月例会提唱より (平成20年1月)
正法眼藏 大悟
その1
「衆生本來佛なり」と白隱禪師は言う。もちろん私たちは「本來の自己」のまっただ中に居るのであるが、そのことにほんとうの意味で気づくことなく「本來の自己」の言語化された影を「本來の自己」と考えてしまっているのである。
だからこそ本來のことに気づくことが必要であり、參禪の者は千年も二千年もの間「大悟」を求め續けてきたのである。そして「河頭に水を賣る」という言葉があるが、まさに河の傍らで水を探し續ける者に水を差し出してきたのが禪家なのだ。
華嚴和尚は「大悟の人が迷うときは如何」との問いに答えている。「割れた鏡はもう照らすことはないし、落花はもう木に登らない」と。本來のことに気づいたのにそのことを忘れたり、失ったりすることなどあり得ないということである。
しかし道元禪師はさらに踏み込んで言う。「却迷を親曽ならしむる大悟ありとしるべきなり」。迷を迷う悟るの迷とするのではなく、悟も迷う悟るの悟とするのではなく却迷とし大悟としてこのたった今の正當の時を迷悟を離れた本來の時節であるというのである。
迷だとか悟だとかを離れ本來のことに気づく、このことを「大悟」というのである。
https://www.shomonji.or.jp/zazen/teishou.html
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