からの視点」で、歴史的に追求すれば、いろいろとヒントはあると、いうことである。

 一読を勧めたい。


(차례)제1장 민족반역의 길로 들어서다
제2장 나는 황국신민이로소이다
제3장 뼛속까지 친일파로 산다
제4장 대한민국은 친일공화국이다
제5장 친일파는 살아있다
제6장 친일청산, 역사의 숙명이다
제7장 친일청산, 기록하는 자와 변명하는 자
제8장 우리는 부끄럽고, 그들은 부럽다

(目次)
第一章 民族反逆の道へと
第二章 私は皇国臣民である
第三章 骨の髄まで親日派として生きる
第四章 大韓民国は親日共和国である
第五章 親日派は生きている
第六章 親日清算、歴史の宿命である
第七章 親日清算、記録するものと弁明するもの
第八章 我々は恥じ、かれらは羨ましい
 ※第八章は、主に共和国や中国、フランスなどの事例を挙げています。



我われの立ち位置

2014年05月16日 | 在日朝鮮人
鄭栄桓先生の研究書である。彼のすさまじいほどの熱さと、それを補完する冷たく感じるほどの分析と蓄積に脱帽。




青商会記事に一部分だけ、記し載せたが、併せて紹介したい。


「我われの立ち位置」

埼玉フォーラムにおいてパネラーとしても出演した鄭栄桓氏の著書「朝鮮独立への隘路(あいろ)」の中から一文を記し紹介したい。「四十五年八月十五日、日本支配は終わり朝鮮は解放された、と現代史の年表には記されている。しかし、本書の執筆を通じて改めて痛感したのは、朝鮮民族にとって、この日は解放を現実のものとし、真の意味で『独立』するための困難な歩みの始まりであったということである」(『あとがき』、P346~347)。
 5月に開催される全体大会を前に、少しだけ思いを馳せてみた。これまでの「闘い」は何のための闘いだったのか、と。
この遠大な歴史を顧みたとき、一つの想いが込み上げてくる。「民族解放」、「朝鮮独立」のため、「隘路」を敢えて選択し辿ってきた在日朝鮮人運動のまぎれもなく中核に位置する、総連のイルクンとしての自覚と自負である。
長いこの歴史が私に囁く教訓は、「団結」であった。一人一人の小さな力が大きな河をなし、「独立」という大海に向かって進んできた過程、これこそが我われの「運動」であった。そして「独立」を目指したがゆえに、いわれのない、徹底した暴力に打ちのめされ、なおも立ち上がり進んできた「抵抗をやめない歴史」こそ、「我われの歴史」であろう。
「独立」という民族的課題を「私の課題」として受け持ち、自身の使命として生きていく決断を下すまでに様々な迷いがあったであろうことは間違いない。しかし、そのような「弱き人」を支え、後押ししたのは、いつも「同胞たち」だった。名前も顔も知らない数多くの同胞たちの意志と勇気、決断と実践とが絡まり合い、うねりを伴いながら、歴史にその軌跡を刻んできた。
朝鮮強占までのあいだ、植民地時代、そして「解放」以降、我われはいっときも闘いを止めなかったし、それは今も続いている。このやまない闘いに影を落としているのは、まぎれもなく日本の植民地主義であり、歪んだ「朝鮮観」である。このような「今日の植民地」の中、私は、諦めを知らず、しつこいと言わしめんばかりの「抵抗」を続けている同胞の姿を見ている。その運動のテーマはただ一つ、「同化するな!」であり、運動を貫くその意志は、差別や制度の是正などではなく、「人間として認めろ」という「人間宣言」である。そして、我われの歴史は、「人間宣言」がいかに困難なのか、この選択がどれだけの覚悟の上に成り立っているのかを改めて示してくれよう。
これまでの闘争はすでに歴史に記憶され、記録されている。しかし、人間の尊厳を未だ手に出来ていない我われが、今ここから手を離すと、この闘争は、一つの物語、歴史記録としてのみ残ることになるであろう。しかも、支配者たちは往々として、「記録された歴史」を簡単にゴミ箱(忘却の穴)へと捨ててしまう、デリートキーを押すように。これまで存在したことがなかったようにすることなど、支配者にとっては容易いことだ。現にそのように消された記憶は存在し、未だ発掘されていない事象は数多くある。そして支配者は記録を手にしていない抵抗者にたいして、こう述べる。「証拠がないのに歪曲する」と。
記憶は「可能」か?答えは「可能」である。何が「可能」たらしめるのか?我々の運動である。
5月に迎える全体大会は、在日朝鮮人運動のさらなる飛躍を約束するだろう。そのテーマは「継承」、そして「革新」である。継続する日本の植民地主義的暴力に晒されながらも、いっときも抵抗をやめなかった我われは公然と宣言する。「抵抗」の最前線に立つ祖国とともに、「最後の勝利」を迎えるその日まで、「闘い」を続けると。さて、今我われはどこに立つのだろうか。

(※「青商会」を「我われ」に置き換えた)

『挑発者は誰なのか、順序を間違えるな』

2014年05月16日 | 現代朝鮮、朝鮮半島
3月31日~4月7日までの間『韓米合同軍事訓練』が行われた。
 『聯合ニュース(国文版)』によると、今回のキーリゾルブ、「双龍訓練」では、オスプレイの参加機数が去年の4機から、今年は22機と大幅に増えているとある。そして、このオスプレイは沖縄からも大量に飛んで行って参加している。日本も朝鮮を威嚇・挑発している立派な当事者であることは間違いない。そして、今年は昨年ほど大々的に『核威嚇』武器が投入されなかったことに安堵している場合ではないということも明確であろう。(昨年はICBM,SLBM,ステレス機の先制核攻撃可能な手段がすべて投入された:後ほどICBMは留保されたが)
 このように、南・日・米が合同して、大規模軍事訓練をすることによって、これが共和国にどのような威嚇をしているのかという事実は語られていない場合が多いように思う。
 これは、今の日本で喧伝されている『韓日対立』がいかにマヤカシなのかをストレートに表しており、根本的な『安保』・『経済』のアメリカナイズに関しては『韓日』が、「通々の仲」であり、『不仲』などでは決してないということを雄弁に物語っている。

以下、2013年の軍事演習の際に述べたものを載せておくことにする。



『挑発者は誰なのか、順序を間違えるな』

 朝鮮は、現在「戦時状況に突入した」旨を宣言し、朝鮮半島は一触即発の戦時状態にある。
 朝鮮半島における「核実験の断行」、「国際社会に対する脅威」、「国際安全・平和」のための措置、このように米・日・南は騒ぎ立てている。この連日連夜にわたる、特に日本におけるヒステリックと言えるほどの「報道」がもたらしたものは、「高校無償化」除外の法令化、「国民感情」という名の「補助金」カット、そして「朝鮮野蛮・未開論」の高揚であり、それに伴う在日同胞子女たちに対する官民一致の「弾圧」であった。
 このような状況のなか、私は「正しい視点を持ちましょう」と同胞たちに訴えかける前に、二点ほど確認しておきたい。一方では、忘れるなと。もう一方では、順序を間違えるなと。
 
 一点目、忘れるな。「物を語る」という意味において、「物語」とは難しいものである。「語る」ことは、人々の思いを言葉に込めて発することである。しかし、そのとき、語り人がある種の選択をして「忘却」というスイッチを押すとどうなるか。それを見る人、聞く人にとって、「忘却の対象」となった人たちあるいは事象というものは、「そもそも存在しない」ものとなる。ここに、「語る」という行為の重大性がある。
周知のとおり、在日朝鮮人は日本の植民地統治、それに伴う祖国分断の結果生まれ出た歴史的産物であり、その後、やむことのない「差別」と「抑圧」の中で、生きてきた存在である。また日本の言う「朝鮮の後発性」のそもそもの発端も同様である。それを克服するため、前例のない苦難の中、国家建設を遂行してきた朝鮮にたいして、アンチを唱えられる言論界の厚顔無恥さにはため息すらでる。彼らはどうやら、朝鮮および在日朝鮮人の歴史を「削除」できるとでも思っているらしい。歴史の否定は結局のところ、「自身の恥部」の隠蔽にほかならない。そういう「忘却」への「抵抗」が在日朝鮮人運動であり、朝鮮における革命と建設であった。躍起になってつぶそうとするのも当たり前かもしれない。我々は「恥部」を知っている人間なのだから。「盗人猛々しい」とは、確かに名言である。
 
 二点目、語る順序を間違えるな。順序を間違えると大変である。まさか、焼きそばソースを先に入れて、お湯を入れる人はいないであろう。しかし、「物語」となると話は別である。順序は変えられ、「違う物語」が、あたかも「真実」として語られていく。ある種の意思によって。たとえば、あなたの前に人が立っている。その人は片手に包丁を持ち、ものすごい形相だ。服装や髪はみだれている。「変人?」、このような「判断」を下すかもしれない。だが、よく見るとどうやら、その「変人」の前には、猛獣がいる。その後ろには子供。どうであろう?私の目には、彼(彼女)は「勇者」として映る。
 朝鮮問題を論じるにあたっての常套手段として用いられるのは、「物語の起点をずらす」ことである。なるほどその「物語」は「事実」を語っている。「事実」を語っているがゆえに自信満々である。

 では確認しよう。「朝鮮の戦時状況」、この「物語の起点」はどこにあるのか?「ミサイルと称された人工衛星」の成功とそれに対する非難である。朝鮮は反帝国主義、反植民地主義闘争の過程で多くの犠牲を甘受した。「社会主義富貴栄華」のため苦難の中、自身の力で、最先端技術を考案開発し、その結晶としてやっと打ち上げ成功に至った「人工衛星―光明星3号2号機」。朝鮮の自主・発展の象徴として打ち上げられたこの「血と汗と涙の結晶」に対する「国際社会」の反応は「違法」であった。朝鮮は自国の自主権・発展権・生存権すら認めない行為として、これを断罪糾弾した。度重なる忠告も無視し、アメリカは2月4~6日には、巡航ミサイルトマホークを搭載した原子力潜水艦「サンフランシスコ」などを投入し軍事演習をはじめ、3月11日からは十日間にわたる「キー・リゾルブ」合同軍事演習も強行した。
 「核先制攻撃」の標的となった朝鮮の決断は「自衛的核保有国の地位」を法でもって強固にすることであった。相手は世界最大の核保有国、アメリカである。核武力建設と経済建設の並進路線はまさに、このような超大国アメリカと対峙しながらも軍事費を最小限に抑え、経済建設と人民生活に全力を注げる方針であった。朝鮮の目標はあくまで、朝鮮半島の平和と非核化であり、全世界のそれである。これは、金日成主席から金正日総書記、金正恩第一書記にまで一貫した「変わらない意志」である。「挑発者」は誰なのか。順序を間違えるな、ということだ。

 さて、この「戦時状況」において、金正恩第一書記は金日成主席の生誕101周年を記念し、在日同胞子女に1億9830万円にいたる巨額の教育援助金と助成金を送った。いつの時代も「難しさ」をおくびにも出さず、援助とエールのみ送ってくれる祖国を「母」と表象することしかできない自身の浅はかさを恥じながら、民族教育を守るべくモチベートを怠らない所存である。














バカになれ

2014年05月16日 | 在日朝鮮人
 青商会の学習資料を幾人かが読めず、できれば資料として提示していただきたいというありがたい提案もあり、「時事」ではなくなった資料だけ、たまに転載しようと思います。

「『バカ』になれ」

「創ろう! 我らの力で! 『同胞社会の万豊年』!」、青商会の無限の可能性を示した埼玉フォーラム。埼玉に限らずこれまで行われてきたすべての青商会フォーラムが同胞社会にもたらした反響はみな記憶に新しい。
青商会が培ってきたこの貴重な財産を貫く精神を、筆者なりに考えてみた。それは、「責任」と「創造」であると思う。今の我々を取り巻く状況にたいして悲観するもの、悲嘆にくれ立ち止まるものも少なくないであろう。しかし、彼(女)らは立ち上がり実践した。
なぜか?「責任感」があったからではないだろうか。コッポンオリの未来を守る。この一点に人々は集まり、語らい合い、夢を持って無我夢中に邁進した。そしてその過程に「創造」が生まれ、それは未来像へと成長し、確信に変わった。未来は心配ない、と。
もちろん「困難」がなくなったわけではない。困難が立ちはだかろうとも、それを乗り越えられる力が我々にはある。先代たちの後ろ姿から、学び、憧れ、目指した後輩たちは少なくないはずであり、私も少なくないその一人である。
さて、しばしこの源泉を探す旅に出たいと思う。このような光景を「美しい」と思える感覚はどこから生まれたのか。
魯迅は、権力の前に膝まずき「少ない幸せ」を得ようとしたものを「ドレイ」と呼び、「善意」でもって「少ない幸せ」に勧誘するものを「賢者」と呼び、「少ない幸せ」を顧みず不条理と闘うものを「バカ」と述べ、「バカ」を賞賛した。
「バカ」としか思えない青商会の活動に胸打たれ、感激し、鼓舞され、うねりながら前進する青商会パワーの源はどこにあるのだろうか。
1957年1月、金日成主席は在日同胞子女のために送る教育援助費と奨学金を、「国家予算」の項目にぶちこんだ。在日朝鮮人の教育を守ることを「善意」や「施し」ではなく、「国是」としたのだ。当時、授業料や月謝の支払いもままならず、大学進学など夢であった同胞たちにとってこのインパクトはいかなるものだったのだろう。そのお金で、困窮した同胞たちがどれほど救われたのだろう。戦後復旧建設と呼ばれ、困窮していた財政状況の中、民族教育を受ける海外同胞がいる限り、送る。異国の地で不安に駆られ、子供たちの未来を案じた親たちはこの事態を、どう受け止めたのか。
私は、教育援助費ですべての民族教育をおこなったと言いたいのではない。この「事態」を在日同胞がどのように受け止めたのか、ここに想像力を馳せたいのである。160回、教育援助費はいついかなる時も中断することなく、「主席の遺志」として送られた。
この奨学金に込められた想いは、確かに受け継がれている。「我々が工場の一つや二つ建てられないとしても異国で苦労する同胞たちに、子供たちを教育するお金を送らなければならなりません。これはわたしたちの民族的義務です」。
民族的義務、この「意志」を私は灯台、羅針盤として持っていたい。そしてそのような「事態」に心打たれ奮起した同胞たちの誇りと情熱をまさに青商会が継承しているのではないのだろうか。ある地域でこのような言葉を聞いた。「日本政府が無償化を適用しないのなら我々の力で無償化する」。わたしは自信を持ってこの言葉に金メダルよりもさらに輝く、「バカ」という称号を与えたい。
我々の前に課題は山積みであろう。その問題を論点からそらしたいわけではない。このような炎が燃え滾る限り、我々は倒れない。そう言いたいのだ。
これを貫く精神は何か。「祖国と同胞、後代への愛と献身」。これが「責任」ある「創造」につながっているのではないだろうか。 そして、実践する人々は意志と信念を持った「バカ」である。わたしも「バカ」を目指したいものだ。(教育援助費の部分を修正済み)