人の世は、滞在期間の定め無き、今日一日の旅の宿

 時 人を待たず、光陰 惜しむべし
 古より有道の人、国城 男女 七宝 百物を 惜しまず
 唯 光陰のみ、之を惜しむ

コオロギはなぜ自殺するのか?

2023-02-28 | 日記

  https://www.treponte.jp/sp/01_kyoiku/01_04shokuiku/gut/9.html

 神経寄生生物学, コオロギ二股事業, 傀儡政権の肝いり, そういうつながり


ドル/円の過去と現在 - 長期と短期の展望

2023-02-28 | 日記

    https://twitter.com/sekihara_d/status/1627601573986852864

 日銀総裁, 戦争経済


パーキンソン病の治験 - 柴胡加竜骨牡蛎湯

2023-02-27 | 日記
 
按:柴胡加竜骨牡蛎湯は《傷寒論》第107条にあり:                                              “傷寒七八日,胸満煩驚し,小便不利,譫語し,一身尽く重く,転側できない”。
 
《皇漢医学》に曰く:“此の方は胸満煩驚が主証で,其の他は皆 客証也”。
又《餐英館治療雑話》では:“此の方は癇証及び癲狂に用いて屡効を得ている,          今世の病気は鬱と肝鬱者が十のうち七八である,
 
肝鬱者とは,癇証の漸(軽症)にして,婦人に尤も多いのは肝鬱と癇証なり,         若し能く此れを知れば,当今の雑病は治療が困難ではない”。

 

本方は温凉補瀉の并用である。

如えば《医宗金鑑》に曰く:“是の証はまた,陰陽錯雑の邪にして,         方はまた攻補錯雑の薬なり。…錯雑の薬を以って,錯雑の病を治す也”。
 
現代の大量の臨床及び実験研究が証明しているように,該方はセロトニン、    ドーパミン、ノルエピネフリン、アセチルコリン、グルタミン酸塩等の神経物質   の代謝に対して調節作用があるのは明らかである。
故に癡呆, 癲癇, 抑鬱, 等の精神疾患に対して皆療効がある。
                                                                       经方亦步亦趋录 より
 
 
※わが国では認知症の分野に専ら抑肝散が用いられているが、柴胡加竜骨牡蛎湯だと どんな結果が得られるだろうか?
 
 

コオロギ産業の勃興 - 食と経口ワクチンの二本立て

2023-02-27 | 日記

 https://twitter.com/BABYLONBU5TER/status/1620781339338502150

コオロギとグラフェン


未だ説かれざる処

2023-02-26 | 日記



    猿抱子歸青嶂後 鳥啣花落碧巖前

「 猿は子を抱いて青嶂(せいしょう)の後(しりえ)に帰り
  鳥は花を啣(ふくん)で碧巌(へきがん)の前に落つ 」


 青嶂・・樹木が生い茂って青々とした高くけわしい峰
 碧巌・・碧=青 巌=岩、青々と聳(そび)え立つ岩山

 
 
 修行僧が、悟りはどの様な境涯かと師に尋ねた。
   
 師は、"当たり"前に見える風景を語って示した。

 "当たる"以前以後は、我の懐の想念に過ぎない。

 事実は、前後際断した我と神羅万象の同時成道。

 認識の未だ到らぬ処ゆえ、自他を両忘している。

 一切の対象を認める処は、現実に映した我の影。

 認識は我の懐の念、対象と我を二つに分ける処。

 事実は未だ対象を認め得ぬ処ゆえ、隔てが無い。

 "此ある故彼あり此滅す故彼滅す"は、我の認識。

 只今は認識なく此を忘じ、彼の認識に此を起す。

 事実に"当たる"処は、此を忘じ彼の認識も無い。

 釈迦は一花を捻じて、倶胝は一指を立て示す処。

 臨済が黄檗に三度問い、三度打ち据えられる処。

 法は我と相手を同時に成仏、自他を両忘してる。

 釈迦の花も倶胝の指も、我の識別の上に立たず。

 黄檗は臨済を打ち、未だ分別到らざる処を直示。

 徳山は云い得るも三十棒、云い得ざるも三十棒

 対象を認める以前の処は、答えを知る我も不生。

 法は父母に習う以前から、誰もが既に得ている。

 得る処は未だ対象を認めぬ処ゆえ、悟了同未悟


 
  今日の縁: 『 芭蕉翁古池真伝 』

 仏頂和尚、芭蕉を訪わんとして六祖五兵衛を供に
 芭蕉庵に至り、五兵衛先ず庵に入り、
 
「如何なるか是れ閑庭草木中の仏法?」と。

芭蕉答えて曰く、「 葉々大底は大、小底は小 」と。

それより仏頂門に入り「 近日何れの所にか有る?」

  芭蕉曰く、「 雨過ぎて青苔を洗う 」

    又問う、「如何なるか是れ青苔未だ生ぜず
        春雨未だ来らざる以前の仏法?」

  その時、 池辺の蛙一躍して水底に入る。

 音に応じて「 蛙飛びこむ水の音 」と答う。
 
   仏頂これを聞いて、「珍重、珍重」と。


 ※当り前の処は認識以前ゆえ 認め得る一毫の仏法も無し

 ※花無心, 無法の法, 不徹底