本方は温凉補瀉の并用である。
猿抱子歸青嶂後 鳥啣花落碧巖前
「 猿は子を抱いて青嶂(せいしょう)の後(しりえ)に帰り
鳥は花を啣(ふくん)で碧巌(へきがん)の前に落つ 」
青嶂・・樹木が生い茂って青々とした高くけわしい峰
碧巌・・碧=青 巌=岩、青々と聳(そび)え立つ岩山
修行僧が、悟りはどの様な境涯かと師に尋ねた。
師は、"当たり"前に見える風景を語って示した。
"当たる"以前以後は、我の懐の想念に過ぎない。
事実は、前後際断した我と神羅万象の同時成道。
認識の未だ到らぬ処ゆえ、自他を両忘している。
一切の対象を認める処は、現実に映した我の影。
認識は我の懐の念、対象と我を二つに分ける処。
事実は未だ対象を認め得ぬ処ゆえ、隔てが無い。
"此ある故彼あり此滅す故彼滅す"は、我の認識。
只今は認識なく此を忘じ、彼の認識に此を起す。
事実に"当たる"処は、此を忘じ彼の認識も無い。
釈迦は一花を捻じて、倶胝は一指を立て示す処。
臨済が黄檗に三度問い、三度打ち据えられる処。
法は我と相手を同時に成仏、自他を両忘してる。
釈迦の花も倶胝の指も、我の識別の上に立たず。
黄檗は臨済を打ち、未だ分別到らざる処を直示。
徳山は云い得るも三十棒、云い得ざるも三十棒。
対象を認める以前の処は、答えを知る我も不生。
法は父母に習う以前から、誰もが既に得ている。
得る処は未だ対象を認めぬ処ゆえ、悟了同未悟。
今日の縁: 『 芭蕉翁古池真伝 』
仏頂和尚、芭蕉を訪わんとして六祖五兵衛を供に
芭蕉庵に至り、五兵衛先ず庵に入り、
「如何なるか是れ閑庭草木中の仏法?」と。
芭蕉答えて曰く、「 葉々大底は大、小底は小 」と。
それより仏頂門に入り「 近日何れの所にか有る?」
芭蕉曰く、「 雨過ぎて青苔を洗う 」
又問う、「如何なるか是れ青苔未だ生ぜず
春雨未だ来らざる以前の仏法?」
その時、 池辺の蛙一躍して水底に入る。
音に応じて「 蛙飛びこむ水の音 」と答う。
仏頂これを聞いて、「珍重、珍重」と。
※当り前の処は認識以前ゆえ 認め得る一毫の仏法も無し