平成うきよの覚え書き

日々の出来事などを老化防止の為 書いてゆきます。

続き 

2008年05月30日 | Weblog
 餅搗きも終わり家族皆正月の支度をする頃は、皆嬉しそうな顔をしていたと思うのは私の心が弾んでいたからであろうか。何故あれほど正月を心待ちにしたのだろうか。物心ついてから、父母祖父から正月の話を聞いたり、多くの親戚の人が集まり、楽しそうに談笑するのを見ていた幼児からの体験が、正月は楽しいものと言う意識を育てたのであろうか。12月になると直ぐに「もう幾つ寝るとお正月」と言う歌が耳の奧でかすかに聞こえ出し、少しづつ頭の中に正月が入り込み29日頃にはすっかり占領されてしまった。神棚にはお供えを上げ、新年から履くズボンや足袋、下着も揃い(当時子供用の靴下は見た事が無い。)すっかり準備が整うと嬉しくてたまらなかった。
 しかし、である。大晦日。この日一年を終わる為、新年を迎える為、私にとって一大事が待ち構えていた。年越しソバである。(蕎麦と言っても「うどん」であったが)私は幼児の頃から13歳頃迄自家製のソバを食べることが出来なかった。我が家のソバ汁は、何故か油がギラギラと浮いておりこれを見るとを頭が痛くなり、食べることが出来なかった。家族皆蕎麦を食べている中で、こっそり母がお椀に入れてくれたご飯を、皆に詰られべそをかきながら食べていた。辛い思いは皆がそばを食べ終える1時間程で終わり、兄弟に「今泣いたカラスお寺の団子食ってもう黙った。」と囃されながらも、後はまた楽しい正月に思いを馳せていた。大晦日は家族皆深夜まで起きていたので私もラヂオで「行く年来る年」の除夜の鐘を聞くまで起きていた。そして新しい下着の暖かさを感じながら、眠りについた。
  
  一夜明けてお正月
元旦は普段より遅い朝食(雑煮)を食べ終わると、天気が良い日は早々に掛け藁(注・参照)に行き、日向ぼっこ(注・参照)をした。祖父や父は火鉢でタバコの火をつけゆっくりとタバコを吸っていた。掛け藁の前に寝そべり青い空を見ていると一切の物が昨日までとは打って変わり目新しくとても爽やかな気持ちになった。陽射さえ何か特別な感じであった。10時頃になると彼方此方で羽根突きの音や話し声が聞こえ出した。近所の子供が集まる場所はいつも集荷所(注・参照)の周りであった。日の当たる板塀に背中を向けて「おしくらまんじゅう」等をして昼近くまで時を過ごし、午後からの遊びのことなどを決めて昼食に一旦家に戻った。昼食は真っ白なご飯で、親戚から頂いたお歳暮の新巻鮭を食べた。当時日常は米と麦を混ぜた物を食べていた。私の住む町の水田は小さな川の両側の、いわゆる「谷戸田」であり決して良質の米では無かったと思うがとても美味く感じた。新巻鮭は戦中戦後しばらく無かった様であるが、私が小学校2,3年の頃からたまに食べられるようになった。初めて鮭を食べた時はこんなに美味い物が有ったのかとびっくりした事を覚えている。午後は小学校の校庭に集まり独楽回しなどをした。
(注)掛け藁:丸太の柱を立て、柱に水平に4本くらい竹を括り付け、これに束ねた藁を振り分けに下げて風除けとし、この前で陽にあたり暖をとる               
(注)日向ぼっこ: 陽射しにあたり体を温めること                 (注)集荷所:農産物を市場などに出荷するため集めておく所 
        
独楽回し
じゃんけんで負けた者から順に回し、後のものは先に回っている独楽を狙ってぶつけるようにする。このように次々に回してゆき、最後まで残った者が、次も最後に回すという決まりであった。最後の人を「天下」2番目を「天下下」と言った。先に回っている独楽に上手く当て、撥ね飛ばした時は何故か知らないが「グーチ」と言った。年齢も14~9歳、独楽の大きさも異なり当然年かさの人の独楽が最後まで残った。独楽回しが終わると、天下になった者は、自分の独楽を回し掌に乗せ「天下の独楽はこうゆうだ(このようなものだ)」といって皆に誇示していた。 続く

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