人の世は、滞在期間の定め無き、今日一日の旅の宿

 時 人を待たず、光陰 惜しむべし
 古より有道の人、国城 男女 七宝 百物を 惜しまず
 唯 光陰のみ、之を惜しむ

一切(いっさい)

2010-02-23 | 日記

前回、諸法無我の諸法とは、一切の法と書きました。

「一切」について、サンユッタ・ニカーヤには、次のように書かれています。

「それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが『一切』と呼ばれるものである。」(SN. 33.1.3)

仏教では、現象として人間に認識可能なものを、一切と呼びます。
形而上学的な、神なのどの概念は、一切に含まれません。

これら一切のものは、無常であり、無常であるから苦であり、無常であるから無我であると説かれています。

「比丘たちよ、眼は無常である。『すべて無常なるものは苦である。すべて苦なるものは無我である。すべて無我なるものは『これ我がものにあらず。これ我にあらず。これわが我(アートマン)にあらず。』と、このように正しき智慧をもって、あるがままにこれを見なければならぬ。比丘たちよ、耳について言うも同じである。鼻について言うも同じである。舌について言うも同じである。身について言うも同じであり、また、意について言うも同じである。」(SN. 35:1)

ダンマ・パダには次のように書かれています。

一切の形成されたものは無常である(諸行無常) sabbe samkhara anicca (Dhp.277)
一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦) sabbe samkhara dukkha (Dhp.278)
一切の事物は我ならざるものである(諸法非我) sabbe dhamma anatta (Dhp.279)

原始仏教において、一切の法とは、具体的に認識される存在のことです。
具体的な存在でないものとは、真理、性質などの法のことです。
これらは、言葉の上では、存在している、ということもありますが、客観的な存在(有)ではありません。
 
https://budda.at.webry.info/201002/article_3.html
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