ヨハネによる福音書
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
第1日(10月4日土曜日) 奏楽:西原偕子
12:30~13:30 |
受付 山崎製パン企業年金基金会館サンシティ3F「陽光の間」入口 |
|
13:30~14:50 |
開会式 |
司会 多田義国 |
|
讃美:讃美歌291「主に任せよ、汝が身を」 |
一同 |
|
祈祷 |
司会 |
|
開会挨拶(15分) |
坂内宗男 |
|
讃美:讃美歌280「わが身の望みは」 |
一同 |
|
聖書:イザヤ書2:4 |
司会 |
|
主題講演「日本は世界のため」(50分) |
鷲見八重子 |
|
祈祷 |
鷲見八重子 |
|
讃美:讃美歌514「よわきものよ、われにすべて」 |
一同 |
14:50~15:00 |
休憩 |
|
15:00~16:15 |
発題 (各20分) |
司会 坂内義子 |
|
① 「共生を閉ざす原子力」 |
倉石満 |
|
② 「日韓がともに生きるために」 |
山本浩 |
|
③ 「主に生かされる集会の在り方」 |
吉村孝雄 |
|
祈祷 |
司会 |
|
讃美:讃美歌537「わが主のみ前に」 |
一同 |
16:15~16:30 |
休憩 |
|
16:30~17:20 |
「共に讃美しよう―ゴスペルに挑戦!」* |
一同 指導 佐藤晃子 |
17:20~17:30 |
休憩 |
|
17:30~18:10 |
証 |
司会 坂内義子 |
|
① 「ハンディを乗り越えて」(15分) |
綱野悦子 |
|
② 「主にゆだねて生きる―苦難の中で」(15分) |
溝口春江 |
|
讃美:讃美歌270「信仰こそ旅路を」 |
一同 |
18:10~19:00 |
夕食 |
|
19:00~20:30 |
青年国際交流討論会「日中韓がともに生きるために」** |
司会 小舘美彦 |
20:30 |
散会 |
|
|
|
|
20:40~21:40 |
自由参加プログラム・青年交流会(別室) |
司会 浅井慎也 |
|
|
|
*ゴスペルを2曲ほど練習して仕上げ、その素晴らしさを体験しつつ主を賛美しようというコーナーです。
**青年国際交流討論会は、日本・中国・韓国の青年たち(計6~8人)に日中韓の間に平和を築くためにはどうすればよいかを話し合ってもらい、その後会場の方々も交えて同テーマについて話し合おうというものです。サブテーマは次の四つ。
①軍事力は必要か。アメリカの助けは必要か。
②尖閣・竹島問題にはどう対処すればよいか。
③戦争責任についてはどう考えればよいか。
④文化や精神の違いをどう乗り越えていくか。
第2日(10月5日日曜日) 奏楽:佐々木洋子
9:00~10:00 |
受付 山崎製パン企業年金基金会館3F「陽光の間」入口 |
|
10:00~11:05 |
聖日礼拝 |
司会 中尾猛 |
|
讃美:讃美歌179「よろこびあふるる」 |
一同 |
|
聖書:マタイによる福音書1:21~23, 28:16~20 |
司会 |
|
祈祷 |
司会 |
|
聖書講話「共に生きる―マタイによる福音書を通して与えられること」(50分) |
荒井克浩 |
|
祈祷 |
荒井克浩 |
|
讃美:讃美歌181「みたまよ、くだりて」 |
一同 |
11:05~11:15 |
休憩 |
|
11:15~12:25 |
発題(各20分) |
司会 小舘知子 |
|
④ 「若者と他者」 |
原千拓 |
|
⑤ 「寄り添う心―東京サマリア会の経験を通して」 |
坂内宗男 |
|
⑥ 「平和の福音に生きる―浅見仙作の生き方から学ぶ」 |
大西宏 |
|
祈祷 |
司会 |
|
讃美:新聖歌248「人生の海の嵐に」 |
一同 |
12:25~12:35 |
分科会場へ移動 |
|
12:30~14:45 |
昼食・分科会・グループ撮影(各会議室) |
助言者 |
|
① 「共生を閉ざす原子力」 |
倉石満 |
|
② 「日韓がともに生きるために」 |
山本浩 |
|
③ 「主に生かされる集会の在り方」 |
吉村孝雄 |
|
④ 「若者と他者」 |
原千拓 |
|
⑤ 「寄り添う心―東京サマリア会の経験を通して」 |
坂内宗男 |
|
⑥ 「平和の福音に生きる―浅見仙作の生き方から学ぶ」 |
大西宏 |
|
⑦ 聖書講話「共に生きる―マタイによる福音書を通して与えられること」 |
荒井克浩 |
14:45~14:55 |
移動と休憩 |
|
14:55~16:00 |
証 |
司会 浅井慎也 |
|
③ ベトナムから「無教会の寮で聖書を学んで」(15分) |
ダン・ブ・ホアイ・チン |
|
④ 福島から「はかり縄は福島の地に~原発事故から3年余、福島農業は」(20分) |
大内信一 |
|
⑤ 沖縄から「基地と向き合って生きる」(20分) |
石原昌武 |
|
祈祷 |
司会 |
|
讃美:讃美歌第2編164「勝利をのぞみ」 |
一同 |
16:00~16:05 |
休憩 |
|
16:05~16:50 |
閉会式 |
司会 浅井慎也 |
|
「共に讃美しよう」で練習した曲 |
前日練習した方々 |
|
参加者感想(各5分) |
|
|
次回開催地挨拶(5分) |
坂内宗男 |
|
閉会挨拶(5分) |
小舘美彦 |
|
祈祷 |
小舘美彦 |
|
讃美:讃美歌531「こころの緒琴に」 |
一同 |
16:50 |
散会 |
|
無教会全国集会準備委員会
議長 坂内宗男
今年の無教会全国集会は毎年開催して28回目を迎えます。
皆様よくご参集くださいました。心よりお迎えいたします。
今年の特徴的なことは、地域の隔年開催が困難になって、昨年に続いて市川の当地で開催したという点にあります。無教会内でも、高齢化と個人参加(教会のように組織参加ではないので)という、あくまでもその人の自主性に委ねられているために、次第に固定化して来た嫌いも見られます。しかし、この種の会合の必要性はより増していると思います。
それは、従来とかく聖書集会が歴史的に、各集会がリ-ダ-と集会員(信徒)との縦の関係が強く、また集会毎に独自に歩んできた経緯があることから、横の繋がり―エクレシア感が希薄で、それが近時すぐれたリ-ダ-が天に召されることにより、改めて集会の在り方が問われるようになり、この横断的全国集会も生れた次第で、タコツボ化を避け、真のエクレシアを求め、無教会の活性化のためにも、この種の集いは必要と思います。
無教会の使命は、もはや終わったという無教会者があります。果たしてそうでしょうか。第一私たちの先人が真の教会(エクレシア)を求めて教会を批判した問題は是正されたのでしょうか。端的にいって、カトリックは申すに及ばず、プロテスタント内での批判の本質は変わっていないし、むしろ教会の教派(セクト)性、この世的勢力拡大-信徒獲得の動きはより強まって見えることが、長らくエキュメ二ズム(超教派性)を目指すjNCC(日本キリスト教協議会)に係ってきた者の実感です。
一例として、ルタ-の残した最大の汚点-洗礼・聖餐を見れば、洗礼を受けずとも聖餐式にあずからせた牧師が免職となり、裁判訴訟になっていることから見ても、教会では洗礼は教会員と認められる絶対要件(神の前には人間的「絶対」はあり得ない)であって、洗礼を受けない者は求道者としていつまでも半人前で扱われる信仰上の人間的差別は、まさに閉鎖的異常社会以外何ものでもないのです。WCC(世界教会協議会)の「教会」にこだわる旧態依然の姿勢も同様です。
無教会とは正にこの閉鎖性を打破して、独立・自由、唯「キリストにあって一つ」以外なにものでもないのであります。今日の急激なる右傾化にあって、JNCCも現象的に同じ波の路線に在ると見える今、大戦に至る教会の敗北の教訓はどうなっているのでしょうか。
今ほど無教会のレ-ゾンデ-トル(存在価値)が問われる時はありません。すぐれたリーダー無き今こそ唯「イエス・キリスト信仰のみ」に立って、原始キリスト教会(エクレシア)の姿-原点に立ち返るべき、神の与え給うた絶好の機会と捉えるべきではないでしょうか(マタイ18:20)。生きているのは聖霊に満たされたエクレシア・信仰者の在り方であり、エクレシアをいかに生かし、個として社会の中で地の塩として主の証しをするか、鋭い感覚とキリストにある祈りにおいて義と愛に生きるか、各自が問われていると思います。
今年も主にある祈りと交わり、特に新しい参加者・若者に愛のまなざしを、と願っています。
鷲見八重子
プロフィル
津田塾大学英文学科卒、同大学院修士課程修了(専攻:英文学)。和洋女子大学に45年間勤務、その間コーネル大学、ケンブリッジ大学訪問研究員、2012年定年退職、名誉教授。2004年から社団法人大学女性協会の奨学金事業などに携わり、同協会の推薦により2012~13年、第67回・第68回国連総会第3委員会政府代表顧問を務める。現在、国連ウィメン日本協会理事、日本キリスト教婦人矯風会理事、今井館教友会理事、登戸学寮理事。
はじめに
教会全国集会2014「主に生かされて―共に生きるために」の主題講演の依頼を受けたとき、まず心に浮かんだのは内村鑑三の墓碑銘にある「日本は世界のため」という一節でした。というのは、昨年、2013年10月7日(月)から11月1日(金)まで4週間、一昨年に引き続き日本政府代表顧問として第68回国連総会第3委員会に出席し、毎日6時間ずつ国連加盟193か国の政府代表によるステートメントを聞く機会をあたえられ、その後も報告会や講演会の仕事を通して、世界における日本の立場について思いをめぐらす日々が続いていたからです。急速にグローバル化した世界の中で日本はどのような役割を果たしているのか、あるいは果たすべきなのか。きょうは50分ほど貴重な時間をいただきましたので、世界の国々が一堂に会して和解と平和を模索する国連総会の一端を紹介させていただき、「主に生かされて―共に生きるために」、日本の課題について共に考える縁(よすが)となれば幸いと存じます。
1.市川房枝と国連NGO国内婦人委員会
国連総会第3委員会は、毎年9月第3週から始まる国連総会を補佐する6つの主要委員会の一つです。経済社会理事会(ECOSOC)傘下の「社会・人道・文化」にかかわる議案10項目を扱う委員会で、国連の関係機関執行部と国連加盟193か国がこぞって良き施策を披歴し、あるいは現状を見据えて様々な問題を討議する晴れの舞台と言えます。
では、なぜ国連の政府間会議にNGOから女性代表が参加できるのか。その仕組みについてはじめに一言述べますと、日本が初めて第12回国連総会に参加した1957年、第3委員会へ民間から女性を一人日本政府代表代理として送り出すことになりました。当時参議院議員であった市川房枝の尽力により実現した制度で、藤田たき(労働省婦人少年局長を経て1961年津田塾大学学長)が第12回総会から3回連続して代表代理を務めたのが始まりです。以来、このポストは今日まで引き継がれ、やはり市川房枝が中心となって1957年に創設した国連NGO国内婦人委員会が母体となり代表を推薦してきました。国連難民高等弁務官として大活躍された緒方貞子氏は40歳の若さで代表を務め、第3委員会は自分のキャリアの出発点であったと述べておられます。
国連NGO国内婦人委員会の設立の趣旨には、「国連憲章に示された目的を実現するために、国連総会および国連関係の国際会議等への女性の参画を強める」とあります。「女性の参画」は1999年に制定された「男女共同参画社会基本法」によりようやく注目されるようになったことを思えば、市川房枝の先見性にあらためて畏敬の念を覚えます。しかも、官民連携とも言える日本のこの制度は、今もって他国に例を見ない事例であり、各国から、これは見習うべき素晴らしい制度と評価されています。
2.日本政府のステートメント
第3委員会では毎年、10項目の議案が討議されますが、私のおもな役目はそのうち5つの議案「社会開発」、「女性の地位向上」、「子どもの権利促進と保護」、「先住民の権利」、「人権の保護・促進(a)人権諸条約の実施」について日本政府のステートメント(各7分)を発表することでした。各議案を簡単に紹介しましょう。
(1) 「社会開発」
「社会開発」のテーマは、若者の教育・就業、高齢者の保健・福祉、障害者の医療・生活支援など多岐にわたります。その中で日本は、2012年の国連総会で採択された日本・ブラジル共同提案の「ボランティア主流化」決議をふまえ、いわゆる“good practice”(好事例)として、半世紀に及ぶ青年海外協力隊の活動と、2004年に開始した学生ボランティア派遣事業を具体的に紹介しました。全国5大学から12名の学生たちがカンボジア、サモア、ケニヤ、ルワンダなど12か国で国連ボランティア特使として友好・平和に貢献したというホットなニュースです。この記事が国連代表部のFacebookに掲載されると、たちどころに「UNV東京」から応答があり、ネット社会の凄さを実感した次第です。
また、「社会開発」の議案では毎年、世界の十数か国から若者たち(Youth)が参加し、大使の紹介に続けて力みなぎるステートメントを発表します。先回は、開発途上国からの陳情が多かったのですが、今回は、スイス、ドイツ、スエーデン、オランダなど先進国の積極的参加が目立ちました。とくにフィンランドから参加した視覚障害をもつ女子学生の「移民家族の物語」は、戦中・戦後の困難を乗り越え、みずからも障害を乗り越え、希望を失わずに生きることの意味について切々と語り、期せずして大きな拍手がわき起こりました。男女ふたりで一つのステートメントを分け合って読む国も散見され、ジェンダー平等の実践さながらの感があります。
(2) 「女性の地位向上」
各国のステートメントに先立ち、UN Women(国連女性機関) のムランボ=ヌクカ新事務局長(Ms. Phumzile Mlambo-Ngcuka 南アフリカ共和国元副大統領)と、CEDAW(女子差別撤廃委員会)アメリン議長(Ms. Nicole Ameline) の基調報告に続き、活発な質疑応答(インタラクティブ・ダイアローグ)があり、国連屈指の二つの女性機関のリーダーシップと目覚ましい成果に対し、各国から高い評価と感謝があい次ぎました。日本はこの日、午前中にステートメントが予定されていたのですが、先に韓国が「慰安婦」問題を述べるというので、梅本大使が「答弁権」を行使することになり、そのため日本の発表は月曜日に変更を願い出るという事態が生じました。
そして翌週10月14日(月)朝一番に、まだ閑散とした議場で「女性の地位向上」のステートメントを読みました。冒頭で、安倍首相の国連演説をふまえ、女性の地位向上と能力開発、女性の健康・保健、女性の平和と安全保障の分野に3年間で30億ドル(約3000億円)の支援をすること、また国連の「女性に対する暴力撤廃基金」に100万ドル寄付したことを述べ、さらに世界中の国において喫緊の課題である女性に対する暴力について、日本政府は、UN Womenとの連携を強め、性暴力の予防対策と被害者の支援に努力を惜しまないことを表明しました。国内政策としては、①男女がともに仕事と子育てを両立できる環境整備、②女性支援を促進する優良企業のバックアップ、③女性の政治・行政への参画目標2020年までに30%。さらに、「女性が輝く社会」を創出するため「日本再生戦略」を立て、いわゆるM字カーブを解消すべく25歳から44歳の女性の就業率を2020年までに73%に上げる等、具体的な数値目標を示したのですが、数値だけが独り歩きせぬよう注意して見守る必要があるでしょう。
(3) 「子どもの権利促進・保護」
各国の関心が最も高い喫緊の議案です。日本は、以下の取り組みについて述べました。
① 保険・医療:ミレニアム開発目標(MDGs)の「人間の安全」を具現化するため、すべての人が基礎的保健医療サービスにアクセスできる「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)の実現を目指し、2013年5月に「国際保健外交戦略」を策定した。
② 児童ポルノ:被害が増加傾向にある児童ポルノを排除する対策として、政府は、本年5月「第2次児童ポルノ排除総合政策」を策定。インターネット上の児童ポルノ画像のブロッキングの実効性向上、悪質な児童ポルノ事犯の徹底的検挙、外国捜査機関等との連携強化を目指す。
③ ハーグ条約:条約締結に向け、2013年6月に同条約の実施に関する国内法を制定し、現在、国内体制の整備に力を注いでいる。
④ 虐待・体罰:昨年の「児童の権利」決議では日本は共同提案国となった。学校および家庭における体罰は国内法で明確に禁止されているが、さらにその実効のため、各種刊行物や教員等への指導を通じ広く周知をはかる。
「児童」の議案については、86か国が、ミレニアム開発目標(MDGs)の成果と課題、あるいはポスト2015を視野に入れた積極的な政策を披瀝しました。2013年度には国連の条約・議定書に調印した国が多々あり、国内法や国内制度の策定・改革に取り組んだ国々の報告もあい次ぎ、活気を呈したセッションです。もちろん解決すべき課題が山積していることに変わりはありません。とりわけ女児に対する性暴力は、例外なくどの国にとっても心痛のチャレンジです。ステートメントによく登場するパキスタンのマララは、この秋、ノーベル平和賞を受賞しましたが、マララを女児の教育のシンボルとし、教育を「万人の人権」として21世紀の目標に掲げることを提案した国があり、大きな拍手の賛同がありました。
(4) 「先住民の権利」
二つの主要プロジェクトの進捗状況を紹介しました。
① 「民族共生の象徴となる空間」(Symbolic Space)の整備:アイヌの人々の生活・文化を復興するため自然豊かな白老町ポロト湖畔にナショナルセンターを建設し、博物館、伝統的住居、工房などを整え、アイヌ文化の研究・啓発の拠点とする。2020年の公開に向けロードマップを公表したところである。
② 北海道外に住むアイヌの人々の生活実態調査:一般国民と比較して生活、教育等の面でなお格差が存在することが明らかとなり、日本政府はこの9月からアイヌの人々のための生活相談を試行している。また新たに、以下の事項と取り組む。
1) 小・中・高の教科書にアイヌ関連事項を記載する
2) アイヌ語のあいさつ言葉「イランカラプテ」をキーワードにして国民の理解を図るキャンペーンを行う
3) 危機的状況にあるアイヌ語振興のため、その継承状況とアーカイブ構築のための実態調査を実施する
世界に民族紛争は後を絶たず、民族問題を抱えていない国はないと言ってもよいわりには、「先住民の権利」の議案に参加する国は20か国あまりにすぎません。あまりに複雑微妙な現実の前に成す術がなく、発表するに値する施策がなされていないのが現実なのでしょう。そうした流れの中で、日本のアイヌ政策は「具体的ですばらしい」と関係部署の幹部の方から褒められました。特に、初等・中等教育の教科書に民族問題が記載され、子どもたちが国連条約や人権擁護について学習できることは、将来の紛争解決に資するところが大であろうと想われます。歴史教科書から南京虐殺や「従軍慰安婦」の記述が削除されてしまった今このとき、未来を担う子どもたちに「人権」について何を、如何に教えるべきかを考えさせられるセッションでした。
(5) 「人権の保護・促進 (a)人権諸条約の実施」
2013年度に閣議決定された施策を中心に報告しました。
① 安倍総理の「日本再興戦略」に基づき国際的な課題にも積極的に取り組み、安保理決議1325号に基づく「行動計画」の策定を市民社会との協働で進めている。
② UPR(普遍的・定期的レビュー)を重視し、4月には「社会権規約」、5月には「拷問禁止条約」の政府報告書の審査を受けた。来年は、「自由権規約」及び「人種差別撤廃条約」の政府報告審査を予定している。
③ 「障害者権利条約」を国会に提出するにあたり、6月には本条約の趣旨に沿った「障害者差別解消法」の成立、「障害者雇用促進法」の改正及び「学校教育法施行令」の改正を行う。
★なかでも特筆すべき重要な案件は、「安保理決議1325号」に基づく行動計画の策定です。およそ女性とは縁のなかった安全保障理事会において、世界の「平和・安全保障」には女性の参画が欠かせないという決議がなされ、2000年の国連総会において全会一致の採決となったのでした。以来、国連決議の中で最も有名になった「安保理決議1325」に調印した国々は、それぞれの国策に合った「行動計画」を策定することが求められています。日本も14年目にしてようやく腰を上げ、一年がかりで検討がなされ、目下、草案はパブリックコメントに付されています。
すでに46カ国が行動計画を制定していますが、日本が模範となる点は、市民社会の、とりわけ女性の有識者および団体代表たちが当初から議論に参画し、外務省や内閣府の係官と共々に、条文の草案作成に関わってきたことです。その結果、自然災害の対応にジェンダー視点から女性の参画を推進すること、あるいは女性・女児だけでなく、難民・国内避難民、民族的・宗教的・言語的少数者、障害者、高齢者、保護者のいない子どもなど、脆弱性の高い多様な受益者への目配りなどが書き込まれました。「安保理決議1325」の議長バングラデシュのチャウドリ元大使(現国連顧問)が2013年夏に来日された際、こうした「市民参画」が最も大切な事柄であり、日本の官民一体となっての策定方式は今後、他国のモデルとなるだろうと評価されました。しかし、最終案がどうまとまるかは予断を許しません。戦時下・紛争下の性暴力根絶の項目から「慰安婦」問題は割愛されています。市民の視点から根気強く監視していくことが重要であり、パブリックコメントはその一段階です。
3.今回の第3委員会の特徴
(1) 人権保護・促進への関心の高まり
人権重視の気運の高まりは、40件ほどの全ての基調報告から感じ取れました。特にピレイ(Navi Pillay)人権高等弁務官は、「人権」に関わる議案の審議に先立ち、満席の代表席に向かい「平和ミッションとして訪問したコンゴ民主共和国、イエーメン、中央アフリカ共和国、スリランカ、アフガニスタン等々で、人権を侵害する暴力と紛争をつぶさに体験した」と説きおこし、北朝鮮、ミャンマー、マリなど国名を挙げて現在の状況を憂慮しつつ、各国に国連諸条約を順守し、法の支配の下あらゆる「人権侵害」を防止するよう強く要請されました。31カ国からインタラクティブ・ダイアローグ参加の名乗りが上がり、3時間かけて熱のこもった質疑応答が行われ、各国の報告からも、いかに人権侵害が絶大で、多岐にわたり、深刻な問題であることか、いやがうえにも考えさせられました。
子どもに対する暴力(人身取引、性的虐待等)も、女児・男児を問わず、世界中に蔓延している人権侵害の最たる緊急課題です。バン・キムン国連事務総長は子どもの人権保護・促進に熱心に取り組み、数々のキャンペーンを打ち出していますが、事務総長直属の「特別代表」を務める女性たちの活躍には目を見張るものがあります。「子どもと武力紛争」、「子どもに対する暴力」担当特別代表らに加え、昨年、さらに「紛争下の性暴力」特別代表としてシエラレオネのバングーラさん(Ms. Zainab Hawa Bangura)が任命されました。2013年11月、早速来日した彼女は衆参議員連盟勉強会 において、紛争下の性暴力は「コストのかからない破壊兵器」であると言い切り、「敵対する国や民族の女性を凌辱するのは最大の屈辱と恐怖であり、兵士の士気低下、ついにはコミュニティの崩壊をもたらす犯罪である」と明言しています。さいわい平和憲法に守られ敗戦後70年近く紛争下にはない日本ですが、侵略の歴史や沖縄の長い犠牲を想起すれば、「紛争下の性暴力」は決して余所事とは言えない私たち自身の課題でもあります。
(2) 「答弁権」の行使と「慰安婦」問題
前年に比べ、答弁権の行使がめっきり減りました。どの国も2015年に達成年度を迎えるミレニアム開発目標(MDGs)がどこまで達成できたか、そして「ポスト2015」の目標について熱心に語り、他国を非難するどころではなかったようです。2000年に定められた8つの目標のうち、おもに開発途上国に関わる「極貧、初等教育(識字率)、幼児死亡率、妊産婦健康改善、HIV/AIDS」については、どの国もかなり目標値に近づいたという報告で、今後に期待がもてました。無論、ユニセフ(国連子ども基金)の支援活動に依るところが大であり、しかも日本の民間からの支援が世界でも群を抜いてトップであることはうれしい事実です。
さて、毎年、答弁権の矢面に立たされるのは「紛争の火種」イスラエルですが、本国外務省から短期出張中という Lironne Bar-Sadeh「人権部」 部長は、シリアやイラクなどアラブ諸国からの厳しい非難を柳に風と受け流し、ほとんど答弁権を行使しませんでした。若い女性代表たちが議案ごとに激しい応酬を繰り返した前年とは大違いです。答弁に立ったときには、「非難しあっても解決にはならない。それよりイスラエルがシリアからの難民を受け入れ、小学校から大学まで教育支援をしている事実を知ってほしい」と穏やかに訴えていました。
そうした流れの中で、韓国から馳せ参じた「ジェンダー平等・家族」省の女性大臣のステートメントが際立ってしまいました。満を持して颯爽とご登場の若く美しい大臣は、生き証人である「従軍慰安婦」たち一人ひとりを訪問し聞き取り調査した結果について、その具体的状況から両国の歴史認識の違い、この問題への国連機関の勧告から今日までの経緯まで、理路整然とした構成と華麗なる発言力で聞かせ、加えてスクリーンに映し出される美貌により会場を釘付けにしたのでした。対するに、日本側の「答弁」は従来の政府見解の域を出ていません。「慰安婦」の件が、巧妙な政治的駆け引きに利用されていることは明らかですが、身の縮む思いでした。
また、「慰安婦」問題が日本の国益を損なっていることは、拉致問題からもうかがえます。
第57回の「人権」の議案の折、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、日本に対して答弁権を行使し、遡って1996年のクマラスワミ特別報告者の勧告から説き起こし、日本政府は国連勧告を無視して「著しい人権侵害」に公的謝罪をしていないと非難を繰り返しました。北朝鮮の「拉致」は人道的犯罪であると数か国が非難・勧告したのに対して、北朝鮮はその件には一切触れず、矛先を日本の慰安婦問題へすり替えたのです。せっかく国際社会の信頼が厚い日本なのですから、一刻も早い誠意ある謝罪が待たれます。
4.おわりに ―日本が貢献できること―
国連の象徴として、イザヤ書2章4節が壁に刻まれています。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、
もはや戦うことを学ばない。
戦争の世紀と呼ばれる20世紀に、日本はアジアへの侵略戦争を繰り返し、ついに1945年8月6日広島に、8月9日長崎に投下された原子爆弾をもって敗戦となりました。加害国であり被害国でもあるという重荷を負い、焦土と化した絶望の淵から立ちあがり70年になろうとする今日、日本は今では国連加盟国の中で揺るぎない地歩を確立しています。各国からの信頼が厚いのは、言うまでもなく、日本が平和憲法を順守し、戦争を放棄し、世界の経済発展に大きな貢献を成してきたからにほかなりません。日本国憲法は2014年度のノーベル平和賞の有力候補となり、あらためて世界の注目を集めました。受賞を逃したのは残念ですが、憲法9条は、日本が世界に誇れる平和遺産と言えましょう。
日本国憲法の「前文」はとりわけ格調高く、こと日本にとどまらず、世界の諸国民に向けて開かれた「人類普遍の原理」を明記していることに感銘を受けます。まず、主権が国民に存することを宣言し、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」としています。
つぎに「恒久平和」について、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と、不断の決意が記されています。過酷な戦争を潜り抜けてきた世代にとっては、胸にすとんと落ちる、心から納得できる言葉だと想います。
結びとして、日本国憲法は「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる」と記されています。下線を引いた言葉に留意するなら、私たちの憲法は、世界の国々と協調し、人類の福利と世界の平和に尽くすことを確認し、それを国家の責務とすると誓っているのです。
この精神は、まさに国連憲章と響き合っています。また、われわれキリスト者には、古き時代に神に召された預言者イザヤあるいはエレミヤを通して語られた、神の息づかいをかすかに感受できるのではないでしょうか。ことあるごとに日本国憲法に立ち返り、前文にあるとおり、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」ものであります。ご清聴ありがとうございました。
日本国憲法 前文 (資料)
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
倉石 満
プロフィール
長野県生まれ。広島市在住。広島市内でドイツ語教室「ことば文庫」を主宰。クリスチャンの両親のもとに育つ。高校のときにドイツ文学(トーマス・マン、ヘルマン・ヘッセなど)に傾倒し、その後ドイツ語を学ぶ。登戸学寮に5年間在籍。内村鑑三研究誌に、ヴィルヘルム・グンデルト(ヘッセの従兄弟、日本学者)の「日本からの報告」の訳文寄稿を続けている。
2年前に12年間のサラリーマン生活をやめ、ドイツ語教室を開く。この世の安定的な生活から離れて、初めて神にのみ拠りたのむ「思い煩いのない」の生活こそ、もっとも確かな道であることに気づかされる。
神は幾度となく、否、絶えず「生きる原理を変える」ことを真っ向から自分たちに要求される。今ある生き方を前提とした、180度の転換などという定義におさめ切ることのできない、まったく異なる原理への立ち返りを求めておられる。
それは、神のひとり子イエス・キリストを十字架にかけて殺したのは、他ならぬ自分自身であり、自分はまさにその罪人の頭であるという、逃れようのない事実に対する悔い改めと、しかし同時に究極の屈辱と壮絶な肉体の苦しみを伴った、イエスの十字架の死によってこそ自分たちの罪が贖われたのだ、という神の義への立ち返りである。そして、神はそのひとり子を犠牲にされるほどまでに、この世を愛されたのだ、ということの認識である。
この言葉では言い表すことのできない深遠にして広大なる神の愛に応えようとすることこそ、我々の地上での使命である。そしてこのもっとも罪深い者をも救い給うた神が喜ばれる世界とはなんであろうか、という問いこそ、我々の地上での命題である。
神がこれほどの愛をもってこの世に臨んでおられるのに、罪贖われた我々が愛のうちに生きないことなど許されるであろうか。果たして、愛のうちに生きること以上に神の御心にかなった生き方が我々にあるだろうか。
そしてその愛は、この世において誰に真っ先に向けられるべきであろうか。歴史や社会の狭間にあって翻弄され、身の危険に曝され、多くの場合苦汁を舐めざるをえなかった弱き隣人に対してこそ、まずそれは向けられるべきではないだろうか。
国家間の戦争の際、侵略国の残虐行為により肉親を奪われ、あるいは自らの心と体に深い傷を負った隣人に対して、その愛は向けられるべきではないか。
つまり、彼らのうちのひとりでも、この国が国旗と称する旗や国歌と称する歌に古傷がうずくのを覚え、あるいはこの国の戦後の度重なる軍備拡張に、過去の恐怖を思い出して震えるのであれば、我々の愛は、直ちにそれを止めよ、と命じはしないか。
我が国の軍隊に連行され、男たちの肉欲を満たすことを強要され、余命いくばくもない老齢になって、自らに向けられるであろう世間の冷遇や嘲笑を覚悟の上で、この国に謝罪を求めた隣国の婦人たちに対して、その愛は向けられるべきではないか。
つまり、これまで決して拭い去ることの出来なかった傷跡を、さらに開いてでも償いを求める隣国の婦人たちに、我々の愛は、直ちに心から頭を垂れよ、と命じはしないか。
また人間が造り出した物質社会を支える電力を、いとも簡単に生み出す魔物を維持するために、それと引き換えに死と隣り合わせで生きる福島の、東北の、日本全国の、否、世界中の核と放射能の脅威に怯える者たち(これは限りなく我々全人類を意味する)に対して、その愛は向けられるべきではないか。
つまり、我々のうちのひとりでも、神が各人にお与えになったひとつしかない命の危険を感じるのであれば、我々の愛は、直ちに原発を止めよと命じはしないか。
99匹の羊を残して、迷っている1匹の羊を探しに行く羊飼いの愛、すなわち神の愛は、我々からこの世の秤(はかり)を奪う。これは虐げられたもっとも弱い独りの者、身寄りを奪われた独りの者、強大な権力を前にして何ひとつ自分では出来ない独りの者、こうした名実ともに独りである者のための愛である。そしてこの愛はイエス・キリストに連なる兄弟姉妹たちに、こうしたもっとも弱い者のために働くことをお命じになる。
原子力=核の力に関して言えば、前述にもあるとおり、その力を前にしては、とくに3.11以降に目の当たりにした、人間が造り出しながら、もはや人間にも制御不能となる力を前にしては、我々は誰もが無力であり、もっとも弱き独りの者であるに過ぎないことを、身をもって思い知った。
原子力=核の力に対するこの無力な関係は、たとえ原発推進の陣頭指揮をとる為政者であっても、それに追随する政治家であっても、職業上あるいは所属政党上やむを得ず賛成している者であっても、等しくその本人および肉親にとって当てはまる。
だから、自分の置かれている立場に縛られ正しい判断ができないでいる者、これまでの因習と社会通念によってしか判断ができないでいる者、多数派あるいは体制派に属していることでしか心の平安を保つことが出来ないでいる者、これらの弱い者たちに対しては、我々の矛先を向けるべきではないし、彼らだけにその責めを負わせるべきではない。
同様に、原子力=核の力を用いることは、最初にそれを発見した者、兵器として開発した者、爆弾とした投下した者、それを指示した者、あるいはその力をエネルギーとして用いる者、それを推進する者、そのエネルギーを日々利用する者という枠組みを超えて、我々ひとりひとりの罪なのだ。
我々人類が、社会的、平和的利用あるいは進歩、繁栄と称して、人間の生命を脅威に曝し、大気と水と大地とを汚し、動植物たちの命と住みかを奪ってきたものは、何も原子力だけではない。「明日のことを思い煩うな」という戒めを忘れて、もっと多く手に入れよう、もっと多く蓄えよう、とした人類が犯した罪の数々を挙げればきりがない。先に挙げた他国への侵略戦争もまた、その例に漏れるものではない。
そして原子力=核の力も人類のそうした歩みの延長線上にあるものとして、その他の罪と分け隔てるべきではない。原子力発電は駄目で、二酸化炭素の排出により地球温暖化を促進する火力発電はいいのか?太陽光パネルも出来上がるまでには多くのエネルギーと資源を必要とするではないか?こういった議論は必ずつきまとうものであり、それぞれの主張は皆正論である。
しかしながら、人類がその想像を絶する殺傷性をあえて兵器として用いている核の力を、平和利用と称してエネルギーとして用いることは、その想像を超えた「圧倒的な」生命の危険とつねに隣り合わせで生きることを意味し、その危険は決して絵空事ではないことを、我々は3.11に身をもって体験した。それまで、核による脅威を忘れ、その力を恩恵とまで思っていた者さえも、その時には我々人類の底知れぬ罪を目の当たりにし、その恐怖に怯えたのだ。音もなく、色もなく、臭いもなくなされる核分裂によって生み出されるものは、ひとたび生まれれば簡単に止めることはできず、爆発させれば、累々と横たわる死者の数は限りなく、目に見ることの出来ない死の灰=放射性物質の数々は、その後の人間の記憶をはるか超えて留まり、空気と水と大地とを汚し続ける。人の細胞もこれらの物質に対しては無力であり、その傷跡は世代を超えて暗い影を落とす。
つまり、原子力=核の力は、神から被造物の管理を任された人類の手に余るのである。太陽からの距離が寸分違っても、地軸の傾きがたった一度違っても、我々生物が生きることを許されない神秘の御業であるこの地上にとって、そして天の大宇宙と同様、あらゆる生命の内なる小宇宙をやどすこの地上にとって、繊細で完全なる神の大いなる御業にとって、そしてこの地上で神がもっとも愛され、自らの姿に似せてお造りになられた我々人類にとって、その粗暴で無節操な、原子力=核の力は、決して、ふさわしいものではない。
原子力=核の力の恒久的利用を目的に生み出されたプルトニウム(Pu)が、本来、神がこの地上に用意されなかった元素であることは、決して偶然ではない。神は人間が必要とされるものをすべてご存知で、「明日のことを思い煩う」ことのないよう、この地上にそれらをご用意された。それに逆らって人間が造りだすものと言えば、神の御業=創造とは真逆の、破壊でしかない。
我々の悔い改めの機会に、早いも遅いもない。我々には、今のこの瞬間にでも悔い改めの機会が与えられている。そして3.11はまさにその時であった。残念ながら、我々日本人はまたもやこの重大な機会を、先の敗戦後の悔い改めの機会と同様、忘却の彼方に葬り去ろうとしている。我々が殺し、辱め、虐げた近隣諸国の兄弟姉妹に対して行った罪を、いとも簡単に忘れたように、我々が祖国で招いた自らの罪の悔い改めをも忘れ、同時に福島で、あるいは各地で苦しむ同胞への愛をも忘れかけている。
我々日本人が、このまずすべきこととは何であろうか。
福島より海に流れ出し、水脈を伝って大地に浸透し、風によって大気に舞い上がった放射能は、福島を、東北を、そして日本を離れ、世界を、地上全体を今も汚し続けている。我々日本人は、その罪の当事者の中の当事者であり、それを省みない国家と政治家と、そして自分自身を恥じ、真っ先に世界諸国の兄弟姉妹に対してその罪を認め、赦しを請わなくてはならない。そして原子力=核の力を未来永劫、いかなる利用であっても放棄することを宣言しなくてはならない。
そして、兵器としての核攻撃による唯一の被爆国として、第二次大戦を終結させるための最終兵器としての正当性を訴える主張には、断固として反対しなくてはいけない。あの2つの核爆弾が、いかに周到に、多くの無防備なる市民の殺戮を目的として落とされたかということは、もっとも多くの人が集まる場所と時間帯を狙っているところを見れば一目瞭然である。この爆弾投下の下に、どれだけ多くの命が声を上げることもなく奪われ、どれだけの多くの人生がその先の幸福を絶たれたか、戦後、時代を経てか細くなりつつあるその声なき声に、私たちはいつも耳を傾け、それが決して絶えることのないようにしなくてはならない。
同時に、人類史上初の凄惨な経験をした広島と長崎の市民が、その苦しみにもかかわらず、日本が戦中に加害国として犯した罪をも心に留めつつ、被爆都市としての声をあげるならば、他の誰の発言よりも説得力を持ち、アジアと世界の同胞の心に届くに違いない。
ここで、佐伯敏子さんという広島の女性の言葉を紹介したい。原爆で13人もの身内を失った彼女は戦後何十年もの間、毎朝平和公園の慰霊碑を掃除されておられた。掃除の合間に通りすがる若者を「10分だけいいですか?」と止めては、原爆の話を語られた。
その佐伯さんがこのようにおっしゃっている。「戦地で何が行われ、どんなにたくさんの人が死んでいるのか、知ろうともしなかった。私も結局、戦争に加担していたんよ。私にも責任がある。そこに気が付いてから、その責任において、あの日のことを話すことに決めた。話さんといけんと」。そしてこう結んでおられる。「若い人に自分の言葉で伝えられるようになって欲しい。それは自分自身と愛する人のためでもあるんよ」(中国新聞記事 13.1.1)。
神がお造りになられたこの地上は、ひとつの小さな星である。その星を、人類の手による、見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、舐めることもできない放射能という物質が、風に乗って空をわたり、潮に乗って海をわたり、小鳥たちによって大地を行き交い、いとも簡単にその全体を包んでしまう。人類のこの大きな罪に対して、神は我々に御前にひれ伏して、イエス・キリストの十字架による贖いを請うことを命じ、その御前に罪赦された者同士としての、愛による連帯を求めておられる。
すなわち原子力=核の力、という地球規模の大きな罪は、それをはるかに凌駕する神の赦し、そして神の愛を、全人類が悔い改めの先に知る機会でもある。我々はその好機を逃してはならない。
我々はここで、「生きる原理を変えること」を求められている。人間の意志と、この世の秤(はかり)は、人間同士の真の交わりを妨げ、争いを招く。しかし我々が神の愛に立ち返り、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦された者のひとりとして、神の御前でその御心を行おうとするときには、必ずやその栄光は神に帰せられる。
「心のかぎり、精神のかぎり、力のかぎり、思いのかぎり、あなたの神なる主を愛せよ。また隣人を自分のように愛せよ」、やはりこのことに尽きるのである。