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無教会全国集会2014

2014年度 無教会全国集会ブログ

第4分科会「若者と他者」

2015-03-08 13:38:43 | -4 若者と他者

助言者  原千拓
司会者 小舘知子
書記  三浦佳南


 本分科会は基督教独立学園教諭である原千拓氏をお迎えして開催された。

1,他者との関わりで気付く「本当」
 独立学園生徒の各二つの感話作文、卒業作文に原氏は触れた。

1-1 感話作文について
一つ目は『自由になりたい』と題したもの。内容は「他者との触れ合いを恐れる自分」から、「その恐れから解放されたしがらみのない自分」へ変わるために悩み考えたことを述べたものである。

二つ目は『自分をコントロールすること』についてである。内容は次の通りである。

・他者とのかかわりによって影響される自分を見つめ、結果としてコントロールできない自分の深層心理に気付いたこと。

・その気付きにより、自分の感じ方と他者との感じ方に大きな違いがあること、その違いによって生じる喜怒哀楽の中で悲しみがとても大切ではないかとの考えに至ったこと。
原氏はこの二つの作文から、次のことを指摘された。同年代や先輩との共同生活によって、

①表面上のかかわりからより内面までのかかわりに深化していくことで、今まで封印していた自分の感情が明らかになっていくのではないか。

②既に自分の感情をさらけ出している他者の存在により、もっと楽に、自由になろうとする心の変化が生じているのではないか。 

1-2 卒業作文について
 一つ目は、生徒が「自分」に出会ったことを述べたもの。内容は次の通りである。

・他者から必要とされることでしか自分の存在価値を見出すことができない自分を生きたい。他者から必要とされたいものの、醜い自分を必要としている自分を感じている。このことが今まで求めていた自由よりも、さらに自分にとって自由と感じられる。いつかはすべてを認めたい。

 二つ目は、「本当の自分に迫ったことで気付いた真の気持ち、それに対する願い」を述べたもの。内容は次の通りである。

・今までの人とのかかわりを忌避していた自分が壊され、再生し生まれ変っていったこと。

・人を愛せない自分、それでも人を愛したいと願う自分との出会い。

原氏はこの二つの作文から、次のことを指摘された。

①生徒たちは卒業段階で、本当の自分をめぐる葛藤を突破し、その突破した自分を生きようとするようになる。

②周囲の自然・偽りのない他者との関係といった「本物」との出会いが、「本当」の自分に気づいていくことにつながっているのではないか。

③自分らしく生きたい、本当の自分を生きたいと思うのは自己肯定感を得ることが難しい時代だからではないか。自分らしく生きていない大人の影響があるのではないか。よって一人でも多くの大人が自分らしく生きること、自分らしく生きようとする生き方は、本当の自分を生きたいと心から願う子供たちに勇気を与えるのではないか。

2,教師との関わりで気付く「本当」
 「本当」を獲得するまでの道のりを、原氏はお話し下さった。内容は下記の通りである。

2-1 学園の謹慎指導について
 学園の謹慎指導は、問題を起こした生徒の心の中にある課題に対決すること、すなわち生徒が自分の課題に向き合うことを柱としている。この指導の下、生徒は己を見つめ直す中で変化していき、そしてその「問題を起こした生徒」の変化にあわせてその生徒と向き合った教師も変化していく。このプロセスの原動力は、「本当の自分を見つけたいという生徒の気持ち」である。そして、その原動力を支えるのは教師の「自分自身も本当とは何かを考えること」である。この原動力と支えるものとは互いに作用しあい、お互いが考え合ってより深い「答」に近づいていく。

2-2 自分らしく生きるためには
自分らしく生きる生き方とは、考えたことや経験が柱になる。自分の心で感じていることが薄れていくが、何を大事にしているのか、何を生きる上でおそれているか、この状況で自分は何を願っているかといった根本への問いかけが大切となる。

共に生きる前に自分らしく生きているか、そのために自分に出会っているか。この問いかけを今回考えさせられた。

 本当の自分の気持ちや祈りは日常の中で消えて行ってしまうものである。この気持ちや祈りを、詩編139編を読みながら取戻していく。そうすることで再び自分らしく生きていけるのではないかと考えている。

3,参加者から
自分らしく生きることを子供の問題としてではなく、「自分を生きているか」を大人も関係あることとして考える必要がある。下記はこの点を中心とした(それ以外も含む)、参加者・原氏の応答、意見、感話の一部である。

発言①:先生方が生徒に問いかけることが学園生活であると思うが、どのような問いかけをしているのか。

返答(原氏):安積校長と生徒との間の時間や日曜礼拝で語られる先生の言葉、生徒同士での日常の感話から最終的に自分自身の心に問いかけが沸き起こってくる。私は今自分の問題として考えていることを生徒との面談時、近況を聞く中で話す。

発言②:謹慎とは、自宅で行われるのか。

返答(原氏):その生徒にとって自分に向き合う最も良い場所で謹慎してもらう(自宅とは限らない)。ただし日常からは離れた場所で行ってもらう。

発言③:かつてよりか今のほうが豊かで自由であると思うのだが、豊かさを享受できず自分自身に枷をはめてしまう学生がいるのはなぜか。

返答(司会者から):子供たちが自分に枷をはめてしまうのは、大人たちが自分自身でいないからではないか。そして大人がそうであるならばその上の世代の人たちもきっと自分自身を生きていないからであり、したがって子供の問題は我々共通の問題となる。詩編139編を読むと、私たちは自分のことは見極めることができない存在であることがわかる。本当に私たちのことを理解しているのは神様のみであり、私たちは自分のことを分かっているようでわかっていない、自由であるようで自由でない。したがって第三者的な意見ではなく、自分の内面により踏み込んだ意見が出るのが望ましい。

発言④:語りにくい性の悩みはどう扱われているのか。

返答(原氏):まさに性に関する問題が現在扱われている。男女交際に関することで謹慎となった生徒がいる。男女交際はしないという前提があるからこそ、一人の人間として異性と深くかかわれるし自由であることができる。この前提に対して、生徒間で話し合いの場が持たれているが、最終的にはこの前提は命の問題に行き着くと思う。

男女関係は磁石のように一度くっついたら離れない。もしかしたら子供ができてしまうかもしれない。男性女性関係ないかかわりを深めることが学園の目指す姿であり、男性女性の関係になってしまうと、そのレベルで関わりが終わってしまうのではないか。子として独立した人間の成長はそこでストップしてしまうのではないか。学園の「男性女性関係ないかかわりを深めること」を大切にしていってほしい。

発言⑤:詩編139編にあるように、両親があなたをつくったのではない、あなたの体は神様が組み立ててくださったのだという聖書の言葉を子供にわかるように伝えることが大切ではないか。

発言⑥:大人たちはいわゆる勉強以外にも一歩踏み込んで「愛」といった価値まで教えることが必要であり、そのすることで若者が他者との関係で深刻な支障をきたすことがなくなるのではないか。

発言⑦:今の学生は他者に対する構えが過敏ではないか。何に恐れているのかがわからない。おそらく今の親や子供に欠けているのは自立であり、他者からの分離と他者への依存の使い分けが重要な課題となるのではないか。このためには子供が求めていること、依存しようとしていることに正面から答えることが必要となると思う。

4,最後に
 本分科会の結びの言葉として、発題者の原氏、司会者の小舘氏は下記のように発言された。

①原氏から
 時代が変わろうとも人との関わりは一対一の関係から始まるということは、どの時代にも共通していると思う。教育現場、家庭、友人関係、職場でこの一対一の関係を深めていくことが成功する力になるのではないだろうか。

②小舘氏
 生徒たちと共に本気で向き合い、本当の自分をともに見つけていく関係を原氏は戦友という言葉で表現していたが、一対一の関係は導くというよりもその人と一緒に歩いていくことだということを感じた。