石原昌武
要旨
1.米兵による沖縄の婦女子への強姦・輪姦(由美子1955,少女1995)
2.基地建設に伴う土地の強制接収(銃剣とブルドーザー)
3.軍用機・ヘリコプターの墜落事故(森の宮小1959,沖国大2004)
4.戦闘機・オスプレイの離着時及び昼間・夜間の低空飛行による騒音被害
5.米軍車両による轢殺・傷害(県道を大型車両が走行)
6.実弾射撃演習・山火事・県道封鎖・流れ弾の住宅地への被弾
7.建設現場(基地内外)での不発弾事故
8.基地内から出て来た枯葉剤(ダイオキシン)有害物質、汚染水
9.沖縄の基地が米軍の度重なる戦争(戦争中毒)に加担・協力
10.辺野古の大浦湾を埋める新基地建設の阻止行動
皆さん、こんにちは。時間の制約上、レジメにある10の事項に基いて補足説明していきます。基地と向き合って生きることが如何に生命と生活の危険にさらされて生きることであるかを汲みとって頂きたいと思います。温度差のある本土の人達に対して、沖縄の人たちは今、訴えております。沖縄の苦難と差別の歴史を知り、現地に足を運び、沖縄の人たちの痛み苦しみを共有し、その怒りと悲しみの叫びに耳を傾け連帯してほしいと言うことです。国土の0.6%に過ぎない沖縄に在日米軍施設の74%を押しつけている不条理を思うとき、戦後処理の時点で昭和天皇が国体護持のためにマッカーサーと何度も会見したり、天皇メッセージによって沖縄の基地を半永久的に使用することを容認し、沖縄は捨て石にされました。基地の固定化、強化につながり沖縄は標的の島となり、再び戦場となる危険にさらされることになります。どうして沖縄は差別され、踏みつけにされなければいけないのでしょうか。
私は敗戦のとき、小学一年生で、占領軍であるアメリカ軍政府の統治下にある時期に多感な中学・高校時代を過しました。軍政長官(後の高等弁務官)が最高権限を握り、軍が発令する布令・布告が沖縄群島議会(後の立法院)、任命された行政主席や裁判所よりも上にあり、市民が選んだ市長も軍政府として都合の悪い人であれば追放することもありました。米兵・米軍属による事件・事故を起こしても逮捕することも裁くことも出来ませんでした。ショッキングな事例を二つ紹介します。敗戦から5年経って朝鮮戦争が起こり、沖縄のアメリカ軍基地の重要性が増し土地の一括買い上げが打ち出され、銃剣とブルトーザーによる強制接収がはじまりました。伊江島の阿波昌鴻さんの住む真謝もその一つでした。私達高校生も近くの伊佐浜の接収のとき銃剣と暴力で、抵抗する民を排除し、ブルトーザーで家屋をこわし、ならしていく様子を見て、自由と平和を標榜する民主国家と称するアメリカの姿を目のあたりにして、反米感情を強く抱くようになりました。プライス勧告に対する軍用地四原則貫徹県民大会には10万人余が結集し私たちも参加しました。
もう一つは1955年6月、6歳になる由美子ちゃんが米兵につれ去られ暴行惨殺の上海岸に捨てられるという痛ましい事件が起こりました。全沖縄人権擁護住民大会を開き、抗議と怒りの声をあげました。ここに一つの冊子をもってきました。“基地・軍隊を許さない行動する女たちの会”が「沖縄米兵による女性への性犯罪」を敗戦から復帰迄、復帰から2012年までの米兵による強姦・輪姦の数を調査したものを松井やよりさんの「女たちの戦争と平和資料館」からブックレットにまとめられ発行されております。是非入手して読んでほしいと思います。その数は何百件にも及び、その数の多さと人権を否定するその非道さに怒りがこみあげて来ます。1995年9月4日に起きた3人の米兵による12歳の少女暴行事件に対して沖縄県民総決起大会を開き、8万5千人が結集し県民の憤りの声をあげました。
10番目の辺野古・大浦湾を埋め立てる新基地建設の阻止行動について先に言及しておきます。安倍首相が7月1日、集団的自衛権行使容認を閣議決定した同じ日に辺野古に新基地建設の工事が着手されました。辺野古・大浦湾にはジュゴンや海亀がえさを求めて遊泳し、沢山の希少生物やサンゴが生息する宝の海、生命の母なのです。このような透明度の高い、美しい海を埋めることがどれほど罪深いことであるか、然も戦争の出来る巨大軍事基地をつくるのです。すでにキャンプ・シュワブには弾薬庫があり、今度の新基地建設には1800米もあるV字滑走路とオスプレイ100機も駐機できる面積の海を土砂や砕石を運んで海面より10米の高さにまで埋め立てるというのです。皆さん想像してみてください。原子力空母も寄港できる軍港として計画されており、どんな有害物質が流失するか知れません。海は完全に汚染され、海の生物が死滅することは明らかです。負の遺産を子や孫の世代にまで残してはならないと、ゲート前には連日全国から支援する人達が集り抗議の声をあげております。海上ではカヌー隊がボーリング調査を阻止しようとブイやフロートの制限区域を突破して海上保安庁のゴムボートの隊員と激しくぶつかりながら、身体を張っての闘いが続いております。支援の輪は全国に広がり、8月23日には3700人、9月20日には5500人の人が結集し抗議の声をあげました。沖縄の人達は差別され抑圧された歴史を通してねりきたえられ、その都度抗議の声をあげ、ねばり強い運動を展開し、沖縄の主権回復の闘いを続けて来ました。その様子はインターネットを通して国内外だけでなく、国際世論を動かし、世界の有権者が大浦湾の埋め立て反対を表明し支援の輪が広がっていることは心強い限りです。
3項目以降について補足説明しておきます。1959年6月石川市宮森小学校に米軍戦闘機が墜落し、死者17名・負傷者210人の事故をはじめ、復帰後の墜落事故は45件にものぼると云われております。最近では2004年沖縄国際大学の校舎壁面に米軍ヘリコプターが墜落炎上する事故もありました。その他戦闘機より物体が落下し、死傷者が出る事故も起っております。
④オスプレイ、大型給油機、戦闘機による、夜・昼をとわず、時には早朝・深夜にわたる騒音の深刻さは、その現場に身をおいて生活してみなければわからないと思います。学校の授業、ラジオ・テレビ、電話も中断する程で、難聴や情緒障害を訴える人も出ております。普天間・嘉手納飛行場を離着陸飛行訓練に伴うその爆音の被害を被っている人達が爆音訴訟を起こして闘っております。
⑤県道を基地から基地へ移動する大型軍用車輌が走行するのを見ると異様を感じます。軍用車輌による轢殺、傷害事故もあり、米兵の酒気おび運転による追突・巻きこみ事故も良くあります。
⑥実弾射撃演習による山火事も良くあり、山肌が県道からもよく見えます。時には県道が封鎖され流れ弾が住宅地へ被弾したこともあります。テント村から演習の音が聞えて来ます。
⑦建設現場での不発弾爆発事故があります。不発弾処理に伴う避難区域の指示が新聞に広告されます。沖縄には今尚、数えきれない程の不発弾が眠っており、沖縄の戦後は終っておりません。
⑧基地内から沢山の枯葉剤(ダイオキシン)のドラム缶が出土しました。ベトナム戦争当時のものと思われます。北爆から帰って来た戦闘機の洗浄に使った有害物質や汚染水が海や川に流れて身体に異常を来した人もおります。
⑨ベトナム戦争のとき、従軍カメラマンとして活動した石川文洋さんの最近の報告によると沖縄から発進した爆撃機による国土の破壊、人民の殺傷、枯葉剤による傷害のつめ跡は、40年以上経った今でも奇形児の発生率が高く戦場のトラウマで苦しんでいる人達が沢山いるそうです。沖縄の基地が加害者として加担・協力したことの重さを問われなければならないと思います。県民の一人として今一度訴えます。
沖縄は人間の住んでいる島です。静かな空をかえしてください。美しい海を壊さないで下さい。最後に歌う賛美歌第Ⅱ編164番は私たちが毎週月曜日、普天間基地ゲート前で歌っているテーマソングです。聖書を一ヶ所読みます。ローマ書5章3~5節「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。わたしたちを取り巻く状況はどんなに厳しくとも最後まであきらめないで、勝利をのぞんで、みことばに聞き祈りを合わせつつ闘っていきたいと思います。これで私の証しとします。