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無教会全国集会2014

2014年度 無教会全国集会ブログ

第7分科会「共に生きる――マタイによる福音書を通して与えられること」

2015-03-08 13:36:57 | -7 共に生きる―…

発題者 荒井克浩
司会者 水戸 潔 
書記  土屋めぐみ

分科会の進め方:「共に生きる」事は大きく分けて①個人的空間に於いて②国と国・民族間同士に於いて考えられる。①②において「共に生きる」事が困難な状況を出し、それについて話し合う。    

Ⅰ個人的空間で「共に生きる」事が困難な状況にある方

1)20年位前、教会において感じた。集会の中で若者の会を作るという時に、年輩の方達の中で「勝手な事はやらないように。自分たちの意見は聞いて欲しい、あなた達の意見は聞きません。」という雰囲気を感じた。

2)集会の中で感じる。その方の発言に対して誰もそれに反対していないのに怒って帰ってしまう人がいる。同じ無教会信仰を持ちながら、「信仰って何だろう」と思う。却って近所→近所付き合い?のほうが問題がない。

3)沖縄で25年牧師をしていた。2009年12月沖縄で脳梗塞になったことが私にとって大きな変換期になった。3ヶ月間入院している時に一切のレッテルが無くなった。神様はクリスチャンを創ったのではなく、アダムという人間・宇宙万物を創造し一人ひとりを母の胎内に奇しき者として創造したことを腹の底から感じた。キリスト教の中の特殊なものでなく最も人間らしい人間、最も私らしい私、教理的に言えば創造論と救済論。3ヶ月の入院で理屈でなく分かった。聖書をめがねとして見るのでなく、めがねは隣人・万物を見るもの。とにかく人間として嬉しくて仕方がない。人間を「本来の人間として生かしていく」という福音聖書は誤りなき神の言葉である。共に生きるという原点ではないか。童謡説教をYouTube(インターネット上の動画共有サイト)でやっている。「五木の子守唄」を歌い続けていた人々も聖書の神様が母の胎に形創った方であると確信する。こちらからレッテルや壁を作らないこと。

4)個人的な空間を「共に生きる」事に困難な時代を感じる。日本社会で殺人・学校でいじめ、自殺の問題があり共に生きられない事件がある。いじめを受けた人は孤立する状況。しかし、人間は一人では生きられない。一人の人間を見るときに「個人」として捉えているのが日本社会の基本になっている。文部省の学習指導要領の前文にも「自ら考えて自ら観察し、」と書いてあり→※校正者注:正確な原文を引用するならば、【文部科学省の学習指導要領の総則第一款にも「自ら学び自ら考える力の育成」と書いてあり、】「個人」である。学校教育方針の中心・人間を育てるテーマの中心が「個人」である。だからいじめで子供が孤立したときに社会的な存在であるべき人間関係が切れているので自殺・事件が発生する。「個と個」の関係で共存の問題を捉えるのでなく「人間と人間」の関係として考えていかなければならない。

Ⅱ「共に生きること」を阻害する4つの事例を講話者はどう考えますか?

・講話者:皆さんが共に考え解決していく事が大切。2)はその人が騒ぎたければそのまま放っておけばいいと思う。そしてその人を大事にする。しかし集会責任者は問題点を捉えておく必要がある。3)は聖書を通して人間を見る、そして人間は神の支配にあるという事を個人的な体験を通して教えて頂きました。感謝です。4)は学校教育に対して安倍首相が教育基本法を改悪し教育の中に国家主義の思想を入れてきた。本当の「個人」として大事にしていくことができるかどうか、を教育の中で問いただすことが大切。自民党改憲案では「個」ではなく「人」となっている。「個」として違う者同士が集まるという大切さが教育にはある。

司会:個性を国として認めたくない、という国の姿勢があるという指摘について。

・安倍政権は道徳教育を教科として認めさせたい。教科となれば教科書ができて強制される。指導項目も違ってくる。学校教育の目標は「個性ある個人を育てる」ことだが、「個性ある個人」というが人間は個人自身では決して生きられる生き物ではない、という大前提が教育方針に抜けている。人間は社会的存在以外にはありえない。いかにして協調した社会の中で個性・個人がどう認められていくべきか、という前提に立つべき。日本の教育は「知育・徳育・体育」と人間が3分割されていて、目標も3分割になっており人間という統一したテーマの目標がない。スウェーデンはそうではないと思う。だから学校の中でいじめは無くならないと思う。

司会:人間はバラバラな個人でなく社会的存在である。社会は秩序を前提にしている。秩序にあった生き物であるべきというご指摘ですか?

・人と人の関わりがある社会。学校、地域という機能的社会でなく人間と人間の社会が大切。

司会:今の政権は個を尊重する方向に向かっているか、どちらに向かっていると思いますか?

・今の学習指導要領にはそうした人間の関わり合いを持つという概念が無い。学校の子供達はバラバラに成長している。他人はどうなっても良い、自分さえ出来れば良い、という考えの子供が育つような構造になっている。若者達は街でぶつかりそうになっても他人を見ないで止まらない。老人は一歩引く。

司会:自分と違う人と共に生きる、という考えを受け入れない不寛容な社会になったという事でしょうか。それを解決していく為にはどうしたらよいか考えてみたい。日本人は寛容な人間になってきたか、不寛容になってきたか。

・自分の感覚では若者社会は寛容な社会になっていると思う。個人的に意見の攻撃を受けない。今までの経験から年寄りの方が私の意見に合わせろ、と言う態度で来る。若者のほうがそうではない。個人的に違うけれど。全体的には寛容に向かっている。しかし安倍政権は寛容でない方向に向かっていると思う。危惧を抱く。

Ⅲ 国家間・民族間については「共に生きる」という方向に向かっているだろうか

・娘がロンドンにいていろいろな国の人と親しくしている。「韓国にいる韓国人とロンドンにいる韓国人は日本人に対しての態度が違う。ロンドンでは他国民同士がとても仲良くしている。」第3国にいるとみんなが協力し合っている。不思議です。

司会:日本にいると韓国人に対する壁があると感じるが、他国にいると壁が無くなる、なぜそうなるのでしょうか。

・(質問)日本国内で韓国人の壁になるものというのはどういう事でしょうか。
・慰安婦問題等が壁になる。民間交流が制限されている。
・(質問)政治主導の民間交流ですか? 民間による民間交流ですか?
・大学時代に学生寮で北朝鮮の人と3年間一緒になった。民族の違いはある。遺伝子が違う。人間が生きるために必要な遺伝子はホンの少しである。全部が全部必要ではないように、聖書にも永い歴史があっていろいろのものが混ざって異物もたくさん入っていて全て必要だとは思わない。良いものを選び出さなくてはならない。その点無教会は良いものを選び出していると思う。

司会:民族を超えて共通の認識となるかどうか、が問題。本当に国と国が和解し違うものを認め合って共存じて生きていく事が出来るかどうか。

・民族間の問題ではイスラムの問題は難しい。ナショナリズム・アイデンティティに目覚めているものを米国のように武力でやるしかない、というのはおかしい。宮田光雄先生の著「平和をつくりだすもの」の中にエペソ書を引用している。民族の壁を取り崩すのはキリストしかない。敵意という壁を取り除く。宗教など隔ての壁はたくさんあるが、キリストによって私たちの国籍はこの地上でなく天国にある、という考え方で一つになれる。キリスト教を学んだので違う価値観を認められるが、イスラムは違う人を認められない。けれどもそれを一つにしてくれるのは「国籍は天国」という考え方だと思う。

司会:「我々の国籍は天国にある」という信仰に立てばこの世のことは大概のことは相対化されるのではないでしょうか。内村の言うように、「戦争は墓地の奪い合い」。これに命をかけるのは馬鹿らしい。

・イスラム教に対して敵視がある。本日の講話の主旨としてイスラムはイスラムで仏教は仏教、そのままで良いと思う事。キリスト教にする事は必要ない。お互いに敵視がある。敵視を作り上げたものは何か?

司会:そうなると伝道はどう意味をもつか?

・神がおこなう事であるから無理しない。喜びを伝えれば良いと思う。喜びはどんどん伝えなければならない。

・無教会の人は苦しむべき事を呻いていない。ロマ書8章にあるように被造物全部が呻いていることと個人の体があがなわれている、ということが結びついている。呻きの中に喜びもある。呻きの連帯が非常に大事だと思う。東北の呻きを共に呻く、問題意識の連帯・答えによる連帯でなく。

(質問)呻きとは何ですか? 

・呻きは一人ひとり違うがイスラム国内の虐殺を放っておいて良いのですか、と言うような問題が教会の中で共有されていない。個人的な問題だけでなく隣国への目を持たなくてはいけない。

司会:個人の問題だけに埋没してはいけない、ということですね。

・「侵略」という意識の共有について。日本の歴史の中で皇民化を他国に強いた。日本人も150年間にわたり分からないうちに皇民化されている。韓国では35年間植民地支配下で行われていた。台湾では40年間。人の心を侵略することが国を侵略していく。侵略されている間は共に生きられなくなっている、と講話で語った。だから共に生きるためには侵略を何とかしなくてはいけない。それが課題です。紛争でなく、同じ理性を尽くし、お互いを大事にし合いながら語り合い、話し合いでの解決の素地を作る。

司会:姜(かん)尚中(さんじゅん)さんの講演の中で、「テレビの中で『違う価値観を持つ人の話を聞いてもいいのでは』と言ったら、もの凄いバッシングを受けた」という話を聞いた。マスコミの中でそうした発言もできなくなっている。日本のマスコミや特殊なグループは違いを認めない。イスラムでも仏教でも良い、という事を認められるかどうかにかかっている。

・世界の争いの中心に宗教問題があるがその根底には経済問題もある。それぞれの宗教で良いよ、というだけでは済まない所がある。共存どころかイギリスのスコットランド独立問題、竹島や尖閣諸島の問題も先ほどの話では土地のぶんどりごっこだから、放っておけばいいということだったけれども、イスラム国の軍隊には世界から派遣されて希望している人が集まっている。お金が欲しいから。沖縄の基地に来る若い米兵も多くの問題を起こす、というのが沖縄問題の現実だと思う。オサマ・ビンラディンが独立してテロ軍団を作ったのも米政府のやり方が間違っていたのだと思う。その辺の経済問題を「世界がお互いにお金の分割をして譲り合う」いう発想が出てこないだろうか、日本の政府がその役割を担ってほしいと思う。

司会:今まで宗教・信仰というレベルで話してきたが争いの根源には経済という因子も絡んでいるからそれを冷静に見なくてはいけない、因子は一つではなく複眼的に見なくてはいけないというご指摘でした。

司会:今年の夏、ドイツ コンスタンツでのFOR100周年記念行事に参加。分科会は「パレスチナとイスラエルの和解」に参加。100周年記念で初めて両国の人が共に話し合った。お互いに相手を非難し激論となったが最後に日本のFOR会員が「言っていることは分かるがお互いに和解し理解し合って共に生きよう」と言ったら全会衆が拍手。北アイルランド・ノーベル平和賞受賞者のマグワイヤさんが間に入り二人は肩を組んで写真に納まった。心を割って話し合えば和解できることを確信した。彼らが自国に戻って伝えるのは難しいと思うが、今回のような出来事が実際に起こるのだから、これに希望を託して、違いを認め、和解し合いながら共に生きることをいつまでも求めていかなくてはならない。それぞれの心の中にいろいろな思いがあるかと思うが、このエピソードを参考に自分の持ち場に帰ってもいつも問題意識を持って考え続けましょう。