goo blog サービス終了のお知らせ 

無教会全国集会2014

2014年度 無教会全国集会ブログ

発題2「韓国キリスト者と共に生かされて」

2015-03-08 13:44:16 | -2 韓国キリスト…

山本 浩

プロフィール
1943年生まれです。小学校に入る前に誘われて行った教会のことが忘れられず、いつか再び行ってみたいと思っていたのですが、後に知り合った友人がキリスト者で、彼の薦めもあって教会に行き始めました。その後、恩師の家庭集会に誘われ、待晨集会に連なるようになりました。1995年の日韓青年友和の会の発足時から事務局の一員になりました。2003年に会社を定年退職し、韓国に語学留学しました。

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章10節)

「井の中の蛙」など、韓国と日本には同じ意味を表す諺が多いですが、韓国に、「鯨の喧嘩でエビの背が割れる」という諺があります。大国の戦争や思惑で小国が分断されたという朝鮮半島の歴史と現状を物語っている言葉です。韓国は今や小国ではありませんが、背中の割れたエビに喩える朝鮮半島から見た鯨は、当時のアメリカやソ連、中国そして日本などを指しています。日本も敗戦後、沖縄はアメリカに統治され、北方領土問題は今も未解決のままですが、先程ご紹介した諺は日本にはなさそうです。そしてこの諺以上に、韓国の人たちの思いを表しているものはないのではないかと私は思っています。南北統一、これは韓国民の悲願であり、北朝鮮→北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の方々の願いでもあろうかと思います。    

世界には国が分断される事態は過去にもありましたし今も生じています。しかし、朝鮮半島の分断や対立には、よその国で起きている悲しい出来事と言って済ますことができないものを、ある時から感じはじめました。

①韓国に関心を持つようになった経緯

29年前の8月、長野県木曽福島で、「韓国梧柳文庫を支援する会」の10周年記念の集まりがありました。キリストにあって、韓国に謝罪している人たちの集まりで、主催者は木曽福島に住む杉山直さんでした。私は、それまで、その会の存在を全く知りませんでしたが、集まりを知らせるチラシを手に取ってから、何故だかわかりませんが出席しなくてはならないという思いが募り、参加を申し込みました。

一泊二日の集まりでしたが、出発当日の朝、お盆の帰省時期と重なっていたため、駅は帰省客で溢れていました。乗車予定の列車が入線したのに乗降口に近寄れず乗車をあきらめかけたのですが、背後からもの凄く強い力が加わり、気がついたら車内に入っていました。このように韓国との関わりは、神様から背中を押されて始まった、と当時も今も受け止めています。

集まりには、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の松井義子さんや満州少年開拓団の足跡を辿っておられた陣野守政さん、それに支援者が数人集まっていました。この会は、政池仁先生の発案で始まったということをそのとき知りました。謝罪の気持ちを形に表すということで、日本で刊行されたキリスト教の図書を、韓国の梧柳文庫に、杉山さんが送っていたのです。早速私も入会し、それから、杉山さんから送られてくる会報で韓日間の過去や今日の様子を少しずつ知るようになって行きました。

②「日韓青年友和の会」の発足

それから10年ほどして、杉山さんがご高齢になったことと、韓国側で日本のキリスト教の図書が自由に購入できるようになったということで、「韓国梧柳文庫を支援する会」は解消し、「日韓青年友和の会」に衣替えになりました。そのときから、四人の事務局の一員になりました。最初の10年間は、毎年、韓国から二人ずつ日本にご招待し、日本を少しでも知ってもらいたいという考えで始まりました。小さな活動ではありますが、10年経てば、日本を多少なりとも知って下さる方が20人になるという思いでした。

③韓国への初めての旅

韓国からのお客様に泊まっていただくのに、韓国を知らなくてはいけないと思い、最初の方にお泊まりいただく前に妻と韓国に行きました。1995年7月のことです。天安(チョナン)にある独立記念館や西大門(ソデムン)にある刑務所跡を見学しました。日本による迫害の実態を知っておきたかったのと、金教臣(キム・キョシン)先生らが収容されていた所を見ておきたかったからです。地下牢がまだ残っていました。申し訳ない気持ちでその上を歩いてみました。

朝鮮総督府の建物をそのまま使っていた国立博物館にも行ってみました。話に聞いていたとおり、朝鮮王朝第一の宮殿である景福宮(キョンボククン)を遮るように建てられていました。

④初めて泊まってくれた韓国青年に対する神様のお働きかけ

1995年8月、日韓青年友和の会で初めてお招きし、拙宅にお泊まりになった青年(恩善((ペ・ウンスン)さん)が次のような感想文を書かれました。
 日本を長い間、恨んで来た。親日派の父親を理解できなかった。むしろ、日本人に親切にしたりする父親に反感を抱いていた。ところが、日本に来て、日本人と交わり、日本人の家に泊まり家族と食事をし、団らんし、日本人を恨んできたことは間違っていたのではないか、そのことを神様から教えられ眠れなかった。というような内容でした。
 日本に対して、長い間恨みを抱いていた韓国青年に神様のお働きかけがあったのです。神様が見守っていて下さるという実感をいただきました。

⑤謝罪は相手の国の言葉で

杉山直さんは、謝罪に行って、相手国の通訳に頼っていては心が伴わない、自前の謝罪をしたいと言っておられました。私も、謝罪は相手国の母国語でと思っていましたので、最初の方にお泊まりいただく前から、韓国語を学んでおりました。金教臣先生らが以前発行した『聖書朝鮮』誌の創刊号ほかの巻頭言を読む機会があり、『聖書を朝鮮に、朝鮮を聖書の上に』という願いや「弔蛙」(チョワ)に込められた思いには胸を打たれました。「弔蛙」の内容、特に「ああ、全滅は免れたらしい!」という結句が、独立を企てる危険な思想ということで、『聖書朝鮮』誌が廃刊となり、金教臣先生ほか読者も検挙や召喚されたのでした。こうしたことを通して、韓国と韓国語に対して、より真剣に向き合うようになって行ったように思います。

2000年5月に、他の事務局員と二人で、韓国の主にある先輩(廬平久(ノ・ピョング)先生)をお見舞いに伺ったことがあります。その際、韓国無教会の有志の方々が私達のために歓迎会を開いてくれました。私はそこで初めて、日本の罪を日本人として韓国の方々の前で謝罪しました。その際、劉熙世(ユ・ヒセ)先生が紹介して下さったお言葉が忘れられません。「植民地化された私達の方が悪い」と宋斗用(ソン・ドヨン)先生が以前語られたお言葉です。韓国の歴史をそのように受け止めている方が韓国におられることをその時初めて知りました。

⑥留学時の忘れられない方々

会社を60歳で定年退職し、韓国に留学しました。特に忘れられない、お二人の方についてお話をさせていただきます。

ある無教会集会の聖日礼拝のあとで、かつて日本がどんな悪事を働いたかを調べるのがおまえの務めだと言って下さった方がおりました。この方は日本の敗戦のあと、満州から命がけで逃げ帰って来た方でした。本当に大変な苦労をして帰国なさったそうです。そして今、自分が韓国語より日本語がうまいのは誰のせいだと、日本語で言われました。私は不意を突かれ、お返しする言葉が見あたらず、ただ恐縮していました。本当はもっとお話を伺うべきでしたし、謝罪すべきでした。そのために留学したのですから。今年の夏、訪韓した際に、時間をかけてお話を聞きたいと思って韓国の知人に消息を尋ねたところ、昨年11月に召されたと伺い、大変申し訳なく残念に思いました。

もう御(お)一方(ひとかた)は李瑨求(イ・ジング)先生です。李瑨求先生には、聖日礼拝でも個人的に何度もお会いしました。朝鮮半島が分断されているのは、神様が韓国に悔い改めを求めていらっしゃるからだと言われ、そのことをご自分が主筆されていた月刊誌「聖書信愛」の巻頭言に何回か書いておられました。私に対して、日本を非難する言葉を一言もおっしゃらず、いつも温かく接して下さり、ありがたさと共に申し訳なさを感じました。

先生に、韓国の若者の中には南北統一を望まない人もいるのではないか、と一度お尋ねしたことがあります。そのとき先生は、統一を願わない韓国人はいない、ただ統一できるのは神様だけであると明言されました。李瑨求先生の願いは単なる統一ではありません。聖書の上に立つ新しい国です。これは金教臣先生の願いでもあります。私はこの願いに祈りを合わさせていただきたいと思っております。

⑦「日韓青年友和の会」発足後10年を経て

日韓青年友和の会が10年経った2005年に、日本側から一般人の希望者を募って訪韓しました。その際、韓国の無教会全国集会にも参加しました。そのあと、事務局員の半分が入れ替わり、それ以降は、韓国高校生の招待、大学生の招待が続きました。その後、韓国側に「韓国聖書信友会」が発足し、韓国にも来て欲しいとの要請があり、青年達の相互訪問が始まりました。2008年に日本から青年10人と共に訪韓しました。

今年の夏は、その五回目になりますが、10人の日本の青年と共に韓国を訪問し、三つの集会に分かれて聖日礼拝に出席し、独立記念館、非武装地帯、戦争と女性人権博物館などを見学してきました。以前来日した韓国青年が多数参加し、日本の青年との交流をしてくれました。

⑧韓国の方々の受けた傷と痛み

日本は、近代に於いて、1876年の日朝修好条約(江華島条約)で領事裁判権など一部の権利を、1905年の第二次日韓協約(乙巳条約)で外交権を、1910年の併合条約以降では、国家、人命、土地、財産(米)、自由、言葉、人権、名前など(七奪とか八奪と言われますが)を奪い、皇民化政策を進めました。

今回の旅でも、韓国の方々の胸の内を個別に聞かせてもらいました。自分たちの国の歴史を知れば知るほど悩ましい、若い人には反日感情はない、日本に対する思いは簡単に言い表すことはできない、自分の夫は日本を嫌っている、など率直な気持ちを語ってくれました。傷や痛みは個別、具体的です。受けた方でなければ分からない傷と痛みが韓国の方々一人一人の心と身体の奥深くにある事を感じます。

⑨神様の御憐れみとお恵みによって

韓国聖書信友会の代表者である吉廣雄(キル・グァンウン)先生が今回の歓迎の辞の中で言われた、「私達韓国人は政池仁先生以来の日本人の謝罪を心から受け入れただろうか……」というお言葉を聞いて、私は韓国キリスト者の心の中の葛藤に触れた思いがしました。

韓国の方々が受けた傷や痛みを私達は到底償うことは出来ません。せめて韓国の方々の声に耳を傾け、歩まれた道と朝鮮半島の歴史を知り、お慰めと御平安をお祈りさせていただきたいと思います。

日韓青年友和の会は今年で19年目を迎えました。今日まで続けて来られたのは、神様が主イエス様を通してお導き御守り下さったお陰です。そして、韓国の主にある兄姉、韓日の支援者のご協力によるものです。

神様の御憐れみとお恵みによって、主イエス様を通して、神様に立ち帰る道が与えられていますことを、心から感謝いたします。そして今、韓国キリスト者と共に、神様の御国を目指して歩ませていただけますことを本当に有難く思っています。