前回、諸法無我の諸法とは、一切の法と書きました。
「一切」について、サンユッタ・ニカーヤには、次のように書かれています。
「それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが『一切』と呼ばれるものである。」(SN. 33.1.3)
仏教では、現象として人間に認識可能なものを、一切と呼びます。
形而上学的な、神なのどの概念は、一切に含まれません。
これら一切のものは、無常であり、無常であるから苦であり、無常であるから無我であると説かれています。
「比丘たちよ、眼は無常である。『すべて無常なるものは苦である。すべて苦なるものは無我である。すべて無我なるものは『これ我がものにあらず。これ我にあらず。これわが我(アートマン)にあらず。』と、このように正しき智慧をもって、あるがままにこれを見なければならぬ。比丘たちよ、耳について言うも同じである。鼻について言うも同じである。舌について言うも同じである。身について言うも同じであり、また、意について言うも同じである。」(SN. 35:1)
ダンマ・パダには次のように書かれています。
一切の形成されたものは無常である(諸行無常) sabbe samkhara anicca (Dhp.277)
一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦) sabbe samkhara dukkha (Dhp.278)
一切の事物は我ならざるものである(諸法非我) sabbe dhamma anatta (Dhp.279)
原始仏教において、一切の法とは、具体的に認識される存在のことです。
具体的な存在でないものとは、真理、性質などの法のことです。
これらは、言葉の上では、存在している、ということもありますが、客観的な存在(有)ではありません。
「それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが『一切』と呼ばれるものである。」(SN. 33.1.3)
仏教では、現象として人間に認識可能なものを、一切と呼びます。
形而上学的な、神なのどの概念は、一切に含まれません。
これら一切のものは、無常であり、無常であるから苦であり、無常であるから無我であると説かれています。
「比丘たちよ、眼は無常である。『すべて無常なるものは苦である。すべて苦なるものは無我である。すべて無我なるものは『これ我がものにあらず。これ我にあらず。これわが我(アートマン)にあらず。』と、このように正しき智慧をもって、あるがままにこれを見なければならぬ。比丘たちよ、耳について言うも同じである。鼻について言うも同じである。舌について言うも同じである。身について言うも同じであり、また、意について言うも同じである。」(SN. 35:1)
ダンマ・パダには次のように書かれています。
一切の形成されたものは無常である(諸行無常) sabbe samkhara anicca (Dhp.277)
一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦) sabbe samkhara dukkha (Dhp.278)
一切の事物は我ならざるものである(諸法非我) sabbe dhamma anatta (Dhp.279)
原始仏教において、一切の法とは、具体的に認識される存在のことです。
具体的な存在でないものとは、真理、性質などの法のことです。
これらは、言葉の上では、存在している、ということもありますが、客観的な存在(有)ではありません。