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無教会全国集会2014

2014年度 無教会全国集会ブログ

証2 主にゆだねて生きる――苦難のなかで――

2015-03-08 13:35:29 | -2 主にゆだねて…

浜松聖書集会 溝口春江

プロフィール
1931年生まれ。静岡県掛川市出身。子供時代は戦時中。
青春時代を戦後の混乱の中で過ごす。矢内原忠雄の「嘉信」に出会いキリスト教を学ぶ。
1954年静岡大学教育学部卒業。溝口正と結婚、浜松聖書集会誕生の礎となる。以後60年間学ぶ。浜松聖書集会、年間冊子「みぎわ」を編集。
浜松市憲法を護る会に所属。日本友和会静岡支部会員。命ある限り平和のたたかいを続けたい。
現在も娘と一緒に低くされた人達の音楽療法をして元気に働いている。

 浜松聖書集会では毎年『みぎわ』という小冊子を発行して今年54号 (1961~2014) になります。この冊子は私の信仰の五十四年間の証でもあります。聖書のコヘレトの言葉には、「何事にも時があり、定められた時がある。人間の生死も困難も喜びも嘆くときも、然し神のなさることはその時にかなって凡て美しい。」と記されていますが私のこれまでの歩みもこのようであった事を思います。今日はこれまでの歩みの中で、「主にゆだねて生きた苦難の日々」の二つのことをお話したいと思います。

 その一つは、「浜松市政教分離違憲訴訟」のただなかに立たされた1974年のことであります。それは主に従う者として生きたいという祈りが現実となった日のことであります。 事の重大さに我が家の帆柱は揺れに揺れたのでありましたが、神に呼ばわり、ひたすら祈り求めたとき、鮮やかに示されたみ言葉がありました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書8章34節)でありました。そのみ言葉に従った時、微動だにしなかった浜松市との十九年間の「荒野のたたかい」は一夜にして解決されたのであります。事の始まりは、神社の祭典が行われる回覧板が回って来たことです。そこで、「自治会と神社(氏子)は分離するように」とのお願いをしました。「その土地に住むことで、氏子となり宗教行事に組み込まれる体制はおかしい。」と事ある度に申し出たのでありましたが、「あなたは地域の和を乱す」、「神社の祭典に反対する奴は日本人じゃあない」と罵声を浴びせられただけで事の進展は何一つありませんでした。やむなく自治会を脱会する旨を市長に提出すると思いがけない事態が起こりました。市民生活に必要な連絡や広報が届かなくなり、「神社は宗教ではない。自治会を辞める人は自由をはき違えている。」として村八分にされてしまったのです。この時に漸く事の本質が見えました。

一 市は、自治会を任意団体としながら公共機関として行政に利用している。
一 市には、自治会、神社、氏子という従来の組織が生きており、憲法に保障されている政教分離がなされていない。

 この訴訟が「浜松市政教分離違憲訴訟」のたたかいであります。私はこのことを『みぎわ』 15号(1975年)の「苦難の中で」という文章に書いておりますので読んでみます。「1974年8月、ニュースが新聞やテレビで報道されると、我が家は暗雲で押しつぶされそうになりました。それは昼夜お構いなしに掛かる電話の応対でした。訴訟に反対する人々への説得、特に靖国神社についての反感があり、経過の説明、罵倒されながら意見交換を忍耐強くしなければなりませんでした。またお酒の勢いですごんでくる電話には身の縮む思いもしました。また匿名の手紙には、「お前の家に火をつけるぞ」、「お前の子供を誘拐するぞ」などがあり、不安と恐れで穏やかではありませんでした。その頃杉山好先生から頂いたキルケゴールの「苦難の福音」からは、深い真理と慰めを受ける事ができました。「艱難こそ道」、また、「永遠の学びを始めるためにはこの世との死別を持って始める。」など苦難の時をひたすら主に委ねて待つ信仰を学びました。その日わたくしは、「裁判に突入するか、話し合いで目的が達成されるか」の報告集会への道を急ぎました。夕日が空を染める中、「これから何年も続くであろう裁判の道が示されても静かに受け止めることができますように。」と必死で祈りました。そこで聴いた言葉は、「覚え書きを交わすことで和解する」でありました。あの日の感謝は、「この苦しみをイエス様が担って下さった。」という思いで涙が溢れました。あのたたかいを記録した『自治会と神社――「町のヤスクニ」を糺す――』(すぐ書房、一九七五)はアメリカの公文図書館におかれ日本の自治会を知る資料とされているということです。またこの本は日本各地の違憲訴訟の教科書的な役割を果たしているということでもあります。

 今や安倍政権の憲法改正案では、「個人として尊重される」という第十三条は「人」に書き換えられています。憲法十三条はもう二度と「個という生を全体に吸い上げる国家にはしない」というのが初志でありましたのに、草案では「個人より公益」を優先して「個」を抹殺することに執拗にこだわっています。個人尊厳の自由は再び脅かされる事明白であります。私たちの社会は「和」を優先し、人権や信教の自由に目覚める土壌でないことをこの体験を通して思うのであります。

 今一つ苦難の出来ごとは、2007年5月、溝口が召天した時のことであります。溝口はその頃、『復活』(溝口個人雑誌)も書けないまま休養の時を過ごしておりましたが、突然倒れ、「水頭症・脳梗塞」と診断され、一挙に右手の機能と言葉を失ってしまいました。四十八年間「復活」を発行することに命を注いで来たペンも言葉も奪われてしまったのです。「神様。なぜなのですか。あなたの栄光を称えたペンも口も閉ざされるのですか」と、私は神様にくい下がりました。しかし戻る事はありませんでした。ある日、不思議な事が起こりました。私がお祈りをすると「アーメン」 と声を合わせることができたのです。驚きでした。溝口は若い日、絶望の中で「汝の罪赦されたり」のイエスのみ声を聴き、主に従って生きる者とされました。いま、絶望の中にあっても、僕として「アーメン」の意志表示ができたのです。神様は溝口の尊厳を言葉に宿して下さったのです。その姿に涙が溢れました。「神は無益な私たちを苦しめられるとは考えられません。」「凡ての事が相働い益となるはずです。」を思いました。以後、生命の呼吸は次第に弱められてゆきましたが、霊に満たされた顔は輝いておりました。溝口は80歳で地上の生涯を終えました。その時私に示された聖句は、「主は与え、主は奪う、主の御名はほめ称えられよ」(ヨブ記1章21節)でありました。

 また納骨の日、私は墓碑銘に「汝の罪赦されたり」のみ言葉を刻みました。溝口の原点であります。その日、五十年来の主にある友人松井仁さんは病床から短歌を寄せてくださいました。

 骨は地に されどみ霊は大空に 昇りて讃美高らかに歌う

 折しも春風に乗って歌は高らかに舞い出席者の心に響いたのです。溝口が“復活”して飛翔していることを思うことができました。人の生涯も偶然の出来事の連続ではなく、神様が立てたもうた計画の中で遂行され、達成されることを知る事もできました。

 先程歌いました黒人霊歌“I don't feel no ways tired”は八十二歳の方の作曲と聞いて驚きました。「こんなにも遠いところまで旅を続けて来られた。……然し神様が共にいて下さるから私は疲れていない。」という力強い歌詞でありました。私も現在八十三歳になってしまいましたが、今、私の心に響くみ言葉は、「天地は過ぎゆかん、されど主のみ言葉は過ぎ往くことなし」(マタイ伝福音書24章35節、文語訳)であります。主に生かされて今も音楽療法を娘と一緒にして楽しく過ごしております。残る日も主に委ねて祈り、感謝して過ごしたいと願っております。  以上