無教会全国集会準備委員会
議長 坂内宗男
今年の無教会全国集会は毎年開催して28回目を迎えます。
皆様よくご参集くださいました。心よりお迎えいたします。
今年の特徴的なことは、地域の隔年開催が困難になって、昨年に続いて市川の当地で開催したという点にあります。無教会内でも、高齢化と個人参加(教会のように組織参加ではないので)という、あくまでもその人の自主性に委ねられているために、次第に固定化して来た嫌いも見られます。しかし、この種の会合の必要性はより増していると思います。
それは、従来とかく聖書集会が歴史的に、各集会がリ-ダ-と集会員(信徒)との縦の関係が強く、また集会毎に独自に歩んできた経緯があることから、横の繋がり―エクレシア感が希薄で、それが近時すぐれたリ-ダ-が天に召されることにより、改めて集会の在り方が問われるようになり、この横断的全国集会も生れた次第で、タコツボ化を避け、真のエクレシアを求め、無教会の活性化のためにも、この種の集いは必要と思います。
無教会の使命は、もはや終わったという無教会者があります。果たしてそうでしょうか。第一私たちの先人が真の教会(エクレシア)を求めて教会を批判した問題は是正されたのでしょうか。端的にいって、カトリックは申すに及ばず、プロテスタント内での批判の本質は変わっていないし、むしろ教会の教派(セクト)性、この世的勢力拡大-信徒獲得の動きはより強まって見えることが、長らくエキュメ二ズム(超教派性)を目指すjNCC(日本キリスト教協議会)に係ってきた者の実感です。
一例として、ルタ-の残した最大の汚点-洗礼・聖餐を見れば、洗礼を受けずとも聖餐式にあずからせた牧師が免職となり、裁判訴訟になっていることから見ても、教会では洗礼は教会員と認められる絶対要件(神の前には人間的「絶対」はあり得ない)であって、洗礼を受けない者は求道者としていつまでも半人前で扱われる信仰上の人間的差別は、まさに閉鎖的異常社会以外何ものでもないのです。WCC(世界教会協議会)の「教会」にこだわる旧態依然の姿勢も同様です。
無教会とは正にこの閉鎖性を打破して、独立・自由、唯「キリストにあって一つ」以外なにものでもないのであります。今日の急激なる右傾化にあって、JNCCも現象的に同じ波の路線に在ると見える今、大戦に至る教会の敗北の教訓はどうなっているのでしょうか。
今ほど無教会のレ-ゾンデ-トル(存在価値)が問われる時はありません。すぐれたリーダー無き今こそ唯「イエス・キリスト信仰のみ」に立って、原始キリスト教会(エクレシア)の姿-原点に立ち返るべき、神の与え給うた絶好の機会と捉えるべきではないでしょうか(マタイ18:20)。生きているのは聖霊に満たされたエクレシア・信仰者の在り方であり、エクレシアをいかに生かし、個として社会の中で地の塩として主の証しをするか、鋭い感覚とキリストにある祈りにおいて義と愛に生きるか、各自が問われていると思います。
今年も主にある祈りと交わり、特に新しい参加者・若者に愛のまなざしを、と願っています。